図星だね。

「じゃあまた、夕方にね」
 札幌駅の北口で、梨緒子と秀平は車を降りた。
 これから優作と薫のツーリングチームは、バイクを貸してくれる知り合いのところまで行くらしい。梨緒子にとっては、兄たちのツーリングの話などどうでもよかったため、詳しいことはあまり聞いていなかった。
 とにかく。
 夕方、再びここへ迎えに来てもらうまで、秀平と二人きりで過ごさなくてはならない――その事実だけが、梨緒子に重くのしかかっていた。


 車が走り去ったあと、気まずさは最高潮に達していた。
 秀平は視線を合わせようとさえしない。厄介ごとを押し付けられたような深いため息が、秀平の口から漏れる。
 梨緒子はどうしてよいのか分からずに、秀平の出方を待った。待つほかはなかった。
 しかし。というか、やはり。
 秀平は無言のまま、梨緒子を振り返ることもなく、一人で歩き出した。

 とりあえず秀平は目的地へ向かおうとしているのだろう。北大は札幌駅から距離的にさほど離れていないというのを、梨緒子は優作から聞いていた。このまま先を行く秀平にくっついて歩けば、きっと辿り着けるに違いない。
 しかしそれでは、一緒に下見に出かけることにはならないだろう。
 北大の学生らしき人間を見つけて、あとをついて行くのとなんら変わらない。

 ――もう、いいや。

 梨緒子は数十メートルほど進んだところで立ち止まり、そのまま秀平の背中を見送った。
 諦めというよりも、やり場のない怒りがこみ上げてくる。
 類の手前、学校で口をきかないというならまだしも、ここは札幌である。自分たちを知る人間は皆無だ。

 ――意味分かんない。秀平くんが全然、分かんない……。

 もう北大見学なんて、どうでもよかった。
 一人で時間つぶして、一人で帰ろう。

 惨めだった。
 学校でのいざこざをすべて忘れて、二人きりで楽しい時間を過ごすなんて、そんな甘い考えは通用するはずもないのだ。
 ここは学校じゃない。知ってる人もいない。
 なのに、なぜ?
 別に楽しくなくてもいい。
 ただ普通に言葉を交わすだけ――それさえ許されないのかと思うと、梨緒子はとにかく惨めだった。


 照りつける夏の日差しの中を、あてもなく歩いた。人並みをすり抜け、とにかく目的地とは逆のほうへ逆のほうへと歩を進めていく。
 どのくらいの間、そうやって歩いていただろうか。
 適当に道を進んでいくと、やがて繁華街からオフィス街へと景観が変貌した。
 ここへ来て、梨緒子はわずかに焦りを覚えた。
 いま自分がどっちの方角に向かって歩いているのか、すでに分からなくなっている。
 何度も角を曲がってきたため、来た通りに帰る自信はまったくない。

 ――迷った、かも。

 梨緒子は困った挙句、薫の携帯に電話をかけた。
 しかし、無情にも圏外のアナウンスが響くばかり。
 ツーリングで、いまごろ薫と優作はどこか山間部を走っているのかもしれない。行き先をはっきり聞いていなかったことを、いまさらながらに後悔してみる。
 いつ繋がるのか、まったく見当がつかなかった。

 どうしよう。
 梨緒子は見知らぬ大きな街の中で、たった一人取り残されてしまった。



 大きな大きなため息をつく。もう何度目なのか、梨緒子本人にも分からない。
 梨緒子がはぐれたことは、いくらなんでも秀平にだって気づいているはずだ。
 しかし、携帯電話に彼からの連絡はない。

 ――きっと私の番号、消されたんだろうな……。

 たとえ消していなかったとしても、いまの状況では梨緒子に連絡をとってくることは、考えにくい。
 一人で悠々と札幌の街を歩いている彼の姿を思い、梨緒子は何度目かの大きなため息をひとつついた。


 梨緒子は再び携帯を取り出した。
 時刻を確認すると、正午をとっくに回っている。
 暑い。喉が渇く。お腹も空いた。
 途方に暮れる梨緒子に、残された道はただ一つ――。

 ――これが、最初で最後。

 梨緒子はメール作成の画面を開いた。
 初めて、彼に向けて送るメッセージだ。
 タイトルを考える気力もなく、無題のまま。

【いまどこにいるのか、分かりません】

 一文だけ、打ち込んだ。
 送信ボタンを押す指が震える。
 もう、頼れるのは彼だけなのだ。
 梨緒子は渇ききった喉を潤すようにごくりと唾を飲み込み、親指にありったけの力を込めた。


 すぐに着信音が鳴る。驚くほどの早さだ。
 慌てて確認すると、from欄には『永瀬秀平』と、梨緒子が登録していた名前がディスプレイに表示されている。

【札幌は碁盤の目のように区画整理されているから。そこから一番近い交差点まで行って、標識に書かれている地名を教えて】

 梨緒子は秀平の送ってきた文面どおり、一番近い信号の見える交差点まで全力で走った。
 そして、標識の地名を再びメールで送ると、数秒もしないうちに返事がきた。

【そこを動かないで 待ってて】



 もう、ぐしゃぐしゃだった。
 携帯電話を抱きしめながら、いつのまにか梨緒子の両目からは涙があふれていた。
 事務的にも見える彼のメッセージから、いろいろな思いを読み取る。

 程なくして、彼が現れた。
 そう遠く離れてはいなかったらしい。
「高校生にもなって、迷子で泣いてるんじゃ、恥ずかしいよ」
 目の前にきれいにアイロンがかけられたハンカチが差し出される。
「やっと、喋った」
 梨緒子は何度も何度も手の甲で涙をぬぐった。
 どんなにぬぐっても、秀平の顔は涙でぼやけていく。
「怖かった――ずっと」
 我慢の糸がぷつりと切れ、様々な想いが涙とともに崩れ落ちていく。
「……喋りたくなんか、なかった」
 秀平は頑なに態度を崩そうとしない。
「どうして? 普通に喋ってよ。ルイくんのことなら、気にしなくていいから」
「……」
「友達として普通に喋ってほしいの」
「江波は友達じゃないだろ」
 梨緒子は息を飲んだ。
 秀平の突き刺すような視線が痛い。
「なればいいの? ただの『お友達』に」
 肯定も、否定すらもできない。
「ごめんなさい……秀平くん」
「どうして謝るの」
「本当にごめんなさい」
 謝ることしかできない。
 そう。すべては自分の考えの甘さが引き起こしたこと。
「なんにも知らないくせに、北大目指すなんて言って――ごめんね」
 すでに涙が止まらなくなっていた。
 秀平は黙ったまま、梨緒子の手にハンカチを強引に握らせた。



 二人はファーストフード店で、遅い昼食をとることにした。
 何気なく周囲を見渡すと、秀平は店内の女性客はもちろんのこと、街を行き交う女性の視線を集めていることに梨緒子は気づいた。
 それを知ってか知らずか、本人は梨緒子の向かい側で、トレイに敷かれた商品案内の紙を物憂げに眺めている。
 ただ、学校にいるときと違って、やっかむような女子のひがみは聞こえてこない。せいぜい羨ましがられる程度であろう。
 普段よりは随分と気楽だ――梨緒子はそう思った。

 見知らぬ街の中では、秀平と梨緒子は普通の学生カップルに見えているに違いない。
「秀平くんは、札幌に詳しいんだね」
「来年からここに住むつもりだから」
 そう言い切るのは、自信があるからなのだろう。
 秀平はストローの紙袋を破き、繊細そうな長い指でそっと中身を取り出す。
 梨緒子は秀平の仕草に見とれていた。
 取り出したストローを、夏限定のメロンフレーバーのフローズンシェイクに挿し、淡々とすすっている。
 甘い飲み物が好きだなんて、意外と子供みたいだな、と梨緒子は思った。
 ドリンクカップをじっと見つめる梨緒子の視線に気づいたのか、秀平はわずかに首を傾げた。
「どうしたの?」
「なんだか、美味しそうだなーって」
 秀平のことを言ったつもりだったのだが、当の本人は誤解をしたらしい。
 秀平はストローを取って梨緒子に差し出した。
「飲んでみる? どうぞ」
 目の前に差し出されたドリンクカップに、梨緒子はわずかに途惑った。
「私のストロー挿したら、味が混ざっちゃうよ?」
 梨緒子が選んだのはアイスカフェオレだ。
 その言葉を聞き、秀平はおもむろに席から立ち上がった。そしてすれ違いざまにひと言告げる。
「新しいの、もらってくるから」
「待って、秀平くん!」
 そこまでしてもらって、飲みたいわけではない。
「新しいストロー、いいから」
 どうしていいか分からないのか、秀平は目を何度か瞬かせた。梨緒子に引き止められたまま、立ち尽くしている。
 ふと。
 せっかく気を利かせてくれた秀平の気持ちを踏みにじってしまうことに、いまさらながらに気づいてしまった。
 梨緒子は急いで思案を巡らせた。早くこの場を取り繕わないと――そんな焦りが先走る。
「あの、ね。ここにあるストローで、いいか……ら」
 そう言ってしまったあとで、梨緒子はそれが大いなる失言だということに気づき、愕然となった。

 ――私ってば、なんて事を……。

 秀平は素直に席へと戻ってきた。しばらく何かを考え込んだあと、再び自分の使っていたストローを挿し直す。そして、無言のままシェイクのカップを梨緒子のほうへと押しやった。
 秀平は梨緒子の言葉をそのまま受け取ったらしい。

 ――このまま、口をつけてもいいってこと?

 梨緒子は彼の表情をうかがった。

 秀平がじっと梨緒子を観察している。どういう行動をとるのかを見逃すまいと、真っ直ぐ視線をこちらに向けている。
 店内の喧騒が無音になるような錯覚を覚える。
 梨緒子は勇気を出して、差し出されたシェイクのカップに手を伸ばした。

 一秒にも満たない、わずかな接触の時間だ。

「美味しい。ありがと」
 秀平は戻ってきたフローズンシェイクを受け取ると、そのまま無造作に口をつけ一口飲み、トレイの上に戻した。
 そんなさり気ない秀平の行動ひとつに、梨緒子は恥ずかしさと嬉しさで、落ち着きをなくしてしまう。

 ――これって完璧、間接キス……だよね?

 自分が秀平のストローに口をつけるドキドキよりも。
 彼が梨緒子の飲んだあとに、再びストローに口をつけた瞬間に、梨緒子は例えようもないほど心が打ち震えた。


 何となく気恥ずかしさもあって、二人はしばらく無言で食事を続けていた。
 やがて沈黙を破るようにして、秀平は梨緒子に話しかけた。
「北海道、どう?」
「どうって?」
 突然話を振られて、梨緒子は必要以上に取り乱してしまう。
「なんにも知らないくせに――って、さっき言ってたけど。とりあえず学校にいるときよりは、いろいろと見たと思うんだけど」
 見たと言っても、札幌を軽く散策した程度である。雰囲気をつかんだくらいが、せいぜいだ。
 秀平に比べたら、その土地勘は一割にも満たないだろう。
「でも……まだ北大、見に行けてないし」
「江波が、勝手に迷子になるからだよ。高校三年にもなって」
「ひどい。そんな言い方しなくたって……」
 ふと。
 秀平の表情が和らいだ。
 人を小馬鹿にしながらも、それが楽しくてたまらないといったような、優しい優しい表情になる。
 胸が、引き絞られる。ぎゅう、と掴まれてしまう。

 遠くから眺めていたときよりも。
 孤高の王子様と崇め、憧れていたときよりも。

 怒ったり笑ったり――人間らしい感情を自分にだけぶつけてくる秀平に、狂おしいほどの恋心を抱いてしまっていることに、梨緒子は改めて気づかされてしまった。



 秀平と梨緒子は連れ立って、待ち合わせ場所の札幌駅北口へと戻ってきた。
 残暑厳しいとはいえ、夕暮れの札幌は涼しい風が吹いている。
 駅の外壁に寄りかかるようにしながら、二人は兄たちが来るのを待った。

 珍しく、秀平が片手で口を覆ってあくびをしている。珍しいどころか、そんな彼の姿を見たのは、梨緒子は初めてだった。
 梨緒子の視線に気づいたのか、秀平は淡々と説明をした。
「昨日、あまり眠れなかったから」
「どうして?」
 梨緒子は、秀平の横顔を見上げるようにしてふと尋ねた。
 すると。
「江波のせいだ」
「私のせい?」
「江波って、本当に女の子なんだなあ、と思った」
 当たり前のことを言う。意味が分からず黙っていると、秀平はさらにひと言、付け加えた。
「なんか、ちょっと柔らかかった」
 その言葉の意味する出来事が、梨緒子の脳裏に鮮明によみがえった。
 昨日起こった脱衣所での衝突事故、である。

 梨緒子が感じた引き締まった弾力は、彼にとって――。

「えっ……いや、そそそんな、秀平くんてば!」
 梨緒子は一気に血が上り、どう反応してよいのか分からなくなり、一人焦ってしまう。
 しかし秀平は、それっきり黙ってしまった。梨緒子の問いに弁解することもせず、ただ物憂げに車の流れを目で追っている。
 高鳴る鼓動はなかなか収まらない。梨緒子は秀平に気取られぬよう、何度も大きく深呼吸をした。

 ―― でも、一緒だ。まったく、一緒。

 昨夜。
 一枚の壁を隔てて、彼が自分と同じように感じていたことが、梨緒子はどうしようもなく嬉しくなってしまった。



 約束の時間を十分ほど過ぎた頃、優作と薫が車で迎えにきた。
 借りたバイクを返却する際、持ち主とツーリング談義に花を咲かせていたのが遅刻の原因らしい。
 薫は助手席から降りると、秀平に助手席を譲り、自分は後部座席へと移動した。

 車へ乗り込む直前、永瀬兄弟の視界から外れた一瞬の隙に、薫は梨緒子にさらりと言ってのけた。
「弟くんと、何かあった?」
「……な、何かって?」
 なんとか取り繕おうとし、声が思わず裏返ってしまう。
 キレイな兄貴はすべてを見透かしたように、梨緒子の耳元で囁いた。
「はっ、図星だね」