一生ーのお願い!

 梨緒子と優作は、別荘のキッチンで夕食の後片付けをしていた。
 食器や調理道具を洗うのは優作の担当、それらを拭いて棚へしまうのは梨緒子の担当だ。
「優作先生、ツーリング楽しかった?」
「うん。天気も良かったしね」
 洗い場に張った水の中で食器がぶつかり合い、耳障りな音を発てている。
 優作は慣れているのだろう、次々と洗剤のついたスポンジで食器の汚れを落とし、手際よくすすいでいく。
「梨緒子ちゃんは? ……なんて聞くまでもないかな」
「どうして?」
「二人とも、今朝と表情がまったく違うから」
 いつもと変わらない態度でいるはずなのだが、やはりこの家庭教師の目は誤魔化せないようだ。
 ふきんを握り締めながら、梨緒子は昼間の出来事を説明する。
「別に楽しくなんか、なかったもん。一人ではぐれて、途中で道に迷っちゃって」
「そうだったんだ。大変だったね」
 小さな子供の話を聞く父親のように、優作は梨緒子のすべてを包み込む。不思議と優作には、何でも話せる気安さと信頼感があるのだ。
「秀平くん、口聞いてくれなかったから、電話する勇気もなくて。でもね、ダメもとでメールしたら、すぐに返事くれて……迎えにきてくれたの」
「すぐ返事がきたの?」
「うん」
 優作は感心したようなため息をついた。梨緒子の顔をしげしげと見つめながら――。
「よほどのことだよ、それって」
 鼓動が早くなる。梨緒子は傍らの優作に気持ちを悟られないよう、必要以上に皿をふきんで擦り上げた。
「梨緒子ちゃんからの連絡を待つしかなかったんだろうな、秀平は。きっとやけになって梨緒子ちゃんの番号を消した事だって、後悔したんじゃないかな。ああ、あいつの焦る顔が目に浮かぶよ」
 あれは焦っていたのだろうか――梨緒子は首をひねった。にわかには信じられない話だ。
 すぐに迎えにきてくれたのも、たまたま近くにいただけかもしれない。
 しかし。
 少なくとも、一人で悠々と北大散策をしていなかったことだけは分かる。それならあれほどすぐには現れなかったはずだ。
 はぐれた梨緒子を捜そうと、いつ来るか分からない連絡を待つため携帯電話を握りしめて、札幌の街の中をあてもなく捜し回っていたのだとしたら。
 そして、梨緒子からのメールを祈るような気持ちで受け取っていたのだとしたら――。
 梨緒子はとにかく自分のことで精一杯だったのだ。
 秀平がどんな気持ちでいたかなんて、あのときはまるで考えもつかなかったのである。
「梨緒子ちゃんがどうしようもなくなったときに、自分を頼ってくれて、秀平はきっと――嬉しかったと思うよ」
「嘘。そんなわけない」
「嘘じゃないよ」
 優作の何気ない言葉が、こんなにも梨緒子の心をかき乱す。その動揺は、おそらく傍らの優作には筒抜けだろう。
 梨緒子はひたすら皿を拭いた。繰り返し繰り返し、自分の顔が映りこむほどに磨き上げてしまう。しかし、容易に心の揺れは収まらない。
「前にも言ったけどね。大学を選ぶ理由を『秀平の存在』に委ねないように、って。覚えてる?」
 梨緒子は素直に頷いた。
 優作は洗い物を終え濡れた手をタオルで拭いながら、梨緒子のほうへと向き直り、ゆっくりと諭すように言った。
「秀平が目指してるから、じゃなくて。秀平が目指しているものを一緒に目指せばいいんだよ。それが、大切な人と同じ大学を目指すということだと、僕は思う」

 ――大切な人と、同じ大学を目指すということ。

「秀平は自分を追いかけて欲しいんじゃない。自分の隣にいて、いつも自分と同じ方向を見ていて欲しいんだよ。でも、それを言えないんだよね、秀平は」
「どうして?」
「なんてったって、子供だから」
 梨緒子は秀平のことを、子供だと思ったことはなかった。むしろ同級生たちよりはずっと大人びていると、そう感じていた。
 しかし、実の兄であるこの家庭教師からすれば、秀平はやはり未熟に見えてしまうのだろう。
「子供ね。あははは、そうかもー」
 梨緒子には、二人の兄弟の関係がとてもこそばゆく感じられた。
 どことなくくすぐったくて、どこまでも心地いい。
 梨緒子の笑顔につられるようにして、優作も楽しそうな笑顔をみせた。
「秀平はいいなあ、梨緒子ちゃんみたいな子に想われて」
 優作は、梨緒子が拭き終わった皿を食器棚へとしまいこみながら、そんなことを呟いた。
 きっと社交辞令なのだろう――梨緒子は当り障りない返答をした。
「私だけじゃなくてね、いろいろな子にホントよくモテるの。秀平くんとちょっと仲良く話しただけで、ひがみっぽいことあれこれ言われちゃうし」
 優作は黙ったまま、ゆっくりと頷いた。
「決心はついた?」
「え?」
「梨緒子ちゃんが本当に好きな人を選ぶ決心」
 そんなこと分からない。
 いや、分かっている。
 梨緒子以上に、優作は梨緒子のことを分かっているのだ。
 けれど、できる事とできない事がある。
「ねえ、優作先生」
「なに?」
「私、ルイくんと付き合ってるの」
「うん、知ってる」
「帰ったらね、ルイくんが待ってるの」
 梨緒子は真っ直ぐに優作の顔を見つめた。
 二人からどちらかを選ぶ、という状況ではないのだ。
 もうすでに梨緒子は、類少年を選んでしまっているのである。
「梨緒子ちゃんがこのままでいいなら、薫さんと僕とで一緒に外で花火しよう。彼氏くんのためにもね」
 現状維持。
 類のため。美月のため。そして、秀平のため――。
 でもそれが、自分のためになるかどうかは、分からない。
「つらい道を歩むことになるかもしれないけど、それでも秀平と同じものを目指してくれるなら――行っておいで、秀平のところへ」
 夕飯を終えてすぐに、秀平はいなくなった。別荘のどこにもその姿はない。
 秀平はこんな遅い時間に、散歩がてら周囲を散策しに出かけたらしい。
「あいつのお気に入りの場所があるんだよ。暗いから気をつけてね」
 梨緒子は優作に背中を押されるようにして別荘を出て、すっかり日の落ちた闇の中へと足を踏み入れた。


 優作の言ったとおり、秀平は別荘から数十メートルほど離れた林道の側に、一人たたずんでいた。
 別荘からもれる明かりで、秀平の輪郭がかすかに浮かび上がっている。
 梨緒子は湿った空気を吸い込みながら、秀平のほうへとゆっくりと近づいていった。
「……やっぱり北海道だね。夏でも夜は涼しいもんね。ちょっと寒いくらい」
 別荘の玄関のドアの開く音と、近づいてくる足音ですでに気づいていたらしい。
 秀平は特に驚いた様子も見せず、梨緒子を振り返った。そして、半袖のワンピース姿の梨緒子に、一瞥をくれる。
「確かにそれ、夜出歩く格好じゃないな。そんなに手足出してたら、虫に刺されるよ」
 秀平は、着ていた長袖のシャツを颯爽と脱ぎ、Tシャツ姿になると、脱いだそれを梨緒子に放った。
「着てていいよ」
「そ、そんな。秀平くん寒いでしょ」
 途惑う梨緒子を残して、秀平は一人でどんどん林の奥へと進んでいく。
「それは江波だって同じだよ。それ着て、早くこっちへ」
 ここまで来ると、別荘からもれるかすかな明かりも、もう届かない。
 秀平はさらに奥へ奥へと進んでいく。梨緒子は必死に秀平のあとを追った。

 やがて視界が開け、野原へと抜けた。
 闇の中。側にいるはずの秀平の顔も、はっきりと見えない。
 足元に気をとられていると、梨緒子は突然腕を掴まれ、そして引っ張られた。
 梨緒子は秀平に触れる寸前のところまで近づく。
 湿った空気の匂いに混じって、秀平のシャツの香りが梨緒子の鼻をついた。

 誰もいない。
 何も見えない。何も聞こえない。
 そこにあるのは、お互いの気配だけだ。

「江波……震えてる」
「秀平くんだって」
「震えてなんか――ほら、天から星が降ってくるよ」

 梨緒子の口から思わず驚嘆がもれた。
 街の明かりが届かないところでは、こんなにも星が美しいのだと、梨緒子は初めて知った。
 天を仰ぎ同じ星を眺め、二人は銀河に魅せられやがて吸い込まれていく。
「天の川、はっきり見えるだろ」
「え? 今日、七夕じゃないけど?」
 秀平の言葉の意味が分からずに、思ったことを素直に言っただけなのだが――逆に聞き返されてしまうこととなる。
「江波さ、ひょっとして……天の川って、七夕にしか見えないものだと思ってる?」
「……違うの? だって、彦星と織姫が、一年に一度出会うための天の川なんじゃないの?」
 時間が止まった。
 秀平の深いため息が、梨緒子の耳に届く。
「天の川って、自分たちがいまいる銀河系を真横から眺めたときに見える、星々の集まりが帯状に見える部分を指して言うんだ。だから、地球上のどこにいても、一年中見ることができる」
「あ、そうなんだ……」
 もう一度宙を見上げると、秀平の言うとおり、きらめく無数の星が川の流れのようになっているのが、梨緒子の目にもハッキリと見えた。
「それにしても、彦星と織姫って…………江波の頭の中って、相当メルヘンチックなんだな。やっぱり面白い」
 からかわれているのだろう、秀平の声はやたらと楽しそうだ。


 しばらくの間、二人は並んで流れ星の数を数えていた。
 やがて、秀平は宙を見渡しながら、いつになく饒舌に喋り始めた。
「俺……ホントは、江波にもの凄く腹立ててた。そっけない風にしながらも、安藤と仲良くする江波に、毎日毎日イライラさせらっぱなしだった」
 梨緒子は唖然となった。
「ルイくんと仲良くやってって言ったのは、秀平くんだよ?」
「……そうだな。そう、全部俺が悪いんだよな? だから……俺はいつまで経っても江波のことが信じられない」

 いざこざに関わるのは勘弁。安藤と仲良くやって。

 確かにその口で言っていたはずなのに、なぜいまさらそんなことを言うのだろう。
 梨緒子は呆然と、秀平の言葉を聞いていた。
「俺が同じ大学を目指すの困ると言っただけでいきなり他の男とくっついて、だけど俺のことはまだ好きだとか言ったりして。でも俺が腹いせにその男と仲良くしてと言えば、今度はその通りに……? 本当に意味分かんないよ、江波のやってること」
 腹いせ――だなんて。
 梨緒子はショックを隠し切れずにいた。しかしこの暗闇では、秀平には伝わっていないだろう。
「意味分かんないのは、秀平くんのほうだよ?」
「俺は、こういう人間なんだよ」
 秀平の心の声が、はっきりと表に出た瞬間だった。
「いつだって、自分の思ったことが相手に伝わらない――」
 闇の中、はっきりと伝わってくるその振動に、梨緒子は自分の心が震えていくのを感じた。
「本当は、安藤と仲良くして欲しくなんか……ない」
 こんなにもストレートに気持ちを表す秀平を、梨緒子は初めて見た気がした。

「そろそろ帰ろう。江波たち、明日、飛行機早いんだろ」
「もう少しだけ、星を見ていたいの」
「じゃあ俺、先に戻ってるから」
 もう、隠すことなんでできない。梨緒子ははっきりとその想いを告げた。
「秀平くんと一緒に、見ていたいの」
 すぐに言葉が返ってこない。
「……来年また、見にくればいいよ」
 何よりも嬉しく、そして残酷な答えだ。
 未来の保証など、どこにも存在しないというのに。
「そんなの分からないじゃない。来年どうなってるか……これが最後かもしれないでしょ?」
「江波、これが最後じゃないから。星は半永久的に天にあって、なくなったりしないから。だから、風邪引く前に戻ろう」

 ――そういう意味じゃ、ないのに。

 秀平らしい反応なのだが、『最後』の意味がまるで違う。真面目に言ってるのか、はぐらかそうとわざと言ってるのか。
「じゃあ、先に戻ってて」
「……」
 しばらくして、秀平の足音が次第に遠ざかっていった。
 梨緒子はその場へしゃがみこんだ。

 ――ホントに、一人で戻っちゃったのかな? もう……。

 また一人、取り残されてしまった。
 しゃがんだまま、秀平のシャツに顔をうずめた。さっきまで梨緒子の側にいた彼の場所は空っぽだ。

【本当は、安藤と仲良くして欲しくなんか……ない】

 好きだとはっきり告げられるよりも、心に重くのしかかる言葉を、秀平は残した。
 しかし、脳裏をよぎっていくのは、彼氏となった類少年の顔だ。
 類だって、梨緒子にありったけの愛情を注いでくれている。
 美月とのいざこざがなければ、類の愛をもっと素直に受け入れられて、こんなにも気持ちが揺れることもなかったはずだ。


 どのくらい時間が経っただろうか。おそらく数分ほどだろう。
「江波、どこ?」
 秀平の声がした。梨緒子はとっさに顔を上げた。
 わずかに距離がある。
 戻ってきたのだ――梨緒子はえもいわれぬ気持ちで胸がいっぱいになった。
 すぐさま立ち上がり、声のするほうに目を凝らす。
「ここにいるよ」
 ずっと、こうしたかったのだ。
 彼が自分の名を呼び、自分に手を差し伸べてくれること。
「もっと大きな声で。どこ?」
「ここだよ、秀平くん」
 声のするほうを振り向くも、姿は見えない。街灯もない深い闇に包まれた野原である。
 その声の大きさと足音で、秀平が近づいているのが分かった。
「江波……」
 すぐそばで、秀平が梨緒子を呼んだ。
 ようやく、微かに輪郭が分かる。

 そのときである。
 梨緒子は真正面からおもむろに抱きしめられた。
 突然の出来事に、面食らってしまう。
「秀平くん? あ、あの……」
 秀平の腕の力は緩まない。無言のまま、しっかりとその身体を引き寄せるようにして抱き締めてくる。

 つま先から頭のてっぺんまで、痺れを感じる。
 おかくしなる、もう――。
 何も見えない。何も聞こえない。
 そこにあるのは、お互いの胸の鼓動の感触だけ――。

 梨緒子は抵抗することも逃げることもなく、秀平の行動にその身を委ねた。自分のひたいをそっと、秀平の方に預けるようにする。
 梨緒子の耳元で、秀平が囁くように言った。
「北海道に来ること、あいつは知ってるの?」
 あいつとは、彼氏の類のことである。それはすぐに分かった。
「……言ってないから、きっと知らないと思う」
「そう――」
 怖い。なんだかとても。
 友情でも肉親の愛情でもない。
「じゃあ、今夜の天の川は、俺と江波の二人だけの思い出だ」
 極限まで達した緊張は、やがて緩やかにほどけていく。

 しかし。
 一転して、すべてを振り払うかのように、秀平は梨緒子の身体を突き放すようにして離した。
 そのわずかに震える口調から、後悔の念が感じられる。
「身勝手だ、俺。江波は安藤のものなのに」
「……秀平くん。私は誰かの『もの』なんかじゃない」
「江波――」

 自分の名前を呼ぶ、彼の優しい声がする。
 そして、何かが首にかけられる感触。
 闇で視覚を遮られている。残されているのは聴覚と触覚だけだ。

「これ、何? どうしたの、しゅうへ――」
 その『何か』を手で触って確かめようとするより先に、梨緒子の後頭部は秀平の手のひらで包み込まれ、そのまま引き寄せられてしまう。
 ほんの一瞬の出来事だった。
 その一瞬が、永遠にも感じられる。
 何が起こったのか、すぐには分からない。
 しかし時間が経つにつれ、自分の唇にある違和感が、彼の唇によるものだということに、梨緒子は漆黒の闇夜の中で気づいた。


 遠くから、懐中電灯の光が二人を照らした。
 梨緒子と秀平は、慌ててお互いの身体を離した。
 何事もなかったように、急いで取り繕おうとするが、なかなか上手くいかない。梨緒子は秀平に背を向け、火照る頬を懸命に手の甲で押さえた。彼の様子を確かめる余裕などない。
 二人の前に懐中電灯片手に現れたのは、兄の薫だった。
「あんまり遅いから、心配になってさ」
「すぐ、戻ります――」
 ひと言だけ言い残し、秀平は一人先に別荘へと戻っていった。

 梨緒子はその場にへたり込んだ。兄の照らす懐中電灯の光だけが闇夜に浮かび上がる。
 薫は懐中電灯で梨緒子の上半身を照らし、意味ありげに呟いた。
「それが、弟くんの返事……ね」

 ――へ、返事……?

 ふと。
 秀平が羽織らせてくれたシャツの襟にかかるようにして、水色のはちまきが首にかけられていることに気づく。
 それは、球技大会のジンクスで、梨緒子が秀平のために手作りしたものに間違いはなかった。
 はちまきを返すということは、それが付き合おうという意思表示であり――。

 ああ、もう。
 現状維持の可能性はゼロ、だ。

 すぐそばで、同情入り混じった好奇の目で見つめている兄に、梨緒子は懇願した。
「薫ちゃん、ルイくんに黙ってて! 一生ーのお願い!」
「黙っててって、そのはちまきのこと? それとも、他の男とキスしちゃったこと? ……まあ、どっちもかな」
 見られていたのだ――梨緒子はめまいを覚え、気が遠くなった。

 秀平と梨緒子の二人を繋ぐ幾億の星は、天空でいつまでも輝き続けている。