ちゃんといただきます。

 梨緒子は重い足取りで、とある場所に向かっていた。
 重いのは足だけではない。
 両手に大きな紙袋を提げているから、尚のこと歩きにくかった。

 紙袋の中身は空港で買った、北海道みやげのお菓子である。

 ――なんて言おう。どこから話そう……そして、どこまで。ああ。

 言わなければ、分からない。
 黙っていれば、彼氏の類が梨緒子の裏切りともいえる行為を知ることはない。
 しかし。
 黙っていたら、果たしてどうなってしまうのだろうか。
 このまま何事もなかったかのように、仲良く彼氏彼女を続けていけるだろうか。

 ――絶対、無理。


 梨緒子は長い間、炎天下の中をぐるぐると歩き回っていた。
 考えれば考えるほど決心が鈍っていき、類の自宅のある町内になかなか入ることができなかった。
 時間稼ぎのために脇道へとそれるので、いっこうに目的地へは辿り着けない。
 お昼過ぎに家を出たはずなのに、類の家のインターホンを押した頃には、すでに西の空が橙の夕陽に鮮やかに染まっていた。


 類はすぐに玄関へと現れた。
 水色のTシャツに迷彩柄の短パン姿だ。ラフな普段着である。
 類は梨緒子の来訪に驚いていたが、すぐに喜色満面で愛しの彼女を迎え入れた。
「おおー、リオのほうから来てくれるなんて、初めてじゃね? どうした? 電話してくれればよかったのにさ」
 わざわざ逢いに来てくれた、と類は好意的に解釈しているようだ。
「おみやげ――ね、持ってきただけだし。ゴメンね、突然」
「え、みやげってリオ、どっかに行ってたのか?」

 ――き、来た。……落ち着いて、落ち着いて。

 高鳴る心臓をなんとか抑えようと、必死に自分自身に言い聞かせる。
 梨緒子は深く息を吸い込み、ゆっくりと口を開いた。
「薫ちゃんとね、急遽、北海道の親戚のところへ行くことになって、それで、あの――ルイくんも旅行だったから、つい言いそびれちゃって」

 嘘はついていない。
 ただし、その親戚は『江波家』のではなく、『永瀬家』の親戚であったというだけのことだ。

 類は特に疑問に思う様子もなく、北海道という言葉の響きに無邪気に感心してみせている。
「へー、北海道って、どこよ?」
「美瑛。あ、でもおみやげは空港で買ったから、特に美瑛っぽいものは買ってこなかったんだけど」
 類にとっては、おみやげなど別に何だっていいらしい。
 梨緒子が自分の家まで訪ねてきたことが、嬉しくてたまらないのか――しきりに距離を縮めてくる。
「せっかくだから、上がっていけば?」
「ええと、……遠慮、しておく」
「何でだよ? いいじゃん、ちょっとくらい」
 不思議そうにして、類少年の目が瞬いている。
「せっかくさ、久々に二人っきりなんだし」
 二人きりという言葉にも、まったく心が動かない。
 それどころか。
 梨緒子の心を占めているのは、抱えきれないほどの罪悪感だけだ。
「これからね、美月ちゃんちにも……行ってみようかと思って。受け取ってくれるか分かんないけど」
 その理由を聞くと、類は素直に引き下がった。
 類と美月は小学校から一緒だ。学区が同じであるため、必然的に家が近い。二人の家は、徒歩で行き来できる距離だ。
「俺も一緒に、ついてくか?」
「ありがとう。でも、一人で大丈夫だから」
 類はじっと梨緒子の顔を見つめている。
 何か思うところがあるのだろうか――珍しく真摯な眼差しを向けられて、梨緒子はふと首を傾げた。
「どうかしたの、ルイくん?」
「いや……なんかさ、ちょっと見ないうちに、随分と変わったなーっと思って」
 類は曖昧な言い方をした。
「そう……かな?」
 変わったかどうかなど、自分ではよく分からない。

 しかしそれは、『ちょっと見ないうち』に起こった出来事が絡んでいることは確実である。

 これ以上、この話を長引かせてはならない――梨緒子はとっさに話題をふり返した。
「ええと、ルイくんは……随分と黒くなったね」
「だろ? 毎日海で泳ぎまくってたから」
 梨緒子とは逆に南下していたらしい類は、顔や腕が飴色にキレイに焼けている。
 自慢げに日焼けした腕を撫でさする類に、梨緒子は思わず呟きを洩らした。
「なんか、受験生だってこと……忘れてるよね?」
「ほらほら、パンツのとこだけ白いんだって」
 類はTシャツをめくり、脇腹から腰骨を出すようにして短パンを指で引き下げ、肌の色のコントラストを梨緒子に見せつけた。
 その男の子らしい骨格と肌の質感に、梨緒子は直視するのが恥ずかしくなり、思わず顔をそむけてしまう。
「もうヤダ! 見せないでよー」
「……おい。カノジョなんだからさ、そんな恥ずかしがるなって」
 類のそのヒトコトが。
 梨緒子の胸に、するどく突き刺さった。

 カノジョ、なんだから。

 いまはまだ友達の延長上にいる類だが、しかし。
 いつか――彼氏と彼女が、一つ一つ境界線を越えていくその日が、確実にやってくる。
 それもきっと、近いうちに。

 類のことは、決して嫌いではない。
 嫌いではない。
 嫌いではないのだが、しかし。

 梨緒子は何と返していいのか分からず、微妙な表情のまま黙った。
 すると、類は短パンを再び引き上げながら、事も無げにさらりと言った。
「美月なんか、フツーに『どれどれ、見せなさい』とか言ってたけどなー」
「そうなの?」
 やはり幼馴染だからなのだろう。特別に『男』を意識したりしないのかもしれない。
 類の説明だけで、二人のやりとりは自然に想像できた。

 ふと。
 梨緒子はあることに気づいてしまった。
「ひょっとして、美月ちゃんと仲直りした?」
 類は肩をすくめて、軽くため息をついてみせる。
「別に俺はケンカしてたつもりはないけどさ。……ま、あいつさ、うちの姉貴と仲いいから、いつもの通りフツーに遊びに来てたって感じ」
「それなら、よかった」
 不思議な関係だな、と梨緒子は思った。
「心配すんなって。あいつだって俺たちのこと、ちゃんと分かってくれてるから」
「そうかな……」
 類と違い、梨緒子は美月と絶交状態が続いている。簡単に関係が修復できるとは思えない。
 こちらも相変わらず、前途多難なのである。

 そんな状況を知ってか知らずか、類はのん気な声を出す。
「あー、明日からまた講習だな」
 前半の講習は三年生のみだったが、夏休み後半は一年から三年まで、全学年で夏期講習が入っている。
 夏休み中とはいえ、普段とはさほど変わらない。進学校の宿命だ。

 そして。
 永瀬秀平と顔を合わせるのは、北海道の星空の下での接近遭遇以来だ。
 暗闇の中で彼が突然とった行動は、いまもなお、梨緒子の心を惑わせ続けている。

 しかしその心の内も、この彼氏にはまったく伝わっていない。
「で、おみやげって、何?」
 梨緒子は慌てて、携えていた紙袋の一つを類に渡した。
「あっ、チーズケーキなんだけど……大丈夫かな?」
「大丈夫って、何がだよ。まさか、賞味期限?」
 温い風にしばらくの間、さらされた状態だ。なけなしの保冷剤も、効き目はほとんど期待できない。
「ううん、……むしろ要冷蔵、ってとこがアヤシイかも。おなかこわしちゃったらダメだし」
「平気平気。ありがたーく、ちゃんといただきます」
 類の嬉しそうな笑顔を見て、この先取るべき道へ踏み出すための『まず一歩』を、何故か梨緒子はためらってしまった。