最近変だよ?
学校が休みの日というのは、憧れの彼に会うことのできない空虚な時間にすぎなかった。
しかし。
逆に、彼と顔を合わせるのが、こんなにも不安で憂鬱な気分になろうとは――。
今日から夏期講習の後半が始まる。
いまだかつて、こんなに学校へ行くのが億劫だったことはない。
清々しい夏の日の朝――。
家を出てすぐの電柱のところに、一人の少年がたたずんでいた。
学校指定の水色の半袖シャツに灰色のズボン。校章入りの青とシルバーのネクタイは、緩く締められている。
これから登校するのだから、制服姿でも何ら違和感はないのだが――どうしてここに類がいるのか、梨緒子にはまったく分からなかった。
類は梨緒子の姿をとらえると、「よお」と、お気楽な声を上げた。
「どうしたの、ルイくん?」
「一緒に行こうと思ってさ」
特に約束などはしていなかったはずなのに――梨緒子は首を傾げ、思わず聞き返す。
「方向逆でしょ? それなのにわざわざ……」
「あーっもーっ、そんな気ぃ使うなって、いつも言ってんだろ? ほら、遅刻すんぞ」
朝っぱらから、こんな明るく言われてしまっては。
とても拒める雰囲気ではなかった。
――ああ……何でこういう日に限って。
こんな自分たちの姿を、秀平が見たらどう思うだろうか。
ただ、この時間であれば、秀平はおそらく図書館にこもって、始業時間まで勉強をしているはずだ。
とりあえずなんとかなるかな――そう思い直し、梨緒子は類と並んで、学校までの道を歩き始めた。
「リオ」
それにしても。
いったい、どんな顔をすればいいのだろう。
「リオー」
あのはちまき。そして一瞬の、唇への感触。
それが、彼と過ごした最後の時間。
「おい、リオってば!」
類の強い口調にようやく気づき、梨緒子は慌てて返事をした。
「え? ゴメン、何?」
何度同じことを言わせるんだ、という類の心の内が、その苦い表情から見てとれる。
「だからさ。来週の大学説明会、どうすんのかって」
「あー、来週だったっけ……」
すっかり忘れていた。
高校三年生を対象とした地元の国立大学の大学説明会が、夏休みの最後に行われる予定となっている。
各学部の模擬講義や、ゼミ見学など、受験予定の生徒にとっての必須イベントだ。
梨緒子たちの高校の生徒の三分の二以上は、この大学を第一志望としている。
「すっかり休みボケだなー、リオは」
「国立は……まだ、迷ってるから」
「受けるかどうかなんてあとで決めればいいだろ? 迷ってんならなおさら、行くべきじゃん?」
もし地元に残るというのであれば、梨緒子は看護師の資格取得を目指して、医療系の大学に進みたいと考えている。
ただ、類の目指す国立大には、医療系の学部が設置されていないのである。
家庭教師の優作が通っている公立の医大には、医療系の資格が取得できる短大が併設されている。目指すならそちらが妥当だ。
それに、迷っている原因はもっと他にある。
梨緒子はスカートのポケットに忍ばせていた、水色のはちまきに手を触れた。
サテンの生地の滑らかな感触をそっと確かめ、大きなため息をひとつつく。
類と梨緒子が二人揃って正門をくぐり、生徒昇降口へと向かっていたそのとき――。
目の前の光景に、梨緒子の息が止まった。
タイミングが悪すぎる。
いや、良すぎると言ったほうが正確なのかもしれないが――。
梨緒子の目に、秀平の後姿が飛び込んできた。
遠巻きに、下級生の女の子たちが狂喜乱舞し騒いでいるため、本人に間違いはない。
しかも。
この距離では間違いなく、昇降口付近でニアミスしてしまう。
【本当は、安藤と仲良くして欲しくなんか……ない】
闇の中での秀平の声が、梨緒子の脳裏にリアルによみがえってくる。
――駄目。絶対に駄目。
梨緒子はきびすを返し、通ってきたばかりの正門へと駆け出した。
「リオ!」
類が慌てるようにして、走って追いかけてくる。
振り返るのが怖かった。
とにかく秀平に、類と一緒のところを見られたくなかった。
逃げる梨緒子、それを追いかける類――。
しかしすぐに、背後から類に抱きつかれるような格好で、梨緒子は捕まってしまった。
登校してくる生徒たちが、不審げな表情で梨緒子たちを見ている。
「……永瀬なら、もう行ったよ」
それだけ言うと、類は梨緒子の身体をそっと放した。
――しっかりと、バレてる。
梨緒子は気まずさ全開で、ただ類の顔を見つめていた。
教室で、久しぶりの授業が始まった。
秀平の態度はいつもと変わらない。
こちらに顔を向けるわけでもない。何事もなかったかのように、淡々と講習を受けているだけだ。
意識するあまり、ずっと様子をうかがっているのだが、彼と視線が合うこともない。
北海道で過ごした時間は、まるで幻だったかのようだ。
休み時間になり、秀平は一人教室を出て行った。
追いかけていって話しかけたくても、類が側にいてはそれもかなわない。
それに追いかけてみたところで、何をどう話せばいいのか、梨緒子にはまるで分からなかった。
【――つらい道を歩むことになるかもしれないけど……】
ふと、優作の言葉が梨緒子の頭の中をよぎる。
どうすればいいのだろう。
類はいつもの休み時間のように、梨緒子の前の席に後ろ向きに座った。そしてすぐそばで肘杖をついて、梨緒子のやることを気まぐれに眺めている。
ついつい、類を遠ざけてしまう自分がいる。
しかし不思議と、いつも以上に類は梨緒子に絡んでくる。
梨緒子の異変に、気づいているのかもしれない。
そこへ、一人の男子生徒が親しげに話しかけてきた。
クラスメートの前田少年である。
「よっ。相変わらず仲良しだな、安藤たちは」
「おお、前田ー。すげ、俺よりも黒いじゃん」
類と前田は二人で腕をつき出し、肌の色を比べ合っている。
「あれー。なんか、江波さんキレイになった?」
「わ、前田くんってば、そんな、なに言ってるのー?」
「ホントホント。やっぱ彼氏できるとさ、女の子って変わるんだなー。妙に色っぽくなるっていうか」
ただの社交辞令なのかもしれないが、思い当たることがないわけではない。梨緒子は不必要にどぎまぎしてしまう。
類は、勘繰るような眼差しを梨緒子に向け、白々しく言った。
「おっかしいなー、リオはそんなにらぶらぶさせてくれないんだけどなー?」
梨緒子の微妙な変化が、自分以外の何かに起因していることを、おそらく類は見透かしている。その上で、わざとカマをかけるように言っているのではないか――梨緒子にはそう思えた。
「止めてよ、そんな言い方!」
梨緒子の大きな声に、休み時間中の教室内が一瞬にして静まり返った。
クラス中の視線を一気に浴びてしまう。
その中に、ひときわ驚くように凝視している二つの目があった。
美月である。
別のグループの輪の中から、美月は驚きと心配とが入り混じったような微妙な表情で、じっとこちらを見ている。
類は珍しく不機嫌そうに口をへの字に曲げ、ばつが悪そうにそっぽを向いた。
「あ……あの、ゴメンなさい」
やがて教室内に再び喧騒が戻った。
彼氏彼女ゆえの痴話喧嘩なのだと、気をつかっているのだろう。二人のやり取りを、クラスメートたちは見て見ぬ振りをする。
前田少年は申し訳なさそうに言った。
「そんな怒らないで、な? 俺が悪かったから」
どこからか、秀平が戻ってきた。同時に講習二時限目を合図するチャイムが教室内に響き渡る。
いまの出来事を秀平に見られなかったことだけが、唯一の救いだった。
講習は午前で終了である。
「リオ、ちょっと話があるから、ついてきて」
いつになく真剣な類少年の面持ちから、先程の一件が絡んでいることは容易に想像がついた。
カバンを教室に置いたままで、梨緒子は裏庭に連れてこられた。
ふと。
知ってか知らずか――ここは図書館の裏手だ。鬱蒼とした樹木に阻まれているとはいえ、完全な死角とはいえない。
書架の奥の閲覧スペースの窓からは、木々の枝葉の合間から人影は分かるはずだった。
つまり。
この木々の向こうにある図書館の窓の中に、彼がいるかもしれない。
そう。
すぐそこは、永瀬秀平の指定席。
――ここは、嫌。
梨緒子は慌ててその場を立ち去ろうと、類に背を向けた。
すると。
梨緒子は類に腕をしっかりと掴まれ、そのまま引き寄せられてしまった。
そこに彼がいるかもしれない。
いや、きっと彼はいる。
気づかれたらどうしよう。
見られてしまったら、どうしよう――。
「リオ、最近変だよ?」
振り返ると、そこには何かを言いたげにしている彼氏の顔。
もう完全に、逃れられない――梨緒子はごくりと唾を飲み込んだ。
しかし。
逆に、彼と顔を合わせるのが、こんなにも不安で憂鬱な気分になろうとは――。
今日から夏期講習の後半が始まる。
いまだかつて、こんなに学校へ行くのが億劫だったことはない。
清々しい夏の日の朝――。
家を出てすぐの電柱のところに、一人の少年がたたずんでいた。
学校指定の水色の半袖シャツに灰色のズボン。校章入りの青とシルバーのネクタイは、緩く締められている。
これから登校するのだから、制服姿でも何ら違和感はないのだが――どうしてここに類がいるのか、梨緒子にはまったく分からなかった。
類は梨緒子の姿をとらえると、「よお」と、お気楽な声を上げた。
「どうしたの、ルイくん?」
「一緒に行こうと思ってさ」
特に約束などはしていなかったはずなのに――梨緒子は首を傾げ、思わず聞き返す。
「方向逆でしょ? それなのにわざわざ……」
「あーっもーっ、そんな気ぃ使うなって、いつも言ってんだろ? ほら、遅刻すんぞ」
朝っぱらから、こんな明るく言われてしまっては。
とても拒める雰囲気ではなかった。
――ああ……何でこういう日に限って。
こんな自分たちの姿を、秀平が見たらどう思うだろうか。
ただ、この時間であれば、秀平はおそらく図書館にこもって、始業時間まで勉強をしているはずだ。
とりあえずなんとかなるかな――そう思い直し、梨緒子は類と並んで、学校までの道を歩き始めた。
「リオ」
それにしても。
いったい、どんな顔をすればいいのだろう。
「リオー」
あのはちまき。そして一瞬の、唇への感触。
それが、彼と過ごした最後の時間。
「おい、リオってば!」
類の強い口調にようやく気づき、梨緒子は慌てて返事をした。
「え? ゴメン、何?」
何度同じことを言わせるんだ、という類の心の内が、その苦い表情から見てとれる。
「だからさ。来週の大学説明会、どうすんのかって」
「あー、来週だったっけ……」
すっかり忘れていた。
高校三年生を対象とした地元の国立大学の大学説明会が、夏休みの最後に行われる予定となっている。
各学部の模擬講義や、ゼミ見学など、受験予定の生徒にとっての必須イベントだ。
梨緒子たちの高校の生徒の三分の二以上は、この大学を第一志望としている。
「すっかり休みボケだなー、リオは」
「国立は……まだ、迷ってるから」
「受けるかどうかなんてあとで決めればいいだろ? 迷ってんならなおさら、行くべきじゃん?」
もし地元に残るというのであれば、梨緒子は看護師の資格取得を目指して、医療系の大学に進みたいと考えている。
ただ、類の目指す国立大には、医療系の学部が設置されていないのである。
家庭教師の優作が通っている公立の医大には、医療系の資格が取得できる短大が併設されている。目指すならそちらが妥当だ。
それに、迷っている原因はもっと他にある。
梨緒子はスカートのポケットに忍ばせていた、水色のはちまきに手を触れた。
サテンの生地の滑らかな感触をそっと確かめ、大きなため息をひとつつく。
類と梨緒子が二人揃って正門をくぐり、生徒昇降口へと向かっていたそのとき――。
目の前の光景に、梨緒子の息が止まった。
タイミングが悪すぎる。
いや、良すぎると言ったほうが正確なのかもしれないが――。
梨緒子の目に、秀平の後姿が飛び込んできた。
遠巻きに、下級生の女の子たちが狂喜乱舞し騒いでいるため、本人に間違いはない。
しかも。
この距離では間違いなく、昇降口付近でニアミスしてしまう。
【本当は、安藤と仲良くして欲しくなんか……ない】
闇の中での秀平の声が、梨緒子の脳裏にリアルによみがえってくる。
――駄目。絶対に駄目。
梨緒子はきびすを返し、通ってきたばかりの正門へと駆け出した。
「リオ!」
類が慌てるようにして、走って追いかけてくる。
振り返るのが怖かった。
とにかく秀平に、類と一緒のところを見られたくなかった。
逃げる梨緒子、それを追いかける類――。
しかしすぐに、背後から類に抱きつかれるような格好で、梨緒子は捕まってしまった。
登校してくる生徒たちが、不審げな表情で梨緒子たちを見ている。
「……永瀬なら、もう行ったよ」
それだけ言うと、類は梨緒子の身体をそっと放した。
――しっかりと、バレてる。
梨緒子は気まずさ全開で、ただ類の顔を見つめていた。
教室で、久しぶりの授業が始まった。
秀平の態度はいつもと変わらない。
こちらに顔を向けるわけでもない。何事もなかったかのように、淡々と講習を受けているだけだ。
意識するあまり、ずっと様子をうかがっているのだが、彼と視線が合うこともない。
北海道で過ごした時間は、まるで幻だったかのようだ。
休み時間になり、秀平は一人教室を出て行った。
追いかけていって話しかけたくても、類が側にいてはそれもかなわない。
それに追いかけてみたところで、何をどう話せばいいのか、梨緒子にはまるで分からなかった。
【――つらい道を歩むことになるかもしれないけど……】
ふと、優作の言葉が梨緒子の頭の中をよぎる。
どうすればいいのだろう。
類はいつもの休み時間のように、梨緒子の前の席に後ろ向きに座った。そしてすぐそばで肘杖をついて、梨緒子のやることを気まぐれに眺めている。
ついつい、類を遠ざけてしまう自分がいる。
しかし不思議と、いつも以上に類は梨緒子に絡んでくる。
梨緒子の異変に、気づいているのかもしれない。
そこへ、一人の男子生徒が親しげに話しかけてきた。
クラスメートの前田少年である。
「よっ。相変わらず仲良しだな、安藤たちは」
「おお、前田ー。すげ、俺よりも黒いじゃん」
類と前田は二人で腕をつき出し、肌の色を比べ合っている。
「あれー。なんか、江波さんキレイになった?」
「わ、前田くんってば、そんな、なに言ってるのー?」
「ホントホント。やっぱ彼氏できるとさ、女の子って変わるんだなー。妙に色っぽくなるっていうか」
ただの社交辞令なのかもしれないが、思い当たることがないわけではない。梨緒子は不必要にどぎまぎしてしまう。
類は、勘繰るような眼差しを梨緒子に向け、白々しく言った。
「おっかしいなー、リオはそんなにらぶらぶさせてくれないんだけどなー?」
梨緒子の微妙な変化が、自分以外の何かに起因していることを、おそらく類は見透かしている。その上で、わざとカマをかけるように言っているのではないか――梨緒子にはそう思えた。
「止めてよ、そんな言い方!」
梨緒子の大きな声に、休み時間中の教室内が一瞬にして静まり返った。
クラス中の視線を一気に浴びてしまう。
その中に、ひときわ驚くように凝視している二つの目があった。
美月である。
別のグループの輪の中から、美月は驚きと心配とが入り混じったような微妙な表情で、じっとこちらを見ている。
類は珍しく不機嫌そうに口をへの字に曲げ、ばつが悪そうにそっぽを向いた。
「あ……あの、ゴメンなさい」
やがて教室内に再び喧騒が戻った。
彼氏彼女ゆえの痴話喧嘩なのだと、気をつかっているのだろう。二人のやり取りを、クラスメートたちは見て見ぬ振りをする。
前田少年は申し訳なさそうに言った。
「そんな怒らないで、な? 俺が悪かったから」
どこからか、秀平が戻ってきた。同時に講習二時限目を合図するチャイムが教室内に響き渡る。
いまの出来事を秀平に見られなかったことだけが、唯一の救いだった。
講習は午前で終了である。
「リオ、ちょっと話があるから、ついてきて」
いつになく真剣な類少年の面持ちから、先程の一件が絡んでいることは容易に想像がついた。
カバンを教室に置いたままで、梨緒子は裏庭に連れてこられた。
ふと。
知ってか知らずか――ここは図書館の裏手だ。鬱蒼とした樹木に阻まれているとはいえ、完全な死角とはいえない。
書架の奥の閲覧スペースの窓からは、木々の枝葉の合間から人影は分かるはずだった。
つまり。
この木々の向こうにある図書館の窓の中に、彼がいるかもしれない。
そう。
すぐそこは、永瀬秀平の指定席。
――ここは、嫌。
梨緒子は慌ててその場を立ち去ろうと、類に背を向けた。
すると。
梨緒子は類に腕をしっかりと掴まれ、そのまま引き寄せられてしまった。
そこに彼がいるかもしれない。
いや、きっと彼はいる。
気づかれたらどうしよう。
見られてしまったら、どうしよう――。
「リオ、最近変だよ?」
振り返ると、そこには何かを言いたげにしている彼氏の顔。
もう完全に、逃れられない――梨緒子はごくりと唾を飲み込んだ。