当たり前でしょ。

「変? 私が?」
 生温い風が周囲の木々の葉を揺らし、耳障りな音を発てている。
 すぐ側にある大きな楓の木に、梨緒子は背中を押し付けられた。両二の腕をしっかりと掴まれてしまい、身動きがほとんど取れない。
「ちょっとルイくん、放して……」
「いやだ」
「誰かに見られたらどうするの」
「誰かって?」
 わずかな視線の動きを、類は察知したようだ。探るようにして尋ねてくる。
 類の表情は真剣だった。
「永瀬?」
 梨緒子は一気に血の気が引いた。
「いや……ヤだ、止めてってば!」
「見えないよ」
「お願いだから……ルイくん!」
「俺たちは付き合ってるんだよな?」
 強い問いに、梨緒子は思わず抵抗の力を緩めてしまう。
 至近距離にある類の焦げ茶色の瞳に、自分の顔が映っている。それが徐々にはっきりと大きくなっていく。
 きっと来る――梨緒子は瞬間に悟った。
「こんなトコじゃ、嫌……絶対に嫌!」
「大きな声出すなよ。聞こえるだろ」

 ――誰に。誰に聞こえるの。

 梨緒子はパニックになった。
 たとえ見えていなくても、すぐ近くにいるかもしれないというのに。
「あいつのことを意識すんな、とは言わない。けどさ……」
 もがく梨緒子の身体を、類はいっそう強く木の幹に押し付ける。
「リオ」
「ちょっ……ルイくんって……やっ」
 梨緒子は顔を思い切りそむけた。
 的を外れた類の唇は、梨緒子の右耳をかすめた。
 類は本気だ。男の子が本気で力を出せば、到底かなわない。
 彼がすぐそばにいるのに。
「ルイくん! お願い、だから……」
 梨緒子の懇願も、もはや類の耳には届かない。
 こんなの違う。絶対に違う。
 涙が出てきた。
 『彼』がキスしてくれた唇を、何としてでも守り通したかった。
 梨緒子はすべての力を振り絞って、類の束縛を解こうと抗った。

「ルイ! 止めなさい!」
 そこへ現れたのは美月だった。
 類はその声に驚いたように振り返り、梨緒子の腕を放した。
 その一瞬の隙をついて、梨緒子は泣きながらその場から逃げ出した。
 どうして美月がこの場所へ――。



 ――もう、ぐちゃぐちゃだ。

 日差しが照りつける昼下がりの屋上に、梨緒子はたたずんでいた。
 フェンスに寄りかかり、晩夏の高い青空を眺めていた。

 ――彼女のくせに、嫌悪感丸出しで拒んでしまった。

 梨緒子は例えようもないほどの自己嫌悪に陥っていた。
 類の突然の行動も、予想していなかったわけではない。しかし先程の一件は、秀平に対する嫉妬心にしか思えなかった。
 掴まれていた腕が痛い。
 腕以上に、心が痛む。
 梨緒子が秀平に片想いをしていたことは、付き合う前から知っていたはずだ。それなのに類は――。
 いや、知っているからこそ、なのかもしれない。
 だから、図書館の目と鼻の先の裏庭に、わざわざ連れて行かれたのだ。
 秀平が見ている前で。秀平にあてつけるように。
 彼が本当に図書館にいたかどうかは、分からないのだが――。

 梨緒子はスカートのポケットから、水色のはちまきを取り出した。
 秀平がしばらくの間、持っていてくれたものだ。
 眺めているといろいろな出来事が思い出され、梨緒子の目の前を流れていく。

【これをどうしろと?】

【いや。誰かに渡して欲しいってことなのかと思って】

【俺、ジンクスとかそういうの信じてないから】

【本当は、安藤と仲良くして欲しくなんか……ない】

 ――秀平くん……。

 梨緒子は祈るような気持ちで、はちまきをそっと抱きしめた。



 屋上への出入り口の鉄のドアが、ゆっくりと開く音がした。
 梨緒子がとっさに振り返ると、そこに立っていたのは一人の少女だった。
「……美月ちゃん」
 先ほど、裏庭の修羅場に現れた美月だった。
 表情を強ばらせたまま、長髪をなびかせて近づいてくる。
 梨緒子は手にしていたはちまきを、慌ててスカートのポケットにしまいこんだ。
「ルイにはとりあえず、先に帰れって言っといた」
 言葉を交わすのは、かれこれひと月ぶりだった。
 昨日お土産を持って家を訪ねたときも不在で、美月の母親に渡してそのまま帰ってしまった。美月からお礼のメールもなかったため、すっかり諦めていたところだった。
 こんなにも、美月の声が懐かしい。
 梨緒子はもう、崩れ落ちてしまいそうだった。
「……もう、無理」
 美月の両目が大きく見開かれた。想いがあふれてくる。
「なに言ってるの梨緒ちゃん? いまさらそんなこと、私が許さない! どんな気持ちで私がルイをあきらめたと思ってるの? ルイは梨緒ちゃんのことホントに好きなの。だから、私はそれでもいいって――」
「でも、もう無理だから。この先どんなに頑張っても、ルイくんとはキスとかそんなのできない」
 梨緒子はしっかりと親友の目を見つめた。
「私、やっぱり秀平くんが好きなの」
 これが真実。
 これだけが、真実――。
「秀平くんじゃなくちゃダメなの」
 美月は続ける言葉を躊躇させた。
 高校に入学して、秀平に一目ぼれをした瞬間からずっと、誰よりも梨緒子の気持ちを理解しているのは、他の誰でもない、ここにいる美月なのである。
 しかし。
 梨緒子の想いは理解するが、現在の状況をまだ把握し切れていない。
「でも、永瀬くんは――」
 梨緒子はおずおずとはちまきを取り出した。そして、それを美月に見えるように向けてやる。
「これ、返してもらった」
「それ、あの球技大会のときの? 嘘……というか、いまさら!?」
 美月は驚きを隠せずにいる。
 無理もない。
 このはちまきが梨緒子へ返されなかったことが、そもそもの始まりなのである。『いまさら』という美月の言葉には、何の誇張もない。
「ハッキリ言われたわけじゃないから、分かんないけど……」
「また? 永瀬くんって、どうしてそう曖昧なのかな。いつもいつも!」
 美月は取り乱している。怒りが収まらないらしい。たたみかけるようにして梨緒子を問い詰める。
「永瀬くんになんて言われたの?」
「え?」
「そのはちまきを返してきたときに、なんて?」

【江波――】

 星の降る暗闇の中で、はちまきを首にかけてくる前に、彼が発した言葉はそれだけだ。
 好きだとも、嫌いだとも。付き合って欲しいとも、迷惑だとも。
 秀平は何も――。

「……何も、言われてない」
「何も? それじゃ、その気があるかどうかなんて、分からないじゃない?」
 もう隠しておくべきじゃない、と梨緒子は観念した。
 大きく深呼吸をし、美月の顔をしっかりと見つめる。
「キス――」
「梨緒ちゃん?」
 美月は不思議そうに首を傾げている。
 梨緒子は、高鳴る胸を抑えつつ、勇気を出してありのままを伝えた。
「キスされた、秀平くんに」
「え……」
 美月が絶句した。唖然としたまま、二の句が継げないでいる。当然の反応だ。
 梨緒子はやっと胸のつかえがおりた気がした。美月に打ち明けて随分と楽になれた。
「だからルイくんとは、どうしてもできなかったの」
「それって、いつのこと?」
「ついこの間、北海道で」
「ああ……それであの、溶けかけのチーズケーキ」
 美月はすぐに納得したようだ。
 昨日の夕方、梨緒子が届けたおみやげと、『北海道』という単語が結びついたらしい。
「やっぱり溶けてた? ごめん」
「別にチーズケーキはどうだっていいけど。永瀬くんと一緒に旅行して、それでってこと? 梨緒ちゃん……二股かけてたの!?」
「それは違う。違うから美月ちゃん!」
 これ以上美月との仲がこじれてしまっては、救いも何もない。
 梨緒子は必死に弁解をした。
「優作先生がなんかいろいろと気をつかってくれて、親戚のやってる貸し別荘に招待してくれたってだけの話なの。薫ちゃんも一緒だったし、行き帰りも別々だったし……一緒に旅行ってことでは、ないから」
「もちろんルイは知らないんでしょ?」
「北海道に行ったことは教えたよ。……けど、秀平くんと一緒だったことは、まあ……その」
「言えるわけないよね。やっぱり二股じゃないの」
 親友の容赦ない一言が、梨緒子の胸を突き刺した。
 初めは、そんなつもりではなかったのだ。結果的にそうなったというだけにすぎない。
「二股って、そんな。私だってよく分からないよ。どうして秀平くんが突然、そんなことしてきたかなんて」
 そう言うと、美月はあてつけるようにして、深い深いため息をついてみせた。
 梨緒子の発言が、美月にはまるで信じられないようだ。とことん呆れ果てているのだろう。
「梨緒ちゃんって本っ当、鈍感だよね。突然? 永瀬くんは梨緒ちゃんのこと、あんなに意識しまくってたじゃない?」
 親友がここまで呆れ返っている意味が、梨緒子は逆に理解できなかった。
 秀平はいつだって冷静で、淡々としていて、何事もなかったかのようにそこにいたのだ。
「意識って……そんなことないと思うけど?」
「そんなことあるよ! 私ね、夏休み入る前かな……梨緒ちゃんとルイが付き合いだした頃に、永瀬くんのところに直談判しに行ったの」
 秀平もそんなことを言っていたことを、梨緒子は思い出す。
 早朝の図書館で――。

【昨日帰りに――波多野がさ、俺を待ち伏せしてた】

【俺のせいだって。俺が悪いんだって、掴みかかってこられた】

【俺のせいで、好きな人も、親友もなくしてしまった、って】

 その美月の行動に、梨緒子は仰天したのだ。確かに覚えている。
「そのとき永瀬くん、なんて言ったと思う?」
「え?」
 あの日図書館で、秀平が梨緒子に言っていたのは、美月に言われたということだけだった。
 美月が一方的に絡み、それを秀平がいつものようにクールにかわしたものだとばかり思っていたのだ。

 トクンと、心臓が高鳴った。
 秀平が美月に、いったい何を――。

「梨緒ちゃんは本当に自分のことが好きなのか、って。本当にそれが理由で同じ大学を目指すって言ってるのか、って。どうして梨緒ちゃんはルイと付き合ってるんだ、って。あの永瀬秀平があんなに取り乱して――」
 頭の中が真っ白になる。
 取り乱していた? 誰が?
「頭にきてて、『自分で確かめたらどう?』って思わず切り捨てちゃったけど」

 すべて分かった気がした。
 どうして秀平が、あの日図書館で、梨緒子にあんなことを言ったのか。

 ――ああ、もう。

【俺、江波のこと――好き】

【じゃあ、どうして安藤と付き合うことにしたの? 俺が、困るって言ったから?】

【なんか俺、江波に狂わされっぱなしだ】

 こんなにもこんなにも、彼の心が側にあったというのに――。


「本人はきっと無意識だと思うけど、意識しまくりもいいトコでしょ。球技大会あたりから、なんか挙動不審だったし――まあ、お兄さんが陰でいろいろ吹き込んでたのかなー、やっぱり」
 出てきたのは意外な人物のことだった。
 優作が、陰でいろいろと吹き込んでいた――ありえない話ではない。
「だって、はちまきのジンクスのこと教えたのだって、お兄さんだったんでしょ? そして今度は北海道? 永瀬くんのお兄さんっていったい何者? ただの家庭教師がどうして梨緒ちゃんにそこまでするの? 弟思いにも限度があるでしょ」
「確かに、優作先生は謎なんだけど……」
 確かに、いつの間にやら優作は、ただの家庭教師という範疇を超え、恋愛で一喜一憂する梨緒子のすべて受け止めてくれる大きな存在となっている。
 『孤高の王子様』と呼ばれる秀平とここまで近づけたのも、優作がいてくれたからに他ならない。
 北海道へ行かなかったら、秀平とは口をきかないまま卒業を迎えることになっていただろう。
 二人で天の川を見ることもなければ、彼とあんなことにも――。


 梨緒子は手の中のはちまきに再び視線をやった。
 向かい合う美月も、それを意味ありげに覗き込む。やがて、憑き物が落ちたように、ゆっくりとため息をついた。
 梨緒子がよく知っている、親友の優しい顔に戻っていく。
「まあ、でも……キスまでしてそれを返してきたってことは、永瀬くんにはその気がある、ってことなんだよね」
「その気?」
「梨緒ちゃんを、ルイから奪う気」
 思わず絶句してしまう。
 美月は心臓に悪いことを淡々と言ってのける。
「それは……ない気がする」
 類と秀平の関係を思い返し、梨緒子はため息まじりに言った。
 ただ、しかし。
 そうなったらそうなったで厄介な修羅場なのであるが、このまま水面下での探りあいが続くのも、地獄の日々のような気がしてしまう。
 出口はいまだ見えてこない。
「きっとルイは納得しないよ。梨緒ちゃんが永瀬くんのこと好きなのを承知で付き合ってるんだし。いくら梨緒ちゃんが拒んでみたところで、なんにも変わらないと思う。むしろ闘志を燃やすかもね」
 おそらく美月の言うとおりだ。伊達に長い付き合いではない。

 美月はどこか悲しげな表情で、空を見上げていた。
 屋上のフェンスに梨緒子と並ぶようにして寄りかかり、そっと呟きをもらす。
「梨緒ちゃんもルイも、どっちも応援してあげたいし、でもどっちも応援してあげられない」
 そう言って、美月は梨緒子の手を取り、そっと繋ぐようにして握った。
「美月ちゃん……」
 そう。
 一番苦しかったのは、彼女なのだ。
「だって、当たり前でしょ? 二人のこと、どっちも……大事なんだから」
 返事をする代わりに、梨緒子はかけがえのない親友の手を、そっと握り返した。

 その日、梨緒子と美月は、ひと月ぶりに二人そろって下校した。