お邪魔してます。

 夏休みももうすぐ終わろうというある日の、夕暮れ時のことである。

 梨緒子の部屋では、いつものように家庭教師による個人授業が行われていた。
 緩やかな空間だ。
 何事もなかったかのように、この男は目の前に座っている。
 教え方は上手いのだと思う。その証拠に、梨緒子の成績もわずかずつながら上がっている。

 梨緒子は問題を解く手を止め、ノートの上にシャープペンを置いた。
「先生、私ね……迷ってるの」
「迷うって、何を?」
 もうそれはありとあらゆることに、梨緒子は迷っている。
 まずは、これだ。
「もうすぐ、地元国立大の大学説明会なんだけど」
「ああ、そういえばもうそんな季節だっけ」
 優作はあごに生えた無精ヒゲを撫でさすりながら、のんびりと呟いた。大学三年生の彼にとっては受験生のイベントなど、過去の懐かしい思い出にすぎないのだろう。
「なんかいまの私、とても中途半端な気がする」
 梨緒子は自分の胸の内を、素直に家庭教師に打ち明けた。
 とにかく迷いを拭い去りたい。
 もうすぐ夏休みが終わってしまうという、この大切な時期。
 迷ってなどいられないはずなのだが、梨緒子は出口のない迷路の中をひたすら彷徨い続けている。
「もう一度北大を目指すのも、こっちの国立大受けるのも……何か無理してるっていうか」
 どちらを選んでも少なからずの犠牲が伴うことが、梨緒子の迷いをいっそう膨らませる要因となっている。
 秀平への想いをとるか、類と一緒にいる道を選ぶか――もはや、そんな単純な話ではなくなってきているのである。
「もう全部捨てて、どこか遠くへ行きたい」
 優作はそんな梨緒子の声に、黙って耳を傾けている。
「知ってる人が誰もいないところへ行きたい」
 無言のまま、ゆっくりと頷いている。
 とても心地いい。するするとほどけていく。
 梨緒子は続けた。
「でも秀平くんと離れちゃったら、きっと何もなかったかのようになっちゃうんだろうな……きっと」
 そう、それがもっとも怖れていること。
 同じ場所で同じ時間を過ごしているいまだからこそのやりとり――そんな当たり前すぎる幸せは、簡単に失われてしまう。

 彼の声を聞くことも。
 遠ざかる背中を見つめることも。
 すれ違うときに触れる制服の感触も。
 彼がまとう爽やかな空気の香りも。

「だってそうでしょ? 近くにいたってなかなか思うようにならないのに、離れちゃったら……」
「だったら、北大を目指そうよ。秀平と一緒にね」
 この家庭教師は簡単に言ってのける。
 目指すだけなら、誰だってできるというのに。
「秀平くんと一緒にって言うけど……私がどんなに頑張っても、秀平くんはそのさらに上を行っちゃうの。いつだって秀平くんは私の遥か上にいて、いくら手を伸ばしたって……届かないんだもん」
 どんなに目指していても、追いつけない自分の姿が惨めに思えてしょうがないのだ。
「それに……それが理由で大学を選ぶなって言ったのは、優作先生だよ?」
「じゃあ、止める?」
 またもや、この家庭教師は簡単に言ってのける。
 イエスか、ノーか。
 やるか、やらないのか。
「……だから、悩んでるの」
 はたして、本当に合格などできるのだろうか。
 もちろん秀平と同じ大学のキャンパスを並んで歩けたなら、どんなに幸せだろう。
 しかし、梨緒子にはその幸せを掴み取る自信は――まったくない。

 梨緒子の悩みが晴れそうにないのを見て、優作はコトを急くのをやめたようだ。肩をすくめ、軽くため息をつく。
「まあ、説明会くらいは行ってみてもいいと思うけどね。絶対受けないと決めてるなら、時間の無駄かもしれないけど」
 優作の助言に、梨緒子の迷いはさらに増す。
 説明会は各学部ごとに行われるのだ。ここでもまた、選択を迫られてしまう。
「行きたい学部とか、別にないんだけど……どこのを聞いてくればいい?」
 別にどこだっていいのかもしれない。
 説明会を聞きに行った学部を必ず受験しなければならない、ということでもない。
 梨緒子は理系クラスに在籍しているのだから、同級生たちに混じって理学部あたりにもぐりこんでみたらいいだけの話である。

 ――でも、何か違う。

 梨緒子は漠然とした違和感を感じていた。
 やがて優作は、たったいま思いついたかのように、ポソリと呟いた。
「うちの大学のに、参加してみる?」
 梨緒子は思わず自分の耳を疑った。
 優作の言う『うちの大学』とは、大きな総合病院も附属している県内随一の医科大学である。
「え? 優作先生のガッコウなんて、北大以上に無理でしょ?」
「いや、短大のほうだよ。もちろん、医学部目指してくれてもいいけどね」
 梨緒子は激しく首を横に振った。
 現在の成績では、医学部を目指しているなど、冗談でも言えない。
「主催は短大だけど、実質は附属病院だったかな、確か。毎年九月の中ごろにね、高校生の『看護師一日体験』っていうのやってるから」
「へえ、何それ、初めて聞いたー」
 その言葉の響きからすると、医療現場の雰囲気に触れられる貴重なイベントのようだ。
 一日警察署長みたいなものかも――梨緒子の想像は膨らんでいく。
「本格的なんだよ。ちゃんと看護師の制服も貸してくれて、患者さんのいる病棟を回って、体温計ったり、爪を切ったり、給食の配膳のお手伝いしたり。さすがに注射とかはさせられないけどね」
「やってみたい、それ!」
 梨緒子は二つ返事で優作の提案に飛びついた。
「そう? じゃあ担当の人に問い合わせておくよ。ひょっとしたら梨緒子ちゃんの高校にも話がいってるかもね。進路指導の先生に尋ねてみたらどう?」
 真っ白な看護師の制服を着て、病院内を歩く自分を想像し、梨緒子は一人興奮してしまう。
 首から聴診器を下げたり、薬が並べられたワゴンを押して病室を回って歩いたり。
 もちろん一日体験ではそこまでしないだろうが――テレビドラマで見るような看護師の姿に自分を当てはめてしまう。

 ふと、優作が自分の顔を凝視しているのに気づき、梨緒子は思わず尋ねた。
「どうしたの、優作先生」
「それって、梨緒子ちゃんの本当にやりたいこと――なのかもな、と思って」
 優作は興味深げに梨緒子の顔を見つめたまま、軽く首を傾げてみせる。
「……本当にやりたいかどうかは、よく分かんないけど」
「でも、興味はあるみたいだね。すごくいいことだよ、それって。それにね、同じ分野を目指してくれたら、僕も嬉しいし」
 くしゃりと、優作はたれ目を穏やかに緩ませて微笑んだ。
「なんてったって僕のフィールドだから、勉強は格段に教えやすいかなあ」
「そっかー、そうだよね」
「まあ、どこを目指すにしたって、僕は最後まで梨緒子ちゃんの味方だから。安心していいよ」
 やっぱり落ち着く。
 慣れた感じがする。それは、優作と出会った頃から変わっていない。


 何となく、疑問をぶつけてみたくなった。
 それは、親友の美月が不審に思っていること、でもある。
「ねえ、優作先生」
「なに、梨緒子ちゃん?」
「どうして優作先生は私のこと、ここまで気にかけてくれるの?」
 その疑問に対し、優作は事も無げに淡々と答えてみせる。
「誰かを一途に好きになる気持ちは、人一倍分かるつもりだからね。少なくとも、梨緒子ちゃんの『憧れの彼』よりは」
「もう、そういう言い方、恥ずかしいから止めて」
 優作はどこか楽しそうにしながら、ごめんね、と梨緒子に謝った。
「あいつは恋愛なんて初めてだから、まだ自分の気持ちを客観視できないんだよ。まあでも、秀平は純粋なうえに頑固なほど真っ直ぐだから、浮気の心配とかはしなくてもいいと思うよ、きっと」

 ――うっ、浮気の心配?

 したことない、そんなもの。心配するような立場にいるわけではないのだから。
 『浮気』と言うからには、少なくとも彼氏彼女の関係にあることが前提だ。
 しかし、現実はまだまだ遠い――梨緒子は複雑な気持ちを抱えて、ため息をついた。


 それにしても。
 誰かを一途に好きになる気持ちを、この目の前の男は『人一倍分かる』と言う。
 梨緒子はさらに聞いてみた。
「優作先生って、付き合ってる人とかいるの?」
「いまはいないよ」
「いまは、って……じゃあ、いままでは?」
「そうだね、まあ人並みにお付き合いさせてもらったこともあるけど、振られちゃったんだよね。本当に好きな人ができてね、付き合っていた子にちゃんと向き合ってあげられなかったから。まあ、愛想つかされて当然なんだけど」
 意外な言葉がよどみなく、優作の口から紡がれる。
 梨緒子は思わず目を瞠った。
「本当に、好きな人?」
「そう。その人に憧れて、医学部目指したから。ほとんど、言葉を交わしたことはなかったんだけどね」
 照れたように笑う優作の顔を見て、梨緒子はぎゅっと胸が引き絞られるような思いがした。

 ――知ってる。すごく知ってるその気持ち。

「そう。梨緒子ちゃんと、おんなじだね」
「優作先生……」
「僕はね、頑張って頑張って、とにかく死に物狂いで勉強をしたよ。けど、彼女と同じ大学へは進めなかった。それでも彼女を追いかけて、こうして医学生でいられることを、本当に幸せに思ってる」
 優作の言葉ひとつひとつが、梨緒子の心にゆるやかに染み込み、やがて満たしていく。
 だから、こんなにも心地いいのだ――梨緒子はようやく気づいた。
「意外だった?」
「ううん……でも、前に志望動機を聞いたとき、TVドラマの影響だとか言ってたから。まあ、ちょっとビックリかな」
「それも嘘じゃないんだけどね。志望理由の一つ、ということで」

 憧れの人と同じ大学を目指すということ。
 そんな突拍子もない考えを、優作は一度だって否定したことはなかった。

 同じなんだ。

 同じ、だったんだ。

 だから、優作は――梨緒子の思いを理解することができるのだろう。
 梨緒子の憧れる『彼』の実の兄だから、というだけではなかったのだ。


「くーっ、いい話だねえ……」
 ふと声のするほうを振り返ると、梨緒子の部屋のドアのところにキレイな兄貴が立っていた。コンビニの袋を携え、空いているもう片方の手で、わざとらしく目頭を押さえている。
「薫ちゃん? いつの間に帰ってたの?」
 専門学校に通う薫は、基本的に自由人だ。江波家の人間の中で、もっとも神出鬼没である。今日はたまたま早く帰る気分だったようだ。
「立ち聞きするつもりはなかったんだけどさ。はい、頑張る二人に差し入れ、ハーゲンダッツ。抹茶かイチゴ、選んでいいよ」
 優作は薫の姿をとらえると、友好的な笑顔をみせて座ったまま会釈をした。
「ああ薫さん、お邪魔してます。じゃあ、遠慮なくいただこうかな。梨緒子ちゃんはイチゴね。秀平もこれ、好きなんだよ」
 優作は勝手に決めて、梨緒子の前にイチゴのアイスクリームを差し出してくる。
 きっと彼も、兄である優作にこんなふうに扱われているのだろう。そう考えると、自然に笑みがこぼれてしまう。
 アイスクリームの蓋を開けた瞬間から、梨緒子はイチゴの香りがもっと好きになった。