逃げられた……

 梨緒子は課題の提出をするために、朝イチで担任のもとを訪れた。

 担任教師の吉倉は、三年の校舎に程近い第二職員室にいる。今年三十路を迎える予定の、男性若手教諭だ。
 第二職員室は進路指導室と併設されており、三年生の担任の居場所となっている。そのため、出入りするのは三年生の生徒がほとんどだ。

 今日は地元国立大の大学説明会のため、三年校舎を始めこの第二職員室も閑散としていた。
「江波さん、ちょうどいいところに!」
 担任の吉倉はすぐに梨緒子を見つけ、手招きをしてくる。
「どうしたんですか、吉倉先生? あ……何か嫌な予感」
 窓際の書類棚の上に、山積みになっているモノ。
 岩石の標本のようだ。
 細かく仕切られたコレクションボックスのような箱に、細かな岩石と標本名が記されている。
 地学教師である吉倉の管理するものであることは、一目瞭然だ。
 吉倉はその山積みの標本を指し示した。
「教室戻るんだろ? だったら通り道じゃないか。地学室にちょっと寄り道して、その標本置いて来てくれるか?」
「ええ? 一人でこんなに?」
 標本の箱は全部で六つ。重ねた高さは五十センチを軽く超えている。
 梨緒子はうんざりとなりながら、自分の運のなさを恨めしく思った。
 類も美月もいないからといって、朝から張り切って課題を出しに来たのが間違いだった。
 一番下の箱に手をかけて、よろめきつつゆっくりと窓際からあとずさる。かなり不安定だ。
 額で一番上の標本ケースを押さえているので、方向転換もままならない。
「落としちゃいそうです、先生! しかも前見えないし!」
 吉倉先生はなだめるようにして、梨緒子の肩をぽんと叩いた。
「か弱いフリしないの。――ああ、頼りになる助っ人が来たぞ」
 内履きの足音で、別の生徒が近づいてくるのが分かった。
「永瀬くん、お嬢さんのお手伝いしてやって」

 ――う……う、嘘?

 標本ケースを抱え、視界を遮られたままの状態で、梨緒子は必死に考える。
 第二職員室に来るということは三年生、ということで。

 ――他にいなかったっけ? 『永瀬くん』って呼ばれる男子。

 おそらく、学年に一人だ。
 全身から汗が噴き出してくるのが分かる。
 どうしよう。
 こんなにも間近で彼と遭遇するのは、久しぶりのことだった。
「ひ、一人で大丈夫です!」
 気恥ずかしさのあまり、なるべく顔を合わせないようにして、彼の傍らを通り過ぎようとした。
 すると。

「江波、ストップ」

 秀平はそれ以上何も言わず、梨緒子の抱えている岩石の標本ケースの半分を、颯爽と取り上げていく。
 突如開けた視界に梨緒子は動揺したが、秀平はすでに梨緒子に背中を向けて歩き出していた。
「じゃあ二人とも、よろしく頼むな」
 担任の吉倉は何も知らずに能天気に声をかけてくる。
 梨緒子は残りの標本ケースを抱え、そのまま職員室を出ようとする秀平を慌てて追いかけた。



 どうして半分だけなんだろう――梨緒子はふと、そんなことを考えた。
 男子ならすべて余裕で運べる程度の量だ。それなのに、わざと半分だけ持って先に歩く秀平のその行動とは――。
 おそらく。いや、きっと。
 そうでなければ、説明がつかない。仲のいい友達同士なら分け合って持っていくこともあるだろうが、秀平がそんなことを思うはずもない。

 ――二人きりになるために……だったりして。

 その証拠に、秀平は職員室を出ると極端に歩く速度を落とし、梨緒子が追いつくのを待っているようだった。
 梨緒子が追いついたのを気配で察したのか、秀平は振り返らずにそのまま歩きながら言った。
「行かなかったんだ、説明会」
 今日登校してきている三年生は、地元国立大を絶対に受験しないと決めている生徒だけだ。
「あ、うん……ちゃんと自分が考えて、それで決めたことだから」
「そうか」
 秀平は北大を目指している。だから、地元国立大の説明会に行く必要がないのだろう。
 それにしても。
 秀平の横顔をとても直視できない。
 もどかしい距離を保って、秀平は梨緒子のそばにいるのだ。


 会話を続ける間もなく、すぐに二人は目的の地学室へと到着した。
 壁際に設置された標本をしまっておく棚に、運んできたケースを並べるようにして置いた。
 秀平は黙ったままだ。話しかけようにも話題が出てこない。
 棚の扉を閉め終えると、秀平が何かをじっと見つめているのに気がついた。
「秀平くん……どうかしたの?」
「なんか、思い出して。別にたいしたことじゃないんだけど」
 梨緒子は、秀平の視線の先を辿った。
 そこには、年期の入ったすすけた星図が貼ってある。学習用の大きなものだ。
「天の川を、江波と一緒に見てたときのこと――」
 梨緒子が思わず秀平のほうを見ると、今度はしっかりと視線が合った。
 そらすことができない。
 手を伸ばせば触れられる距離で、秀平は真っ直ぐに梨緒子の顔を見下ろしている。
 突如、夏の夜の湿った空気が二人を包んでいくような、そんな錯覚に陥った。
 そう。
 あれは夢なんかじゃなかったのだ。
 こうやって、二人並んで流れ星をいくつも数えていた。
 秀平は、じっと梨緒子の顔を観察するようにして眺めている。
「あの時……こんな顔してたんだな、江波」
「え?」
「暗くてよく見えなかったから」

 あの時……暗くてよく見えなかった、あの時?

 ――って、あの時!?

 二人が満天の星空の下で交わしたキスのことを、彼は言っているのだ――梨緒子はようやく気が付いた。
 確かにこの距離感は、彼の唇が触れてくる直前と、ほぼ同じだ。
 あの時二人は暗闇の中にいたが、いまはしっかりとお互いの顔が見えている。
 梨緒子は一気に血が上り、赤面した。
「突然だったから、ほんとビックリしちゃって! なんかよく覚えてないんだ。だからそんな気にしないで!」
「覚えてないの?」
 秀平の表情に訝しげな疑問符が浮かび上がる。
 何と答えたらいいのだろう。梨緒子は焦るばかりだ。
「え……い、いや、あの、いまからするよ、とか言ってくれたら、ちゃんと覚えていられたかも、なんて!」
 取り繕おうとするとますます綻んでいく。
 すると、秀平は涼しい表情を崩さぬまま、淡々と言った。
「じゃあ、いまからするから」
「え……ええ!?」
「冗談だよ」
 三年は寿命が縮んだ。
 梨緒子自身が余計なことを言ってしまったせいなのだが、秀平がそれに乗っかって、しかも冗談まで言うなんて。
 これでは、心臓がいくつあっても足りない。
「そうか、覚えてないのか。江波が気にしてたらどうしようかと思ってたんだけど、余計な心配だった――みたいだな」

 ――心配、してたんだ……秀平くん。

 梨緒子は、力強く首を横に振った。
「覚えてないなんて、嘘。……だってね、秀平くん」
 秀平は黙って梨緒子の言葉に耳を傾けている。
 静まり返る、朝の地学室の中。
「ファーストキス、だったんだよ、私」
 沈黙が二人を包んだ。
 秀平は、何かを言おうと口を開きかけるが、言葉が見つからないのか、またすぐに口を閉じてしまう。言葉の代わりに、彼は軽く数度、静かに頷いてみせた。
「はちまき、ありがとう。本当にね、……嬉しかったから」
「うん」
「……でもね、すぐに応えられない」
「だろうな、安藤のあの調子じゃ」
 秀平の答えを聞いて、梨緒子はその言葉の意味をすぐに察した。
 『あの調子』とは、後半の講習が始まった日に、図書館の横の裏庭で、類少年に無理矢理キスをされそうになった一件のことであろう。
 梨緒子は落胆した。
「やっぱり、見てたの?」
 木々に阻まれていたし、図書館のいつもの席に秀平がいるかどうかも分からなかったため、五分五分の確率だと予想していた。
 まさに、当たりのほうの『五分』に当てはまっていたらしい。
「初めは分からなかったけど、波多野の大声が聞こえてきたから、それでなんとなく」
「どうして私なんだろう……もう」
 秀平は黙っている。
「美月ちゃんのほうが、ずっとずっとルイくんのことを想ってるのに」
 その事実が、梨緒子の心に重くのしかかる。
 自分は類の彼女に相応しくないのだ、もっと相応しい人が――そんな考えばかりが梨緒子の頭の中を反芻する。
 しかしそれは、他力本願的な『逃げ』でしかない。


 秀平は深呼吸をするようにして大きくため息をついた。
 綺麗な切れ長の二重まぶたが、ゆっくりと瞬く。
「今日、講習終わったら、図書館で勉強していけば? どうせ兄貴の授業は夕方なんだろ」
 類がいるときには、絶対に言わないであろうセリフだ。
 今日は類がいないのを承知で、秀平は言っているのだ。
「それも駄目?」
 ここで、迷ってはいけない。
 いますぐには、彼の気持ちに応えられなくても。

 本当に好きな人を選ぶということに、もう迷ったりしない。
 たとえこの先、つらい道を歩むことになったとしても――。

「ううん、駄目じゃないよ。秀平くんと一緒に勉強する」
 すると。
 秀平が途端に表情を和らげ、ホッとしたような笑顔を見せた。
 いつまでもいつまでも、秀平は笑い続けている。
 梨緒子はふと首を傾げた。
「何でそんなに笑ってるの? 私が勉強するの、そんなに可笑しい?」
「いや…………江波と一緒だと、ちょっと嬉しいかな、と思って」
 梨緒子は思わず目を瞠った。
 何なんだろう、永瀬秀平という男は。
 好きとか愛してるとか、そんな言葉は一切口にしていないというのに。

 一緒だと、ちょっと嬉しい――だなんて。

 たったそれだけで、梨緒子の幸福度MAXが完全に振り切れてしまう。
「えっと、あの、講習もうすぐ始まっちゃうから、早く教室戻らないと!」
 秀平を意識するあまり、梨緒子はすれ違いざまに彼を避けるようにして、地学室の外へと出ようとした。
 しかし、かなり慌てていたため、側にあった実習用の椅子に足を引っかけてしまい、梨緒子の身体は重力に逆らわずに前へと倒れていく。
 気がつくと、梨緒子は秀平の胸の中へしっかりと収まっていた。
 どうやら彼が、反射的にかばってくれたようだ。
「怪我でもしたらどうするんだよ。急がなくてもまだ間に合うから」
「ご、ごめんなさい」

 そのときである。
 どこかで、光が瞬いた。
 そして走り去って行く複数の靴音。

 秀平はようやく何かに気づいたのか、慌てて梨緒子の身体を放した。
 急いで確かめようと地学室外の廊下へと出たものの、すでに時遅し。
 誰だったのか――三年生の多くが不在であることを考えると、おそらく下級生だろう。
「逃げられた……かな。まあ、よくあることだけど」
 呆然と立ちすくむ梨緒子に、秀平は何事もなかったかのように、教室に戻ろう、と声をかけた。