掴み所が、ない。

 夏休みの間、類少年と彼氏彼女という関係が続いたことに、梨緒子はある種の感慨を覚えていた。

 いろいろなことがあった。

 図書館での告白から、美月との仲違いに発展した。
 そのため、梨緒子はいつも類と二人で行動することになり、一緒に勉強したり買い物へ出かけたりと、そんな友達の延長上の付き合いを続けていた。
 無理矢理キスをされそうになり、泣きながらそれを拒んでしまったこともあったが、親友の美月が間に入ってくれたお陰で、さほど深刻な事態にはならなかった。
 梨緒子は後ろめたさもあり、類の行動を怒ることができなかった。そのため、類も特に謝ることをせず、何事もなかったかのようにいつもの空気に戻っていった。

 ――これから、どうなっていくんだろう。

 類と梨緒子の関係は、付き合い始めのような勢いはすでになく、落ち着きをみせている。
 ただ、美月と仲直りできたことで、類との付き合いは新しい段階に進んでいく気がしていた。

 ――難しい。とても。

 自然消滅を狙ってこのままずるずると付き合い続けていても、秀平を傷つけるだけの結果になるのは目に見えている。
 しかし秀平は、類とのいざこざを極端に避けたがっている。
 このまま類に別れを切り出せば、まず間違いなく修羅場に発展するだろう。
 そうなったら、彼は。

 ――秀平くんは、いったいどうなるんだろう?

 そんな梨緒子の憂いは、すぐに現実の問題となって、その身に降りかかってくることとなる――。



 事件は、夏休みが終わったそのあくる日に起きた。
 梨緒子は放課後、学年主任と生徒指導部の教諭に呼び出しを受けたのである。
 物々しい雰囲気の中、梨緒子は同級生たちの好奇の目にさらされて、第二職員室へと連れて来られた。
 来客用の簡易応接セットの奥に梨緒子は座らされ、逃げないように脇と向かいをかためるようにして、教諭二人は座った。
 怖い。ただならぬ雰囲気に、梨緒子はソファの隅でじっと身を硬くしていた。
「一部生徒の間でこんな画像が出回っている。ご丁寧にも進路相談ポストにまで送りつけてきていた」
 目の前に、画像をプリントアウトしたA4サイズの用紙が置かれた。
 梨緒子はショックを受けた。

 ――これ……あの時の?

 背景は確かに見覚えがある。色褪せた大きな星図が写りこんでいる――地学室だ。
 そこにはしっかりと男女の抱擁シーンが写っていた。男子は背中を向けた格好で、梨緒子はしっかりと顔が判別できる。
 画像の精度と大きさから、この写真は携帯ではなく、デジタルカメラで撮影したもののようだ。
 あのとき瞬いた光は、フラッシュだったのだ――と、梨緒子はようやく思い当たった。
「どういうことなんだ? いったい、学校に何しに来てるんだ。色気づくのも大概にしないと、三月に泣くぞ?」
 梨緒子は声も出せずに、緊張で乾いた喉を潤すように無理矢理唾を飲み込んだ。
「両成敗ということで、安藤くんにも話を聞かないとな」

 ――嘘……嘘、そんなこと。

 確かにこの画像では、男子の制服の後姿と、後頭部の一部が写っているだけだ。梨緒子の顔が奥に重なるようにして写っており、一見キスをしているようにも取れる。
 おそらく教師たちにも実際にそう判断されたため、ご丁寧に呼び出しと相成ったようだ。

 でも、この男子は――。
 彼氏の安藤類では、ない。

 梨緒子は絶望的な気分になった。


 程なくして、類が職員室へと呼び出されてきた。梨緒子と斜め向かい合うようにしてソファに座らされる。
 梨緒子が呼び出しをくらった理由は、すでに生徒の間で広まっていたらしい。類は何の説明もなしに、待っていた教諭たちに開口一番噛み付いた。
「こんなの合成かなんかに決まってるだろ!」
 類は印刷された画像の紙ごと、力任せに机を叩きつけた。
 類の勢いに押されて、生徒指導の教諭はなだめるようにして説明をした。
「お前たちが仲いいのは、生徒の間では広く認識されてるようだけどな。別に、安藤のことを責めてるわけじゃない。ただ、時と場所を少し考えろ、ということだ。分かったか?」
「俺たちはこんなこと、してねーよ! 誰なんだよ、こんなつまんねー悪戯するヤツ! アッタマくる!」
「いいから落ち着け、安藤」


 そのときである。
 一人の生徒が職員室へと姿を現した。そのまま梨緒子たちのいる応接セットまで、真っ直ぐ歩いて近づいてくる。
 梨緒子は思わず息を飲んだ。
 教師たちは意外な生徒の登場に、ひたすら首を傾げている。
「永瀬くん? どうしたんだ」
「俺です、その写真に写ってるの」
 空気が止まった。
 そのひと言で、すべてが崩れていく。

 展開についていけず、しばし黙る教師たち。
 そして絶望的な呟きを漏らす類少年――。

「……嘘だろ? なんで永瀬が」
 梨緒子は顔をそむけた。
 先生の顔も、類の顔も、まともに見ることはできない。
 秀平はソファの側に立ったまま、流暢に説明をする。
「吉倉先生に頼まれて、地学実験室へ江波と二人で標本を置きに行ったんです。そのときに江波がつまづいて転びそうになったのを、助けようとしてたまたま抱える格好になっただけです」
 その状況説明を聞き、生徒指導の教諭はすぐに、背後で様子をうかがっていた担任の若手教師に確認をとった。
「吉倉先生、間違いないですか?」
「永瀬くんの言うことは正しいです。八月の終わりに、確かに二人に頼んだことがありました」
 担任の吉倉はすぐさま、秀平の言うことを肯定した。
「その写真は、それ以上でもそれ以下でもありません」
 寸分の迷いも見せず、淡々と説明をする。
「事情は分かった。今回のこの写真は生徒のいたずらということで、いいんだな?」
 秀平は一瞬だけ梨緒子へ目配せをすると、そのまま颯爽と職員室を出て行ってしまった。
 一方、梨緒子の斜め向かいに座る類の唇は、固く結ばれかすかに震えている。
 ただではすまされない重苦しい雰囲気をまとわせている。
 類は梨緒子に目もくれずソファから立ち上がると、教師の言葉に耳も貸さず、秀平を追いかけるようにして職員室を出て行ってしまった。
 状況は最悪だ。
 梨緒子は、いままでの自分自身の行動に天罰が下ったのだ、と思った。



 梨緒子はようやく教諭たちから解放され、急いで類を追いかけた。
 人気のない生徒昇降口へと差し掛かると、まさに一触即発の状態で、二人の男子生徒が向かい合っていた。
 永瀬秀平と安藤類である。
「ちょっと待てよ、永瀬。お前、正義の味方を気取ったつもりか?」
 秀平はカバンを肩から提げ、下駄箱の前で内履きから外履きへすでに履き替えている。
 明らかに面倒臭そうな深いため息のあと、秀平の切れ長の綺麗な二重まぶたがゆっくりと瞬いた。
「さっきも先生に言ったけど、俺たちは何もしてない」
 俺たち、という言い方が類の癪に触ったらしい。類はいつにない剣幕で秀平に詰め寄る。
 梨緒子は類を止めようと背後から手を伸ばしたが、秀平の両瞳が梨緒子に『手出し無用』と牽制をかけている。
「そんな説明で先生を騙せたって、俺の目は誤魔化せねーよ。何もしてなくて、あんな格好になっちゃうのかよ?」
 類の勢いはとどまるところを知らない。
「たまたまだって言っただろ。誤解してしまうような角度の写真だよ」
 梨緒子は思わず二人の間に割って入った。類のシャツにしがみつくようにして、必死に説得する。
「秀平くんは嘘ついてないよ。ホント転びそうになったのを助けてもらっただけで……」
「じゃあ、何でしっかり抱き合ってんの?」
 至近距離で睨みをきかされる。
 怒りの矛先は、今度は彼女の梨緒子に向けられた。
「突然だったから驚いちゃって、とっさにしがみついちゃったから――」
 梨緒子はたじろぎながらも弁解を試みる。しかし、気持ち的にまったくの白とは言い切れない。立場が弱すぎる。
「とっさであんなんなっちゃうかよ、普通!?」
「いい加減にしろよ、安藤」
 梨緒子は思わず目を瞠った。
 まさか秀平が攻撃的な反論をするとは、思ってもみなかったのである。
「……いい加減に、しろだと?」
「どうして江波のことを信じてやらないんだ。自分の彼女だろ?」

 ――ああ、もう。

 梨緒子は泣いてしまいそうだった。
 何気ない彼の言葉が、梨緒子の心を幾重にも包み込む。

「相手がお前じゃなかったら、いくらでも信じてやるさ」
 類の怒りは最高潮に達していた。
 確かに類は喜怒哀楽がハッキリしているほうだが、ここまで怒りの感情を爆発させるのを、梨緒子は初めて見た気がした。
 もはや、抑えることは不可能だ。
「リオがお前のことすげー好きなのは知ってる。けど、お前はリオの気持ちに応えてやろうとしないだろ。勉強勉強で、忙しいんだかなんだか知らないけどさ。そんなお前に『彼女のこと信じろ』とか、説教される筋合いはねえよ!」
 秀平が口をつぐんだ。口出ししすぎたことを悔いたのか、そのまま類と梨緒子へ背中を向け、昇降口のドアに向かって歩き去っていく。
「逃げるのかよ!」
 類の大声に、秀平は背を向けたままその場で立ち止まった。
「お前が『困る』って、言ったんだぞ? まさか忘れたわけじゃないだろうな」
「言ったよ、確かに」
「だったら――」
「お節介なんだよ、安藤は。もう、いい。もうたくさんだ。勝手にすればいいだろ!」

 秀平がその場を立ち去ろうとした、そのとき――。

 一人の女子生徒が、回り込むようにして秀平の前に立ちはだかった。
「永瀬くん! 待って!!」
「……波多野」
 秀平が女子生徒の名を口にした。
 いままで陰から様子をうかがっていたらしい。美月は、昇降口の扉と壁に手をかけて、秀平の進路を塞いだ。
「もう、お願いだからもっとちゃんとしてよ!」
 秀平は面倒臭そうにしながら、立ちはだかる美月を冷たくあしらった。
「そこ、どいて」
「どかない」
「俺、早く帰りたいんだけど」
 秀平は頑なに態度を崩そうとしない。かすかに眉間にしわを寄せ、不機嫌をあらわにしている。
 美月はそれでもひるむことなく、秀平に訴えかけた。
「永瀬くんがそんなだから、みんなが困ってるの! どうして分からないの? 勉強がいくらできたって、そんなの何の自慢にもならないんだから!」
 類と梨緒子は思わず顔を見合わせた。
 美月の大胆な行動を目の当たりにして、どう対処してよいのか分からず、二人はその光景をただ茫然と眺めていた。
「本当のこと言ってよ……お願いだから」
 美月は必死に秀平に食い下がる。身を呈して、秀平に真正面からぶつかっていく。
「本当のこと? ……どういうことだよ、美月」
「美月ちゃん、止めて!」
 類と梨緒子の声も、もはや美月の耳には届いていないようだ。
 美月の大声が、静寂の昇降口に響き渡る。
「さっきだって、嘘までついて、わざわざ梨緒ちゃんのことかばいに行ったんでしょ?」
 わずかな間があった。
 美月のその真摯な眼差しに、秀平はためらいを見せる。
「……波多野には関係ないだろ」
「言うまでここ通さないから!」
 さまざまな想いが交錯する。
 秀平の口から、長い長いため息がもれた。背後にいる類と梨緒子をわずかに振り返り、もう一度大きなため息をついてみせる。

「……安藤の言うとおりだよ。あの写真の一件はたまたまじゃない」
「永瀬、お前――」
 類がようやく声を上げた。しかしそれもすぐに途切れてしまう。
 秀平は続けてゆっくりと、そしてハッキリと言い切った。

「江波だったから、抱き締めた」

 類は唖然としたまま、秀平の背中を凝視している。
 一方の秀平は、類と梨緒子に背中を向けたまま、目の前に立ちはだかっている美月に向かって、無機質な声で言い放った。
「これで満足か? 波多野」
 秀平は返事も待たず、美月の制止を強引に振り切って、生徒昇降口を足早に出て行った。

 偽りの均衡が、音もなく崩れていく。

「もう、そこまで言ったんなら最後まで言えばいいじゃない! ……永瀬くんって、ホント掴み所がないんだから!」
 美月の叫ぶ声が生徒昇降口に響き渡る。
 類がようやく、傍らの梨緒子を振り返った。
 二人はしばらくの間何も言わず、お互いただ見つめ合っていた。
 そこにあるのは怒りでも悲しみでもない、ただ大きな虚無感だけ――。