文句あるか!

 放課後の生徒昇降口は、緊迫した様相を呈していた。

 彼氏の類が、愕然とした表情で梨緒子を見下ろしている。呼吸が震え、乱れているのがはっきりと伝わってくる。怒りを通り越して呆れ果て、どういう反応をすればいいのか分からないようだ。
「……ルイくん、私」
「リオ……嘘だろ…………リオ」
 取り返しのつかないところまで来てしまったのだ――大きな犠牲を払ってしまったことに、梨緒子の心は激しく痛む。
 そのときである。
「梨緒ちゃん、早く追っかけて!」
 親友の叫び声に、梨緒子は我に返った。
「美月ちゃん……でも」
 こんな状態では、とても秀平を追いかけることはできない。
 ぐずぐず迷っていると、美月に無理矢理腕を掴まれ、背中を押された。
「でも、じゃない! 早く! 永瀬くんの気持ちを無駄にしないで! 梨緒ちゃん!」
 手遅れになる前に。
 ためらっている時間はない。
「あとで、あとでちゃんと説明するから、ルイくん! 約束する!」
 梨緒子は自分の意思で一歩また一歩、類から遠ざかるようにして離れていく。
 しかし。
 類から言葉が返ってくることはなかった。



 秀平は、学校の正門へと続く並木の、ちょうど中ほどを歩いていた。
 梨緒子は懸命に彼の背を追いかけ、息を切らしながら、肩から提げている秀平のカバンを軽く引っ張った。
「待って、秀平くん!」
 秀平は振り返り、その場に立ち止まった。そして、すっかり息の上がっている梨緒子を、黙って眺める。
 涼しい秋の風が、二人の間を穏やかに吹き抜けていく。
 秀平は梨緒子の足元に一瞥をくれた。
「内履きのままだよ」
 そう指摘されて、梨緒子は気が動転していたあまり、土足のまま飛び出してきたことに気がついた。
「あっ……ホントだ。いますぐ履き替えてくるから、ここで待ってて!」
「いいよ別に。波多野たちと帰れば?」
「秀平くん……そんな」
 なんという無慈悲な言葉を、彼は投げかけるのだろうか――。
 絶句する梨緒子に、秀平はくるりと背を向けた。
「全部本当の事だから。勉強以外の目的で大学を目指すのは困るのも、確かだし。もっとちゃんとして――だって。言ってる意味が分からないよ。それは俺が逆に、みんなに言いたいことだ」
 類に言われた言葉と、美月に言われた言葉に、秀平の心は少なからずの衝撃を受けているようだ。その証拠に、寡黙なはずの秀平がいつになく落ち着きなく喋りまくっている。
 そんな秀平の背中に向かって、梨緒子は心の底から謝った。
「嫌な思いさせちゃって、ゴメンなさい。本当に……ゴメンなさい」
 長い沈黙が二人の間にあった。
 背を向けていた秀平が、ようやく梨緒子を振り返った。
 しっかりと目と目を合わせ、秀平はゆっくりと口を開いた。
「安藤を怒らせたみたいだな。……悪かった。江波を困らせるつもりはなかったんだけど」
 先ほどの昇降口での一件を言っているらしい。
 彼氏の安藤類を怒らせて、困ることになるのは他でもない、彼女である梨緒子なのだと――そんな秀平の気遣いが、聞いてとれる。

 困る。確かにそうかもしれない。
 しかし、それ以上のモノの存在に、秀平は気づいていないようだ。

「なんか、嬉しかった」
「嬉しい? 何が?」
 秀平はかすかに眉を寄せ、綺麗な瞳を数度瞬かせた。
 梨緒子の言葉の意味が、彼には良く分からないようだ。
「自分の彼女のこと信じてやれって、そう言ってくれたこと」
「別に当たり前のこと言っただけだろ。お互いのこと信じられないなら、付き合う意味なんてない」
 どうしてこんなにも真っ直ぐなのだろう。梨緒子は透き通った秀平の眼差しを、いとおしく受け止める。
 ふと。
 梨緒子は、彼の兄である家庭教師の優作の言葉を思い出した。

【――秀平は純粋なうえに頑固なほど真っ直ぐだから、浮気の心配とかはしなくてもいいと思うよ、きっと】

 そういうことなんだ――梨緒子は妙に納得し、思わず顔が綻んだ。
「なんで笑うの? 俺、おかしなこと言った?」
 笑われていると勘違いをしたらしい。秀平は訝しげに首を傾げてみせる。
 梨緒子は首を横に振った。そして、付け加えるようにして説明をする。
「秀平くんの彼女だったら、きっとすごく幸せなんだろうなー、と思って」
 瞬間。
 秀平が人形のように固まった。
 まるで、彼の周りだけ時間が止まってしまったかのように。
 切れ長の二重まぶたはさらに大きく見開かれ、じっと梨緒子を見下ろしている。
「そ、そんな固まらなくても! あくまで一般的な感想だから!」
 梨緒子は逆に焦ってしまった。
 秀平には自分の気持ちはとうに伝わっているはずで、このような反応が返ってくるとはまったくの予想外だった。

 もどかしい。
 追いつけない。
 手が届きそうで届かない。

 でも――この人が好き。

「私、秀平くんのこと追いかけるの、止めない! 秀平くんが困ろうが、そんなの関係ないから」
「……もう、追いかけなくていいよ」
 秀平は疲れたような諦めたような、そんな苦い顔でため息をついた。
「俺、帰る」

 駄目だ。ああ――。
 もう、終わりなのだと、梨緒子は悟った。
 いざこざを極度に嫌う彼を、修羅場に巻き込んでしまった。
 そう。
 すべては、自分の優柔不断が引き起こしたこと。

 ――もう、追いかけなくていい。もう……。



 彼が遠ざかっていく。
 ずっと背中を見送っていると、やがて秀平がはるか遠く、学校の正門付近で立ち止まった。
 引き返してくるわけでもない。ただ、こちらに背を向けたまま立っているだけだ。
 そのときである。
 梨緒子の携帯に着信があった。
 スカートのポケットから携帯を取り出し確認すると、ディスプレイには『永瀬秀平』という四文字が表示されている。
 梨緒子は急いでメッセージ確認の画面を開いた。

 送られてきた秀平のメッセージは、短い文章だった。


 件名:【追いかけるんじゃなくて】

 本文:【俺の側にいて。一緒に行こう、北海道へ。】


 一文字一文字、何度も目で追いかける。
 嘘。嘘。
 足先から頭のてっぺんまで痺れが走り、全身の感覚が麻痺し、身動き一つ取れない。
 梨緒子の両目から、次から次へと涙があふれて、止まらない。

 すぐに返事を送ろうにも、言葉が出てこない。
 追いかけようにも足がすくんでしまい、その場から動けない。
 秀平は最後まで振り返ることなく、そのまま正門の外へと出て行ってしまった。

 携帯の小さなディスプレイに表示された文字の羅列。無機質な言葉が、こんなにも人の心を打ち震わせる。
 もう、涙でぐしゃぐしゃだ。
 携帯を握り締めたまま、梨緒子は声を押し殺しながら泣いていた。
 この言葉をこんなにも欲していた自分に、梨緒子はようやく気がついた。
 あやふやな愛情表現なんかではない、確かな証。

 ――追いかけなくてもいいって、そういう意味? ……もう。

 この分かりにくさが、秀平なのである。
 孤高である彼の精一杯を、梨緒子はひしと噛み締める。

 俺の側にいて。
 一緒に行こう――北海道へ。

 こんな日が本当に来るとは、梨緒子は思ってもみなかった。
 いつも秀平を遠くから見て、勝手に憧れて、同じ大学を目指すと無謀なことばかり言って。
 梨緒子はしゃくりあげながら、震える指で返信の文字を打ち込んだ。
 いまの梨緒子の精一杯、それはたったの七文字。


 件名:【はい】

 本文:【頑張ります】




 梨緒子が内履きのまま、先ほど飛び出した昇降口へと再び戻ってきた。
 下駄箱の裏から、類と美月の声が聞こえてくる。
 どうやら向こうは、梨緒子が戻ってきたことに気づいていないようだ。
「どういうつもりだよ、美月」
「まだ分からないの? 梨緒ちゃんがどうしてルイと付き合い続けてるのか」
「なんだよ、それ……」
 梨緒子は足音を発てないようにして、下駄箱の陰に身をひそめた。
 類と美月の会話は続いている。
「浮気でも心変わりでもない。梨緒ちゃんの心はずっと永瀬くんにあったんだから」
「リオが俺じゃなく永瀬を好きなのは、最初から分かりきってた事だ。でもさ、いくらリオが好きでも、永瀬は――」
「梨緒ちゃんは永瀬くんのことしか見てないよ。それに、永瀬くんも――」
 親友はすべてを見通している。
「俺、リオのこと全然分かんねー。分かってやれねー。永瀬のヤツはもっと分かんねー。分かりたくもねー……」
「もう、充分でしょ? これ以上、梨緒ちゃんを苦しめないで。自由にしてあげて」
 沈黙が辺りを包んだ。美月の言葉に対しての、類の返事はない。
 梨緒子にだって分かっている。類がどんなに自分のことを大切に思ってくれているか。その想いの強さは、自分が一番よく知っている。

 無理矢理付き合っていたわけではない。
 自分で付き合うと決めて、ここひと月あまり、ともに時間を過ごしてきたのである。
 もちろん友情の延長上にすぎなかったが、それなりに楽しいこともあった。傷ついた梨緒子を明るく振る舞って慰めてくれたのは、すぐそこにいる類少年なのである。

 美月は淡々と類を説く。あえてそっけなく突き放すようにし、下手に同情の言葉をかけないところが美月らしい。
「自分のために言ってるんじゃないから。梨緒ちゃんのために言ってるんだから」
「……根に持ってんな、お前」
 類は深々とため息をついた。そして、半ば投げやりに、力の抜けたな弱々しい声を発する。
「分かったよ。美月の言う通りにすればいいんだろ? けど、あとで泣くのはリオだぞ?」
 下駄箱の陰で、梨緒子は身が引き絞られるような痛みを覚えた。
 息苦しさのあまり、喉の奥から声が出てしまいそうになったが、それを必死にこらえた。
「いままでもそうして永瀬に泣かされてきたんだ。そんなリオ、俺は何度も見てる」
「ルイ……」
「永瀬のヤツに振り回されて泣くリオなんて、もう見たくねえんだよ……」
 最後のほうは震えていて、よく聞き取れない。
 この場所から類の表情はうかがい知ることはできないが――おそらく。
 梨緒子の予想を裏付けるかのように、美月がなだめるように類に問いかけた。
「ほら、ハンカチ貸してあげる。ルイ……あんた、そんなに梨緒ちゃんのこと好きだったんだ?」
「なんだよ、文句あるか!」
 梨緒子はじっと身をひそめながら、涙にくれる元彼の少年と、傷心の彼に恋する親友の会話を、いたたまれぬ思いで立ち聞いていた。
 同時に、どんなことがあっても、孤高の彼・永瀬秀平と一緒に幸せになる――幸せにならなくてはいけないのだと、梨緒子は思った。