喜んで。
放課後の図書館は、梨緒子にとって特別な空間だ。
特別な空間になった、と言うべきだろうか。
数学の問題集とノートと教科書と参考書。目一杯机の上に広げて、ひたすら問題とにらめっこする。
数字と記号の羅列にめまいを起こしそうなほどである。
「2問目と4問目、あと8問目も違ってる」
耳元で彼の声がする。永瀬秀平という学校イチの秀才の彼が、梨緒子の隣でノートを覗き込むようにして見ているのだ。
ここは図書館。大声での私語は禁止されている。
だから秀平は梨緒子の耳元まで寄って喋っている。それは梨緒子にだって分かっている。
しかし、この距離では。
「見られてるとね、何だか緊張しちゃうんだけど」
「……」
でも秀平は止めようとしない。腕と腕が触れ合う寸前まで身体を近づけてくる。
「だから、緊張するからあっち向いてて欲しいなー」
「何で緊張してるの?」
「何でって……」
梨緒子が口ごもると、秀平は不思議そうに端整なたたずまいの顔をわずかに傾けてみせる。
「怖がらせるようなこと、別にしてないけど」
付き合い始めると変わるかと思っていたが――いや、これでも変わったのかもしれないが、やはり普通の生徒から比べると、その恋愛温度はまだまだ低い。
「じゃあ、秀平くんは平気なの?」
自分だけ緊張してときめいているのは何だか悔しい。梨緒子は勇気を出して彼に仕掛けていくことにした。
問題集の開かれているページの下部に、難易度の高いマークのついた問題がある。梨緒子はそれを秀平のほうへ向けてやった。
「ここの数学の証明問題、解いてみて。私、秀平くんのこと見てるから」
秀平は軽くため息をついた。とりあえず梨緒子の要請に応じる気になったらしい。シャープペンを取り、ノートに猛然と文字を書き綴っていく。
梨緒子はわざと秀平の横顔を間近で見つめた。
緊張する。でも、負けたくないという気持ちもある。
すると。
秀平が最後の一行を書く直前で、参った、というようにわずかに表情を崩した。
「ほらー、やっぱり緊張するでしょ?」
「緊張はしてないよ。江波の鼻息が荒くて、可笑しかったんだ」
「鼻息?? そんなことないよ、もう!」
梨緒子は頬を膨らませ拗ねてみせる。
そんな梨緒子の反応が楽しくて仕方がないらしい。秀平はさらに表情を緩ませ、笑顔を見せた。
「冗談だよ。シャンプー変わったな、と思って」
「……え? しゃんぷー??」
確かに秀平の言う通りなのであるが――。梨緒子は合点がいかず、秀平の顔をしばし見つめた。
「前のより甘い匂いがする」
謎が謎を呼ぶ。
前のより。そう言うからには、比較対象となるものを知っているということになる。
だが、しかし。
最近はともかく、以前そんなに近くにいたことあっただろうか。
梨緒子は素直に疑問をぶつけた。
「ねえ、何で分かるの?」
「……」
秀平が固まった。頭の中でいろいろなことを思い巡らしているようだ。
「北海道で――」
今年の夏に、お互いの兄と四人で別荘に泊まったときのことを言っているのだと、梨緒子には分かった。
――そう言えば、あの時……そういうことか。
「あっ、天の川見てたとき――ね」
秀平に抱き締められた感触をリアルに思い出し、気恥ずかしくなってしまう。
そのときに、秀平は梨緒子の髪の香りを覚えた、ということなのだろう。梨緒子は一人納得した。
しかし、秀平は首を横に振った。
「いや……江波がさ」
長い長い沈黙があった。
すぐ傍の書架と書架の間を、見知らぬ生徒が本を探しに通っていく。過ぎ去るのを待ってから、秀平はさらりと言った。
「俺の前に風呂に入ってただろ。だから」
今度は梨緒子が固まった。
自分が入浴したあとの、お風呂場の残り香――。
「な、な、なーっ??」
全身の血が逆流し、そのすべてが顔に集まっていくような感覚を覚える。顔から火が出るという例えを、梨緒子は身を持って体験してしまう。
秀平は平然と人差し指を唇に当て、一人興奮する梨緒子の大声を諌めた。
「いいから早く、時間がもったいないから」
「はーい……」
梨緒子の動悸は簡単には収まらない。
決して慣れることはない。
――秀平くんって、結構こういうこと、言うよね……。
付き合うことになる前から秀平は、髪の毛を触った感触やぶつかったときの衝撃をストレートに口にしては、梨緒子をノックアウトしていた。
計算なのか無意識なのか。対処に困ってしまう。
彼が梨緒子を恋愛対象として見てくれているからだと思うと、梨緒子の緊張感はどんどん膨らんでいってしまう。
「そこ違う」
わずかなミスも逃さない。すぐに秀平のチェックが入る。
「ゴメンなさいっ!」
慌てて消そうと、梨緒子は消しゴムに手を伸ばした。
しかし、焦るあまり手が滑って、消しゴムが秀平のほうへ飛んでいく。すると何故か秀平は、自分の使っている消しゴムを梨緒子に差し出してきた。
「いいから先、続けてて」
秀平は飛んできた梨緒子の消しゴムを手にとり、何やらいじり始めた。
外側のケースを外し、何かを描いているらしい。
「……ねえ、何描いてるの?」
「似顔絵」
秀平は左手で覆うようにして、作業の詳細を見せようとしない。
その子供っぽい仕草に、梨緒子は思わず目を瞠った。
じっと見惚れていると、秀平はクールに一瞥をくれた。
「ほら早く続けて、時間がもったいないから」
「はい……」
再び問題を解き始める。頭の中から公式を引っ張り出してきて当てはめていく。
ゆるやかな放課後のひとときだ。
秀平が自分の隣に座って。
彼女の勉強を見ながら、自分も勉強して。ときに雑談も交わして。
そう、彼女――。
彼の彼女にだけ与えられる特権なのだ。
秀平は無言で梨緒子の消しゴムを紙のケースにしまうと、そのまま梨緒子のペンケースに無造作に投げ込んだ。ファスナーの開いている部分にしっかりと収まる。
さすがコントロール抜群だ――梨緒子は感心した。自慢の彼氏は何をやらせてもソツがない。
「それ。中、見たら駄目だから」
「何で? 似顔絵だって言ってたじゃない。見せて」
梨緒子がペンケースの中の消しゴムに手をかけようとすると、
「おまじないの効果なくなるから、駄目」
「だって秀平くん、おまじないとかそういうの、信じないんじゃなかったの?」
「俺は信じないけど……江波は信じてるんだろ。だから、江波のためのおまじない」
そう言うと、秀平は図書館の大きな壁掛け時計に視線をやった。
「それよりさ、そろそろ時間なんじゃない?」
「あ、ホントだ! どうしよ、間に合うかな? ごめん、それじゃ帰るね」
これから家庭教師との個人授業が待っている。梨緒子は慌てて荷物をまとめると、一人残る秀平に背を向けた。
急いでいるとは言ったものの――。
梨緒子は図書館を出てすぐ、カバンからペンケースを取り出した。
秀平がいったい何を描いたのか。
おまじないの効果よりも、好奇心のほうがはるかに勝ってしまう。
それにあの秀平の口ぶりでは、自分の目の前では見ないで、と遠回しに告げているように思えた。
そんなに画力に自信がないのだろうか。そんなに恥ずかしがらなくてもいいのに――梨緒子は思わず笑ってしまう。
ペンケースの中に鎮座している消しゴムを取り出し、外側の紙ケースをゆっくりと外すと。
そこに描かれていたものは――。
梨緒子は絶句した。
――そりゃあ、確かにお風呂場でのこと想像して、赤面してたけど!
赤のボールペンで塗りつぶされた大きな丸に、ヘタのようなものが描かれている。
それは、真っ赤な野菜の代表格。
――これが似顔絵なんて……もう……もう!
動揺収まらずに、消しゴムをケースにしまいこむのも忘れて、そのままペンケースの中に投げ込んだ。
ふと気づく。
トマトが描かれた裏面に、青のボールペンで書かれた言葉――。
『香りも好き』
息が止まった。心臓の鼓動が脳天まで響く。
秀平の似顔絵に近い状態まで、完全に戻ってしまった。
いまの自分は、確かにトマトだ。
――香り『も』。
たったの五文字。
秀平は相変わらず短い言葉で、梨緒子の心を狂わせる。
「喜んで、いいんだよね? これって」
新しい消しゴムを買って帰らなくちゃ――梨緒子は今度は丁寧にケースにしまい、水色のはちまきと同じく制服の内ポケットへ、それを収めた。
特別な空間になった、と言うべきだろうか。
数学の問題集とノートと教科書と参考書。目一杯机の上に広げて、ひたすら問題とにらめっこする。
数字と記号の羅列にめまいを起こしそうなほどである。
「2問目と4問目、あと8問目も違ってる」
耳元で彼の声がする。永瀬秀平という学校イチの秀才の彼が、梨緒子の隣でノートを覗き込むようにして見ているのだ。
ここは図書館。大声での私語は禁止されている。
だから秀平は梨緒子の耳元まで寄って喋っている。それは梨緒子にだって分かっている。
しかし、この距離では。
「見られてるとね、何だか緊張しちゃうんだけど」
「……」
でも秀平は止めようとしない。腕と腕が触れ合う寸前まで身体を近づけてくる。
「だから、緊張するからあっち向いてて欲しいなー」
「何で緊張してるの?」
「何でって……」
梨緒子が口ごもると、秀平は不思議そうに端整なたたずまいの顔をわずかに傾けてみせる。
「怖がらせるようなこと、別にしてないけど」
付き合い始めると変わるかと思っていたが――いや、これでも変わったのかもしれないが、やはり普通の生徒から比べると、その恋愛温度はまだまだ低い。
「じゃあ、秀平くんは平気なの?」
自分だけ緊張してときめいているのは何だか悔しい。梨緒子は勇気を出して彼に仕掛けていくことにした。
問題集の開かれているページの下部に、難易度の高いマークのついた問題がある。梨緒子はそれを秀平のほうへ向けてやった。
「ここの数学の証明問題、解いてみて。私、秀平くんのこと見てるから」
秀平は軽くため息をついた。とりあえず梨緒子の要請に応じる気になったらしい。シャープペンを取り、ノートに猛然と文字を書き綴っていく。
梨緒子はわざと秀平の横顔を間近で見つめた。
緊張する。でも、負けたくないという気持ちもある。
すると。
秀平が最後の一行を書く直前で、参った、というようにわずかに表情を崩した。
「ほらー、やっぱり緊張するでしょ?」
「緊張はしてないよ。江波の鼻息が荒くて、可笑しかったんだ」
「鼻息?? そんなことないよ、もう!」
梨緒子は頬を膨らませ拗ねてみせる。
そんな梨緒子の反応が楽しくて仕方がないらしい。秀平はさらに表情を緩ませ、笑顔を見せた。
「冗談だよ。シャンプー変わったな、と思って」
「……え? しゃんぷー??」
確かに秀平の言う通りなのであるが――。梨緒子は合点がいかず、秀平の顔をしばし見つめた。
「前のより甘い匂いがする」
謎が謎を呼ぶ。
前のより。そう言うからには、比較対象となるものを知っているということになる。
だが、しかし。
最近はともかく、以前そんなに近くにいたことあっただろうか。
梨緒子は素直に疑問をぶつけた。
「ねえ、何で分かるの?」
「……」
秀平が固まった。頭の中でいろいろなことを思い巡らしているようだ。
「北海道で――」
今年の夏に、お互いの兄と四人で別荘に泊まったときのことを言っているのだと、梨緒子には分かった。
――そう言えば、あの時……そういうことか。
「あっ、天の川見てたとき――ね」
秀平に抱き締められた感触をリアルに思い出し、気恥ずかしくなってしまう。
そのときに、秀平は梨緒子の髪の香りを覚えた、ということなのだろう。梨緒子は一人納得した。
しかし、秀平は首を横に振った。
「いや……江波がさ」
長い長い沈黙があった。
すぐ傍の書架と書架の間を、見知らぬ生徒が本を探しに通っていく。過ぎ去るのを待ってから、秀平はさらりと言った。
「俺の前に風呂に入ってただろ。だから」
今度は梨緒子が固まった。
自分が入浴したあとの、お風呂場の残り香――。
「な、な、なーっ??」
全身の血が逆流し、そのすべてが顔に集まっていくような感覚を覚える。顔から火が出るという例えを、梨緒子は身を持って体験してしまう。
秀平は平然と人差し指を唇に当て、一人興奮する梨緒子の大声を諌めた。
「いいから早く、時間がもったいないから」
「はーい……」
梨緒子の動悸は簡単には収まらない。
決して慣れることはない。
――秀平くんって、結構こういうこと、言うよね……。
付き合うことになる前から秀平は、髪の毛を触った感触やぶつかったときの衝撃をストレートに口にしては、梨緒子をノックアウトしていた。
計算なのか無意識なのか。対処に困ってしまう。
彼が梨緒子を恋愛対象として見てくれているからだと思うと、梨緒子の緊張感はどんどん膨らんでいってしまう。
「そこ違う」
わずかなミスも逃さない。すぐに秀平のチェックが入る。
「ゴメンなさいっ!」
慌てて消そうと、梨緒子は消しゴムに手を伸ばした。
しかし、焦るあまり手が滑って、消しゴムが秀平のほうへ飛んでいく。すると何故か秀平は、自分の使っている消しゴムを梨緒子に差し出してきた。
「いいから先、続けてて」
秀平は飛んできた梨緒子の消しゴムを手にとり、何やらいじり始めた。
外側のケースを外し、何かを描いているらしい。
「……ねえ、何描いてるの?」
「似顔絵」
秀平は左手で覆うようにして、作業の詳細を見せようとしない。
その子供っぽい仕草に、梨緒子は思わず目を瞠った。
じっと見惚れていると、秀平はクールに一瞥をくれた。
「ほら早く続けて、時間がもったいないから」
「はい……」
再び問題を解き始める。頭の中から公式を引っ張り出してきて当てはめていく。
ゆるやかな放課後のひとときだ。
秀平が自分の隣に座って。
彼女の勉強を見ながら、自分も勉強して。ときに雑談も交わして。
そう、彼女――。
彼の彼女にだけ与えられる特権なのだ。
秀平は無言で梨緒子の消しゴムを紙のケースにしまうと、そのまま梨緒子のペンケースに無造作に投げ込んだ。ファスナーの開いている部分にしっかりと収まる。
さすがコントロール抜群だ――梨緒子は感心した。自慢の彼氏は何をやらせてもソツがない。
「それ。中、見たら駄目だから」
「何で? 似顔絵だって言ってたじゃない。見せて」
梨緒子がペンケースの中の消しゴムに手をかけようとすると、
「おまじないの効果なくなるから、駄目」
「だって秀平くん、おまじないとかそういうの、信じないんじゃなかったの?」
「俺は信じないけど……江波は信じてるんだろ。だから、江波のためのおまじない」
そう言うと、秀平は図書館の大きな壁掛け時計に視線をやった。
「それよりさ、そろそろ時間なんじゃない?」
「あ、ホントだ! どうしよ、間に合うかな? ごめん、それじゃ帰るね」
これから家庭教師との個人授業が待っている。梨緒子は慌てて荷物をまとめると、一人残る秀平に背を向けた。
急いでいるとは言ったものの――。
梨緒子は図書館を出てすぐ、カバンからペンケースを取り出した。
秀平がいったい何を描いたのか。
おまじないの効果よりも、好奇心のほうがはるかに勝ってしまう。
それにあの秀平の口ぶりでは、自分の目の前では見ないで、と遠回しに告げているように思えた。
そんなに画力に自信がないのだろうか。そんなに恥ずかしがらなくてもいいのに――梨緒子は思わず笑ってしまう。
ペンケースの中に鎮座している消しゴムを取り出し、外側の紙ケースをゆっくりと外すと。
そこに描かれていたものは――。
梨緒子は絶句した。
――そりゃあ、確かにお風呂場でのこと想像して、赤面してたけど!
赤のボールペンで塗りつぶされた大きな丸に、ヘタのようなものが描かれている。
それは、真っ赤な野菜の代表格。
――これが似顔絵なんて……もう……もう!
動揺収まらずに、消しゴムをケースにしまいこむのも忘れて、そのままペンケースの中に投げ込んだ。
ふと気づく。
トマトが描かれた裏面に、青のボールペンで書かれた言葉――。
『香りも好き』
息が止まった。心臓の鼓動が脳天まで響く。
秀平の似顔絵に近い状態まで、完全に戻ってしまった。
いまの自分は、確かにトマトだ。
――香り『も』。
たったの五文字。
秀平は相変わらず短い言葉で、梨緒子の心を狂わせる。
「喜んで、いいんだよね? これって」
新しい消しゴムを買って帰らなくちゃ――梨緒子は今度は丁寧にケースにしまい、水色のはちまきと同じく制服の内ポケットへ、それを収めた。