怒ってんの?

 梨緒子は慎重に、目の前の男の態度をうかがっていた。
 いつもと変わった様子はない。
 特に変わった点といえば――三日前まで半袖だったシャツが、今日長袖になった。そのくらいである。
 『彼』とはまったく似ていないその容貌も、長く時をともに過ごすにつれて、どことなく雰囲気が類似していることに気づかされる。
 それはきっと、彼らが同じ両親を持ち、そして同じ屋根の下で暮らしているためなのだろう。

 先ほどから優作は、梨緒子の解いた問題を添削している。
 その赤ペン捌きには迷いがない。
 梨緒子はペン先の軌跡をしばらく眺めていたが、やがて決心し息を吸い込むと、胸にため込んでいたものをようやく吐き出した。
 緊張の瞬間だ。
「ひょっとして優作先生、……秀平くんから聞いた?」
「ん? 何を?」
 その反応には、まるで不自然さはない。赤ペンを置きテーブルに肘をつくと、不思議そうにして、真っ直ぐと梨緒子の顔を見つめてくる。
「あの、いや……聞いてないなら、別にいいんだけど」
 それ以上のことを、わざわざ自分の口から告げるのは、梨緒子にはためらわれた。
「そういえば……」
 優作が何かを思い出したように、ゆっくりと首を傾げた。
 梨緒子の緊張感は、再び高まる。
「何? そういえば何?」
「秀平、確か一昨日だったかな。梨緒子ちゃんの成績のこと、僕にいろいろ聞いてたよ」
「……私の成績?」
 梨緒子は安堵し、同時にガッカリもした。
 二人が付き合い始めたことを、秀平は大っぴらにしたくないのかもしれない。
 もう九月。受験生にとって追い込みの時期だ。恋愛で一喜一憂している場合ではない――のかもしれない。
 優作は淡々と続けた。
「可能性はどのくらいなのかって聞かれたから、五分五分だって答えておいたよ」
「五分どころか三分もないでしょ? 下手すれば一分も」
「一分はあるよ。可能性がゼロなんてありえないから」
「一分しかないんでしょ?」
「一分はあるんだよ。そう考えたほうがいい」
 そう優作は言うものの、梨緒子を元気づけるために甘い評価をしているのだろう――梨緒子にはそう思えた。

 北大合格確実であろう『彼』と、崖っぷちにしがみついている自分と。
 到底、比較の対象にはならない。

 ふと、気づく。
 どうして優作は、再び自分が北大を目指すことにしたのが分かったのだろうか。
 優作自身がそうさせたがっていたのだから、大して不思議なことではない――が、しかし。

 元彼・安藤類との仲がこじれた一件も、優作や薫には話していなかった。おそらく、まだ仲良く付き合い続けていると思っているに違いない。
 そしてそれは、同級生たちを始めとする学校関係者も同じだ。
 ひょっとしたら、図書館に出入りする生徒の一部には疑問を持たれているかもしれないが――。

 優作はしみじみと呟くように言った。
「梨緒子ちゃんとは、何だか――長い付き合いになりそうだね」
 思わず呼吸が止まった。
 ショックを隠しきれない。
 現役合格は無理、と烙印を押されてしまったような、絶望的な気分になる。
「浪人したら……ってこと?」
「いいや。もっともっと」
 予想に反して、優作の表情は晴れやかだ。
「秀平から聞いてるかって、そういうことなんでしょ?」
「えっ……」
 油断していた。
 そして、優作の言わんとしていることが、梨緒子にはまだちゃんと理解できていない。
 そういうこと――って?
「あ、あの……」
「あいつは何も喋らないけど、まあ、伊達に兄弟長くやってないしね」
 完全に、この家庭教師は分かっている。
 鋭い。鋭すぎる。
「梨緒子ちゃん、永瀬家の人間になるかもしれないってことでしょ」
 絶句する梨緒子に構わず、優作は淡々と言ってのける。
 優作の言葉が素直に吸い込まれずに、もやもやと梨緒子にまとわりついていく。
「だって、二人が結婚したら、梨緒子ちゃんは僕の妹になる。そうでしょ?」
「け、結婚ーっ!?」
 梨緒子の素っ頓狂な声が、部屋中に響き渡る。
 一方の優作は、平然としたまま淡々と付け加えた。
「それに、二人に子供ができたら、僕の甥っ子か姪っ子になるし」
「こっ、こっ、子供ーっ!?」
 梨緒子の断末魔の叫び声が、今度は家中に響き渡る。
 きっと一階のキッチンで、母親が首を傾げていることだろう。しかしそんなことはいまの梨緒子にはどうでもいいこと。
 動揺のあまり呼吸が乱れ、気が遠くなり、目の前がかすんでいく。
「まかり間違ってそんなことになったとしても、何十年も先の話だから!」
「何十年って大袈裟な……二人とも今年で十八だし、あと五年もすれば全然ありうる話でしょ」
 全然考えもしていなかった。
 彼氏彼女として、一緒に学校から帰ったり、買い物したり、休みの日には遊園地に行ったり、そんな普通のデートを夢見ていた。
 いつも側には彼がいて、梨緒子のことを優しく見守っていてくれて。
 大学生になったら、ちょっと背伸びした恋愛もしてみたいと、思っていたことも確かだ。
 しかし。
 結婚だの子供だの――とても身近に感じられることではない。

 ――永瀬家の人間になるかも……だなんて。

「まあ、梨緒子ちゃんが秀平に愛想尽かして、心変わりしなかったらだけどね」
「そんなことあるわけないでしょ!」
「だったら。ずーっと僕のすぐ側にいることになる」

 秀平と結婚している自分の姿が想像できない。
 もし、もしも。
 結婚したら、江波梨緒子ではなくて、『永瀬』梨緒子になる――。
 そんな当たり前のことを考えただけで、頭の中は完全にパニック状態だ。

 ――そうなったら……「江波」って呼ばれるのも変だから、必然的に……。

 ふと大人になった秀平の姿を想像してみる。知的で精悍な彼の口から繰り出される、自分の妻の呼称。

 ――秀平くんが、梨緒子って! 私のこと梨緒子って呼んじゃったり!?

 乙女の妄想はとどまるところを知らない。
 梨緒子は問題集とノートを広げたまま、テーブルに頬杖ついて、想像をめぐらした。



 シンプルだけど二人で暮らすには充分な広さのある、とあるマンションの玄関で。
 夫はきれいに磨かれた革靴を履きながら、背に立つ妻に声をかける。

【梨緒子、今日の晩御飯は何?】
【秀平くんは何が食べたい?】

 妻は新米専業主婦だ。
 ピンクのエプロンがまだ板についていない。

【そうだな……梨緒子の作るものなら何でも】
【もう、そういう答えが一番ヤなんだから】
【期待してるよ。じゃあ、行ってきます】

 夫はそのまま立ち上がり、妻を一瞬だけ振り返ると、時間惜しんでそのままドアの外へと姿を消す。

【はーい……行ってらっしゃい】

 空しい思いを抱えて夫を見送ったのもつかの間、再び目の前のドアが開く。
 先ほど出て行ったばかりの夫の姿がそこにはあった。

【忘れ物した】

 珍しいこともあるものだ。
 切れ者で完璧主義の夫が、まさか忘れ物をするなんて――付き合いは長いが、妻も初めての経験だ。

【ええ何? 鍵? 書類? ケータイ?】
【これ……】

 夫はカバンを携えたまま、空いているもう片方の手を、妻の背中から腰に回して引き寄せる。
 妻は目の前に迫る夫の顔に驚き身を引こうとするも、しっかり抱き締められてしまっている。心の準備をする間もなく、夫の唇が妻の唇に重ねられ――。



「大丈夫? 梨緒子ちゃん」
 優作に心配そうに問いかけられ、梨緒子はようやく我に返った。
 そして、慌てて目の前に膨れ上がった妄想をかき消していく。
「いや。そんなことあるわけない! あって欲しくない! ううん違うの、あって欲しいのも確かだけど! でもまさかそんな……」
 明日顔を合わせたら、思い出してしまいそうだ。
 恋する乙女の妄想は、たくましすぎるのが難点だ。
「そうかー、あの秀平がなあ…………うーん、しかし大丈夫かな」
「大丈夫って?」
「いや、なんせ女の子と親しく口をきいたことがないような非社交的なヤツだから、初めての梨緒子ちゃんに独占欲とか嫉妬心とか、そういう部分をストレートにぶつけやしないかと思って、お兄さんはちょっと心配なんだよね」
「ど、独占欲……?」
 クールでいつも淡々としている秀平には、およそ似つかわしくない言葉だ。
「なんかあったら、すぐに僕に教えてね」
 優作が心配するその真意は読み取れないが、それは秀平が真っ直ぐであるということの証ではないか――梨緒子にはそう思えた。



 まだまだ平穏な毎日とは言い切れない。
 学校では、修羅場の出来事がいまだ後を引いている。

 美月が気をつかって、類と梨緒子を引き合わせないようにしてくれているらしい。教室にいるときは、類は仲のいい男友達と過ごすことが多かったし、美月はしっかりと梨緒子に張り付いて、類を寄せ付けようとしなかった。
 秀平はいつものとおり、淡々と授業を受けるだけで、休み時間には一人でどこかへ消えていく。

 クラスメートたちは、類と梨緒子が仲違いをしているのではないか、と勘繰るものも出ていた。しかし、さすがに秀平と梨緒子が付き合い始めていることには気づいていないようだ。
 いつみんなにばれるのだろう――梨緒子は気が重かった。

 ため息混じりに生徒昇降口までやってくると、背後から声をかけられた。
「おっす、リオ!」
 振り向いた先にいたのは――。
「え……あ……、お、おはよう」
 安藤類少年だった。
 いつもと変わらない明るい声で、梨緒子に挨拶をしてくる。
 一瞬、時間が巻き戻ったのではないかという錯覚に陥ってしまう。
「もっと普通にしろよ。挨拶もすんなってか?」
 その苦々しいひと言で、たちまち現実に引き戻された。
「ルイくん……」
「とってつけたような言い訳だったら、聞きたくないから」
 そのときである。
 二人のクラスメートである、前田という男子が登校してきた。調子のいい人懐っこい笑顔で、通り過ぎさまに声をかけていく。
「お、安藤夫妻ーっ。どうしたそんな見つめ合っちゃって。朝から仲のよろしいことでー」
「そんなんじゃねーよ。たまたまここで会ったんだよ」
 安藤夫妻。
 そうからかうクラスメートを上手くかわし、類は当らず触らずの対応をしてみせた。
 前田少年はすぐに教室のほうへと歩き去っていく。
 類は前田を見送りながら、肩をすくめた。
「まあ、あいつらもいずれ気づくだろ。こっちからわざわざ言うのもなんか変だし」
 重い。えもいわれぬ罪悪感が、梨緒子の心に重くのしかかる。
 いずれ気が付くその日まで――。
「それに付き合ってたって言っても、俺が勝手に振り回してただけだしな」
「それは違う」
 梨緒子は力強く首を横に振った。
「私は振り回されてなんかないよ。むしろ私のほうがルイくんを……」
「そんな言い方止めてくれよ。俺がミジメだろ」
 そう。
 それではまるで、梨緒子が類の気持ちを弄んだかのような――そう思うことが逆に、類をどんなに苦しめるか。
 梨緒子はそのことに、ようやく気づいたのだ。
「私ね、ルイくんが側にいてくれて、本当に良かったと思ってる」
 類少年の両瞳が、わずかに大きく見開かれた。


 二人が下駄箱の前で立ち話をしているところへ、一人の女子生徒が登校してきた。
「梨緒ちゃん、おはよう」
「あ、美月ちゃん」
 梨緒子も類も、よく知っている人物だ。波多野美月である。
 もちろんこの異様なシチュエイションを、彼女が見逃すはずもない。
「……何やってるの、ルイ?」
 泣きそうになっている梨緒子を見つけ、美月は訝しげな眼差しを類に向けた。
「何って、別にクラスメートに挨拶してただけだろ」
「私……先行ってるね」
 梨緒子はその場の雰囲気に耐えられなくなり、逃げるようにしてその場をあとにした。


 深々とため息をつく類を、美月は同情込めた眼差しで見上げた。
「ひょっとして……まだ怒ってんの?」
「怒ってねえよ。つーか、惚れ直したかも」
「……え」
 言葉を失い立ち尽くす美月をその場に残し、類は一人悠々と教室へ向かって歩き出した。