絶対行く!

 九月の後半は、テスト尽くしだ。
 今日と明日の二日間は夏休み明けの実力テスト、来週末には全国統一の模擬試験が予定されている。
 実力テスト一日目の今日、午前三教科午後二教科の計五教科を終え、生徒たちは早々と帰宅の途についている。
 明日は、残りの四教科。
 生徒は皆、テスト勉強一色である。



 午後三時半。校内はすでに閑散としていた。
 実力テストは全学年共通のため、どの部活動も休止となっている。

 梨緒子は帰宅せずに、真っ直ぐ図書館へと向かった。
 図書館には数人の生徒と、カウンターに司書担当の職員が残っているだけだった。
 今日の閉館は午後四時半――そう書かれたプレートが、カウンターの上に置かれている。
 いつもより二時間早い。


 書架の奥のいつもの席に、秀平はいた。
 梨緒子が近づいていくと、彼は無言で隣の席のイスを引き、座る場所を指定する。
 ここへ。俺の側へ――そこに言葉は無い。
 言葉では言い表せないもどかしさが、二人の間には存在している。

 秀平と梨緒子は、友達として仲良くなり意気投合していくうちに、お互いのことを異性として意識し始めた、という付き合い方ではない。
 同級生として二年以上過ごしてきたものの、友達であるどころか、三年になるまでは会話すら交わしたことがなかったのである。
 そのため、お互いがお互いのことを異性として極端に意識している――梨緒子はそう感じていた。
 こうやって図書館で一緒に勉強をするようになってから、秀平の態度は随分と変わった。口数も増えたし、他人には見せない喜怒哀楽の表情も少しずつさらすようになった。
 ただ、彼の気持ちはいまひとつ掴みきれていない。もちろんはっきりと『好き』という意思表示もされているし、その言葉態度に嘘はないのだろう。
 しかし、それだけなのである。
 キスをしたことがあるといっても、それは付き合う前に不意にされたもので、いわば『事故』のようなものだった。
 付き合うようになってから、彼がそういったたぐいの素振りを見せることは皆無だ。人目のある図書館で毎日一、二時間過ごすだけなのだから、そういう雰囲気になるわけもないのだが――。


 時間はあっという間に過ぎていく。
 四時を過ぎたあたりで、秀平は突然、机の上に広げていた問題集やノートをまとめ始めた。
「もう終わり?」
 いつも自分のほうが先に帰っていたため、秀平が勉強を止めるところを梨緒子は初めて目にした。どうしてよいか分からずに、ひとり途惑ってしまう。

 ――えっと……私はどうすればいいんだろ。

 今日も家庭教師との授業がある。しかし予定は五時からだ。図書館の閉館時間までいても、その時間には充分間に合う。
 一人居残って勉強を続けるのも、彼に合わせてここで帰るのも、どちらも不自然な気がしてならない。
「江波……あのさ」
「うん? なあに?」
「俺、帰るけど」
 用事でもあるのだろうか――梨緒子は様々な考えをめぐらせた。
 聞きたい。でも聞けない。
 行動を束縛して面倒くさい女だ、と彼に思われることは、何としてでも避けたかった。
「あ、うん。分かったー」
 物分かりのいい彼女にならないと――彼を明るく送り出そうとそう心に決め、梨緒子は努めて明るい声を出す。
 それっきり、二人は黙ったままだ。お互いの気配を探りあう。
 彼にしては珍しく、名残を惜しむようにゆっくりとカバンに勉強道具をしまいこんでいる。
 静かだ。
 秀平が動くたびに揺れる空気の音さえ、聞こえてきそうな気がする。
 梨緒子は緊張を気取られぬよう、わざと勉強に没頭しているふうにノートに視線を落とした。
 とにかく書く。ひたすら解く。
 やる気のあるところを彼に見せなくてはいけない。

 秀平はようやく立ち上がりカバンを肩にかけると、梨緒子の背中越しに声をかけた。
「俺、帰るけど……江波さ――」
「あ、一人で大丈夫だよ。また明日ね」
「……」
 秀平は無言のまま踵を返した。
 背後の書架の合間に、彼の足音が遠ざかっていく。
 梨緒子は途端にやる気を失って、ノートの上にシャープペンを投げ出した。

 ――秀平くんがいないと、やっぱりつまんないな……。

「江波」
 突然背後から自分の名を呼ばれ、梨緒子は椅子から飛び上がった。
 椅子に座ったまま振り返ると、すぐ後ろに秀平がたたずんでいた。
 帰っていった足音が聞こえていたはずなのに、いつのまに戻ってきたのだろうか。梨緒子はまったく気づかなかった。
 油断しまくり、勉強も途中で投げ出してしまっている。
 慌ててシャープペンを握り直してみたものの、秀平にはだらけていたのが完全にバレてしまっていることだろう。
「びっ、びっくりしたー。忘れ物?」
「いや、忘れ物っていうか」
 その顔には笑顔がない。
 真っ直ぐ見つめてくる秀平の瞳に、迷いの色が映っている。
「どうかしたの?」
 対処に困るほどの沈黙が二人を包む。
 やはり、何か気に触ることでもしたのだろうか――梨緒子はここ数日の行動を必死に思い返す。
 秀平がようやく口を開いた。それを見て、梨緒子の心臓はひときわ高鳴る。
「だからさ、一緒に――帰りたいんだけど」
 梨緒子は唖然としたまま、憂うような秀平の顔を見上げていたが、やがて大きく脱力してしまった。
 彼が見せた一連の挙動不審の理由が、梨緒子はここへ来てようやく理解できたのである。

 孤高と呼ばれる彼が、誰かと連れ立って登下校などしたことがない、とはいえ。

【一緒に帰ろう】

 たったこれだけのことを言うだけなのに――梨緒子はこみ上げてくる笑いを押さえるのに必死だった。
「そんなに深刻な顔して言わなくちゃ、駄目なことなの?」
 梨緒子がちょっと冷やかすような笑顔を向けると、秀平は何も答えず澄ました表情で、ツイと顔をそむけた。
 この彼氏、遠回しなのにも程がある。
 しかし、なんだかすごく彼らしい、梨緒子はそう思った。



 秀平と梨緒子は中学が違う。
 学区は隣り合っているが、梨緒子の家と彼の家とはかなり距離があった。
 そのため、これまで一緒に帰るという話にはならなかったのである。

 秀平は、他の生徒がいる前で二人きりになるのが、好きではないようだった。
 人気の少ない図書館の書架の奥で、雑談を交わす程度の付き合い――ただそれだけでも、梨緒子は充分だった。
 今日はすでに大方の生徒が下校している。部活動で残っている生徒もいない。
 だから彼はこうやって、わずかな時間を共有しようと考えたのだろう。
 それが、梨緒子にはたまらなく嬉しかった。

 学校の正門を出て五分ほど歩くと、そこで二人は東西に分かれることとなる。
 つかの間のデート気分だ。
 秀平は静かだ。特に話題もない。
 図書館にいるときには、分からない問題を教えてもらうこともできるが、問題集もノートもない状態では、何を話題にしていいのかすぐに思いつかない。
 梨緒子の振る他愛もない話題に、「へえ」とか「そう」とか、気のない返事をするばかり。
 秀平に合わせて興味のありそうな話題を振りたくても、いまいちネタが思いつかない。
 すぐに分かれ道の交差点へと辿り着く。
「それじゃ、また明日ね」
 梨緒子は秀平に手を振った。
 しかし、秀平は梨緒子の家へと続く道へと曲がり、なぜか梨緒子の行き先へついて来る。
 不思議に思い、首を傾げていると。
「本屋に寄っていくから、いいんだ」
 梨緒子が尋ねるより先に、秀平がそう説明した。


 秀平はつかず離れずの距離を保ちながら、梨緒子の歩く速度に合わせてゆっくりと歩いている。
「江波、来週の模試のことなんだけど」
「あ、日曜日のやつね」
 秀平が自分から話題を振ってきた。やはり勉強のことだ。
「その模試で、全教科85点以上取ること。いい?」
「85点!? 無理だよ、そんなの……」
 梨緒子は素っ頓狂な叫び声を上げた。
 しかし秀平は、無慈悲なまでにそれを切り捨てる。
「無理なんて泣き言、言ってられないだろ」
「だって、85点以上って言ったら、900点満点の765点以上ってことでしょ?」
 梨緒子は必死に訴えた。
 いくら進学校とはいえ、梨緒子たちの通う高校で秀平が掲げた点数をクリアできるのは、二十人にも満たないに違いない。
「本当なら90点以上と言いたいところなんだけど――いまの江波の成績を考えると、妥協も必要だと思って」
「90点!? そんな点数取れるの、秀平くんくらいでしょ?」
 梨緒子の現在の平均点は、70点をかろうじて越えている程度だ。
 全教科の平均を15点も上げることなど、奇跡に近い。
 秀平の示したその目標の高さに、梨緒子はすでに気後れしていた。
「弱音を吐いてる場合じゃないだろ。点取らないと、合格できないんだから」
「それは、まあ、そうなんだけど……」
「朝起きてから夜寝るまで、時間を惜しんでちゃんと勉強して。分かった?」

 ――秀平くんって、こういう人だったんだなー……。

 静かに優しく微笑んで話を聞いてくれる――そんな想像は夢か幻か、脆くも崩れ去ってしまった。
 言葉を交わすようになってから、そしてさらに付き合うようになってから、そのイメージは勝手に創り上げた神話だったことに気づかされる。
 しかし、逆にそれが梨緒子の目には新鮮に映り、どんどん彼に惹き込まれていくのもまた事実だった。



 家に帰ると、すでに家庭教師は江波家のリビングでくつろいでいた。
「お帰りなさい、梨緒子ちゃん」
 勉強開始の五時までは、まだ余裕がある。
 梨緒子はさっそく、秀平の兄であるこの男に、すべてを打ち明けた。
 つい先ほど言われたばかりの無理難題を、どうしたものかと優作に相談する。
「――学校のテストならまだ範囲が決まってるからいいけど、模試で全教科85点以上は……はあああ」
 梨緒子の口から、思わず深いため息が出てしまう。
「それ、いつ言われたの?」
「ついさっき。ここまで一緒に帰ってきたから」
「わざわざ? 方角違うのに」
 優作は派手に驚いてみせた。
「こっちに用事があるって言ってたから、たまたまだよ」
「たまたまじゃないでしょ、それ」

 ――あれは、たまたまじゃない?

 確かに、どことなく不自然な気もした。
 しかし、一緒に帰ること自体、初めてのことだったのだ。
 そのため、こんなものなのだろう、と梨緒子は納得してしまったのである。
「言ったでしょ。独占欲が強いって。梨緒子ちゃんを何が何でも手放したくないんでしょ」
 優作はくしゃりと髪をかき上げながら、ひとつ大きなため息をついた。
 弟の行動に、不満げな表情をみせている。
「僕は感心しないけどね。結局、あいつは自分のことしか考えてないんだよね」
「優作先生?」
 梨緒子には、優作の言うことがよく分からなかった。

 秀平は自分のことをよく考えてくれる。
 だからこそ、勉強を頑張らせようとしてくるのだ。
 決して自分のことだけを考えてるとは、梨緒子にはどうしても思えない。

 疑問を浮かべる梨緒子に、優作はすぐに穏やかな笑顔を見せた。
「とりあえず80点を目指そうか。化学と生物と、あと数学を中心にね」
 無理する必要はないんだよ、そう家庭教師は言った。


 勉強開始の時間を迎え、梨緒子と優作は、いつものように二階へと移動した。
 センターテーブルを挟んで向かい合うようにして座ると、優作は思い出したように言った。
「そうだ、この間言ってた看護師一日体験のことなんだけど――」
「あ、あれね。ちゃんと先生に頼んだよ」
 優作に勧められてすぐに学校の先生に相談をし、梨緒子はもう参加を決めていた。
 梨緒子のほかにも、医療系の学部を目指す生徒数名が希望を出しているらしく、すんなりと話は進み、学校でまとめて申し込みをしてくれたらしい。
「でもさ、模試の前日なんだよね。梨緒子ちゃんそれでも行く?」
「絶対行く! ね、秀平くんにはまだ内緒にしてて。白衣着たところの写真撮ってね、あとで見せて驚かせたいから!」
 一人はしゃぐ梨緒子を見て、優作はあごの無精ヒゲを撫でさすりながら、いいよ、と穏やかに微笑んだ。
 はたして秀平は、どんな表情をみせるだろう――梨緒子はその日が来るのがいまから待ち遠しかった。