先約って……
金曜日の放課後、秀平と梨緒子はいつものように図書館の書架の奥で、二人そろって勉強をしていた。
秋分の日は目前、日が落ちるのは早い。
外がすっかり暗くなると、やがて図書館は閉館時間を迎えた。
いまだに秀平は、外が明るいうちは梨緒子と一緒に帰ろうとしない。他の生徒に見られて、騒がれるのが嫌なのであろう。
しかし、夜道を一人で歩かせないように彼なりに気をつかっているのか、秀平がこうやって梨緒子と一緒に帰ろうとする回数は、着実に増えてきている。
街灯に照らされた道を、二人は並んで歩き出した。
去年までは、秋が深まり日が短くなっていくのが寂しく感じられたが、今年は楽しくてしょうがない。
秀平が微妙な距離感を保って、いつでも自分の側にいる。それがとても心地いい。
「江波、明日の予定は?」
「明日? どうかしたの?」
明日は土曜日。学校は休みだ。
日曜日に模擬試験があるため、普段土曜日に行われている通常講習もない。
秀平にプライベートの予定を聞かれるのは、これが初めてだった。
「うちに勉強しに来ればどうかな、と思って」
「うちって……秀平くんの家?」
秀平の意外な誘いに、梨緒子は驚いた。
男の子の部屋に誘われたことなど、いままでに一度もない。
類と付き合っていたときでさえ、自宅の部屋を訪れることはなかった。類の性格からして見たら連れ込まれないのは不思議なのだが――それは単に『客を呼べるような状態ではない』という理由だったらしい。
兄の薫も、見た目は美女だがその部屋の散らかり具合は逆に感心してしまうほどだ。
そのため、梨緒子の中では、『男の部屋=汚い』という図式が成り立っている。
それにしても、彼の部屋へ――なんて。
彼の私生活を覗けるまたとないチャンスである。
――何かすごく、彼女っぽいかも。
秀平はどんなことを考えて、そのようなことを言ったのだろう。
彼の部屋に招かれるということは、当然二人っきりになるはずだ。
そして、そこは彼の領域。
普段はクールに澄ましている孤高の彼だが、それでも普通の男子高校生だ。
とりあえず秀平も、梨緒子と彼氏彼女という関係に収まっていることを認識しているだろうし、付き合う前とはいえ、抱き締められたりキスをされたり、そこまでは経験済みだ。
付き合うようになってから、そういったたぐいの接触がまだないことを考えると、もしかしたら――という予想が、梨緒子の頭の中一杯に広がってしまう。
――ひょっとして、そんなことに? …………ああ、でも。
明日は『高校生看護師一日体験』というイベントがある。
自分のナース姿を写真に収めて、ぜひ彼に見せてみたい――梨緒子にはそんな思惑があった。
「江波、どうする?」
「明日は……でも、ちょっと用事が」
「用事って、何?」
すかさず秀平が尋ねる。
梨緒子は悩んだ。
いまそのことを言ってしまうと、せっかく驚かせようと思っていた計画が、台無しになってしまう。
「えー……っと、ちょっと」
梨緒子の歯切れの悪い返事に、秀平は微かに眉をひそめた。納得のいかない苛立ちが、その表情の裏に隠されている。
どうやら、梨緒子が嫌がっていると勘違いしたらしい。
梨緒子は慌てて弁解をした。
「本当はね、行きたいの。だから……怒らないで?」
「別に怒ってなんかないけど」
怒っていないと口では言っているが、機嫌を損ねてしまったことは確かなようだ。秀平は梨緒子をつけ離そうと、その歩調を速めていく。
梨緒子も早足になって、なんとか頑張って食い下がった。
「嘘。私、分かるもん」
「エスパーじゃあるまいし」
「エスパーだもん。秀平くんがいま考えてること、当ててみせよっか?」
梨緒子はありったけの笑顔を、傍らの不機嫌な彼氏に向けてやる。
すると。
歩く速度が少し緩んだ。
秀平が見下ろすようにして顔をこちらに向けたのを見計らって、梨緒子はすかさず言った。
「目の前にいる女の子がとっても可愛いって、そう思った!」
「そんなのエスパーじゃなくても分かるだろ」
秀平の即答が返ってくる。
梨緒子は逆にたじろいでしまった。
「えっと、あ、そう……」
呆気にとられる顔を期待していたのだが――どうして真顔でさらりと、そんな返答ができるのだろうか。
気がつくと顔が熱くなっている。辺りが暗くなければ、赤面していることが秀平にばれていることだろう。
幾分機嫌を直したのか、秀平の声が優しくなった。
「……じゃあ、あさっては? 模試終わったあと、自己採点するから」
「秀平くんさえよければ、えーとね……ぜひ」
うん――とひと言だけ、秀平の声が暗闇の中に響いた。
翌日――。
とうとう『高校生看護師一日体験』の当日を迎えた。
梨緒子は土曜日の昼下がり、医大に附属する看護短大の建物にやってきた。
入り口のドアに、『会場』と書かれた大きな紙が貼り出してある。
梨緒子は入り口の前で、大きく深呼吸をした。
中へと進むと、受付らしきテーブルに学生と思しき男子二人が座っていた。
「うわー、久しぶり!」
「覚えてない?」
見覚えのある顔だ――梨緒子はすぐに分かった。
長身で体格のいい短髪の青年は、草津という名前。
色白でひ弱そうなインテリ文学青年は、白浜という名前。
温泉コンビと呼ばれていた、優作の大学の友人たちである。
「優作先生のお友達……ですよね。えっと、どうしてここに」
梨緒子の質問に、草津青年はテンション高く説明する。
「バイトバイト。土日の単発バイトは貧乏学生の基本だから。病院主催だから、結構バイト代もいいんだ」
一方の白浜青年は、受付の参加者名簿と照らし合わせ、梨緒子の名前をしっかりと確認する。
「はい、名札。へえ……えなみ、りおこちゃんか。看護師目指してるの?」
「ねえ、これ終わったらさ、俺たちと一緒にご飯食べに行かない? ここのバイト代でおごってあげるから」
草津と白浜は梨緒子の返事も待たずに、矢継ぎ早に誘い文句を繰り出してくる。
「え、ええ? でもそんな……」
まったく知らない人ではないとはいえ――接点となる優作もここにはいない。
さらに草津と白浜は、笑顔で梨緒子ににじり寄ってきた。
「大丈夫だって、ヘンなことしたりしないから」
「当たり前だってーの。じゃ、約束ねー」
梨緒子は返事もそこそこに、そそくさとその場を逃げ出した。
大学生たちの軽さには、とてもついていけない。
やはり優作は、特別なのだ――と梨緒子は思った。
予定通りの時間で、『高校生看護師一日体験』が始まった。
まずはオリエンテーションである。
スライドを見ながら、看護師の仕事の説明を受ける。
そのあと、念願の看護白衣に袖を通し、二人一組になって、隣接する大学附属病院の院内見学だ。
一階の総合案内付近は、患者とその家族でごった返している。
その中を、医師や看護師、検査技師らしき人々が忙しそうに動き回っている。
そして、普通の事務員らしき制服の人。
清掃サービスのユニフォームの人。
シーツや寝巻が大量に入ったカートを押している、リネン業者。
ときおり目にするアタッシュケースを携えたスーツ姿の人間は、医薬品メーカーの営業マンたちだろう。
病院という場所は、自分が考えているよりもずっとずっと大きい世界なのだ――梨緒子の目にはすべてが新鮮に映った。
そう遠くない未来に、優作はこの中を歩くのだろう。
たくさんの患者と多くの職員たちに囲まれて、人と人とのつながりを大切にし、医療の世界に力を尽くす――きっと優作なら、上手くやっていけるに違いない。
最後の二時間は、病棟で実際に患者について、身の回りの世話をすることになった。
廊下ではひっきりなしに医師や看護師が行き交い、患者の治療に当たっている。
患者の世話といっても、梨緒子たちを始めとする高校生たちは、邪魔にならないようにと、退院間近な患者の暇つぶしの相手を務めただけだった。
それでも、話を聞くことも大切な仕事なのだと、担当看護師は説明をしてくれた。
時間はあっという間に過ぎていった。
再び看護短大の建物へと戻り、最後に感想文を書いて、それを提出して終わりだ。
一緒に組んでいた子と、今回の記念にするため、互いの白衣姿をそれぞれの携帯のカメラにしっかりと収めた。
これが一番の目的だったりするのだが――梨緒子は大満足だった。
そして私服に着替え、イベントは無事終了した。
梨緒子は早々に帰ろうと、建物の玄関に向かった。
廊下を進み、最後の角を曲がるというところで梨緒子はいったん立ち止まり、そっと先を覗いた。
すると。
いまだ受付付近に、優作の友人たちがいた。しっかりと待ち伏せされている。
――どうしよう……さっきのって、冗談じゃなかったんだ。
困ったことになった。
梨緒子は見つからないように一旦引き返し、トイレの個室に入って携帯電話を取り出した。
しばらく考えた末、梨緒子が呼び出した相手は、兄の薫だった。
目的の人物はすぐに電話に出た。
『はい、何?』
「ねえ薫ちゃん、いまどこ?」
『どこって、家にいるけど』
「あのね、迎えに来て欲しいんだけど」
薫は妹の頼みをばっさりと切り捨てた。
『んな、弟くんに頼めばいいじゃん。何のための彼氏なのさ』
鋭いところを突いてくる。
しかし。
「だって……勉強してるところを邪魔したくないし」
第一、用事があるといって、秀平からの誘いを断ってしまっているのだ。迎えに来てほしいなどと、言えるはずもない。
『ていうか、まだ明るいんだから、歩いて帰ってこいよ』
それだけ言うと、薫は無慈悲にも電話を切ってしまう。
梨緒子は携帯を握り締め、大きくため息をついた。
梨緒子は覚悟を決め、建物の玄関へと再びやってきた。
やはり優作の友人たちは、梨緒子のことを待っているようだ。
そこはかとなく、気が重い。
梨緒子が受付まで歩いていくと、草津青年は無邪気に手を振った。
「あ、やっと来た。どう、楽しかった?」
「えっと、楽しかったです……」
梨緒子の不自然な笑顔がいっそう引きつった。
「んじゃ、打ち上げに行きますか!」
すぐそばにいた白浜青年が、パイプ椅子から腰を上げ、軽く伸びをした。
強引な展開だ。嫌な予感がどうにも拭えない。
梨緒子は一か八かで、大学生たちを振り切ろうとした。
「せ、先約があるので……あの、ごめんなさい」
「あー、ちょっと待った待った」
「そんな逃げなくてもー」
しかし。
一人ならともかく二人掛かりでこられると、振り切るのは容易ではない。
あっという間に両脇を固められてしまう。
絶体絶命。
「ひょっとして優ちゃんと約束? あ、そうでしょ!」
「なーんだ、だったら大丈夫! 研究室にいるはずだから、ささ、一緒に迎えに行こうよ」
「先約って……あー、ええと、はい……」
優作と約束などしていなかったが、ここで草津白浜の温泉コンビを強引に振り切る自信もなく――、流れに身を任せて優作の助けを借りようと、梨緒子は心に決めた。
秋分の日は目前、日が落ちるのは早い。
外がすっかり暗くなると、やがて図書館は閉館時間を迎えた。
いまだに秀平は、外が明るいうちは梨緒子と一緒に帰ろうとしない。他の生徒に見られて、騒がれるのが嫌なのであろう。
しかし、夜道を一人で歩かせないように彼なりに気をつかっているのか、秀平がこうやって梨緒子と一緒に帰ろうとする回数は、着実に増えてきている。
街灯に照らされた道を、二人は並んで歩き出した。
去年までは、秋が深まり日が短くなっていくのが寂しく感じられたが、今年は楽しくてしょうがない。
秀平が微妙な距離感を保って、いつでも自分の側にいる。それがとても心地いい。
「江波、明日の予定は?」
「明日? どうかしたの?」
明日は土曜日。学校は休みだ。
日曜日に模擬試験があるため、普段土曜日に行われている通常講習もない。
秀平にプライベートの予定を聞かれるのは、これが初めてだった。
「うちに勉強しに来ればどうかな、と思って」
「うちって……秀平くんの家?」
秀平の意外な誘いに、梨緒子は驚いた。
男の子の部屋に誘われたことなど、いままでに一度もない。
類と付き合っていたときでさえ、自宅の部屋を訪れることはなかった。類の性格からして見たら連れ込まれないのは不思議なのだが――それは単に『客を呼べるような状態ではない』という理由だったらしい。
兄の薫も、見た目は美女だがその部屋の散らかり具合は逆に感心してしまうほどだ。
そのため、梨緒子の中では、『男の部屋=汚い』という図式が成り立っている。
それにしても、彼の部屋へ――なんて。
彼の私生活を覗けるまたとないチャンスである。
――何かすごく、彼女っぽいかも。
秀平はどんなことを考えて、そのようなことを言ったのだろう。
彼の部屋に招かれるということは、当然二人っきりになるはずだ。
そして、そこは彼の領域。
普段はクールに澄ましている孤高の彼だが、それでも普通の男子高校生だ。
とりあえず秀平も、梨緒子と彼氏彼女という関係に収まっていることを認識しているだろうし、付き合う前とはいえ、抱き締められたりキスをされたり、そこまでは経験済みだ。
付き合うようになってから、そういったたぐいの接触がまだないことを考えると、もしかしたら――という予想が、梨緒子の頭の中一杯に広がってしまう。
――ひょっとして、そんなことに? …………ああ、でも。
明日は『高校生看護師一日体験』というイベントがある。
自分のナース姿を写真に収めて、ぜひ彼に見せてみたい――梨緒子にはそんな思惑があった。
「江波、どうする?」
「明日は……でも、ちょっと用事が」
「用事って、何?」
すかさず秀平が尋ねる。
梨緒子は悩んだ。
いまそのことを言ってしまうと、せっかく驚かせようと思っていた計画が、台無しになってしまう。
「えー……っと、ちょっと」
梨緒子の歯切れの悪い返事に、秀平は微かに眉をひそめた。納得のいかない苛立ちが、その表情の裏に隠されている。
どうやら、梨緒子が嫌がっていると勘違いしたらしい。
梨緒子は慌てて弁解をした。
「本当はね、行きたいの。だから……怒らないで?」
「別に怒ってなんかないけど」
怒っていないと口では言っているが、機嫌を損ねてしまったことは確かなようだ。秀平は梨緒子をつけ離そうと、その歩調を速めていく。
梨緒子も早足になって、なんとか頑張って食い下がった。
「嘘。私、分かるもん」
「エスパーじゃあるまいし」
「エスパーだもん。秀平くんがいま考えてること、当ててみせよっか?」
梨緒子はありったけの笑顔を、傍らの不機嫌な彼氏に向けてやる。
すると。
歩く速度が少し緩んだ。
秀平が見下ろすようにして顔をこちらに向けたのを見計らって、梨緒子はすかさず言った。
「目の前にいる女の子がとっても可愛いって、そう思った!」
「そんなのエスパーじゃなくても分かるだろ」
秀平の即答が返ってくる。
梨緒子は逆にたじろいでしまった。
「えっと、あ、そう……」
呆気にとられる顔を期待していたのだが――どうして真顔でさらりと、そんな返答ができるのだろうか。
気がつくと顔が熱くなっている。辺りが暗くなければ、赤面していることが秀平にばれていることだろう。
幾分機嫌を直したのか、秀平の声が優しくなった。
「……じゃあ、あさっては? 模試終わったあと、自己採点するから」
「秀平くんさえよければ、えーとね……ぜひ」
うん――とひと言だけ、秀平の声が暗闇の中に響いた。
翌日――。
とうとう『高校生看護師一日体験』の当日を迎えた。
梨緒子は土曜日の昼下がり、医大に附属する看護短大の建物にやってきた。
入り口のドアに、『会場』と書かれた大きな紙が貼り出してある。
梨緒子は入り口の前で、大きく深呼吸をした。
中へと進むと、受付らしきテーブルに学生と思しき男子二人が座っていた。
「うわー、久しぶり!」
「覚えてない?」
見覚えのある顔だ――梨緒子はすぐに分かった。
長身で体格のいい短髪の青年は、草津という名前。
色白でひ弱そうなインテリ文学青年は、白浜という名前。
温泉コンビと呼ばれていた、優作の大学の友人たちである。
「優作先生のお友達……ですよね。えっと、どうしてここに」
梨緒子の質問に、草津青年はテンション高く説明する。
「バイトバイト。土日の単発バイトは貧乏学生の基本だから。病院主催だから、結構バイト代もいいんだ」
一方の白浜青年は、受付の参加者名簿と照らし合わせ、梨緒子の名前をしっかりと確認する。
「はい、名札。へえ……えなみ、りおこちゃんか。看護師目指してるの?」
「ねえ、これ終わったらさ、俺たちと一緒にご飯食べに行かない? ここのバイト代でおごってあげるから」
草津と白浜は梨緒子の返事も待たずに、矢継ぎ早に誘い文句を繰り出してくる。
「え、ええ? でもそんな……」
まったく知らない人ではないとはいえ――接点となる優作もここにはいない。
さらに草津と白浜は、笑顔で梨緒子ににじり寄ってきた。
「大丈夫だって、ヘンなことしたりしないから」
「当たり前だってーの。じゃ、約束ねー」
梨緒子は返事もそこそこに、そそくさとその場を逃げ出した。
大学生たちの軽さには、とてもついていけない。
やはり優作は、特別なのだ――と梨緒子は思った。
予定通りの時間で、『高校生看護師一日体験』が始まった。
まずはオリエンテーションである。
スライドを見ながら、看護師の仕事の説明を受ける。
そのあと、念願の看護白衣に袖を通し、二人一組になって、隣接する大学附属病院の院内見学だ。
一階の総合案内付近は、患者とその家族でごった返している。
その中を、医師や看護師、検査技師らしき人々が忙しそうに動き回っている。
そして、普通の事務員らしき制服の人。
清掃サービスのユニフォームの人。
シーツや寝巻が大量に入ったカートを押している、リネン業者。
ときおり目にするアタッシュケースを携えたスーツ姿の人間は、医薬品メーカーの営業マンたちだろう。
病院という場所は、自分が考えているよりもずっとずっと大きい世界なのだ――梨緒子の目にはすべてが新鮮に映った。
そう遠くない未来に、優作はこの中を歩くのだろう。
たくさんの患者と多くの職員たちに囲まれて、人と人とのつながりを大切にし、医療の世界に力を尽くす――きっと優作なら、上手くやっていけるに違いない。
最後の二時間は、病棟で実際に患者について、身の回りの世話をすることになった。
廊下ではひっきりなしに医師や看護師が行き交い、患者の治療に当たっている。
患者の世話といっても、梨緒子たちを始めとする高校生たちは、邪魔にならないようにと、退院間近な患者の暇つぶしの相手を務めただけだった。
それでも、話を聞くことも大切な仕事なのだと、担当看護師は説明をしてくれた。
時間はあっという間に過ぎていった。
再び看護短大の建物へと戻り、最後に感想文を書いて、それを提出して終わりだ。
一緒に組んでいた子と、今回の記念にするため、互いの白衣姿をそれぞれの携帯のカメラにしっかりと収めた。
これが一番の目的だったりするのだが――梨緒子は大満足だった。
そして私服に着替え、イベントは無事終了した。
梨緒子は早々に帰ろうと、建物の玄関に向かった。
廊下を進み、最後の角を曲がるというところで梨緒子はいったん立ち止まり、そっと先を覗いた。
すると。
いまだ受付付近に、優作の友人たちがいた。しっかりと待ち伏せされている。
――どうしよう……さっきのって、冗談じゃなかったんだ。
困ったことになった。
梨緒子は見つからないように一旦引き返し、トイレの個室に入って携帯電話を取り出した。
しばらく考えた末、梨緒子が呼び出した相手は、兄の薫だった。
目的の人物はすぐに電話に出た。
『はい、何?』
「ねえ薫ちゃん、いまどこ?」
『どこって、家にいるけど』
「あのね、迎えに来て欲しいんだけど」
薫は妹の頼みをばっさりと切り捨てた。
『んな、弟くんに頼めばいいじゃん。何のための彼氏なのさ』
鋭いところを突いてくる。
しかし。
「だって……勉強してるところを邪魔したくないし」
第一、用事があるといって、秀平からの誘いを断ってしまっているのだ。迎えに来てほしいなどと、言えるはずもない。
『ていうか、まだ明るいんだから、歩いて帰ってこいよ』
それだけ言うと、薫は無慈悲にも電話を切ってしまう。
梨緒子は携帯を握り締め、大きくため息をついた。
梨緒子は覚悟を決め、建物の玄関へと再びやってきた。
やはり優作の友人たちは、梨緒子のことを待っているようだ。
そこはかとなく、気が重い。
梨緒子が受付まで歩いていくと、草津青年は無邪気に手を振った。
「あ、やっと来た。どう、楽しかった?」
「えっと、楽しかったです……」
梨緒子の不自然な笑顔がいっそう引きつった。
「んじゃ、打ち上げに行きますか!」
すぐそばにいた白浜青年が、パイプ椅子から腰を上げ、軽く伸びをした。
強引な展開だ。嫌な予感がどうにも拭えない。
梨緒子は一か八かで、大学生たちを振り切ろうとした。
「せ、先約があるので……あの、ごめんなさい」
「あー、ちょっと待った待った」
「そんな逃げなくてもー」
しかし。
一人ならともかく二人掛かりでこられると、振り切るのは容易ではない。
あっという間に両脇を固められてしまう。
絶体絶命。
「ひょっとして優ちゃんと約束? あ、そうでしょ!」
「なーんだ、だったら大丈夫! 研究室にいるはずだから、ささ、一緒に迎えに行こうよ」
「先約って……あー、ええと、はい……」
優作と約束などしていなかったが、ここで草津白浜の温泉コンビを強引に振り切る自信もなく――、流れに身を任せて優作の助けを借りようと、梨緒子は心に決めた。