中味の問題。
日曜日――。
模擬試験が終わったあと、生徒がほとんど下校したのを見計らって、秀平と梨緒子は生徒昇降口を出た。
校門までの並木道を歩きながら、梨緒子は自分の携帯電話を取り出した。
「秀平くん。面白いもの、見せてあげる」
「面白いもの?」
「写メ、送るね」
秀平とは、普段メールのやりとりはほとんどない。
用事があるときは会って話せばいい、というのが彼の信条だからだ。
久々に彼のアドレスを探し出して、昨日撮ったばかりの「看護衣姿」の写真を添付し、送信した。
すぐに着信となる。秀平は無造作に自分の携帯を取り出すと、メールを確認する。
やがて、明らかな反応があった。
「……どうしたの、これ」
驚いている。
その反応が、梨緒子は楽しくてしょうがなかった。
秀平の、驚きそして喜ぶ顔が見たかったのだ。
「スゴイでしょ。意外と似合うと思うんだけど、どう?」
「どうって……これいつ撮ったの」
「昨日だよ。優作先生のところの、『高校生一日看護師体験』っていうのに行って来たの」
それからの秀平の反応は鈍かった。
じっと携帯の画面を見つめたまま、表情が固まっている。
そんなに驚かなくても――梨緒子は不思議に思い、思わず首を傾げた。
「どうしたの?」
「おととい言ってた用事って、これ?」
「え? あ……うん」
「何で俺に隠してたの」
「隠してたわけじゃないけど、秀平くんのこと驚かせようと思って……」
秀平は無言で携帯の画面を閉じ、それをしまった。
目が据わっている。
このときまだ梨緒子は、秀平の変化に気づいていなかった。
秀平の家は、住宅街の一角にある普通の一戸建て住宅だった。
玄関に『永瀬』という表札がかかっている。
「梨緒子ちゃん、いらっしゃい」
秀平の家の居間らしき部屋に、優作がいる――兄弟なのだから当たり前なのだが、実際目の当たりにすると不思議な感じがしてしまう。
「もう喋った?」
「え? ああ、うん……」
秀平はにこりともせずに、梨緒子に一瞥をくれた。
怖い。
思ったほど秀平が喜ばなかったのが、梨緒子は気がかりだった。
世の中のすべての男が、看護衣姿に惹かれるわけではないだろう。
秀平の興味をさほど引かなかった――それだけの話なのだ、と梨緒子は一人納得していた。
「ホント、大変だったね。草津と白浜のヤツにはきつく言っておいたから。女子高生を見ると目の色変えるんだから、まったくしょうがない」
それまで黙っていた秀平の両瞳がわずかに揺れた。それは居間でくつろぐ兄ではなく、傍らに立つ自分の彼女に向けられる。
「大変って……何があったの?」
「えっ? ああ、ナンパっていうか……なんかね、帰りにしつこく誘われて」
「どうして俺に連絡しなかったんだよ」
梨緒子はその声色に驚きとっさに見上げると、そこには秀平の冷たく突き刺すような眼差しがあった。
分からない。これは彼氏なら当然の反応なのだろうか――。
「勉強の邪魔、しちゃいけないと思って……あの、でも何もなかったから大丈夫! 優作先生に助けてもらったから」
秀平は黙ったまま、梨緒子に背中を向けた。そのまま自室のある二階へと、階段を上がっていく。
梨緒子がその場へ立ち尽くしていると、優作はついて行けばいいよと階段のほうを指差した。
「あとでお茶持っていくから」
とりあえず、優作が同じ屋根の下にいる――それが唯一の救いだった。
秀平の部屋はきっちりと片付いていた。
梨緒子の部屋よりも確実にきれいだ。余計なものが何もない。インテリアは青を基調としている。カーテンやベッドカバーはすべて深い海のようなブルーだ。
片付いている男の子の部屋はこういう感じなんだと、梨緒子は辺りを見回しながらそう思った。
「そこに座って」
秀平は持ち帰った模擬試験の問題と、最後に配られた解答集をテーブルの上に取り出した。梨緒子もそれにならう。
梨緒子は秀平と向かい合い、いつになく緊張していた。
いつも図書館で見えているのは彼の横顔だ。そして一緒に帰るときにも、秀平はいつも梨緒子の右隣にいるため、彼の左横顔が見えていることが多い。
それがいまは、真正面から彼の顔が見えている。
しかもここは、彼の暮らしている部屋である。
秀平と出会ったときから思っていたが、彼は怖いくらい端整な顔立ちをしている。
学校には先輩後輩問わず、彼に憧れている女子が大勢いる。
貴公子然としたその雰囲気は、孤高の王子様などと崇められている大きな要因だ。
どうして自分がここにいるんだろう――ときどき分からなくなる。
自分も半年前までは、憧れる大勢の女子の一人にすぎなかったのに。
長く繊細そうな指が赤ペンを走らせている。
やがて秀平は制服のシャツの第一ボタンを外し、ネクタイを緩めた。
喉の線があらわになる。
梨緒子は胸をぎゅっと掴まれるような感覚を覚えた。
しばらくして、優作がお茶を持ってやってきた。
二人きりの閉ざされた空間が、一気に開放感にあふれる。
「二人とも、採点終わった?」
「いま終わったところ」
アイスティーの入ったグラスを差し出しながら、優作は聞いた。
「秀平、合計いくら?」
「846点」
秀平は淡々と答えた。
すごい――梨緒子は自分のことのように嬉しくなる。
「さすが余裕だな。梨緒子ちゃんは?」
「662点。採点によっては、680越えるかも……?」
それを聞いて、優作の顔が明るくなった。
「へえ、ちょっと伸びたんじゃない? 僕のお陰かなー」
「この間優作先生に教えてもらったところね、ちょうど問題に出てたの! ビックリしちゃったー」
梨緒子の言葉を聞いて、優作はさらに表情を穏やかに緩ませた。
「ちゃんと解けたかな?」
「えへへ、完璧ー」
素直に喜ぶ梨緒子の笑顔が、家庭教師にとっては何よりの成果だ。
「じゃあ、この調子で行けば、いつかは700越えも期待できるかもね」
「ホント? 私、できるかな?」
「できるよ、きっと」
そのときである。
「662って……いったい、どういうつもりなんだよ」
ふと、気づくと――。
秀平が冷め切った表情で、梨緒子と優作のやりとりを眺めている。
その責めるような眼差しに、梨緒子の心は例えようもないほどの不安に包まれた。
「え……っと、ちょっと目標に届かなかった……かな」
「ちょっとじゃないだろ。平均したら75点も取れてない。俺は85点以上って、言ったはずだけど?」
秀平にそう言われたことは、確かに覚えている。
合計で765点以上取らないと、秀平の言う目標には届かない。
しかしそれはあくまで目標で、それを目指して努力しろということなのだと、梨緒子は解釈していたのだ。
目標を達成できなかったことで、ここまで責められるとは――。
息が苦しい。心臓の鼓動がどんどん早まっていく。
驚きのあまり、呼吸をすることも忘れていることに、梨緒子はようやく気づいた。
「まあまあ。梨緒子ちゃんなりに精一杯、頑張ったんだから」
その優作の助け舟が、火に油を注ぐ結果となる。
「何が精一杯だよ。前の日に勉強もしないで、あんなのん気に写真なんか撮って……他の男と勝手にフラフラして」
「そんなに、そんなに怒らなくたって……」
すくんでしまい、返事もままならない。
しかし、秀平の勢いは止まらない。
「何なんだよいったい。本当についてくる気あるのか?」
「あ、あるよ……」
「俺にはとても、江波がやる気があるようには見えない」
「やる気はあるもん。あるけど……気持ちばかりあったってついていけないんだから、しょうがないじゃない!」
秀平の表情が、見る見るうちに硬化していく。
言ってはいけないことを言ってしまったことに、梨緒子は気づいた。
「ゴメンなさい……」
「追いかけるの止めないとか、一緒に北大目指して頑張るとか、あれは俺の聞き間違いだったのか?」
――怖い。本当に怖い。
秀平の本気で怒った顔を、梨緒子は初めて見た。
そしてそれが、自分に向けられているという事実に耐え切れず、勝手に涙があふれてくる。
秀平の勢いはとどまることを知らない。
「それがいったいなんだよ? 前の日に勉強もしないで病院ごっこか?」
――病、院、ごっこ……。
そんな風に言われるとは、思ってもみなかった。
確かに、どんなことがあっても秀平についていくと、固く決意していた。
悲しいという感情は、すでに通り越している。
すべてを否定されてしまったような絶望感が、梨緒子に圧し掛かってきた。
――そんなつもりじゃ、なかったのに……どうしてこんな。
梨緒子はもう、秀平の怒る顔を直視できず、両手で顔を覆い声を押し殺し、泣きじゃくった。
なだめるようにして、優作の手が梨緒子の頭を撫でる。
「秀平は自分の勉強だけしてればいい。梨緒子ちゃんは僕が責任を持って勉強をみるから」
「なんだよ、『僕』が責任って。それこそ無責任な話だろ。これは俺たちの問題なんだ。兄貴は関係ないだろ!」
「お前は梨緒子ちゃんのこと何も分かってない。付き合う資格なんかないよ」
優作が一喝すると、秀平がようやく黙った。
築き上げたばかりの城は、音もなく崩れ落ちていく。
もはや、修復不可能だ――。
しゃくりあげる梨緒子の泣き声だけが、部屋に響き渡る。
「さあ、帰ろう。今日は僕が送っていくから。いいな、秀平?」
優作は、梨緒子を立ち上がらせようと、抱きかかえるようにして身体を支えた。
秀平は最後まで黙ったままだった。
足取りが、まるで鉛の靴を履かされたように重い。
このまま消えて無くなりたい。
帰途につく道すがら、梨緒子はそんなことばかり考えていた。
秀平を怒らせてしまった悲しみと、どうしてそこまで怒るのか不可解な気持ちと。
いろいろな感情が渦巻いている。
どうしたらいいのか、梨緒子はすでに分からなくなっていた。
「僕だって、何度も見たことないからね。あんな秀平」
梨緒子は優作の話を黙って聞きながら、思い出したように再びしゃくりあげる。
「いつかはこんなことになるんじゃないかと思ってたけど。まあ、それだけ秀平が本気だっていうことの表れだから」
「本気って、いったって……あんな言い方しなくても」
「そうだね。あれは完全にあの馬鹿が悪い。――まだまだ子供なんだよ、秀平は」
優作はのんびりと言った。
「やる気っていうのは、点数の問題じゃない。要するに、中味の問題だからね」
いつか分かる日が来るよ、と優作は言った。
模擬試験が終わったあと、生徒がほとんど下校したのを見計らって、秀平と梨緒子は生徒昇降口を出た。
校門までの並木道を歩きながら、梨緒子は自分の携帯電話を取り出した。
「秀平くん。面白いもの、見せてあげる」
「面白いもの?」
「写メ、送るね」
秀平とは、普段メールのやりとりはほとんどない。
用事があるときは会って話せばいい、というのが彼の信条だからだ。
久々に彼のアドレスを探し出して、昨日撮ったばかりの「看護衣姿」の写真を添付し、送信した。
すぐに着信となる。秀平は無造作に自分の携帯を取り出すと、メールを確認する。
やがて、明らかな反応があった。
「……どうしたの、これ」
驚いている。
その反応が、梨緒子は楽しくてしょうがなかった。
秀平の、驚きそして喜ぶ顔が見たかったのだ。
「スゴイでしょ。意外と似合うと思うんだけど、どう?」
「どうって……これいつ撮ったの」
「昨日だよ。優作先生のところの、『高校生一日看護師体験』っていうのに行って来たの」
それからの秀平の反応は鈍かった。
じっと携帯の画面を見つめたまま、表情が固まっている。
そんなに驚かなくても――梨緒子は不思議に思い、思わず首を傾げた。
「どうしたの?」
「おととい言ってた用事って、これ?」
「え? あ……うん」
「何で俺に隠してたの」
「隠してたわけじゃないけど、秀平くんのこと驚かせようと思って……」
秀平は無言で携帯の画面を閉じ、それをしまった。
目が据わっている。
このときまだ梨緒子は、秀平の変化に気づいていなかった。
秀平の家は、住宅街の一角にある普通の一戸建て住宅だった。
玄関に『永瀬』という表札がかかっている。
「梨緒子ちゃん、いらっしゃい」
秀平の家の居間らしき部屋に、優作がいる――兄弟なのだから当たり前なのだが、実際目の当たりにすると不思議な感じがしてしまう。
「もう喋った?」
「え? ああ、うん……」
秀平はにこりともせずに、梨緒子に一瞥をくれた。
怖い。
思ったほど秀平が喜ばなかったのが、梨緒子は気がかりだった。
世の中のすべての男が、看護衣姿に惹かれるわけではないだろう。
秀平の興味をさほど引かなかった――それだけの話なのだ、と梨緒子は一人納得していた。
「ホント、大変だったね。草津と白浜のヤツにはきつく言っておいたから。女子高生を見ると目の色変えるんだから、まったくしょうがない」
それまで黙っていた秀平の両瞳がわずかに揺れた。それは居間でくつろぐ兄ではなく、傍らに立つ自分の彼女に向けられる。
「大変って……何があったの?」
「えっ? ああ、ナンパっていうか……なんかね、帰りにしつこく誘われて」
「どうして俺に連絡しなかったんだよ」
梨緒子はその声色に驚きとっさに見上げると、そこには秀平の冷たく突き刺すような眼差しがあった。
分からない。これは彼氏なら当然の反応なのだろうか――。
「勉強の邪魔、しちゃいけないと思って……あの、でも何もなかったから大丈夫! 優作先生に助けてもらったから」
秀平は黙ったまま、梨緒子に背中を向けた。そのまま自室のある二階へと、階段を上がっていく。
梨緒子がその場へ立ち尽くしていると、優作はついて行けばいいよと階段のほうを指差した。
「あとでお茶持っていくから」
とりあえず、優作が同じ屋根の下にいる――それが唯一の救いだった。
秀平の部屋はきっちりと片付いていた。
梨緒子の部屋よりも確実にきれいだ。余計なものが何もない。インテリアは青を基調としている。カーテンやベッドカバーはすべて深い海のようなブルーだ。
片付いている男の子の部屋はこういう感じなんだと、梨緒子は辺りを見回しながらそう思った。
「そこに座って」
秀平は持ち帰った模擬試験の問題と、最後に配られた解答集をテーブルの上に取り出した。梨緒子もそれにならう。
梨緒子は秀平と向かい合い、いつになく緊張していた。
いつも図書館で見えているのは彼の横顔だ。そして一緒に帰るときにも、秀平はいつも梨緒子の右隣にいるため、彼の左横顔が見えていることが多い。
それがいまは、真正面から彼の顔が見えている。
しかもここは、彼の暮らしている部屋である。
秀平と出会ったときから思っていたが、彼は怖いくらい端整な顔立ちをしている。
学校には先輩後輩問わず、彼に憧れている女子が大勢いる。
貴公子然としたその雰囲気は、孤高の王子様などと崇められている大きな要因だ。
どうして自分がここにいるんだろう――ときどき分からなくなる。
自分も半年前までは、憧れる大勢の女子の一人にすぎなかったのに。
長く繊細そうな指が赤ペンを走らせている。
やがて秀平は制服のシャツの第一ボタンを外し、ネクタイを緩めた。
喉の線があらわになる。
梨緒子は胸をぎゅっと掴まれるような感覚を覚えた。
しばらくして、優作がお茶を持ってやってきた。
二人きりの閉ざされた空間が、一気に開放感にあふれる。
「二人とも、採点終わった?」
「いま終わったところ」
アイスティーの入ったグラスを差し出しながら、優作は聞いた。
「秀平、合計いくら?」
「846点」
秀平は淡々と答えた。
すごい――梨緒子は自分のことのように嬉しくなる。
「さすが余裕だな。梨緒子ちゃんは?」
「662点。採点によっては、680越えるかも……?」
それを聞いて、優作の顔が明るくなった。
「へえ、ちょっと伸びたんじゃない? 僕のお陰かなー」
「この間優作先生に教えてもらったところね、ちょうど問題に出てたの! ビックリしちゃったー」
梨緒子の言葉を聞いて、優作はさらに表情を穏やかに緩ませた。
「ちゃんと解けたかな?」
「えへへ、完璧ー」
素直に喜ぶ梨緒子の笑顔が、家庭教師にとっては何よりの成果だ。
「じゃあ、この調子で行けば、いつかは700越えも期待できるかもね」
「ホント? 私、できるかな?」
「できるよ、きっと」
そのときである。
「662って……いったい、どういうつもりなんだよ」
ふと、気づくと――。
秀平が冷め切った表情で、梨緒子と優作のやりとりを眺めている。
その責めるような眼差しに、梨緒子の心は例えようもないほどの不安に包まれた。
「え……っと、ちょっと目標に届かなかった……かな」
「ちょっとじゃないだろ。平均したら75点も取れてない。俺は85点以上って、言ったはずだけど?」
秀平にそう言われたことは、確かに覚えている。
合計で765点以上取らないと、秀平の言う目標には届かない。
しかしそれはあくまで目標で、それを目指して努力しろということなのだと、梨緒子は解釈していたのだ。
目標を達成できなかったことで、ここまで責められるとは――。
息が苦しい。心臓の鼓動がどんどん早まっていく。
驚きのあまり、呼吸をすることも忘れていることに、梨緒子はようやく気づいた。
「まあまあ。梨緒子ちゃんなりに精一杯、頑張ったんだから」
その優作の助け舟が、火に油を注ぐ結果となる。
「何が精一杯だよ。前の日に勉強もしないで、あんなのん気に写真なんか撮って……他の男と勝手にフラフラして」
「そんなに、そんなに怒らなくたって……」
すくんでしまい、返事もままならない。
しかし、秀平の勢いは止まらない。
「何なんだよいったい。本当についてくる気あるのか?」
「あ、あるよ……」
「俺にはとても、江波がやる気があるようには見えない」
「やる気はあるもん。あるけど……気持ちばかりあったってついていけないんだから、しょうがないじゃない!」
秀平の表情が、見る見るうちに硬化していく。
言ってはいけないことを言ってしまったことに、梨緒子は気づいた。
「ゴメンなさい……」
「追いかけるの止めないとか、一緒に北大目指して頑張るとか、あれは俺の聞き間違いだったのか?」
――怖い。本当に怖い。
秀平の本気で怒った顔を、梨緒子は初めて見た。
そしてそれが、自分に向けられているという事実に耐え切れず、勝手に涙があふれてくる。
秀平の勢いはとどまることを知らない。
「それがいったいなんだよ? 前の日に勉強もしないで病院ごっこか?」
――病、院、ごっこ……。
そんな風に言われるとは、思ってもみなかった。
確かに、どんなことがあっても秀平についていくと、固く決意していた。
悲しいという感情は、すでに通り越している。
すべてを否定されてしまったような絶望感が、梨緒子に圧し掛かってきた。
――そんなつもりじゃ、なかったのに……どうしてこんな。
梨緒子はもう、秀平の怒る顔を直視できず、両手で顔を覆い声を押し殺し、泣きじゃくった。
なだめるようにして、優作の手が梨緒子の頭を撫でる。
「秀平は自分の勉強だけしてればいい。梨緒子ちゃんは僕が責任を持って勉強をみるから」
「なんだよ、『僕』が責任って。それこそ無責任な話だろ。これは俺たちの問題なんだ。兄貴は関係ないだろ!」
「お前は梨緒子ちゃんのこと何も分かってない。付き合う資格なんかないよ」
優作が一喝すると、秀平がようやく黙った。
築き上げたばかりの城は、音もなく崩れ落ちていく。
もはや、修復不可能だ――。
しゃくりあげる梨緒子の泣き声だけが、部屋に響き渡る。
「さあ、帰ろう。今日は僕が送っていくから。いいな、秀平?」
優作は、梨緒子を立ち上がらせようと、抱きかかえるようにして身体を支えた。
秀平は最後まで黙ったままだった。
足取りが、まるで鉛の靴を履かされたように重い。
このまま消えて無くなりたい。
帰途につく道すがら、梨緒子はそんなことばかり考えていた。
秀平を怒らせてしまった悲しみと、どうしてそこまで怒るのか不可解な気持ちと。
いろいろな感情が渦巻いている。
どうしたらいいのか、梨緒子はすでに分からなくなっていた。
「僕だって、何度も見たことないからね。あんな秀平」
梨緒子は優作の話を黙って聞きながら、思い出したように再びしゃくりあげる。
「いつかはこんなことになるんじゃないかと思ってたけど。まあ、それだけ秀平が本気だっていうことの表れだから」
「本気って、いったって……あんな言い方しなくても」
「そうだね。あれは完全にあの馬鹿が悪い。――まだまだ子供なんだよ、秀平は」
優作はのんびりと言った。
「やる気っていうのは、点数の問題じゃない。要するに、中味の問題だからね」
いつか分かる日が来るよ、と優作は言った。