来年も再来年も、その先も。

 梨緒子の身辺に、明らかな異変があった。
 気のせいでは、とても片付けられない。
 帰ってから勉強する予定のない教科書をロッカーへしまおうとして、梨緒子はその異変に気づいた。
 ロッカーの中に置いてある辞書類に、故意に踏みつけられたような跡が残っている。
「どうしたの、梨緒ちゃん?」
「いや、なんか……これ」
 美月は梨緒子のロッカーの中を覗き込んだ。
「嘘。ヤダ、何これ!」
 一目見て、嫌がらせであることが美月にも分かったようだ。しかめっ面で梨緒子の顔を見つめている。
 昼休みに開けた時には、特に変わったところはなかった。
 となると、帰りのホームルームの間か、それとも掃除中か――。
「誰なんだろう。三年生なのかな……美月ちゃん、どう思う?」
「梨緒ちゃん、心当たりあるの?」
「無いけど、原因は何となく――」
 その時である。
「梨緒子、先に行ってるから」
 背後から、嫌がらせの原因であろう彼が声をかけてきた。
 梨緒子が振り返るとすぐそこには、秀平が端整で涼しげな顔をしてたたずんでいる。
 突然の至近距離は、いつまで経っても慣れることはない。
「あ、う、うん。分かった」
 美月とのおしゃべりに気遣ったのか、秀平はそのまま歩き去り階段を下りていく。

 ふと、気づくと。
 廊下にいた見知らぬ生徒たちの視線を、一手に集めてしまっている。
 いまのやり取りで、完全に梨緒子と秀平の関係に気づいたに違いない。
 苗字で呼ばれていた頃なら半信半疑ですんでいたことが、さすがに下の名を呼び捨てているとなると、疑いが確信に変わって当然である。

「永瀬くん、なんだか人が変わったみたい」
 美月は感心したように頷いている。
「この間までケンカしてたなんて、信じられないもん。梨緒子――だって。上手くいってるんだ?」
「いまはねー。まあ、先行き不透明って感じだけど」
 梨緒子はロッカーの中身を取り出し、とりあえず美月のロッカーの中に移動させてもらうことにした。
 その作業を手伝いながら、美月はさらりと言う。
「永瀬くんとはどこまでいってるの?」
「え……」
 梨緒子は親友の問いに、思わず言葉を詰まらせた。
「永瀬くんの部屋に行ったりしてるんでしょ? 迫られたりとかしないの?」
 美月はさらに問い重ねる。
 何と答えたものか――梨緒子は一人焦った。
「付き合ってからは、まだ一度も……そういったことは」
「一度も? 一度もないの?」
 美月の素っ頓狂な叫び声が、廊下中に響き渡った。梨緒子の返答はあまりにも意外なものだったらしい。
 梨緒子は唇に人差し指を当て、親友の大声を諌めた。
「部屋に行っても、普通に勉強したり、おしゃべりしたりするだけだし……やっぱり、ヘンかな」
「梨緒ちゃん、色気が足りないんじゃない?」
「い、い、色気?」
 美月は心臓に悪いことを簡単に言ってのける。
 確かに色っぽいとは言えないのであるが――。
「そういう雰囲気に持っていくの。ふざけるようにして軽いボディタッチとか、勉強教えてもらうときは必要以上に身体を押し付けるとか――向こうも、待ってるのかもよ」
「ま、ま、まさかー!? 秀平くんに限って、そんなことないって」
「あるに決まってるでしょ。男ってみんな、そういうこと考えてるもんなんだから」

 ――そんなこと、ある……のかな。うーん、分かんない。

「あー、でも永瀬くんってモテる割に、女の子に対しての免疫がなさそうだから、迫りたくても迫れないのかなー。梨緒ちゃん、じれったい思いをさせられそうじゃない?」
 梨緒子は深々とため息をついた。
 もしそうなったら、どう対処すればいいのだろうか。ちゃんと相手が務まるのかどうか、梨緒子にはまるで自信がない。

 しかしいま、そんなことを考えている余裕はないのである。
 クリスマスも正月もバレンタインも返上で死に物狂いで勉強しなければ、彼について行くことなどできないのだから。

 美月は何かに思いを馳せるように、穏やかに微笑んでみせた。
「梨緒ちゃんを見てるとね、自分も諦めずに頑張れそうな気がする」
「美月ちゃん……」
「正直、ここまでやれるとは思ってなかったよ。永瀬くんみたいな堅物、落とせるなんて思えなかったし。でも、高校生活には悔いを残したくないじゃない? だから梨緒ちゃんには頑張って欲しいって思ってた。せめて顔と名前を覚えてもらえて、言葉を交わせるくらいになって、卒業する頃に想いが伝えられれば、って。でも――」
 梨緒子はじっと親友の顔を見つめ、続く言葉をひたすら待った。
「いま、永瀬くんはこうして梨緒ちゃんの彼氏になってる」

 美月の言う通りだった。
 憧れの彼と高校時代に付き合うなんて、夢のまた夢。
 教室で彼と同じ空気を吸って、同じ授業を聞いて。それだけで胸が一杯になり、彼とすれ違いざまに触れてしまったりしたら、興奮して夜も眠れなかった。
 それが、いま。
 彼が自分のことを『梨緒子』と呼ぶ。
 恋が愛に変わり、彼を愛する以上に彼から愛されているという自覚が、梨緒子にはある。

 美月は羨ましそうにしながらも、梨緒子に楽しそうな笑顔を向けた。
「家庭教師が永瀬くんのお兄さんだったっていうのが、すべてだよねー。家庭教師頼んでなかったら、梨緒ちゃんたちはこうなってなかっただろうし」
「そう、自分の力じゃないの。たまたま、偶然だもん」
「偶然かもしれないけど、運命って、そういうものなんじゃない?」
 美月は梨緒子の肩を叩いた。
「だからね、自分もまだまだって。相変わらず幼馴染としてしか見てもらえてないけど、いつかきっと、ね。ぜーったい、諦めてやらないんだから!」
 美月は、幸運を分けてね――と、ふざけるようにして梨緒子にぎゅうと抱きついた。


 優作との授業がないときには、梨緒子は秀平と図書館で勉強するのが日課だった。
 ただ、今日のように授業がある日でも、秀平は以前のように図書館に一人残って勉強しなくなり、梨緒子に合わせて一緒に下校するようになっていた。

「遅いよ、梨緒子」
「ご、ごめんなさい」
 生徒昇降口で、秀平は梨緒子を待っていた。
 やはりここでも、居合わせた生徒たちのざわつきはなかなか収まらない。しかし、秀平は完全に周囲の目を気にしなくなっている。
 嬉しい反面、嫉みや僻みに晒されてしまうことに、梨緒子はかなりの気疲れを覚えていた。
 この中に、梨緒子のロッカーの中のものを物色し踏みつけている人間がいると思うと、漠然とした恐怖が梨緒子を襲ってくる。
 秀平のことを好きな生徒なのか――ひょっとしたら、類のことを好きな生徒かもしれない。
 当事者以上に周りが加熱して、取り巻くその空気が悪化の一途を辿っている。
 もうすぐ大学受験、そして高校卒業だ。
 それまでとにかく我慢して、なんとか乗り切ろう――梨緒子は気持ちを切り替えた。

 晩秋の冴えた空気の中を、二人はゆっくりと並んで歩く。
 もうじき、マフラーが欲しくなる季節がやってくる。
「秀平くん。あのね、聞いてもいい?」
 梨緒子は秀平の左側で、彼の顔色をうかがうようにして尋ねた。
「秀平くんは理工系? 医薬系?」
「どっちかって言うなら、理工系」
「へぇ……そうなんだ」
 秀平はこれまで、どこの学部学科を志望しているのか、梨緒子に明かすことはなかった。聞けば答えてくれたのかもしれないが、聞けるような雰囲気になかなかならなかったのである。
「逆だな」
「え?」
「看護師、目指してるんだろ」
 歩きながら、秀平は淡々と言った。
 梨緒子のほうも、秀平にはっきりと自分の進路を告げたことはなかった。秀平と同じ大学に行きたいということしか、伝わっていないはずだった。
 秀平がどうしてそんなことを言い出したのか、理由は一つだ。
 先日の『高校生看護師一日体験』で撮った、梨緒子の看護衣姿の写真画像である。
「別に目指してるってわけじゃないけど。憧れは……ちょっとあるかも」
「看護師目指すんだったら、別にわざわざ北大目指す必要もないだろ」
「え? で、でも、北大にもちゃんと学科あるし……」

【別に、北大なんて行きたくないんだろ?】

 秀平はいつかそんな言葉を口にしていた。
 言った当の本人を目の前にし、記憶がリアルによみがえってくる。
「そりゃあ、看護師になるっていうだけなら、北大じゃないと駄目ってことはないと思う。けど……どうしてそんなこと言うの?」
「もし北大に受かったらさ、寮に入るか一人暮らしするか……自由さからいったら当然一人暮らしを選ぶと思うけど、そしたら月に十万程度の仕送りが必要になる。もちろんアルバイトをして生活費を稼ぐという方法もあるけど、梨緒子の家だったら、ちゃんとお金を出してくれそうだ」
 確かに。
 梨緒子の家は裕福というほどではないが、金銭的な苦労とは無縁だ。遠方の大学を目指したいと言い出したときにも、梨緒子の自主性に任せると、両親は二つ返事で了承してくれた。
 そのため、梨緒子は秀平に言われるまで、お金のことなど考えたこともなかったのである。
 秀平は続けた。
「月に十万だよ? 一年で百二十万。卒業するまでは五百万近いお金になる」
「五百万……」
 五百万というものがとてつもなく大きな金額であることは、梨緒子にも分かる。
「そのほかに授業料がかかる。私大に比べたら安いとはいえ、高校の授業料よりもはるかに高い」
「だって……秀平くんはどんなことがあっても絶対に北大行っちゃうんでしょ?」
「そのつもりだけど」
「離れたくないの」
「五百万、使ってでも?」
 きっと試されている――梨緒子は、秀平の言葉の奥に潜むものを感じ取っていた。
「秀平くんは離れていても平気なの? お金お金って……言いたいことは分かるけど、でもそんな言い方しなくたって」
「平気かどうかは、離れてみないと分からない」

 四ヵ月後に確実にやってくるであろう、二人の未来に対する不安。
 それは梨緒子だけではなく、秀平も感じているに違いない。
 だから、試されている。
 秀平が望んでいる答えは、彼の心の中にはっきりと存在しているはずだ。

「そんなこと言うなら、私、秀平くんと同じ学科受ける!」
「…………は? どうしたらそんな話になるの」
 完全に意表をつかれたらしい。秀平は唖然とした表情で、梨緒子を見下ろしている。
 梨緒子は反論を封じ込めるようにして、たたみかけた。
「看護師なら地元に残ってても目指せるって言うなら、秀平くんと同じ勉強する!」
「無理だよ」
「どうして? まだ三ヶ月あるもん!」
 やけっぱちだ。試されている以上、意地でも譲らない――梨緒子は頑なに首を横に振り続けた。
 秀平の呆れたようなため息が、梨緒子の耳にも届く。
「物理、必須だよ。選択してないだろ。この時期に来て無謀なことばかりも言ってられないって、この間自分で言ってたんじゃないのか?」
 梨緒子が選択しているのは化学と生物だ。
 そんなことを言いたいわけではない。

 大切なのは同じ学科を目指すことではなくて、かけがえのないその存在――。

 ふと、その時。
 親友の美月の助言が、梨緒子の脳裏をよぎった。

【――向こうも、待ってるのかもよ】

 梨緒子は、秀平の制服の袖を軽く引っ張った。そのまま勢いで、腕を組むように絡ませる。
 秀平は驚いたように両目を瞠ったまま、しばらく固まっていた。
 しかし、それは長くは続かなかった。
 やがて、切れ長のきれいな二重はふと緩む。
 おそらく彼にも、梨緒子の気持ちが分かっているのだろう。
「来年も再来年も、その先も。ずっとずっと、こうやって秀平くんの側にいたいの。離れても平気だなんて……言わないで」
 組まれた腕を振り解くこともなく、秀平は小さく頷いた。その姿は、まるで幼い子供のように脆く繊細なものだった。