泣いてなさいっ

 ある晩秋の日の放課後のことである。
 梨緒子は数学の問題集を持って帰ろうと、仮住まいさせてもらっている美月のロッカーを開けた。
 明らかな違和感を覚え、梨緒子は言葉を失いそのまま立ち尽くす。
「……また?」
 梨緒子の背後から、美月が自分のロッカーの中を覗き込んだ。
 一度ならず二度までも。
 梨緒子は念のために中身を一つ一つ取り出し、外観を確認した。不自然に折り曲り踏みつけられているのは、すべて梨緒子の名前が書かれたもの――。
 梨緒子は落胆し、大きくため息をついた。
「美月ちゃんのは大丈夫みたいだし、やっぱり私のだけ狙われてるんだ」
 偶然なんかではない。確実に、梨緒子に対する悪意のようなものが感じられる。
「吉倉先生に相談したほうがいいんじゃない?」
 美月は心配そうな顔をして、そう助言してくる。
 しかし、その『吉倉』という担任の名に、梨緒子はためらってしまった。
「うーん……でもとりあえず、毎日持って帰ってみるね」
 すると美月は、これ見よがしにため息をついてみせた。親友の性格をよく知っているからこそ、その梨緒子の答えに納得がいかないようだ。
「梨緒ちゃんって、優しいというか甘いというか……」
「だってね、先生に喋ったりしたら、心当たり聞かれるでしょ? そしたら秀平くんのことを出さなくちゃいけないし……」
「心当たりがないって言えば?」
 梨緒子は首を横に振った。
「そしたら先生、ホームルームとかで絶対余計なこと言いそう。先生に言ったことがばれたりしたら、もっとエスカレートしたりして……考えすぎなのかな」
「我慢しつづけるの? 永瀬くんにも黙ってるつもり?」
 美月の真っ直ぐな言葉に、梨緒子は思わず声を詰まらせた。
 痛いところを確実についてくる。

 ――言えるわけ、ない。

「センター試験まであと二ヶ月しかないんだよ? いまそんなこと言っても、心配かけるだけだし」
「そりゃあ、梨緒ちゃんと永瀬くん二人の問題だから、私がいちいち口を挟むことではないけど……永瀬くんは勉強に集中できるだろうけど、そしたら梨緒ちゃんは? こんな調子じゃいくら家庭教師つけてたって、永瀬くんについていけなくなるかもしれないよ?」
「分かってる――」
「梨緒ちゃん?」
 親友の驚く声に、梨緒子は自分の内なる声を無意識のうちに口にしてしまったことに、ふと気づかされた。



 梨緒子の集中力が著しく低下していることは、家庭教師の優作も気づいているらしい。
 それを決して秀平との恋愛に絡めないのは、優作なりの気遣いなのであろう。
 しかし。
 集中できない理由が別のところにあるとは、さすがに気づいていないようだ。

 センターテーブルを挟んで向かい合うようにして座っている優作は、いつもと何ら変わりがない。
 開いてあった問題集のページを閉じ、穏やかに笑いながら、ゆっくりと梨緒子に話しかけてくる。
「今日は、イメージ・トレーニングをしてみようか」
「イメージ・トレーニング?」
「もちろん問題集とにらめっこして、一問でも多く解くことも大切だけど。心はもっと大切」
 優作の柔らかな声が、梨緒子の耳に染み込むようにして入ってくる。
「絶対に合格して見せるという意志。試験会場で実際に試験を受けている自分のイメージ。理想通りに思い描く大学生活のイメージ。ああ、でも合格発表のイメージはしないほうがいいかな。マイナス要素に心が支配されやすいから」
 梨緒子は言われたとおり、想像してみる。
 おかしい。
 そのどれも霞がかかっていて、ハッキリした線が現れてこない。
 試験会場の自分はともかく、憧れていたはずの大好きな彼との楽しい大学生活も、曖昧な色に染められていく。
「秀平についていくんじゃなくて、自分自身の力で合格を掴み取るんだ。受験はね、自分自身の力が唯一の頼りなんだから」

 ――けど、このままじゃ。

「ねえ、優作先生……」
「なんだい、梨緒子ちゃん」
「本当のことを教えて」
「本当のこと?」
「私……間違ってるのかな?」
 突拍子もないことを言い出す梨緒子を、優作は驚いたように見つめている。
 梨緒子は家庭教師にありのままを伝えた。
「私ね、優作先生がやってるような勉強がしたい」
 すると。
 優作は心から嬉しそうに微笑んだ。
 たったそれだけで、梨緒子の心は急速に安らぎを取り戻す。
「確かに前から、何となく興味はあったんだけど。優作先生の大学に行ったりね、看護師の一日体験とかしたりして、やっぱりね、いいなあって思ったの」
 同じく受験生の秀平には、進路の悩みを口にすることがためらわれる。
 だが、優作は違う。
「五百万余計にかけて、北大で勉強する意味って何なんだろう……」
「五百万?」
 梨緒子は秀平に説明されたことを、優作にそのまま話して聞かせる。
「一人暮らしで親に仕送りしてもらったら、卒業までにそのくらいはかかるって」
 それを聞いて優作は、言いたい事は分からなくもないけれどね――と続けた。
「自分の一番好きな人がずっと側にいる。だからこそ、梨緒子ちゃんは北大目指してるんだろう? 最初からそれは変わっていないはずでしょ?」
「正直ね、最近それも自信ないの」
「どういうこと?」
 優作はわずかに首を傾げた。しかし、決して急かすことはしない。ゆっくりと梨緒子の言葉を引き出そうとする。
「もし……もしね、二人そろって北大に合格できたとして、そしたらずっと二人っきりってことになるよね。上手くいってるときはいいけど、この間みたいに些細なことでケンカにでもなったら……秀平くんは絶対に自分から折れない人だし、私本当に一人ぼっちになっちゃう」
「ははは、いまからケンカの心配してどうするの?」
 優作は梨緒子の杞憂を、軽快に笑い飛ばしてみせた。
 しかし、梨緒子の不安は拭えない。
「美月ちゃんもいない、ルイくんもいない、お兄ちゃんもお父さんお母さんも、誰もいない……それに、それにね」
 梨緒子はじっと、向かい合う優作の顔を真っ直ぐに見つめた。
 わずかな沈黙が二人を包み込む。
「優作先生だって、側にいてくれない――」
 優作は珍しく神妙な面持ちになった。両腕を組みながら、自由になる左手で、あごの無精ヒゲをしきりに撫でさする。
「そればかりは仕方がないね。でも、秀平と付き合っている以上は梨緒子ちゃんとの縁は切れることがないんだから、いつだって電話してくれれば話を聞いてあげられるよ」
 そんな優作の慰めは、薄っぺらな社交辞令にしか聞こえてこない。
 いまはこうやって勉強をみてもらうという、共有した時間があるから話を聞いてもらっているが――遠く離れてもなお、わざわざ電話をかけてまで秀平とのことを相談するというのは、まずありえないことのような気がする。
「それはそうと……梨緒子ちゃん、これどうしたの?」
 優作は、テーブルの下に除けてあった問題集や資料集を、テーブルの上に引っ張り出した。梨緒子が、先ほど学校から持ち帰ってきたばかりのものである。
 その表紙には、はっきりと踏みつけられた跡が残っている。
「えっ……ああ、落としたときに通りがかりの人に踏まれちゃっただけ」
 優作はぱらぱらとめくりながら、とあるページで目をとめた。
「秀平はこのこと知ってるの?」
「え? なにが?」
 訳が分からずに聞き返すと、優作はそのページを梨緒子に見えるように向けた。
 そこには、赤い色のペンで書きなぐられた文字の数々――。

【 いい気に なるな 】
【 なにもかも ユルい女の 分際で 】
【 天罰を 下してやる 】

「い……嫌ああっ!」
「梨緒子ちゃん、しっかりして」
 踏みつけられた跡だけだと思っていたのだが――。
 これは完全に、怨恨だ。
 怖い。どうしようもなく怖い。
「そうか。秀平と付き合いだして、梨緒子ちゃんはこんな卑劣な嫌がらせを受けているのか……ひどいね、これ」

 ――なにもかも、ユルイ、女。

 その言葉の示す意味に、梨緒子は心当たりがあった。
「……夏休み終わってすぐにね、学校の進路指導ポストに嫌がらせで写真を送りつけられたことがあったんだけど……もしかしたらそれも、同じ子たちなのかもしれない」
 結局、それが類との破局の原因となってしまったのである。
 そして間も置かず、秀平と付き合うことにした自分が、当然辿る末路。
 ロッカーを荒らされ踏みにじられて、心無い落書きまでされて。
 当然の報いだ。
「ルイくんと付き合っていたくせに、秀平くんと……仲良くしてたりしたから」
「どうしてそんなに自分ばかり責めるの。元はといえばハッキリしなかった秀平が悪いんだし、梨緒子ちゃんはずっと秀平のことを好きだったわけなんだから」
「優作先生……」
「大丈夫。僕はいつだって梨緒子ちゃんの味方だよ。あきらめないで」
 しかし。
 目の前に広がるのは、先の見えない断崖。



 決定的な事件は、その数日後に起こった。
 昼休み、梨緒子は見知らぬ誰かに階段の中ほどから突き落とされてしまったのである。
 背中には確かに手のひらの感触が残っている。
 気がついたときには、自分の身体が階段下の床に転がっていた。

 美月が一緒にいたのが不幸中の幸い、梨緒子はすぐに保健室へと運ばれた。
 養護教諭に診てもらい、簡単な手当てを施されると、大事をとってベッドに横になった。
 やがて先生は、美月に『ちょっと職員室まで』と言い残し、保健室を出て行った。

 仕切られたカーテンの中に、美月は入ってくる。
「ゴメン。落ちてく梨緒ちゃんにビックリしちゃって、後ろ見てなかった」
「ホントに恨まれてるんだ、私……」
 涙も出てこない。
 梨緒子は仰向けの状態で、掛け布団を胸の中ほどまで引っ張り上げ、ただぼうっと天井を眺めていた。
 身体の痛みよりも、故意に背中を押されたという精神的ショックがあまりにも大きい。
「やっぱりちゃんと吉倉先生に言おうよ。マジで受験勉強どころじゃないって」
「それはイヤ。秀平くんに迷惑がかかっちゃう」
「梨緒ちゃん!」
「秀平くんは悪くないもん。秀平くんのせいなんかじゃないんだもん……」
 そのときである。
 保健室の戸が開く音がし、誰かが保健室に入ってきた。
 足音からすると、養護教諭ではない。
 美月はカーテンの隙間から首だけを外に出した。
「先生は、いま職員室に――」
 そこで美月は言葉を詰まらせた。
 梨緒子は横たわりながら、何やら異変を感じ取る。
「そこにいるの?」
 白のカーテン越しに聞こえてくるその声に、梨緒子の全身に震えが走った。
 美月はカーテンの外へ出していた首を再び中へ引っ込め、ベッドに横たわっている梨緒子のほうへと振り返った。
「梨緒ちゃん、永瀬くんが来たよ」

 いちばん、側にいて欲しい人。
 けれどいまは、側にいて欲しくない人。

 相反する感情が梨緒子の中に存在し、渦巻いている。
 嬉しさと空しさとが入り混じり、梨緒子は彼に対し、どういう態度をとったらいいのか分からなくなっていた。
 秀平はすぐにカーテンの中へと入ってきた。
 そして枕元付近の床に片膝をつくようにしてしゃがみ、梨緒子と目線を合わせてくる。
「階段踏み外しただけだから――」
「『だけ』じゃないだろう。ケガは? どこが痛いの?」
 梨緒子はゆっくりと首を動かし、顔を秀平のほうへと向けた。
 艶やかな茶色の瞳が、心配そうに梨緒子を見つめている。
「大丈夫、腕と膝は青あざが残るかもしれないけど」
「明日からずっと、俺が付き添う」
「止めて。そんなことしたらもっと……」
「もっと?」
 秀平はかすかに眉をひそめる。
 梨緒子は慌てて弁解をした。
「いや、あの……別に付き添いが必要なほどでもないし」
「梨緒子」
「勉強する時間がもったいないでしょ。私の事は気にしなくていいから」
 もう、誤魔化しがきくような相手ではないということに、梨緒子は改めて気づかされる。
 梨緒子の言葉の裏にあるものを、秀平は確実に読み取っている。
「ひょっとして……俺のせいなのか?」

「違う、それは絶対に違う!」
「そう、全部永瀬くんのせい」
 梨緒子の声と美月の声が重なった。

「美月ちゃん!」
 起き上がろうとする梨緒子を、美月は無理矢理ベッドに押さえ込んだ。そして大きく息を吸うと、秀平に真っ向からぶつかっていく。
「いい加減認めたらどう? 永瀬くんって、この学校で一番女子に人気があるの。頭がよくて、カッコよくて、いつもクールに澄ましてて、孤高で誰にもなびかなそうな雰囲気があるから、みんな遠巻きにして触りたくても触れずにいて、永瀬くんはひたすら崇められてる。だから、梨緒ちゃんがこんな目にあってるの」
「……さっぱり意味が分からないんだけど。もし仮に俺が崇められてたとして――どうして梨緒子を傷つける必要がある?」
「それは、永瀬くんが梨緒ちゃんのことを、みんなが見てる前で特別扱いしてるから! 要するにひがみなんだろうけど」
「文句があるなら俺にはっきり言えばいいんじゃないのか? 特別扱いって…………当たり前だろそんなの」
「当たり前かもしれないけど! だからって、そうやって自分の気持ちばかり優先させてるから、永瀬くんは駄目なんだよ」

 ――なんて事を。

 梨緒子はたまらず両目をつぶった。
 秀平も少なからずのショックを受けているのか、長い長い沈黙が続く。
 やがて、秀平は重い口を開いた。
「…………分かったよ。梨緒子のことは波多野に任せる。それでいいんだろ」
 その返答が、美月の怒りを増幅させた。
「は? 何それ、意味不明。梨緒ちゃんのことはどうでもいいんだ? そんなに自分のことが大事? ちゃんと守ってあげて。そうじゃないと、梨緒ちゃんが壊れちゃう!」
「少しは俺に考える時間をくれよ! あれもこれもじゃ、俺だっていつか壊れる――」
 珍しく、秀平が声を荒げた。
 梨緒子が恐る恐る目を開けると、秀平は冷たすぎるほどの美しい顔で美月と至近距離でにらみ合っていた。
「秀平くん……」
 梨緒子の呼びかけに応えることなく、秀平はそのまま足早に保健室を出て行ってしまった。


 もう、何が何だか訳が分からない。
 それまでせき止められていた涙が、秀平を怒らせてしまったという衝撃で一気にあふれ出す。
「完全見損なった! 面倒臭くなるとすぐ、手のひら返したように冷たくなるんだから!」
 美月は怒りが収まらないようだ。
 一方、梨緒子の中にあるのは、例えようもない悲しみだけ。
「秀平くんをまた怒らせた……こんなんじゃ本当に、やっていけない」
 涙は止まる事を知らない。どんどん枕カバーを濡らしていく。
 しゃくりあげる度に打ちつけた部位が激しく痛んだ。その痛みでまた涙があふれてくる。
 見るに見かねた親友は、梨緒子を叱咤する。
「もう、そうやっていつまでも泣いてなさいっ!」
 しかし本当に痛んでいるのは、彼の心であることに梨緒子は気づいて――また涙が出てきた。