宜しくね。

 秀平が梨緒子を避けるようになったのは、梨緒子が学校の階段から突き落とされる事件があって、すぐのことだった。
 すれ違っても無視をする。
 目が合ってもすぐに視線をそらす。
 何も言わずに先に帰ってしまう。

 そんな秀平の態度の急変に、心無い陰口が飛び交った。

 あの女が、彼に愛想をつかされたんだって。
 また、違う男と浮気をしたんじゃない?
 そういう女でしょ。二度あることは三度……。

「もう……無理かなー」
 すべての人間が敵に見える。
 嫌がらせの原因が秀平にあるという証拠はどこにもない。限りなく疑わしいというだけである。
 しかし美月は「秀平のせい」だと、ハッキリ本人に告げてしまった。

 ――だから秀平くんは私のこと避けてるんだろうな。

 美月に『駄目人間』の烙印を押されたことで、秀平の態度は変わってしまった。それしか原因は思いつかない。
 誰よりもプライドが高そうな彼のことである。些細な言葉一つで恋愛感情が一気に冷めてしまうことも、充分考えられる。

【少しは俺に考える時間をくれよ! あれもこれもじゃ、俺だっていつか壊れる――】

 おそらく、彼は距離を置きたがっている。
 しかし。
 ここでくじけては、周囲の人間の心無い陰口に負けてしまう。どんなことがあっても秀平についていこう――そう思い、梨緒子は帰ろうとする秀平を呼び止めた。
「待って、秀平くん」
 秀平は立ち止まり、ゆっくりと振り返った。
「何? 何か用?」
 その無慈悲な物言いに、梨緒子の心は萎縮してしまった。
 用事がなければ話しかけることすら、許されないのであろうか――。
 ただのクラスメートならいざ知らず、彼氏から言われることではない。
 梨緒子は最高の笑顔を造り、食い下がった。
「途中まででもね、一緒に帰ろうと思ったんだけど」
「今日は一緒に帰れない」
 秀平は首を横に振った。
 明らかに周囲の目を気にしている。早く梨緒子の側から離れたがっているようだ。
「どうして?」
「先約がある」
「……先約?」
「別なやつと帰る約束してるから」
 梨緒子は唖然となった。
 混乱する頭でなんとか聞き返す。
「べ、別なやつ?」
「そう――梨緒子は、波多野と二人で帰ればいい」
 秀平は周囲をうかがうようにして、やがて梨緒子に背を向けた。
 側で帰り支度をしながら二人のやりとりを聞いていた美月が、秀平の腕を掴み無理矢理引き止め、強引に振り向かせた。
「永瀬くん、あんまりじゃない? 考える時間くれって、こういうこと?」
 秀平は黙ったまま、困ったような顔で美月の顔と梨緒子の顔を交互に見た。
 美月は尚も強気の姿勢を崩そうとしない。
「梨緒ちゃんがこんなに辛い目にあってるっていうのに、別なやつと帰るって、いったいどういう神経してるの?」
「どうして波多野がそんなに怒るのか、全然分からないんだけど。誰と帰ろうと、俺の自由だろ」

 ――誰と帰ろうと、俺の自由……そうかもしれないけど。

「ちゃんと波多野と帰って。それじゃ」
「秀平くん……」
 秀平は足早に梨緒子たちのもとを立ち去った。
 呆然と見送る梨緒子の横で、美月が怒り収まらぬ様子で息巻いている。
「信じられない……信じられない! 梨緒ちゃん、悪いこと言わないから、こっちから振ってやればいいよあんな冷血漢! 彼女のことなんだと思ってるの? ただのお飾り? 見せびらかしたいだけ? 言うこと何でも聞いて側でニコニコしてればいいわけ?」
「落ち着いてよ、美月ちゃん……一緒に帰ろう」
 突然の出来事に、心がついていかない。どうしてこんなことになってしまうのか、梨緒子はまったく理解できなかった。
 感情がなくなってしまった。
 彼と言葉を交わしたあとに、喜びも怒りも哀しみも楽しみも、何もない。
 そこに残されたのは、虚ろな心だけ――。
 しかし、美月は違った。梨緒子の隣で、硬く握ったこぶしを震わせている。
「跡をつけよう!」
「ええ? でもそんな……」
「気になってるんでしょ?」
 親友に心の奥底を見抜かれて、梨緒子は現実に直面してしまうのが途端に怖くなった。

【別なやつと帰る約束してるから】

 確かに彼はそう言っていた。
 しかし、それは初めから聞こえなかったんだ、と自分の心が勝手に奥底にしまいこんでしまった言葉。
「見たくない、そんなの。秀平くんが他の子と帰るところなんて、見たくない!」
 孤高と呼ばれる彼と一緒に帰ることができるのは、彼女である自分だけの『特権』であったはず。
 それが、当たり前なのだと思っていた。
「あんなの、永瀬くんの嘘かもしれないでしょ?」
 美月は親友を勇気づけるように、梨緒子の両肩を力強く叩いた。


 秀平は昇降口の外の柱にもたれかかるようにして立っていた。いつも梨緒子を待っているときと同じ場所である。
 やはり秀平は、明らかに誰かを待っているようだった。
 学校の敷地内であることを考えると、同じ学校の生徒であることは間違いなさそうである。
 物陰からその様子を覗き、梨緒子は茫然自失となった。
 ため息も、もはや出てこない。
「……嘘なんかじゃないんだ。もういい――」
「ダメ、梨緒ちゃん! 逃げないでちゃんと見てなさい! 相手が誰だか突き止めないと」
「突き止めてどうするの?」
「永瀬くんを問い詰めるに決まってるでしょ」
 梨緒子は慌てて首を横に振った。
 秀平を問い詰めるなど、梨緒子にはまったく考えの及ばない行動だ。
「もういいよ……秀平くんがいいならそれでいいの」
「どうして梨緒ちゃんはそうなの? 永瀬くんのこと好きだからって何でも言いなりになって我慢するなんて、そんなの間違ってる」
 美月の言葉がいちいち胸に突き刺さる。
 梨緒子は思わず反論した。
「好きだったらそうなるでしょ? 好きなの。嫌われたくないの。だから秀平くんの嫌がることは絶対にしたくないの。束縛も詮索も問い詰めも……したくない」
「だからいつも、勉強の邪魔したくなくて、電話もメールも緊急の用事以外では使わない――なんでしょ? じゃあ、どうするのこれから?」
 美月の言うとおりだった。
 学校でのやり取りが、秀平との付き合いのすべてと言っても過言ではない。
 電話もない。
 メールもしない。
 秀平からは、手を繋いだり腕を組んで歩くことさえない。
 一緒にいる時間が長くなっても、その中身は非常にあっさりしたものだ。
 側にいて話をするだけで充分楽しいため特に不満はなかったが、これでは友達と変わらないのではないか、と不安になることが、これまでも何度かあった。
「ひょっとしてそれも永瀬くんの計算だったりして。後腐れないように、卒業と同時に自然消滅狙ってる、とか」
 そんなことはないという気持ちと、美月の言うことが正しいという気持ちが、出口のない空間で渦巻き、梨緒子の気持ちをいっそう暗鬱とさせた。

 そのときである。
 秀平の様子を覗い続けていた美月が、小さく声を上げた。
「うそ――何あれ」
 梨緒子は美月の声に促されるようにして顔をそちらへ向けた。
 秀平の目の前に立っていたのは、なんと安藤類少年だった。
 すると。
 二言三言、なにか言葉を交わしたあと、二人は連れ立って正門へ向けて歩き出した。
 梨緒子と美月は言葉を失ったまま、秀平と類が一緒に帰っていく後姿を、しばらく見送っていた。
 そして残るのは、疑問の数々。
「他の女じゃなかっただけましだけど……なんで、ルイ?」
「分かんない……秀平くん、いまさらルイくんに何するつもりなんだろう」
「明日さ、類から聞きだしてみようか?」
 美月の提案に、梨緒子は素直に頷いた。
 動悸が収まらない。
 なぜだろう。どうしてだろう。
 梨緒子は、彼らに何事も起こらないことを祈るばかりだった。


 その日の夕方――。
「ねえねえ優作先生、秀平くんがおかしいの!」
 梨緒子は帰ってくるなり、いつものように待っていた家庭教師に、事の顛末を打ち明けた。
 すでに勉強そっちのけである。
「おかしい? どんな風に?」
 優作はそんな梨緒子を優しく見守り、穏やかに笑いながらその話に聞き入っている。
「私ね、完全に相手にされなくなってて……そしたら今度はルイくんに近づいてる」
「秀平が? へえ、珍しいこともあるもんだね」
「優作先生ってば、そんなのん気な……どうして? 何でそうなるの? まったく意味分からない」
「本人に聞いてみたら?」
 至極ごもっともな答えが返ってくる。
 優作に聞いてもその理由は分かるまい。当の本人だけが知っていることなのだから。
 しかし。
「……話しかけても、適当にあしらわれるだけだよ、きっと」
 梨緒子は帰り際の秀平とのやり取りを思い出し、深々とため息をついた。
「守って欲しいと思ってるわけじゃないよ。秀平くんの迷惑になるくらいなら、一人で耐えるほうがはるかにマシ。……でも」
「でも?」
 優作はゆっくりと聞き返す。
 梨緒子は少し考え、その思いを言葉にまとめた。
「なんか、さみしい……かなーって」
「ねえ、梨緒子ちゃん」
「なに?」
「きっと秀平も同じ気持ちなんじゃないのかな」
 優作の言葉に、梨緒子は目からうろこが落ちたような気持ちになった。

 ――同じ、気持ち?

「梨緒子ちゃんはもう分かっているはずだよ、秀平のことをね。意味分からないとか言っていても、秀平のすべてを受け入れようとしてる」
「うん。でも友達にね、そんなの間違ってるって、そう言われちゃった……」
 優作はセンターテーブルに肘杖をつき、あれこれ考えを巡らせているようだった。
 否定も肯定もしない。
 優作はくしゃりと髪を無造作にかき上げながら、梨緒子にさらりと告げた。
「僕から一つだけ確かに言えるのは――梨緒子ちゃんは秀平にとって唯一の、必要な人間だよ」
 目と目が合う。たれ気味の目がしっかりと梨緒子の瞳をとらえている。
 決してうわべだけの言葉ではない。梨緒子の心の中に真っ直ぐに響いてくる。
「唯一……ってことはないと思うけど」
 その梨緒子の消極的な言葉を聞き、優作はさらに付け加えるようにして説明した。
「好きとか愛してるとかそういう感情以上の、なんていうんだろうな、ああいう他人になかなか理解されない人間のことを無条件に受け入れてくれる存在っていうのはね、唯一無二、特別なんだよ、やっぱり。梨緒子ちゃんだって、それを感じてるだろう?」

【俺の側にいて。一緒に行こう、北海道へ。】

【……譲れない、誰にも。】

【一緒にいてくれて、ありがとう。】

【特別扱いって…………当たり前だろそんなの】

 秀平の言葉が、色褪せることなく鮮やかに浮かび上がる。
 そのすべてが、自分が彼の『特別』であるという証なのだ。

 いつだってこの家庭教師の言うことは正しいのである。いつも梨緒子に、大切なことを思い出させてくれる。
「まずは勉強をやれるところまで頑張って、そのあとちゃんと秀平と話をすること。あいつ、遅くまで起きてるから、梨緒子ちゃんが寝る前にでも電話してみればいいよ」
 この人がいなかったら、いまごろ自分はどうなっていただろう。
 片想いの彼と同じ大学へ行くんだと無鉄砲なことばかり言って、彼と言葉を交わす勇気は相変わらず出ないまま、その他大勢の女子として物陰から彼の姿を見つめ、やっぱり近づけないとため息をついて。
 そうなっていただろうことは容易に想像できる。
 しかし、この永瀬優作という医学生が自分の家庭教師となってくれたお陰で、梨緒子の世界は一変した。
 単にそれは、優作が彼の実兄であるということだけではなく、優作の人柄によるところが大きいのだということに、梨緒子はようやく気づき始めていた。
「どうしたの?」
「優作先生がいないと、なんにもできないんだなー、私って」
 優作は不思議そうに首を傾げている。
 柔らかな空気が、緩やかな時間が、二人の間を流れている。
「もっと強くなりたい。ひとりでも、ちゃんと秀平くんに向き合えるようになりたい」
「大丈夫。大学に合格したら、ちゃんと僕から卒業できるよ。それまでは目一杯、頼ってくれていいからね」
「うん。優作先生、これからも宜しくね」
「はいはい、これからもずっとね」
 優作の穏やかな笑顔に、梨緒子は俄然勇気づけられる。
 寝る前に秀平に電話をしてみよう――そう心に決め、梨緒子はようやく問題集とノートを開いた。