伊達に腐れ縁じゃねぇよな。

 その日の個人授業が終わり、梨緒子は部屋をあとにする優作を見送った。
 帰り際、優作はドアのところで振り返り、梨緒子にしっかりと念を押すように言った。
「いい? 今夜、秀平にちゃんと電話するんだよ」
「うん、分かってる。出てくれるといいんだけど……どうだろ」
 梨緒子は自信なさげに言う。
 すると、優作は再び梨緒子の側まで戻り、右手をぽんと頭の上へ載せた。
 煙草の匂いがする――優作のシャツの香りだ。
「梨緒子ちゃん」
「なあに?」
「好きなら好きって、ストレートにぶつければいいんだよ。ついて行くとか行かないとか、そんな曖昧な言葉じゃなくてさ」
 艶のある声色。
 勉強を教えてくれているときの優作とは、そのまとう空気がまるで違う。
 家庭教師の中に『大人の男』を感じ取り、梨緒子はにわかに動揺した。
「男ってさ、結構単純な生き物なんだよ。たった一言で、命懸けで頑張れたりするんだから」
 優作は梨緒子の頭をぐるぐると撫で回し、いつもの人懐っこい穏やかな笑顔を見せた。
「試してみてね。それじゃあ、またあさって」

 ――ビックリした……なんか、優作先生じゃないみたい。



 午後十一時を過ぎた頃、梨緒子はようやく秀平の携帯に電話をかけてみることにした。
 秀平の携帯に電話をかけるのは二週間振りだった。そう発信履歴が残っている。
 そのときも大した用事ではなかったように記憶している。予定の確認のために三十秒ほど話しただけだ。
 付き合っているカップルらしく、梨緒子がきちんと秀平と電話をするのは、これが初めてだった。
 2コールで彼が出た。予想外に早い。
『はい、どうしたの?』
 秀平は名乗らなかった。相手が梨緒子だと分かったからだろう。
 梨緒子は、学校での秀平の素っ気ない態度を思い出し、どう話を進めていこうか悩んだ。
 聞きたいことは山ほどある。しかし、それをどういう順番で聞いていけばいいのか、きちんと整理できていなかった。
「あの、別に用事があったわけじゃなかったんだけど」
『今日、ちゃんと波多野にくっついて帰った?』
「え? うん……」
『それだったら、いいんだ。波多野といればとりあえず安心だから――』
 意外にも、秀平のほうから話題を振ってきた。それだけのことで、張り詰めていた緊張はわずかに緩む。
 そのときである。
 秀平は衝撃的な一言を発した。
『あのさ、しばらくこのまま、付き合うの止めたいんだけど』
「……う、嘘でしょ?」
『ホントだよ。俺と一緒にいたら、梨緒子が嫌がらせを受けるんだろ? だったら俺から距離を置けばいいだけの話だから』
 梨緒子には分かっていた。親友の美月が言っていたこととは違うのだろうと。
 面倒臭くなって見切りをつけようと、手のひらを返しているわけではない。
 梨緒子のことを考えて、あえて距離を置こうと言っているのである。
 しかし、どうにも納得がいかない。
「だったら、前もって言ってくれればよかったんじゃないの? いきなりあんなことされたら、……さみしすぎるよ。それに今日、ルイくんと帰ってたでしょ?」
『うん。ちゃんと言っただろ、別のヤツと帰るって』
「だったら初めから『安藤と帰るよ』って言ってくれればよかったじゃない! もう……私がどれだけ悲しかったか、秀平くん分かってる!?」
『何で、梨緒子が悲しむ必要があるの』
「何でって……ああいう風に言われたら、普通相手は女の子だと思うでしょ?」
『どうかしてるよ。俺のこと、そんな人間だと思ってたのか?』
 やはり秀平は自分から折れようとはしない。このままではまた、いつぞやのケンカの二の舞である。
 梨緒子はふと、優作がくれた助言を思い出した。

【男ってさ、結構単純な生き物なんだよ】

「秀平くん」
『何?』
「好き――」
 たった二文字の愛情表現。
 梨緒子は携帯を握り締め、震えるまぶたをしっかりと閉じた。
「大好き」
 向こうから声が返ってこない。彼の穏やかな吐息だけが、微かに耳につく。
「何しても何されても、とにかく好き」
『…………ああ、そう』
 ようやく、秀平が言葉を発した。その唖然とした表情が目に浮かぶ。
 なけなしの勇気を振り絞り、返ってきたのはたったの四文字。
 梨緒子はどっと疲れを覚えた。思わず愚痴が口をついて出る。
「ああ、そうって、それだけ?」
『いきなりそんなこと言われて、他になんて言えばいいんだよ』
「俺のほうがもっともっと好きーっ! とか」
『そんな安っぽいドラマみたいなキザなこと、頼まれたって言わない』
 優作の助言は、少なからず効果があったようだ。
 意地になっている秀平の口ぶりが、梨緒子は可笑しくてしょうがなかった。


 やがて秀平は、梨緒子が聞きたかったことを自分から語りだした。
 それはもちろん秀平と類のことである。
 何もなければそれに越したことはないのだが――これまでの出来事を思い返すと、何事もなくすませられるとは到底考えにくい。
『俺、しばらく安藤と帰るから。……ただ距離を置くんじゃ、梨緒子を守ってやれないから――ちゃんと安藤と話そうと思って』
「どういうこと?」
『嫌がらせってさ、どう考えても俺のことを好きと嫌いとかじゃなく、むしろ安藤なんじゃないかって』
 秀平の説明に、梨緒子は驚きを隠せなかった。
 梨緒子への嫌がらせは、自分のせいではないと秀平は言う。
 むしろその原因は、梨緒子の元彼・安藤類にある――と。
『俺と梨緒子が仲良くすればするほど、安藤が惨めに見えるんだろうな。まあ、当の本人はそう思ってないだろうけど。でもさ、やっぱりちゃんと安藤と話をしなくちゃ駄目なんだって。梨緒子の側にいるだけじゃ、何も解決しないんだって』
「秀平くん……」
『別に安藤とケンカしてるわけじゃないけど、仲良くないのは確かだから――余計に梨緒子が悪者にされるんだろうなって思った。もともと仲良くないのに、そのせいで仲が悪くなってるんだと勘違いされて』
 これが、秀平が「考える時間」を経て得た結論。
 彼女を守るために側にいるとかいないとか、大切なのはそこではない――と。
 梨緒子は、秀平の思いで胸が一杯になった。
『これで嫌がらせがなくなるかどうかは、まだ分からないけど』
「秀平くん、ゴメンね」
『何で謝るの』
「こんな時期に、余計な気遣いさせちゃって、本当に……」
『あと四ヶ月で卒業だから。それまで頑張ろう』

 頑張れ、ではない。

 ――『頑張ろう』だって。

『梨緒子、いまどんな格好?』
 秀平は突然、奇妙なことを言い出した。
 電話越しでお互いの姿は見えないとはいえ、その質問の必要性が、梨緒子にはいまいちよく分からない。
「どんな、って?」
『お風呂上がり? もうパジャマなの?』
「…………そうだけど」
 どんな想像をされているのだろう――梨緒子は電話を握り締め、一人焦った。
 実際にパジャマ姿を見られるよりも、はるかに気恥ずかしさを覚えてしまう。
 いま、彼の頭の中にパジャマ姿の自分がいる。
『じゃあ、その上にコート着て』
「は?」
 秀平は淡々と要求してくる。
 梨緒子は途惑いながらも彼の言う通りにした。携帯を耳と肩とで挟んだまま、クローゼットを開けて厚手のコートを取り出す。
『着た? そしたら部屋の明かり消して』
 要求はどんどん増えていく。
 何をさせたいのだろうか。梨緒子はコートの袖に腕を通しつつ、言われるがまま、壁に設置された部屋の照明スイッチをオフにした。
 一瞬にして部屋は暗闇に包まれる。当然のことながら、何も見えない。
 やがて目が慣れてぼんやりと部屋の様子が浮かび上がってきた頃、再び秀平の声が携帯越しに聞こえてきた。
『それじゃ、カーテンと窓を開けて。今夜は星がとても綺麗だよ』

 ――そういうこと、か。

 梨緒子は部屋のカーテンを開いた。ガラスが冷たい。
 窓を開けると、身を突き刺すような冴えた空気が、部屋の中へと入り込んでくる。空気が乾燥しているためその冷涼感が心地いい。
 見上げるとそこには、澄み切った紺碧の星空が広がっていた。
「すごい……キレイ」
『さすがに北海道のようには行かないけどさ。街の灯りが邪魔してる』
「秀平くんも、いまこの星を見てるの?」
『見てるよ。東寄りのところにオリオン座が見えてる。そのすぐ北はおうし座とふたご座。南のほうにはおおいぬ座も見えてるかな……分かる? ちょうど犬の口が一等星のシリウスだから』
 秀才らしい彼の説明が、電話越しに淡々と響いてくる。
 整った容姿だけでなく、秀平は何をやらせてもソツがない。いろいろな知識を持っていて、梨緒子はいつでも彼を尊敬してしまう。
 冷たそうでいて、その実、本当に優しい心を持っている。それを滅多に表に出さないため、周囲の人間からあれこれと言われ、騒がれて。
 愛おしい――梨緒子は心の底からそう思った。

『梨緒子博士によると、今日は七夕じゃないから、天の川は流れていなくて、彦星と織姫は逢えないんだったっけ?』
「……もう」
『天の川はいつでもそこにあるけどね。24時間365日、この地球上のどこにいても』
「もう、分かったって。そんなに何度も何度も、馬鹿にしなくたっていいじゃない」
 こうやってからかわれることにも、梨緒子は嬉しさを感じていた。
 彼は自分にだけ、こうなのだ。

 ――そう、これも『特別の証』。

『星は、昼間だって自分たちの真上で輝いてる。太陽の光のせいで、肉眼では見えないけど』
 梨緒子は秀平の説明に耳を傾けていた。
 寒空の星を一つ一つ繋ぎ合わせ、知っている星座を見つけていく。
 やがて、長い沈黙が訪れた。
 どのくらいそうしていただろう。携帯の向こうからようやく秀平の声が聞こえてくる。
『だからさ、つまり……そういうことだから』
「そういうことって?」
 どこから話が続いているのか、よく分からない。梨緒子は素直に聞き返した。
『真昼の星と同じ。見えていなくても、そこにある――側にいなくても、いつもちゃんと梨緒子のこと考えてる』
「…………」
 言葉が上手く出てこない。
『本当だよ』
 梨緒子が返事もできずに黙っていると、電話の向こうで突然、秀平は軽く噴き出すようにして笑い出した。
「秀平くん? ……どうしたの、なんか可笑しかった?」
『別に。何でもない』
「別にって……そんなわけないでしょ? 秀平くんってば、すぐそうやってはぐらかす!」
 秀平はいつまでもいつまでも笑い続けている。
『いや……なんか俺、恥ずかしいくらいキザなこと言った気がした。絶対言わないって、さっき言ってたばかりなのに』
 照れたように笑い続けている秀平に、梨緒子の心はかき乱される。
 悩みなど、どうでもよくなってしまった。

 ――不安になる必要なんて、どこにもなかった。

 彼と同じものを見て、彼の声を聞いて。
 それだけで、わだかまりがすべて解き放たれる。
『それよりさ、ちゃんと勉強してる? 兄貴は梨緒子に甘いから、心配でしょうがない』
「秀平くんこそ、成績いいからって油断してたら駄目なんだからね?」
『分かってるよ』
「明日からね、メールしてもいい?」
『寝る前に、一日一回限定でなら。ダラダラしてたら、お互いのためにならないから』
 やはり。秀平からは条件がつけられた。
 これでは、たわいもないメールなどは送れそうにない。
 しかし、とても彼らしいな――と梨緒子は思った。
「厳しいなあ、もう。じゃあ、毎日怨念込めてメールしてやるー」
『待ってるよ。どうせそっちのほうが早く寝るだろうし』
「私だって勉強頑張るもん。じゃあね」
『うん。梨緒子――おやすみ』
 通話が途切れてからも、梨緒子はしばらくの間携帯を握り締め、満天の星空を眺めていた。



 次の日――。
 一時間目が終わり休み時間になると、美月は類を引っ張って梨緒子の席へとやってきた。
 もちろん、昨日の帰りの出来事を聞き出すためである。
 梨緒子はすでにその一件はどうでもよくなっていたのだが、類がどういう風に思っているのか、それが少し気掛かりになっていた。
「ちょっとルイ。あんた昨日、永瀬くんとなに話してたの?」
「なにって……別に何にも」
 類はしらばっくれようと、あらぬ方角を見ている。明らかに面倒臭がっている。
 しかし、そこは幼馴染の強み、美月はひるまず類少年に詰め寄っていく。
「隠さないで言いなさい。何もなくて、あの永瀬秀平がルイと帰ろうとするはずがないでしょ?」
「俺だってイヤだったよ。なんか周りで、みんなごちゃごちゃ言ってるしよー」
「ごちゃごちゃ?」
 美月の強い問い詰めに、ルイは梨緒子をちらりと見て言いにくそうにしながらも、観念したように白状した。
「……だからさ、新旧・彼氏対決、みたいなニュアンスのことだよ」
「じゃあ、永瀬くんから梨緒ちゃんのこと、何か言われたりしたんだ?」
「言われてねーよ。だったら話は分かるのに、永瀬のやつ、俺の志望校の話とか全然関係ないことばっかり。しかも当分一緒に帰るつもりらしいし。さっぱり分かんねー。どうなってんだよ、リオ?」
「さあ、よく分かんないなー。あ、私ね、受験終わるまでは、秀平くんと距離を置くことにしたから」
 梨緒子は、類と美月にさらりと告げた。
 幼馴染二人は驚愕の面貌で、お互い顔を見合わせている。梨緒子の態度に迷いがまったく見られないことも、その驚きの一つだろう。
 美月は訝しげな眼差しを向けつつ、これ見よがしに大きくため息を一つついてみせる。
「いいの、梨緒ちゃん? また永瀬くんの言いなりじゃないの、それ」
「そういう人だから、秀平くんは。これできっと嫌がらせも減ると思うし、ちょうどいいよ」
「梨緒ちゃんって、ホント……馬鹿」
 他の人に理解されなくても、梨緒子は構わなかった。
 いつでも彼の心がすぐ側にあるということ。

 梨緒子は空を見上げた。
 青空の向こうにある、昼間は見えぬ星の存在を、その身にしっかりと受け止める。

「で? どうして俺一人がとばっちり食うわけ?」
「確かにねー。これから永瀬くんと二人、毎日一緒に帰るんだもんねー?」
 美月が類を冷やかすように言った。
 しばらくは周囲の好奇の視線も収まらないだろう。
「ルイくん……ひょっとして迷惑?」
 梨緒子のすがるような眼差しに、類はあっけなく陥落した。
「永瀬が突っかかって来なけりゃ別に、俺は誰でも来るもの拒まずがモットーだから。まあ、あいつのほうが先に音をあげるんじゃね?」
「心広いのねー。そのお人好しっぷりはあんたの唯一の長所かも」
 美月が毒づくと、類は軽く睨みをきかせた。
「ありがとう、ルイくん」
 類は照れたように笑いつつも、自分のおせっかいな性分には、ほとほと呆れ返っているようだ。
「ハッ、伊達に腐れ縁じゃねぇよな……言っとくけど、優しくなんかしてやらねえからな」
 すると美月は、再び容赦ない一言を幼馴染にくれた。
「大丈夫。それを慰めるのは梨緒ちゃんの役目だから。思う存分、痛めつけてやれば?」
「うっ……心の中の天使と悪魔が闘うなー、それって」
 心中複雑そうな類の微妙な表情を見て、梨緒子と美月は顔を見合わせ、そして笑った。