ずっと、隣りにいるから。

 梨緒子がその違和感に気づいたのは、放課後になってからのことだった。
「あれ、秀平くんのカバンがまだある……」
 帰りのホームルームまでは、ちゃんと席に座っていたことを確認している。間違えるはずはない。
 梨緒子はコートを羽織り身支度を整えながら、一緒に帰るためにやってきた親友の美月に話しかけた。
「いっつも教室からすぐいなくなるのに、どこ行っちゃったんだろ?」
「さあ……ルイ、今日は一緒に帰らないの?」
 美月はすぐ側の席で同じように帰り支度をしていた類に、意味ありげな笑みで問いかけた。
 すると類は、大袈裟に肩をすくめて、吐き捨てるように答えた。
「んな、女みたいに毎日毎日四六時中一緒に帰るわけねーだろ。どうせ図書館にでも行ってるんじゃねーの?」
「はは、だよねー。帰ろう、梨緒ちゃん」
 梨緒子はどうもスッキリしなかった。
 理由は分からない。
 確かめたところで一緒に帰るわけではないのだが――。
 梨緒子は目の前の二人に向かって、軽く両手を合わせた。
「ゴメン。私、吉倉先生に呼ばれてたんだった。美月ちゃん、ルイくんと帰って」
「ええ? まあ、いいけど……」
「まあ、ってなんだよ。まあって」
 梨緒子は二人の背中に手を振りながら、大きなため息をひとつついた。

 ――呼ばれてるなんて、嘘ついちゃった……。

 類少年はああ言っていたものの、梨緒子には違うとすぐに分かった。
 秀平が教室に荷物を置いたままにして、図書館に行くはずがないのである。
 目立った行動をして嫌がらせを受けないために――と、秀平と梨緒子は一緒に帰らないと約束している。
 しかし。
 たとえ一緒に帰る事ができなくても、せめて秀平がどこで何をしているのかは知りたい。
 彼の姿を遠くからでも確認して、それから帰ろうと梨緒子は考えた。

 第一職員室。
 第二職員室。
 進路指導室。
 念のため、図書館のいつもの席。
 昇降口の彼の靴箱には、外履きが入ったままだ。

 ――どこに行っちゃったんだろう?

 梨緒子は再び教室へと戻ってきた。
 すでに同級生たちの姿はない。閑散としている。
 そしてやはりそこには、秀平のカバンが残されていた。
 確かに本人のものである。その証拠に、梨緒子とおそろいのストラップ風星飾りが付けられている。
 梨緒子は辺りを見回し、窓の外に人影がないことを確認すると、秀平のカバンを抱きかかえた。
 サイドポケットを布の上から探ると、携帯らしきものが触れる。秀平は当然、いま携帯を所持していないということになる。

 ――これじゃ連絡も取れないし……。

 その時である。

 カバンの持ち主がようやく姿を現した。
 梨緒子は驚きのあまり、持っていた秀平のカバンを床に落としてしまった。
 驚いたのは、秀平の登場にではない。
 その顔色の悪さに、である。
「梨緒子、帰ったんじゃなかったの?」
「いや……あの、ちょっと気になって」
 梨緒子はとっさに秀平の額に手を当てた。
 すると。
「ちょ……何するんだよ」
 突然の出来事に驚いたのか、秀平は梨緒子の手を振り払うようにして、あとずさった。
「もう秀平くん、じっとしてて!」
 とても熱い。
 温もりなどという生易しいものではない。
「秀平くん、いままでどこにいたの?」
「……保健室」
 秀平は梨緒子が落とした自分のカバンを床から拾い上げ、それを肩から提げた。
 涼しい顔をして梨緒子に背を向けると、それじゃ、とひとこと言い残し、そのまま教室を出て行こうとする。
 梨緒子は慌てて秀平の腕を掴み、引き止めた。
「秀平くん待って! 家まで送っていく!」
「いいよ、一人で」
「よくないよ!」
「一緒に帰らないって、言っただろ」
 梨緒子の制止を振り切って、秀平は尚も教室の外へ出ようとする。
 この人はどうしてこうなのだろう――あまりにも真っ直ぐすぎる。
「どうしてそんなに頑固なの? そんなの場合によりけりでしょ」
「うつったらどうするんだ。だからわざわざこうやって、みんな帰るの見計らって保健室から出てきたのに」
「それじゃ一メートル後ろくっついていくもん。たまたま同じ道帰るだけだから。一緒に帰るんじゃないから! それでも駄目?」
 梨緒子の勢いに押されたのか、秀平は困惑の表情をあらわにした。
「…………頑固なのはどっちだよ」
 あきらめたような深いため息が、彼の口からもれる。
 それ以上、秀平が梨緒子の「提案」という名の「誘い」を拒むことはなかった。


 帰途につく間、秀平はいつもにもまして無口だった。
 足取りはしっかりしているが、やはり熱のせいかときおりふらつく。
 玄関の前まで送り届け、梨緒子はその場で秀平の様子をうかがった。
 やはり、おかしい。
 鍵穴に鍵を上手く差し込めないのか――玄関脇の外壁に背を預けて、苦しげに呼吸を繰り返している。
「貸して。私がやる」
 梨緒子は秀平の手から鍵をとった。
 秀平は返事もせずに、梨緒子の作業の様子を見守っている。
 鍵はすんなりと開いた。
 梨緒子は秀平と腕を組んで、半ば身体を支えるようにして家の中へと入った。
 学校にいるときとは違い、秀平はもう梨緒子の行動を避けようとはしなかった。
 人の目を気にする必要がないという安心感からか、それとも相当体調が悪化しているのか――。
 わずかながらも、秀平が無意識のうちにかけてくる身体の重みが心地いい――梨緒子は不謹慎ながらも、嬉しさをひしひしと噛み締めていた。


 階段をやっと上がり、二人はようやく部屋まで辿り着いた。
 秀平は梨緒子の支えを離し、ベッドの端へ座り込んだ。ネクタイを緩めて、もどかしそうに外す。
「秀平くんのお母さんは、いつ帰ってくるの?」
「さあ……十時前くらいかな。あの人、忙しいから」
「十時!? 連絡したほうがいいんじゃない?」
「いいよ別に。一人は慣れてる」
 秀平はさらりと言う。
 その淡々とした物言いが、梨緒子の不安をよりいっそう大きくさせる。
「だったらお父さんは? 優作先生は?」
「父親は出張中。兄貴は気まぐれだから、よく分からない」
 鍵も開けられないほどに、高熱で意識が朦朧としているというのに。
 家族はいつ帰ってくるか分からない、なんて。
 どうするのだろう。どうしたらいいのだろう。
 このままじゃ――どうしよう。
 梨緒子の頭はぐるぐる回っている。
「そろそろ帰って。少し眠りたい」
「だって……」
「うつすといけないから、早く」
 秀平はキッパリと言い切った。
「薬は? お水は? 手元に用意しないと――」
「梨緒子」
 諌めるような彼の低い声が、梨緒子の耳に届く。
 怖い、でも。
 梨緒子は首を横に振った。
「いや。ここにいる」
「一人でできるから」
「そんなの駄目。せめて、せめて優作先生が帰ってくるまで、ここにいさせて」
 梨緒子の必死の頼みも、秀平はあっさりと一蹴した。
「いいから暗くなる前に早く帰って。今日は送って行ってあげられそうにないから。帰ったらちゃんと勉強して。分かった?」
「…………はい」
 このまま言い合いを続けていても、秀平の体力を奪うだけだ。
 秀平はどんなことがあっても自分からは折れないだろう――梨緒子は渋々引き下がった。
 その様子を見て安心したのか、秀平の表情がようやく緩む。
「下まで送っていくよ」
「いい、秀平くんはこのまま寝てて。何かあったら、電話でもメールでもして! 絶対だよ?」
「分かったから。じゃあ気をつけて、早く帰って」
 秀平は、梨緒子をつけ離すような態度を最後まで、頑なに崩そうとはしなかった。


 永瀬家の階段を下りながら、梨緒子の胸は不安で一杯だった。
 いったいいま、どのくらいの熱があるのだろうか。
 他人の家では、体温計の場所も分からない。
 新しいものを薬局で買ってくるか、優作の大学まで行って体温計と救急箱の場所を聞いてくるか、それとも自分の家まで取りに行ってまた戻ってくるか。
 看護師を志望している身であるはずなのに、あまりにも頼りない。
 廊下を進み、玄関で靴を履こうとしてふと、梨緒子は気づく。

 ――あ、どうしよう、鍵……。

 このまま外へ出ては、あまりにも無用心である。
 かといって、もう一度秀平に鍵を掛けに玄関まで下りてこさせるのも、酷な話である。

 夜遅くまで仕事をする母親。
 出張中で帰らない父親。
 携帯を持たない気まぐれな大学生の兄。

 そして、いま自分にできること。

【僕から一つだけ確かに言えるのは――梨緒子ちゃんは秀平にとって唯一の、必要な人間だよ】

 ふと、梨緒子の脳裏に、家庭教師である優作の言葉がよみがえった。

【ああいう他人になかなか理解されない人間のことを無条件に受け入れてくれる存在っていうのはね、唯一無二、特別なんだよ、やっぱり】

 思っていることを素直に表に出すのが不得手な彼。
 早く帰って勉強しろと、何度も何度も繰り返す彼。

 薫ちゃんを呼ぶ? それとも美月ちゃん? ルイくん?
 梨緒子は携帯を取り出し、電話帳の一覧画面を眺める。
 何が欲しい?
 体温計? 薬? 水? おかゆ? 果物? プリン?

 ――秀平くんが、本当に欲しいもの……。

 梨緒子は迷った挙句、携帯の画面を閉じた。
 そして再び思い直して、履きかけていた靴を脱ぎ、勝手に永瀬家の台所へと侵入することにした。
 見慣れぬ台所とはいえ、基本は一緒だろう。
 梨緒子は緊張しながらも、足音を発てないようにしてあちこち動き回った。
 ようやく、シンクの下の引出しからガラスの大きなボウルを見つけると、冷凍庫の製氷ボックスから氷を取り出して、その中に入れた。

 ――これで、よし。

 蛇口から水を半分ほど入れ、それを音を発てないように抱えて階段を上り、再び秀平の部屋へと戻った。


 梨緒子が部屋をあとにしてからすぐに眠りについたらしい。秀平は梨緒子が戻ってきた物音にも気づかない。
 持ってきた氷水入りのボウルをベッドの側に置き、その横に梨緒子はゆっくりと座った。掛け布団の端に両肘をついて、横たわる秀平を間近で隅々観察をする。

 ――秀平くんって、寝相めちゃくちゃいいんだな……。

 真っ直ぐと天井を向いた状態で、寝息を発てている。
 かすかに寄せられる眉間のしわが苦しげだ。
 睫毛が長く、まぶたにはくっきりとした二重の跡がある。

 この寝顔をいつまでも独り占めしたい――梨緒子は思った。

 こうやって、閉ざされた空間の中で二人きりというのは初めてだった。
 今まで二人一緒のことはあっても、図書館だったりカフェだったり――公共の要素を残すところばかりだったが、彼の部屋というプライベートな場所で、家族もまだ帰ってきていないという状況で。
 ここはいままさに、特別な領域――。

 額には汗が光っている。
 この頭の中には優秀な頭脳がみっちりと詰まっている。どんな難しい問題でも、一瞬にして答えを導き出せる。
 そしてこの唇で――彼は自分にキスをした。
 しかしそれはもう、ずっとずっと遠い昔の出来事のような気がしていた。

 ――あれ以来、秀平くんはそんなこと全然してこないし。

 一瞬だった気もする。
 でもよくよく思い出してみると、あの暗闇の中で彼にキスをされているんだと認識できるほどの時間はあったわけなのだから――。
 梨緒子は秀平の寝顔を眺めながら、込み上げてくる恥ずかしさと一人闘っていた。
 受験間近で、そんなことを考えている場合ではない――というのに。


 梨緒子は自分のハンカチを取り出して、それを台所から持ってきたボウルの氷水に浸した。
 袖を少しまくり、刺すような冷たさの氷水に手を入れてハンカチを固く絞る。すると、氷の塊がガラスボウルの側面に当たり、涼しげな音を発てた。
 梨緒子は膝立ちになった。そして、秀平の前髪を軽くなで上げるようにして、そっと額に冷たいハンカチを載せた。
 瞬間。
 閉じられていた秀平の瞳が、ゆっくりと開かれた。
「起こしちゃった? ゴメンね」
 梨緒子は秀平の顔を覗き込むようにして、囁くように言った。
 すると、当然の反応が返ってくる。
「……何やってるの」
 いないはずの人間が目の前にいる――そんな驚きが声色から伝わってくる。
「安心して。ずっと、隣りにいるから」
 何か言いたげな秀平の唇が微かに動く。しかし言葉にならないのか、出るのは途惑いの吐息ばかり。
 秀平は熱で充血した目を、不思議そうに何度も何度も瞬かせていた。