構ってくれる?

 熱で潤んだ瞳が、じっと梨緒子の顔を見つめていた。
 額に置かれた冷たいハンカチが気になるらしい。秀平は枕の上で頭をもどかしげにゆっくりと動かし、苦しげな呼吸を繰り返す。
「ごめんね。秀平くんが苦しんでるのに、こんなことくらいしかしてあげられない」
「だから、早く帰らないとうつるって――」
「うつるならもうとっくにうつってる。いまさら帰ったって遅いもん」
 梨緒子は秀平の言葉を遮るようにして言った。
 すると。
「……どうかしてるよ」
 それ以上、秀平は梨緒子を追い返そうとするのを止めた。

 やがて静寂が訪れた。
 先程までとは違い、秀平の両目は開かれた状態のまま、その身をベッドに横たえている。

 秀平の額から熱を吸い取って温もったハンカチを取り、再びボウルの氷水の中に浸した。刺すように冷たい水を固く絞り、秀平の額にそれを載せ直す。
 その冷ややかな感触に驚いたように、秀平は微かに眉を寄せた。
「……どうしてここまでするの」
 秀平は横たわったまま、掛け布団の中から尋ねてくる。
「どうしてここまで――できるの」
「秀平くんだって、そうだったじゃない?」
 眉目秀麗で、文武両道で、いつも一人クールに振る舞って。
 そっけない態度と言葉で、何度も自分を苦しめて。
 でもそれは全て、彼の不安から来る自衛の表れなのだと、梨緒子は彼の側にいるようになってそれをようやく理解できた。
 だから、何度も何度も試される。
 本当に愛し、そして愛されているのかを。
「私が階段から落ちて保健室に連れて行かれたとき、枕元でこうやって見ててくれた」
「あの時は……別にずっと側についてたわけじゃないし――」
 秀平は視線をそらした。おそらく喋る気力を無くしたのだろう。
 揺れる睫毛の緩やかな動きを、そのまま梨緒子は目で追っていた。


 しばらくして、優作が帰ってきた。梨緒子にはその足音ですぐに判断がついた。
 予想外に早い帰宅である。
 梨緒子は胸を撫で下ろした。秀平の部屋を出て、向かい合う優作の部屋の前で待ち伏せし、階段を上ってきた本人をつかまえる。
「優作先生!」
「あれ、梨緒子ちゃん? いらっしゃい」
 優作はいつもと変わらぬ人懐っこい笑顔を梨緒子に向けている。
 あごには無精ひげ、そしてコートとマフラーは黒。近づくに連れ、煙草の香りが梨緒子の鼻についてくる。
 自分の家の中に梨緒子がいてもまったく驚く様子は見せない。
 梨緒子の家にいるときは、勉強を見ている『生徒』という扱いをするが、ここでは『弟の彼女』だ。優作の中では、梨緒子は将来的に義理妹になるのだと決め込んでいるため、『お客様』という意識はほとんどないようだ。
「早く帰ってきてくれてよかった。秀平くんがひどい熱出して、私どうしていいか分からなくて……」
「熱? どれどれ」
 優作は梨緒子に促されるがままに、秀平の部屋の中へと入っていく。
 そしてそのまま素早くベッドに近づき、横たわる弟の首筋に自分の手の甲を当てた。
「八度ちょいくらいかなあ。頭痛は? お腹は? 吐き気はする?」
「すごい! 優作先生、本物のお医者さんみたい!」
「梨緒子ちゃんだって、すぐにこれくらいのことはできるようになるよ。いつから? 昨夜? 今朝?」
「今朝……」
「ちゃんと言えばいいだろう。本当にお前は馬鹿なんだから。梨緒子ちゃんにうつしたら、どう責任とるつもり?」
「俺は帰れって言ったんだ。でも――」
「梨緒子ちゃんがお前を放っておいて帰るような人間じゃないことは、お前自身が一番よく知ってるはずだろう?」
 秀平は黙って、顔をそむけるようにして寝返りをうった。
「ありがとうね、梨緒子ちゃん。僕が家まで送っていくから。いい、秀平? 帰りに必要なもの、買ってきてやるから」
「……兄貴、行く前に水、持ってきて欲しいんだけど。あと氷枕も」
 掛け布団に包まり背中を向けたまま、秀平は言った。
「はいはい、患者様。梨緒子ちゃん、もうちょっとここで待っててね」
 優作が部屋を出ていくと、部屋には秀平と梨緒子が二人が残された。
 突然、部屋の主が掛け布団をはぎ、よろめきながらベッドから身体を起こした。
「寝てなくちゃダメだよ」
「トイレ」
「あ……それなら仕方ない、よね」
 秀平は床に足を下ろし、ベッドの端に腰かける格好になる。
 立ち上がる力が残っていないのか、いつまで経っても部屋を出る気配をみせない。だるそうに首を振り、血の気のない青白い顔を側に座る梨緒子に向けている。
 立ち上がらせる手助けをしようと、梨緒子が彼の腕に手を伸ばしかけた、その時――。
「あのさ」
 秀平は唐突に切り出した。
「本当に……俺のこと好き?」
「ど、どうしたの突然?」
「この間、電話でそう言ってたけど――」
 その時のことは、梨緒子もハッキリと覚えている。
 優作からの助言で、なけなしの勇気を振り絞り、彼にその想いをストレートにぶつけたのだ。
 それに対する秀平の反応がそっけなかったことも、しっかりと梨緒子の記憶にある。
 しかしあれは電話だから言えた事だ。さすがに面と向かって聞かれると、なんとも答えづらい。
 梨緒子は返事ができずにいた。
 すると。
「……本当は、兄貴のことが好きなんじゃないの?」
 信じられないような言葉が、最愛の彼氏の口から吐き出された。
 梨緒子は頭が真っ白になった。
 室内の風景が、徐々に霞んでいく。
「俺、前からそう思ってた」
 まさに絶句。
 この世の全てが止まってしまったような錯覚。
「いつだって梨緒子が頼るのは、やっぱり兄貴のほうだし」
「それは――」
「向いてると思うよ」
「えっ?」
「梨緒子は看護師に向いてる、きっと。兄貴とお似合いだ」
 完全に、言葉を失ってしまった。
 いままで嫉妬心を見せることはあったが、こんなにもはっきりと秀平がそれを表したのは、初めてのことだった。
 驚き。そして途惑い。
「……不安なんだ。どうしていいか分からないというか。最近の俺たちは付き合ってるんだか付き合ってないんだかよく分からないし」

 ――だって、それは秀平くんが。

「梨緒子が本当に北大についてくるのか、可能性は半々だし」

 ――それも、秀平くんが。

「全然、先が見えてこないし」

 ――もう。

 秀平は恐ろしく淡々とした口調だ。感情の起伏はほとんどみられない。
「いつも考えるんだ。俺は北大で大学生になってる。でも梨緒子はどうなってるのかよく見えてこない。いつも曖昧で霞がかかってる」
 なんと答えたらいいのか、梨緒子には分からなかった。
 想いが言葉にならない。
 しかし。
 不思議とショックではないことに、梨緒子はふと気がついた。
 ここまでハッキリと、思っていることを告げられたことはなかった。

 いままでに経験したことのない感情が湧き上がってくるのを、梨緒子は感じる。
 気づくと――梨緒子の身体は勝手に動いていた。

 机の上に放り出してあった秀平のカバンから、おそろいの星飾りを取り外した。
「……それ、どうするつもり?」
 持ち主の訝しげな眼差しが、不安に彩られる。
 予期せぬ梨緒子の行動に、秀平は途惑いの表情を浮かべている。
 梨緒子はありったけの極上スマイルを向けた。
「秀平くんのが『R』だから、これはつまり私でしょ? じゃあ、いまからおまじないかけちゃう!」
 梨緒子は星飾りに軽く口づけた。サテンの滑らかな感触を梨緒子は楽しむ。
 秀平は黙ったまま、梨緒子の仕草を眺めていた。
「早く病気が治りますように」
 梨緒子は自分が口づけたその星飾りを、秀平の唇に軽く触れるようにしてくっつけてやった。
「はい、チュー」
「…………」
「どう? 治った?」
 唇に星飾りを押し当てられたまま、秀平は身動き一つしない。ただ、その充血した熱っぽい両瞳が、何か言いたげにじっと梨緒子を見据えている。
「な、なんか言って?」
 口は不機嫌そうにへの字に曲がっていく。
 梨緒子が星飾りごと慌てて手を引っ込めると、秀平はようやく口を開いた。
「治るわけないだろ。俺そういうの信じないって、何度言ったら分かるんだよ……熱のせいで、頭が朦朧としてきた」
 秀平は再びベッドに横たわり、掛け布団に包まった。
 完全に背中を向けてしまっている。
「今度こそ帰って。梨緒子が側にいると、いつまで経っても熱が下がらない」
「……トイレは?」
「別に行きたくない――それ、ちゃんとカバンに付け直しておいて」
 そっけない態度に首を傾げるのもつかの間、ふと気がつくと、梨緒子の背後に水差しと氷枕を携えた優作が立っていた。
 優作は可笑しそうに身体を揺すって笑いながら、弟の行動を興味深げに眺めていた。


「あいつ、何だって?」
 部屋を出てるなり、優作は心配そうに尋ねた。
「なんかよく分かんないけど、私が側にいると熱が下がらないから、早く帰れだって……もう、あんなに怒らなくたって」
 梨緒子は深々とため息をついた。
 ニコリともせずに布団に包まり直す秀平の姿が、なかなか頭から離れない。
 明るく振る舞ったのは逆効果だったか――梨緒子は作戦失敗だったと悔やんだ。
「でもさ、梨緒子ちゃんにだけなんだよね。秀平がああやって怒るの」
「うん――分かってるよ」
「何か強くなったね、梨緒子ちゃん」
 優作は驚いたように目を瞠った。
「秀平くん、私が優作先生のこと、好きなんじゃないかって。そう言ってた」
「ふうん? でも、それは当然でしょ。梨緒子ちゃんと僕は、ずーっと前から相思相愛だから、ねえ?」
「ええ?」
 優作はおどけたように笑ってみせる。
 その笑顔につられ、思わず梨緒子も微笑んだ。
「梨緒子ちゃんは僕のこと大好きでしょ。僕も梨緒子ちゃんのこと大好きだ。だから、相思相愛」
 確かに、優作の言うことに間違いはない。
 しかし。
 秀平にそんな理屈が通用するのかどうか――おそらく答えはノーだ。
「大丈夫だよ。それ、カバンに付け直せって言ってたんだから。梨緒子ちゃんの『おまじない』が、ちゃーんと伝わった証拠だよ」
 優作は、梨緒子のカバンに付けられている秀平とおそろいの星飾りに目配せをした。
「うそ――先生、見てたの!?」
 梨緒子は驚きと恥ずかしさで、気が遠くなった。
 二人きりだと思っていたからこそ、勢いだけであんなことをしてしまったのだが――。
「顔が赤いよ? 梨緒子ちゃん、うつったんじゃないの?」
「……だ……大丈夫」
 うつむく梨緒子を見て、優作は楽しそうに笑った。
「さあ、梨緒子ちゃん。あの馬鹿の看病は僕に任せて、今度は自分のことにだけ構ってくれる? 帰ったらちゃんと勉強しないとね」
 秀平の不安を取り除くには、結局のところそれしかないのである。
 曖昧な未来が現実となる日は、もうすぐそこまでやって来ているのだから――。