やられた!

 冬休みに入ってからというもの、梨緒子はまさに問題集漬けの毎日を送っていた。
 四当五落とはよく言ったもの。現在の梨緒子の睡眠時間は、四時間を切る勢いだ。
 不思議と、睡眠不足で体調を崩すことはなかった。
 クリアしなければならない大きな大きな目標が、目の前に立ちはだかっているのである。疲れたなどと弱音を吐いている場合ではない。
 しかし。
 一分一秒、寝る間も惜しんで勉強しているが、どんなに時間を費やしても不安は拭えない。
 きちんと初詣で合格祈願しないと――そう思い立ち、梨緒子は兄と二人連れ立って、地元では学業の神様として有名な、とある神社を訪れた。


 三日ぶりに表の空気を吸う。頬に刺すような冷たい風が、とても心地よい。
 鈴の音が、新しい年の幕開けを告げている。
 参道は人また人、参拝客でごった返していた。まさに日本の正月の風物詩である。
 早々に参拝をすませると、兄の薫は高校時代の友人にさっそくつかまり、境内の隅でプチ同窓会となってしまった。遠方に進学就職した懐かしい顔ぶれを前に、地元に残る薫はいつになくテンションが上がっている。

 ――時間かかりそう……先に帰ろうかな。

 梨緒子がどうしたものかと思案していた、その時――。
「お、リオじゃん!」
 よく知る声に、梨緒子は背後の人込みを振り返った。
 そこに立っていたのは、私服姿の安藤類少年だった。
 別に驚くことではない。
 先程から、境内で同じ高校と思しき生徒たちの姿を、梨緒子は何人か見かけていた。この時期、考えることはみな同じなのだろう。
 類はコートのポケットに両手を突っ込んだまま、白い息を吐き、落ち着きなく辺りを見回している。
「リオ、一人なのか?」
「ううん、薫ちゃんと一緒」
「何だ、同じじゃん。俺も姉貴と一緒」
「うちのは『兄貴』ですけど」
 そうだったな、と類は愛想よく笑ってみせる。
 どうやら類の姉も、薫同様、古い友人につかまってしまったらしい。
「……つーかさ、永瀬は?」
 類の瞳が、不思議そうに瞬く。梨緒子が、付き合っているはずの彼氏と行動を共にしていないことが、類には不思議でたまらないらしい。
 梨緒子は首を傾げつつ、ゆっくりとため息をついた。
「秀平くんは、神頼みとかそういうの信じないから……たぶん、おうちで勉強してるんじゃない?」
「何だよ、『たぶん』って……まったくホントによー、俺、とことんあいつのこと理解できねー」
 梨緒子の答えは、類にとって不満だったようだ。空を見つめ、呆れ返ったような長いため息が、類の口から吐き出される。
「本当にちゃんと付き合ってるって言えるのか? お前たち」
「それは――ほら、だって受験前だし」
 そう言いつつも、実のところ梨緒子にもよく分かっていない。
 受験だから、というのは言い訳にすぎないのではないか――そんな気さえしてしまう。

 神社を訪れる人はさらに増えてきた。
 二人は参拝客の流れに思わず飲み込まれそうになってしまう。
 類は梨緒子を促し、比較的人の少ない、神木と思しき杉の巨木の側へと寄った。
 兄の薫も、類の姉も、いまだ戻ってくる気配がない。
 二人はお互いの連れが戻るまで、何となく話を続けていく。
「リオさ、やっぱ北大受けんの?」
「一応、チャレンジしてみるつもりだけど」
「永瀬もそれを望んでんのか?」
「…………たぶん」
 一緒に北海道へ行こうと、言われたことはある。
 しかし、どんどん状況は変わり、今現在も秀平がそう思っているのかどうか――梨緒子には断言できなかった。
「だったら、なおさらおかしいだろ。同じ大学にそろって合格したいと思ってるなら、一緒に願掛けに来るだろ、普通はよ?」
 梨緒子は、類の容赦ない言葉にわずかにひるんだ。

 ――同じ大学に、合格したいと思っているなら。

 自分の存在が、秀平を不安がらせている。
 どうしても北大に行きたいという彼の未来の足を、引っ張っている――梨緒子はそんな気がしてならなかった。
「私が秀平くんと首位を争うくらい成績が良かったらね、一緒にお参りに来てくれたかもしれない。でもね」
 類はじっと梨緒子の話に耳を傾けている。
「センター試験がもう目の前でね、もう理想や希望を追えないんだって、秀平くんも分かってるんだよ。秀平くんはきっと、私が北大に受からないんじゃないかって、そう思ってる」
「リオ……」
「一緒にいる時間が長ければ長いほど、別れるのがつらくなるでしょ? だから秀平くん、なるべく距離を置こうとしてるのかもしれない」
「違うだろ、それ。むしろ距離置こうとしてるの、リオのほうなんじゃないのか?」
 どうして、この人は。
 類のその眼差しには、嘘も曇りもない。
「なに弱気になってんだよ。受験は何が起こるか分かんねえんだから。家庭教師つけて、こんだけ頑張ってんだ。リオだって北大受かるかもしれないし、逆に、永瀬が受かるとは限らねえしよ? ああいう澄ましていい気になってるヤツが、本番でヘタこいたりするんだよ」
 そう言って、類は可笑しくなさそうに笑った。
 口は悪いが、それは全て梨緒子を励まそうと思ってのこと。
 優しさがちゃんと、その言葉から伝わってくる。


 そのときである。
 類の背後から、勢いよく女の子が飛びついてきた。
「あーっ、やっぱり類先輩だ! あけましておめでとうございます!」
「よぉ、雪菜じゃん。おめでとさん」
 目の前に突如現れた少女は、『雪菜』という名前に負けないほどの色白の美少女だ。大きな瞳と長い睫毛、そして長い黒髪が印象的で、服装も派手すぎず地味すぎず、まるでファッション雑誌から抜け出てきたような、そんな華がある。
 類は親しげに少女の下の名を呼び捨てしていた。
 梨緒子にはその少女に見覚えはない。類のことを『先輩』と言うからには、同じ学校の後輩なのだろう、と予想はついた。
「私、ポン太たちと一緒に来たんですよー。そうだ、類先輩! 来月の追いコン、うちの部みんなで乱入しようと思ってるんですけど、……ダメですか?」
「もう、全っ然OK。差し入れ大歓迎だから」
 類は満面の笑みを浮かべ、親指を立ててみせる。
 すると、少女の顔は花のように明るくほころんだ。
「ホントですか? やったぁ。じゃあ、よろしくお願いしまーす!」
 雪菜と呼ばれた少女は、立ち去り際に梨緒子の顔を冷ややかに見据えた。
 訝しげな目で見られている――その理由は、梨緒子にも何となく察しがつく。
 類は、後輩にかなり人気がある。
 秀平とは違い、遠巻きに崇められるということではなく、おせっかいなまでの面倒見の良さと持ち前の明るさで、気さくに言い寄られることが多い。
「和久井雪菜。うちの科学部の後輩の、その友達だよ。放送部の子」
 梨緒子が聞くより先に、類がそう説明をした。
「ルイくんって、ホント顔広いよね……」
「文化祭ん時に、放送室乗っ取ったろ? あの時に協力してくれたのが、雪菜だよ」
「へえ……」
 そんなこともあったな――梨緒子は懐かしく、三ヶ月ほど前の出来事を頭の中に蘇らせた。



 受験生はいつまでも正月気分に浸っている場合ではない。
 正月三日が過ぎ、四日からは冬期講習後半がスタートした。
 気合いを入れて、講習開始の一時間前に着くよう、梨緒子は学校に登校した。
 生徒昇降口に人影はない。閑散としている。この時間では登校してきている生徒は、全校でも数人程度であろう。

 足音がした。徐々にそれは大きくなる。
 まさか、という期待が梨緒子の胸に広がった。
 その期待は、現実のものとなる。
「久しぶりだね、秀平くん」
「うん」
 徐々に近づいてくる秀平は、どこか照れくさそうにして表情を緩める。靴を履き替えるその動作がいつになくゆっくりであることに、梨緒子はふと気づいた。
 緊張していないと言えば、それは嘘になる。しかし、その緊張感は未知の領域に足を踏み入れる前のものとは、まるで違っている。
「風邪はもう完全に治った?」
「お陰様で」
 淡々とした短い言葉の中にも、二人にしか分かり合えないものがたくさん込められている。
「あのさ、梨緒子」
「どうしたの?」
 秀平は先程から何度も周囲を見回し、辺りの気配をうかがっている。二人きりなのを確認すると、肩からカバンを下ろし、サイドポケットの中を探り始めた。
「遅くなったけど、返す」
 秀平はあるものを梨緒子の前に素早く差し出した。
 確かに見覚えがある。
 それは、梨緒子が秀平の看病をするために使ったハンカチに間違いはなかった。
「あ……別にいいのに。そんな新しいのじゃないし」
 第一、秀平の部屋にそのままおいてきたことを、梨緒子はすっかり忘れてしまっていたのである。お気に入りの雑貨屋で買った、普段使いの安物だ。似たような色柄のハンカチも持っている。決して、失くして惜しむような品ではない。
「じゃあこれ、俺がもらう」
「ええ? あ、いいよ」
 男の子が使うには派手な気もするが――しかし、そこまで詮索するのもどうかと思い、梨緒子は二つ返事で了承した。
 自分の持ち物だったものを、彼が欲しがる。
 そこに意味があるのかないのか、梨緒子には分からない。
 すると。
「代わりにこれ――」
 秀平は再びカバンのサイドポケットの中から、葉書大の紙袋を取り出した。
「この間のお礼というか、クリスマスのプレゼントというか……まあ、お年玉というか、なんていうかその――」
 秀平は普段と変わらず淡々とした口調だが、その内容はとりとめがなく散漫だ。
 目と目が合う。
 秀平は、梨緒子の反応をじっと待っている。
「これ私に? もらってもいいの?」
 梨緒子は小さな紙袋を受け取ると、すぐにそれを開封した。中を覗き込むと、ブランドのロゴをあしらった美しい彩色の布地が目に入る。
「ヴィヴィアンのハンカチだ! これ、結構高いんだよ?」
「高いって言ったって、ハンカチにしては、だろ」
「ホントに嬉しい。秀平くん、ありがとう」
 梨緒子がありったけの笑顔で応えると、秀平は無言のまま数度頷いた。
 すると。
 森閑としていた生徒昇降口に突如、女子生徒の大声が響き渡った。
「ちょっと待ってください、永瀬先輩!」
 すっかり二人きりだと思い込んでいたらしい秀平は、第三者の登場に柄にもなく慌てふためき、その場を立ち去ろうとした。
 しかし、その女子生徒は負けじと秀平の腕を掴み、強引に引き止めた。
「永瀬先輩、この人に騙されてます!」
 女子生徒はくるりと向き直り、梨緒子に人差し指を突きつけた。
「騙されてるって――俺が?」
 白い肌。黒目がちの大きな瞳。艶のある長い黒髪。
 知っている。いまだ記憶に新しい。
 この女子生徒は、『雪菜』と呼ばれていた、類の後輩だ。
「類先輩とより戻したんでしょう? 二人きりで仲良く初詣してたじゃないですか!」
 何を言い出すのかと思えば――。
 梨緒子は、雪菜という少女の突き刺すような眼差しから目がそらせずに、思わずごくりと唾を飲み込んだ。

 ――よりを戻しただなんて、そんな…………やられた!

 梨緒子は、秀平がくれたプレゼントの小さな包みを、コートのポケットの奥底に隠すようにしてしまい込む。
 そしていま、我が身に最大の危機が訪れてしまったのだと、能面のように凍りつく秀平の表情を見て、梨緒子はそう悟った。