黙らせておこうか。

 朝の生徒昇降口は、緊迫した様相を呈していた。
 秀平の一番嫌いなこと。それは、他人の口から事実を聞かされる、ということに他ならない。
 以前、秀平と梨緒子が大喧嘩になったときも、原因はそれだった。

 元カレの類と初詣――そこにはやましい気持ちなど、少しも存在しない。
 梨緒子と類は一緒に行ったわけではなく、たまたま神社で居合わせただけなのである。
 しかし。
 あの時声をかけてきたこの雪菜という少女の目には、偶然とは映らなかったらしい。
「私は、類先輩と永瀬先輩を裏切るようなことしているこの人が許せないんです」
「俺を裏切る? どうして?」
「だから元カレとよりを戻して、二股かけてるんです!」

 ――ふ、二股って……嘘。

 秀平の冷ややかな眼差しが、梨緒子の顔に刺さった。
 いつか見たことのある秀平の恐ろしい形相に、梨緒子はすくみ上がった。
「いったい、何のつもり?」
 梨緒子はとっさに両目をつぶった。
 怖い。そこはかとなく、怖い。
 それは違うと説明をしたくても、混乱のあまり言語中枢が上手く働かない。
「俺が梨緒子を怒れば、それで君の気がすむの?」
 恐る恐るまぶたを開くと、秀平の視線はすでに梨緒子にはなかった。

 ――私のことじゃ……ない?

 秀平の涼しげな瞳は、目の前に現れた黒髪の美少女に真っ直ぐ向けられている。
 梨緒子は、怒鳴られるのは自分だとばかり思っていた。そのため、この状況で秀平がとった行動に、梨緒子はただ驚くばかりだ。
 秀平は、梨緒子を背にかばうように、身体をわずかにずらした。
「そもそも、どうして君は俺のこと知ってるの?」
 まだそのようなことを真面目な顔して言う秀平が、梨緒子にはどうも理解できない。
 この高校の女子生徒で、永瀬秀平という『孤高の王子様』を知らない者はいない。
「それは……だって私、入学したときからずっと、永瀬先輩に憧れてたんです!」
「憧れって……それ俺じゃなくて、安藤なんじゃないの? 安藤が好きなら、安藤のほうに言ったほうがいいと思うけど。俺たちには関係ないから」
 秀平は奇妙なことを言い出した。
「違います。私が好きなのは永瀬先輩だけです。だからこそ、先輩に真実を知って欲しいんです!」
「俺のどこが好きだって言うの? そんなこと唐突に言われたって、悪意ある冗談としか思えないから」
 すぐそこに秀平の背がある。
 呼吸が苦しい。
 梨緒子は何も言えずに、秀平の背の後ろでじっと成り行きを見守るばかり。
「それに、安藤はそんなヤツじゃないよ」

 ――秀平くん……?

「俺に黙って、そんなことするようなヤツじゃない」
「でも、本当なんです! 私この目でちゃんと見たんですから」
 雪菜という少女は、秀平相手にまったく怯まない。嘘ではない、真実なのだと、大きな瞳で秀平とその後ろの梨緒子を交互に睨みつけ、訴えかける。
 沈黙が続いた。
 秀平は、首だけを軽く背後のほうへと振り返らせた。
 透き通った焦げ茶色の目が、事の真意を尋ねている。
 梨緒子は余計な説明をせず、ひと言だけ秀平に告げた。
「神社でね、偶然会ったの」
「そうか」
 抑揚のない声で、秀平は返事した。
 いつも一緒にいるとかいないとか、距離を置くとか置かないとか、付き合ってるのか付き合っていないのかが分からないとか――そんなことはどうだっていいのだ。
 秀平が自分の言うことを信じてくれたことが、梨緒子は例えようもなく嬉しかった。
「そうか……って、それだけですか? おかしくないですか、それ!?」
 雪菜には秀平の言動がまったく理解できないらしい。
 ずっと憧れていて好きだったと、さっきまで言っていたその同じ口から、今度は不快感をあらわにさせた言葉が漏れていく。
「彼女だってだけで、何でも言うこと信じちゃうんですか? 騙されてることにも気づかないなんて」
「俺、左右視力2.0だから」
「それが、どうかしたんですか?」
「夏に地学室で写真隠し撮りしたの、君とその友達だろう?」
 雪菜の勢いが止まった。
 黒目がちの大きな瞳が、さらに大きく見開かれる。
 秀平はさらに続けた。
「後姿でしかも一瞬だったけど、細部まで正確に記憶してるから――間違いないと思うんだけど」
「ひどい。証拠もないのに決めつけるなんて……」
「証拠? そんなもの――必要ない」
 秀平は雪菜に隙を与えない。
 落ち着いた秀平の声が、人気のない早朝の生徒昇降口に淡々と響いた。
「俺、人より記憶力がいいんだ、残念だけど」
 学校イチの秀才が言うと、とてつもなく説得力がある。自分の頭脳に自信があればこその発言だ。
「今度梨緒子を傷つけたら――容赦しないから。その時は、これまでのこと全部安藤に話す。いま黙って引き下がったほうが、君のためだと思うけど」
 雪菜は両目に一杯涙をため、悔しそうに唇を噛む。やがて観念したのか、その場で踵を返し、二学年の校舎の方角へと走り去っていった。


 それまでの言動とは裏腹に、秀平は冷ややかに梨緒子を鋭く睨みつけている。
 秀平はいざこざに巻き込まれることが、人一倍嫌いなのである。
 しかし、この不機嫌な態度はそれだけではない――梨緒子はそう感じた。
「……ひょっとして、怒ってる?」
「当たり前だろ」
 秀平の即答が、梨緒子の耳に突き刺さった。
 恐る恐る秀平の顔を見上げると、その表情にははっきりと『嫉妬』の二文字が刻まれている。
「本当に偶然だったんだから。そりゃ、立ち話はしてたけど……」
「安藤のことじゃないよ。そうやってまた勉強しないでフラフラ出歩いたりして」
「……」
「この時期一分一秒だって惜しんで、英単語の一つでも覚えるなり、過去問解くなりしていくべきなんじゃないの?」
「……」
「第一、あんな寒い中人込みの中に出かけたりなんかして、風邪でもひいたらどうするんだよ。本気で受かりたいと思うなら、合格祈願するよりも先に、気をつけることがたくさんあるだろ」
 落ち着きなく一人喋りまくる秀平が、梨緒子は不謹慎にも可笑しくてしょうがなかった。
「あとは?」
「ないよ、もう」
 秀平は梨緒子の心の内が読めたらしい。一転して梨緒子をつけ離し、これ見よがしに諦めたようなため息を一つついてみせる。
 しかし――というか、やはり。
 こういう人なのだ、永瀬秀平という男は。
「私はね、こうやって心配して、しっかり怒ってくれる秀平くんも好き」
「……突然、何?」
「さっきあの子に言ってたでしょ。『俺のどこが好きなんだ』って。だからとりあえず、私の答え」
「梨緒子には聞いてないだろ……そんなことはもう、分かってる」


 梨緒子はふと、秀平から告白のメールをもらった日のことを思い出した。
 彼氏だった類に、秀平との仲を問い詰められ、そして。

【いい加減にしろよ、安藤――どうして江波のことを信じてやらないんだ。自分の彼女だろ?】

 そう言って、秀平は梨緒子をかばってくれていた。
 真っ直ぐな瞳。純粋で一途な心。

【なんか、嬉しかった】
【嬉しい? 何が?】
【自分の彼女のこと信じてやれって、そう言ってくれたこと】
【別に当たり前のこと言っただけだろ。お互いのこと信じられないなら、付き合う意味なんてない】

 付き合っている相手のことはどこまでも信じる。それはもちろん、相手からも信じてもらえているという自負があってのこと。
 そのあと、梨緒子は秀平の彼女となり、そしてたったいま。
 あの時の彼の言葉に間違いはなかった――梨緒子はある種の感慨を覚えた。

「これで、完全に嫌がらせがなくなればいいんだけど――」
 梨緒子の気持ちを受け止め、秀平はわずかに機嫌を直したらしい。心配そうな顔で梨緒子を見下ろしている。
「秀平くん、すごく格好良かった」
「何が」
「やっぱり頭いいんだなーって。よく地学室のこと覚えてたね」
 梨緒子は秀平の肩を軽く叩いた。
 すると。
「アレ、嘘だから」
 秀平はさらりと言ってのけた。
「う、う、嘘ーっ!?」
「まさか本当に当たってるとは思わなかった」
 梨緒子は思わず絶句した。
 その策士っぷりは、家庭教師の優作によく似ている。
 さすがは兄弟、血は争えないな――梨緒子は内心そう思った。


 やがて生徒昇降口へ、安藤類少年が登校してきた。
 秀平は梨緒子の傍らに寄り添うようにして立ったまま、靴を履き替える類をじっと見据えている。
 その只ならぬ物々しい雰囲気に、梨緒子は再び身構えた。
「な、何だよ永瀬……人の顔見るなり、ため息なんかつくんじゃねえよ」
「別に。二人で仲良く初詣だって?」
「あ、秀平くん、やっぱり怒ってる!」
 秀平は梨緒子に一瞥くれると、気まぐれな猫のようにツイと顔をそむけた。
 どうやら図星らしい。頑なに意地を張り続ける。
 困り顔で秀平を見つめる梨緒子を見て、類は馬鹿らしそうに肩をすくめてみせた。
「んな、自業自得だろ。どうでもいいけどお前さー、何で初詣くらいついて行ってやらねえの? お前の辞書には『神頼み』って言葉がねえのかよ」
「ないよ。頼れるのは自分だけだから」
「あっそー。それはそれは、大層ご立派なことで」
 その類の言葉に、秀平はふと何かを考え込む。
 やがて。
「いや……いまはもう一人いる、かな」
 それだけ言うと、秀平はそのまま類と梨緒子の合間をすり抜けるようにして、教室のある校舎へと向かっていった。
 その手には、先程梨緒子が譲ったばかりのハンカチが握られている。

 ――自分以外に頼れるもう一人、だって。なんか責任重大ー。

 『孤高』と呼ばれる彼が何気なく口にした言葉に、梨緒子はこの上ないほど胸躍らせる。
 その一方で。
 類は秀平の反応が気に入らなかったらしい。早朝から惚気たやりとりを見せつけられ、嫌悪感丸出しで悔しげに言い放つ。
「ハッ、なーにが『もう一人いる』だ。いっぺんあのキザ男の口、黙らせておこうか?」
 類の毒舌に、梨緒子は適当に笑顔で応えながら、コートのポケットにそっと手を差し入れた。
 そこには、秀平から代わりにもらった『頼れる彼女』の証が、しっかりと収まっていた。