泣くなよ?

 一月に入ってからというもの、梨緒子が秀平と一緒にいることはほとんどなかった。
 冬期講習中も、冬休みが明けてからも、秀平はひたすら受験勉強に励んでいる。

 梨緒子は秀平からもらった品々を机の前に並べ、勉強していた。
 ジンクスのはちまきで作った水色の星飾り。
 梨緒子の似顔絵だといって、トマトの落書きをした消しゴム。
 そして、看病のお礼にとプレゼントされた真新しいハンカチ。
 触れると、彼の声が聞こえる。ほのかな温もりを感じる。
 どれをとっても、秀平との思い出がぎっしりと詰まった、大切な大切な宝物である。

 ――どんなことがあっても絶対に、秀平くんと離れたくない。



 センター試験は今週末、あさってというところまで迫っていた。
 優作とは、今日がセンター試験前の最後の授業となる。
「梨緒子ちゃん、なんか無理しすぎてない?」
「どうして?」
 梨緒子は目の前の男に聞き返した。
 優作はいつものようにテーブルを挟んだ向かいに座っている。そして、梨緒子の顔を観察するようにじっと見つめると、軽く首を傾げた。
「随分と顔色が悪いけど――」
「そう? 寝不足で頭がボーっとしてるのかな、きっと。大丈夫、あさってまでは頑張れるから」
 いまの梨緒子は、どんなに頑張っても頑張りすぎるということは決してないのである。たとえ睡眠不足で倒れようとも、勉強の手を止めるわけにはいかなかった。
「ひょっとして、うつったかな……」
 優作の手が梨緒子の頬に伸ばされる。冷やりとしたその指の感触に、梨緒子は思わず身をひいた。
 優作の手が冷たいのではない。梨緒子の頬が熱いのだ。
「うつったって……秀平くんが風邪ひいてたの、結構前だよ?」
「あのね、潜伏期間って言葉知ってる?」
 体内に病原菌やウイルスが侵入してから実際にその症状が出るまでに時間がかかるということは、梨緒子も知っている。
 しかし。
「私より、優作先生のほうがうつる確率高いんじゃない? 同じおウチに住んでるんだし」
「これでも医者目指してるからね、ちゃんと予防してるよ。それより……」
 優作の表情がわずかに曇るのを、梨緒子は見逃さなかった。
「もし、秀平からうつったんだとしたら――症状が重くなるよ、きっと。高熱が数日続くんだ。そしたら、試験受けるどころじゃなくなる……かもしれない」
 そう言われて、梨緒子は秀平の症状を思い出す。
 慣れているはずの自宅の鍵を、鍵穴に差し込むことができないほど、朦朧とした様子をみせていた。
 しかし、いまの梨緒子は幾分気だるいものの、このまま試験を受けても特に支障はなさそうだ。
 秀平が体調を崩していたのは、昨年の暮れのことである。いくら潜伏期間というものがあったとしても、彼からうつったものではない――梨緒子にはそんな根拠のない自信のようなものがあった。
「きょうは薬飲んで早く寝るから、平気だよ。あ、優作先生、秀平くんには、黙っててね。心配させたくないから」
 秀平にとっても試験前の大切な時期である。兄である優作が気を散らすようなことを弟に言うとは思えなかったが――念には念を入れての口止めだ。
 優作はハイハイ、と小さな子供をあやすように答え、静かに微笑んだ。



 しかし。おそれていたことが現実となった。
 センター試験当日の朝、梨緒子はひどい頭痛で目が覚めた。
 熱を計ると、なんと三十九度まで上がってしまっていたのである。
 身体が思うように動かない。立ち上がって歩くのがやっとだ。
 この高熱。この症状。まさに秀平のものと一緒だ。
 つまり、優作の言っていたことは正しかったのである。

 ――受けにいかなくちゃ、ここですべてが駄目になっちゃう。

 梨緒子は気力を振り絞り、家の薬箱の中にあった市販の頭痛薬をとりあえず服用した。


 試験会場は地元国立大の教育学部である。
 梨緒子の受験番号が割り当てられた部屋は、大きな階段状の講義室だった。左右に空席がとられており、ゆったりとした雰囲気となっている。

 梨緒子は自分の席に座り、会場をゆっくりと見回した。
 秀平の姿はない。彼の性格からしてまだ来ていないということはまず考えられない。どうやら会場が別となったようだ。

 ――ちょっと、気が楽かも。

 梨緒子は軽く息をついた。
 この体調の良くない状態を秀平に見られてしまうと、都合が悪い。

 試験が始まってからも、頭はぼうっとしたままだった。
 起きぬけに比べたらいくらかましだが――やはり市販の薬では、劇的な効果というものは期待できない。
 英語や国語の長文が上手く読み取れない。一通り問題が解き終わるのに、いつもの倍近くの時間がかかっている。
 その結果。
 一日目の試験は、不完全燃焼のまま終了となった。


 正門を出ると、兄の薫が車で迎えに来ていた。
 どうやら母親の指図らしい。そして、そのまま病院へと強制連行である。
 診察のあと、梨緒子はすぐさま処置室のベッドに寝かされ、点滴を打つことになった。
 所要時間二時間あまり――。
 終わって処置室から出たときには、ロビーはすでに閑散としていた。
 薬を出してもらうための処方箋を受け取る。ここの病院は原則として院外処方らしい。この処方箋を持って、外部の薬局へ行き、薬を受け取るというしくみだ。

 待合スペースのベンチに腰かけている薫の隣には、なぜか優作の姿もあった。
「優作先生! 来てくれたの?」
「薫さんからうちに電話があって、梨緒子ちゃんが大変なことになってるって聞いて――」
 まるで梨緒子が瀕死の重症であるかのように、優作の心配振りは大袈裟だ。
 一方、傍らの薫はのん気に呟く。
「だって、点滴待ってる間、なんか退屈だったからさ。悪かったね、優ちゃん」
「いいえ、とんでもない。薫さん、本当にすみませんでした」
「優ちゃんのせいじゃないよ。運も実力のうちって言うからね。体調管理できてなかった梨緒子が悪いんだから」
「いや、おとといから梨緒子ちゃんの体調に気づいておきながら、ちゃんと病院の診察を受けさせなかったのは僕のミスだ」
 優作は悔やむように唇をきつく噛んだ。
 医者を目指す優作が、知っていて見逃してしまった最大の失敗――。
 悔やんでも悔やみきれないに違いない。
「優作先生……」
「無理して受けなくても、追試験に挑戦するという方法もあったんだけど――まあ、東京か大阪まで受けに行かないといけないから、ちょっとハードルが高いかな」
 追試験の問題は、本試験よりも難易度が高いという話を、梨緒子はどこかで耳にしたことがあった。追試験を受けたところで、梨緒子が目指す点数がはたして取れるかどうか――保証はまったくない。
「梨緒子ちゃん、明日はどうする?」
 点滴をして、体調はかなり楽になっていた。一日目の試験に手応えが感じられなかった分、明日の二日目の試験にかける他はない。
 すると。
 兄の薫が奇妙なことを言い出した。
「うち、替わりに受けようか。まだ女子高生くらいならいけるかもしれない」
 確かに、薫の見た目はどこからどう見てもキレイな『姉』である。女子高生の制服もそれなりに着こなせるに違いない。
 もちろん、薫は本気で言っているわけではない。
 しかし人のいい優作は、薫の戯言にもきちんと対応する。
「いくらなんでもばれるでしょ。梨緒子ちゃんと薫さん、あまり似てないしね」
「髪、肩まで切れば誤魔化せるんじゃない?」
「トイレはどうするんですか? さすがに女子高生の制服姿じゃ薫さん、どっちに入ったって捕まりますよ」
「あー、もう実名出る歳だしねー、ハハッ、それはさすがにまずいか。あ、二人ともここで待ってて」
 薫は自慢のストレートの長髪をかき上げ、大きく伸びをしながら立ち上がると、車のキーを片手に病院のロビーから出て行った。
 駐車場から正面玄関へと、車を横付けするつもりらしい。
「優作先生、気づいてたの?」
「ん?」
「薫ちゃんのこと……ホントは男なんだって」
「まあね。あのときは、ちょっとした事件だったなあ……」
 優作はそう言って、懐かしそうに目を細めている。
 梨緒子はあえてそれ以上聞くのを止めた。
 ただでさえ体力が低下している現在、薫の悪ノリ話で気力まで消耗させるわけには――いかないからである。


 二日目。
 わずかに熱は下がったものの、いまだ三十七度超える熱があった。
 しかし、今日一日乗り切れれば――いまは、ただそれだけだ。
 二日目は理系科目がメインだ。理系クラスに属する生徒にとって、正念場である。

 しかし――予期せぬ出来事が、梨緒子の身に降りかかってしまったのである。

 梨緒子は五教科七科目全ての試験を終え、会場の外へと出てきた。
 周囲の受験生たちは、結果はともあれ晴れ晴れとした表情を見せている。
 梨緒子はそんな人並みにもまれるようにして、ゆっくりと正門に向かって歩き出した。

 体が重い。
 足取りが重い。
 カバンが重い。

 何よりも、心がずっしりと重苦しい。

 会場の大学の正門までの道のりが、永遠に続くような錯覚を覚える。
 熱がぶり返してきたに違いない。目の前がかすんでいく。
 熱のせいなのか、それとも――。

 辺りはもう暗くなり始めている。
 試験会場の窓が煌々と明るい光を放っている。
 センター試験の最終科目は、物理と地学だ。
 物理を選択している秀平は、まだ試験場に残っているはずである。

 ――秀平くん……どうしよう。

 どんなことをしても手に入れたかった未来が、漆黒のインクでどんどん塗り潰されていく。
 目の前に広がるのは、闇、闇、ひたすら闇。

 その時である。
 梨緒子は突然、誰かに腕を捉まれた。
 その感触に驚き振り向くと、そこに立っていたのは――家庭教師の優作だった。
 心配でいてもたってもいられなかったのであろう。梨緒子の受験する科目が終わるのを見計らって、待ち構えていたようだ。
「梨緒子ちゃん、迎えに来たよ。よく頑張ったね、えらいね」
「どうしよう……優作先生」
 こらえきれなくなった涙が、堰を切ったようにあふれ出す。
 優作はなぐさめるようにして、何度も梨緒子の頭を撫でた。
 すべてを包み込むようなその柔らかな感触に、梨緒子の緊張が一気に緩んでいく。
「薫さんが車で迎えに来てくれてるから、一緒に帰ろう」
「どうしよう私……やっちゃいけないこと、しちゃった気がする」
「梨緒子ちゃん?」
 泣きじゃくる梨緒子に、優作は途惑いをみせる。
「本当にどうしよう」
「いまは、何も考えなくてもいいから――さあ、帰ろう」
 優作は、梨緒子の手から教科書が詰まったカバンを取って、それを自分の肩にかけた。そして、空いたもう片方の手で梨緒子としっかりと手を繋ぐ。
 梨緒子は止まらぬ涙を手の甲で拭いながら、優作に半ば引きずられるようにして歩き出した。


 大学の正門を出たすぐの路肩に、薫の愛車は止まっていた。持ち主は運転席に座って、二人が来るのをひたすら待っていたようだ。
 薫は、梨緒子の様子で大方の事情は察したらしい。車のルームミラー越しに、呆れ返ったようなため息をついてみせる。
「ったく、ちょっとミスったくらいでいちいち泣くなよ?」
 兄の容赦ない言葉に、梨緒子は車の後部座席で優作の腕にすがりつきながら、ひたすら泣き続けた。