甘えんぼさん

 長い長い一日だった。
 もう、何も考えることができない。
 梨緒子は両脇を優作と薫に抱えられるようにして、自分の部屋へと連れて来られた。そして着替えもそこそこに、ベッドに寝かされる。
 部屋の真ん中に置いてあるセンターテーブルのところに、優作と薫は並ぶようにして座り込んだ。
 泣き腫らしている梨緒子の顔を、優作は心配そうにじっと眺めている。おそらく梨緒子の涙の理由に思い当たることがあるのだろう。
 一方の薫は、やはり身内の気安さからか、遠慮も何もあったものではなかった。テーブルに肘杖をつきながら、ずけずけとした物言いで問いただしてくる。
「何なのさ? しちゃいけないことしたって、いったい何?」
 自分が本番でそんなミスを犯してしまうなど、梨緒子は考えもしていなかった。
 マークシート方式の模擬試験でも、気をつけなければならないこととして、学校で何度も繰り返し指導されていたのだ。
 そう、それは――ありえないほどに単純。
「……解答欄が最後一つ余ったの。どこかで一つ飛ばしてマークしちゃったみたい」



 それは、先程まで行われていた二日目午後の、数学の試験で起こった。

 ――あれ、この問題……どっちの公式使うんだったっけ。

 両方計算してみる。
 しかし、どちらの答えも解答欄の桁数と一致しない。

 ――うそ。似てる問題、この前優作先生とやったばかりなのに。

 熱のせいで上手く頭が働かない。途中で計算を間違ってしまったに違いない。
 梨緒子はもう一度、公式に当てはめて計算していく。
 すると。先程とは違う数値が出てきた。
 しかし、その数値も桁数が多い。つまり、正答ではないということになる。

 手のひらがじっとりと汗ばんでくる。
 どこが間違っているのか、分からない。
 飛ばして次の問題に行こうか――しかしこの体力では、戻って再び解く時間はない。
 解けるはずなのに、解けない。
 分かっているはずなのに、分からない。

 梨緒子は焦燥感にかられながらも、思い切って設問を丸々ひとつ飛ばした。
 マークシートを塗りつぶす手が、かすかに震えている。
 はみ出したら無得点になるかもしれない――そんなプレッシャーが、梨緒子をいっそう緊張させていく。
 一日目はここまで緊張しなかった。高熱で朦朧とした頭と闘うのが精一杯で、緊張している余裕すらなかったのである。

 残り五分というところで、最後の設問をようやく解き終え、残された解答欄を見て、梨緒子はあることに気づいた。

 ――あれ……解答欄が、ひとつずれてる?

 梨緒子は解答欄の番号と問題番号を照らし合わせ、愕然となった。
 時計を見る。やはり、五分を切っている。
 どこから間違ってしまったのか、分からない。全部消して最初からマークし直す時間はない。
 しかも、さっき丸ごと飛ばしてしまった問題も、マークシートはいまだ空欄のままだ。
 刻々と時間は過ぎてゆく。
 梨緒子は後ろから三問ずつ消して、マークし直すことにした。全部消して時間切れになったら、目もあてられない。
 どこが正しくて、どこが間違っているのか。
 そもそも自分の導き出した答えが、合っているのかいないのか。
 焦るあまり、完全にパニック状態に陥っていた。
 十問ほど直したところで、無情にも試験は終了となった。

 ――どうしよう。本当に……どうしよう。

 それからのことはよく覚えていない。
 その次の化学の試験を受けたことは、ぼんやりと覚えている。
 しかし、数学での失態が尾を引いてしまい、問題を流し読み、のろのろとマークしていくのが精一杯だった。



 梨緒子の長い言い訳のような説明を聞き、薫は完全にあきれ返っている。しきりに首を傾げながら、ベッドに横たわる梨緒子に容赦ない言葉をぶつける。
「ていうかさ、その都度、問題番号と解答欄を照らし合わせていけば、そんな凡ミスしなかったんじゃないのか?」
「だって……頭が朦朧としてて、問題解くのも精一杯だったんだもん」
 梨緒子は枕に頭を深く預け、掛け布団を引っ張り上げて包まり直す。

 ――もう、完全に終わった。

 先程から優作は、梨緒子の話にじっと耳を傾けている。兄の薫とは対照的に、ゆっくりとしたテンポで頷いている。
「とりあえず、気づいて直そうとしてたんだよね?」
 優作は梨緒子に優しく尋ねた。
「うん……後ろから直していって、その途中で時間切れになって、どこまで直したんだかよく覚えてない。飛ばしちゃったところがどこだかもよく分からない。それに、途中分からなくて飛ばした問題、時間がなくて適当にマークすらできてない……」
「うわー、終わってるな」
「薫さん、言いすぎですよ」
 優作は傍らに座る美女の軽口をたしなめた。
 すると薫は悪びれもせずに、軽く肩をすくめてみせる。
「だってさ、どこを飛ばしたのかも、どこまで直せたのかも分からないって……そんなんじゃ自己採点も当てにならないしさ」
「まあ、梨緒子ちゃんがすべて上手く修正できてたとしたら、二次試験の結果次第ではなんとかなるかもしれないし」
「二次で満点取れって? そんなの優ちゃんの弟でも無理な話でしょ」
「まあ、可能性はゼロではないし」
 目の前で、二人の男がお互いの意見を戦わせている。
 梨緒子は横たわりながら一人冷めた目で、その様子を他人事のように眺めていた。
 薫と優作の言い合いはさらに続いていく。
「それ、一番よく見積もったとして、でしょ? いいんだよ優ちゃん、ハッキリ言っても。いや、むしろハッキリ言うのが優しさってもんだよ。数学だけじゃない。一日目の文系科目だって、まるで期待できないだろ。具合悪かったんだから当然だけど」
「それでも、平均点は取れてるでしょうから――」
「地元の大学を受けるならともかく、北大で平均点じゃ話にならないでしょ」
「うーん……自己採点で、合格判定のデータが出てみないうちは、まだなんとも」
 厳しい意見を浴びせる兄と、必死に梨緒子を擁護する家庭教師と。

「……もう、いい」

 梨緒子が横たわりながら弱々しい声でそう言うと、二人の言い合いがぴたりと止んだ。
「受かる可能性なんてほとんどないのに、旅費も時間もかけて受験する価値なんてない。北大なんか受けない」
「え? 梨緒子ちゃん、北大は受けないの?」
「受けない」
「じゃあ、どこに出願する?」
「国立は受けない。優作先生のところの看護短大だけにする」
 秀平のことを抜きにすれば、梨緒子の第一志望は元々、医療系短大だったのである。
 梨緒子の言葉を聞き、優作は唸った。
「短大の試験のほうが日程的に早いよ? 確か合格発表も前期試験の前じゃなかったかな。だから北大も、駄目元で受けてみてもいいんじゃない?」
「駄目元なんて、そんなのイヤ」
「梨緒子ちゃん」
「秀平くんだけ受かって自分が落ちるの、イヤ……だったら、初めから受けない!」
 薫がセンターテーブルを拳で激しく殴りつけた。
 派手な音が部屋いっぱいに響き渡る。
「なに訳の分からないこと言ってるんだよ。第一、優ちゃんに家庭教師頼んでるんだって、梨緒子が北大行きたいって、母さんにわがまま言ったからなんだぞ?」
 キレイな女顔でも、中身は男だ。そのギャップが桁違いの迫力を生んでいる。
 普段滅多に見せない薫のただならぬ形相に、梨緒子はすくんだ。
「分かってるよ……分かってるよそんなこと」
「別に、ランク落として出願すればいいだろ? 北大じゃなくても大学はいっぱいあるんだから。だいたいさ、受験生が試験受けないでどうすんの」
「北大じゃないと意味がないの!」
「それなら浪人してチャレンジすればいい」
「浪人? そんなことしたら秀平くんが先に卒業しちゃうじゃない! 一人で札幌に残るなんて、絶対イヤ!」
 梨緒子は膨れ上がった妄想をかき消すように、枕の上で激しく左右に首を振り動かした。

 ――秀平くんと一緒じゃないと、意味がなかったんだから。

 優作は困ったような顔で梨緒子を見つめ、大きくため息をついた。
「梨緒子ちゃんの気持ちは分かった。うちの短大一本で行くならそれでもいいけど――だったらそれを秀平に、梨緒子ちゃん自身の口から伝えなさい」
「イヤ」
「梨緒子ちゃん」
「顔合わせたくない。絶対絶対、怒るもん」
「そんなこと言って、秀平を心配させるだけだよ?」
「怒るに決まってるもん……」
 涙が再び出てきた。
 模試でさえ、目標点数を取れなかっただけで、頭ごなしに怒鳴られたという前歴がある。
 本番のセンター試験で模試以下の成績では――その反応はあまりに怖くて、まともに想像することすらできない。
 涙はもう止まらない。秀平のことを考えると、自分のしてしまった失敗を悔やむばかり。
 いや、悔やんでも悔やみきれない。
 いますぐここから、いなくなりたい。
「とにかく、結論は合格判定の結果が出てからでも遅くないからね。いまはとにかく身体を治すことだけを考えて」
 結論を長引かせるくらいなら、いっそのことひと思いに切り捨てて欲しい。身体なんか永遠に治らなければいい――梨緒子は心からそう願った。
「絶対、怒るに決まってるもん……絶対」
 梨緒子は掛け布団を引っ張り、頭の上までかぶった。
 もう、何も聞きたくない。何も――考えたくはない。

 優作は梨緒子の体調を気遣い、薫を促して部屋をあとにしようとする。
 そのすぐ側で。
「わが妹ながら、とんだ甘えんぼさんだな……ったく」
 薫のかすかなため息が、布団越しに梨緒子の耳に届いた。