いいんだ、別に。

 センター試験が終了したあくる日の、月曜日――。
 梨緒子はだるく重い身体を引きずるようにして学校へと向かった。
 学校では、センター試験の自己採点の作業をすることになっている。
 自己採点の結果を所定の用紙に書き込み、データを集計する業者へと提出する。いわゆる「合格判定」をしてもらうのである。

 クラス内が、異様なテンションに包まれていた。
 家では速報で一通りチェックしてはいるものの、念には念を入れて、再度チェックをする。
 持ち帰った試験問題を開くと、あの解けない恐怖が何度でも蘇ってくる。
 梨緒子は、曖昧な自己採点のちょうど中ほどの数字を書き込んだ。
 A判定・B判定など、出るはずはない。
 もし。
 逆転可能なC判定が出たとしたら――。
 しかし、センター試験の結果がもっと低い可能性もある。

 梨緒子は消しゴムを取り出し、書き込んだ数字を消した。
 そして、自己採点の一番低い数字を書き込んだ。


 試験明けということもあり、今日はこれで終了だ。
 梨緒子が帰り支度をすませ教室を見渡すと、すでに秀平の姿はなかった。
 一緒に帰る約束はしていなかったが――その行動が引っかかってしまう。
 しかし、梨緒子は内心ホッとしていた。まだ秀平に向き合えるほどの気持ちの整理がついていないのである。
「あれ? 梨緒ちゃん、永瀬くんと帰らなかったの?」
「うん。いいんだ、別に」
「じゃあ、久し振りに三人でお昼食べてく? 馬鹿ルイのこと誘ってさ」
 一人きりにはなりたくなかった。梨緒子は美月の誘いに快く応じることにした。
 類を捜そうと教室を見渡すと、前田という男子生徒が、類を始めとする仲間を集めて噂話に興じているのが見えた。
 その内容が、梨緒子の耳にも届いてくる。
「さっき職員室で小耳に挟んだんだけど――永瀬のやつ、800超えだって」
「うわ、マジでか」
「しかも、数学と物理は満点だったらしいよ」
「すげ、人間じゃねえなー」
 梨緒子はその秀平の成績に愕然となった。

 ――満点って……しかもトータル800超えてるって。

 もちろん秀平の成績が優秀なことは知っていたが、桁違いだ。
 彼は梨緒子を置いて、どんどん遠く離れていってしまう。
 梨緒子は、そう遠くない未来に訪れるであろう終わりが、完全に見えた気がした。
「永瀬くんって、恋愛で成績落とすなんてことしないんだね。勉強と恋愛、完全に割り切ってるのかな」
「……まあ、ね」
「でも、彼氏をきちんと頑張らせるのはね、いい彼女だっていう証だからね。さすがは梨緒ちゃん!」
 梨緒子は美月の冷やかしを軽く受け流した。
 何も感じない。嬉しくも悲しくもない。
 もう、涙なんか――出てこない。



 次の日もその次の日も、秀平はいっこうに梨緒子に話しかけてこようとしなかった。
 電話もなければメールもこない。

 ――絶対、勘づいてる。

 おそらく、優作からセンター試験での顛末を聞いたに違いない。
 怒っているのか、呆れているのか、責めているのか。
 しかし梨緒子は、いまだ自分から秀平に切り出す勇気はなかった。


 合格判定の結果は、センター試験から数日後に出た。
 梨緒子の結果は予想通り。数社の判定がことごとく『D』、つまり、合格不可能という判定がなされたのである。
 不思議とショックはない。むしろハッキリと判定が出されたことで、梨緒子の胸のうちにある種の覚悟のようなものができていた。

 ――これじゃやっぱり、二次試験なんて受けるだけ無駄。

 梨緒子が大きなため息をついた、そのときである。
 背後から、誰かに肩を叩かれた。振り向き見上げると、そこに立っていたのは――。
「あ……秀平くん」
 梨緒子は慌てて合格判定の結果用紙を折りたたんだ。
 まさか秀平のほうから近づいてくるとは、思ってもみなかったのである。
 緊張のあまり、言葉がすぐに出てこない。
 一方の秀平は、何事もなかったかのように淡々と梨緒子に話しかけてくる。
「ほら梨緒子、帰るよ」
「帰るって……あの、一緒に?」
「そうだけど。早く支度して」

 ――とうとう、来た。

「えー……っと、今日は用事があって」
「兄貴と授業だろ。今日はウチでやるって、そう言っておいたから」
「う、うそ? 何でそんな」
「話をするのに、そのほうが都合がいいから」
 もう、逃げられない。
 梨緒子は観念し、大きく深呼吸を繰り返した。
 逃げてばかりはいられないのだ。


 梨緒子は先に生徒昇降口を出て行く秀平の背中を、じっと目で追っていた。
 こんな人が彼氏だったら、嫌がらせを受けても不思議じゃない――梨緒子はまるで他人事のようにふと、そんなことを思った。
 身長はすらりと高く、やせているが決して華奢ではない。整った顔立ちに、育ちが良さそうな物憂げなたたずまい。永瀬秀平という男は、ふとした仕草でさえもサマになる。
 そして、極めつけはその頭脳。

 ――満点なんか取れる人、ホントにいるんだ。

 確かに、秀平は梨緒子と付き合うようになっても、デートらしいデートもせず、ひたすら勉強に没頭していた。
 やりたいことがあるからどうしても北大に行きたいのだと、いつも真っ直ぐに目標を実現させるべく頑張っていた。
 そのことは他の誰よりも、梨緒子がよく知っている。

 ――こんな人に付いていくって言ってた自分が恥ずかしい。

 秀平は確実に北大へと行くのだろう。
 夢を実現させるだけの結果を、確実に残したのだから。


 雲間から覗く太陽の光が、真冬の冷たい風をわずかに和らげている。
 梨緒子はつかず離れずの距離を保って、秀平と並んで歩き出した。
「久し振りだ、こうやって梨緒子と二人で帰るの」
「そうだね」
「あのさ、梨緒子」
 いよいよ来る――梨緒子の背中に緊張が走った。
 が、しかし。
「寒い」
 秀平は、そうひと言つぶやいただけだった。
「そ……そうだね。寒いね」
 梨緒子は自分から切り出そうと、重い口をゆっくりと開いた。
「あのね秀平くん、私……」
「試験の話は、帰ってからにしよう。寒いから」
 そう言うと、秀平は梨緒子の前に手のひらを差し出した。
 何か欲しいという意思表示なのだろうが――言葉はない。
「どうしたの?」
「手が寒い」
「手袋してないんだから、そりゃ寒いよね」
「だから、すごく手が寒いんだけど」
 秀平は尚も、梨緒子の前に左手を差し出したままだ。
「手袋貸してあげたいけど、私のじゃ小さすぎるんじゃないかな?」
 秀平は差し出した手を引っ込め、肩をすくめるようにしてため息をついた。
「……もう、いいよ」
 秀平の声が聞こえてくるような気がする。
 彼の本当の思いが、細かな仕草で伝わってくる。

 ――ホントに、もう。

 梨緒子は右手の手袋を脱ぎ左手に携えると、先を行く秀平の左手の指先を、素手でそっと掴まえた。
 すると。
 秀平は驚いたように梨緒子を振り返った。そして何が起こったかを確認するように、繋がれた指先へと視線を落とす。
 梨緒子は秀平を見上げ、軽く尋ねる。
「これが、正解?」
 長い沈黙があった。
 あまりに長い沈黙に、梨緒子は自分の思い違いだったのかと、その掴んだ指を離そうとした、そのとき――。
 返事の代わりに、秀平は指を絡めるようにして、梨緒子の手をしっかりと握り直した。
 大きく骨っぽい男の手だ。長く繊細そうな指が梨緒子の指にもどかしげに絡みつく。
 震えている。それは梨緒子かもしれないし、秀平なのかもしれない。
 お互いがお互いの存在を確認するように、その繋いだ手を何度も握り直した。


 つかの間のデート気分もそこそこに、二人は永瀬家へと到着した。
 梨緒子が秀平の部屋を訪れるのは半月以上ぶりだ。何度か訪れているはずなのに、どこか新鮮だ。
 机の上に並べられていた問題集の種類が、以前とは違っていることに気づく。照準がセンター試験から二次試験に切り替わったためなのであろう。
 梨緒子はカバンを隅に置き、ベッドの端に腰かけた。
 秀平は先ほどから黙ったままだ。いつにない重苦しい雰囲気を漂わせている。
 梨緒子は努めて明るい声を出した。
「北大、A判定だった?」
「うん。でも、二次のほうが配点大きいから、どうなるか分からないけど」
 秀平は梨緒子と並ぶようにしてベッドに腰かけた。そして無造作にネクタイを緩め、大きく物憂げなため息をつく。
 こんなに近くにいるというのに、緊張もときめきもない。
 手を伸ばせば触れることができるのに、ずっと遠く離れてしまったような――そんな気がしてしまう。
 秀平がいま自分に抱いている気持ちは決して甘いものではないということに、梨緒子はハッキリと気づいていた。
「梨緒子は?」
「優作先生から聞いてるんでしょ」
「なんとなく」
 ここ数日の秀平の態度を思い返せば、『なんとなく』のはずはない。兄の優作から事細かに結果と経緯を聞いて、あえて曖昧な言い方をしているに違いない。
「北大、受けないんだって?」
「…………ごめんなさい」
「別に、俺に謝る必要はないよ」
 あっさりしたものだった。
 頭ごなしに怒鳴りつけられるかもしれない――そんな梨緒子の予想は杞憂に終わったようだ。
 しかし。決して好意的な態度ではない。
 梨緒子は気を緩めることなく身構えた。
「それ、最終決定なの? 絶対に受けないって決めたの?」
「……うん」
「どうして?」
「どうして……って」
「約束が違うだろ」
 梨緒子は目の前の彼氏の言葉に、思わず両目を瞠った。
 淡々とした口調が、逆に不安をあおる。
「いまからとにかく頑張れるだけ頑張って、二次で満点取ってみせるって気はないの?」
 確かに。
 秀平は間違ったことを言っていない。しかし、それはあくまで理想論である。
「マンガやドラマじゃあるまいし……言うだけなら簡単だけど、現実は甘くないから」
 第一、満点を取ったところで合格できる保証などないのだ。
 センター試験での秀平との得点差は、実に300点近くも開いてしまっているのである。

 やがて、秀平は完全に口を閉ざしてしまった。
 あらかじめ予想していた梨緒子の答えが現実のものとなり、秀平は苦々しい表情でじっと何かを考え込んでいる。
 ふと。
 梨緒子は、秀平の勉強机の端に置いてある封筒の束に目を止めた。
 ベッドから立ち上がり、机の前まで移動してその封筒を近くで確認する。
「何……これ」
 これと同じものを、類や美月が持っていた記憶が、梨緒子にはあった。白いA4サイズの封筒に、大学のロゴが印刷されている。
 それは、地元国立大の入学願書だった。
 なぜこれが、秀平の部屋に――。
 とてつもない焦燥感を梨緒子は覚える。
 よく見ると、その下には北大の願書が入っているらしき封筒もちゃんとあった。

 だが、しかし。

 秀平はいまだベッドに腰かけたまま、物憂げに梨緒子の行動を眺めていた。
「とりあえず、取り寄せてみただけだから」
「……どういうこと?」
「だから、とりあえず。深い意味はない」
「深い意味はないって、だって秀平くん――」
 センター試験が終わって合格判定が出るまでのここ数日間、秀平が何か思うところがあって、わざわざこれを取り寄せた。
 自己採点で、第一志望の北大が合格確実なのにもかかわらず。
 考えられる理由は、たった一つ――。
「俺には勉強よりももっと、大切なものがあるから」
「うそ……でしょ?」
 秀平が何を言っているのか、梨緒子にはまったく理解できない。
 当の本人は大したことではないといったように、肩をすくめてみせる。
「いいんだ、別に。梨緒子がついてこれないって言うなら、俺が歩を緩めればすむ話だから」
 目の前が、黒を通り越して真っ白になる。
 彼が下した決断は、梨緒子の予想をはるかに超えるものだった。