……これだ!

「いいんだ……って、そんな」
 梨緒子は動揺を隠し切れずにいた。
 梨緒子は封筒から願書を取り出し、素早く表紙を確認する。
 間違いなく本物である。
「……そんな、だって、秀平くん」
 梨緒子は手にしている地元国立大の願書と、ベッドに腰かけたままの秀平の顔を交互に見た。
 秀平は瞳をゆっくりと瞬かせながら、さらりと言う。
「離れたくないって言ってたのは、梨緒子だろ?」
「言ったよ。言ったけど! だからって」
 勉強よりも、大切なこと――。
 二人が離れずに側にいること。
 ずっとずっと、こうやって一緒にいたい。

 ――でも、きっと違う。

 梨緒子の目の前に、さまざまな情景が浮かんでくる。

【俺は、本当に北大に行きたいんだよ。やりたいことがある。だから、こうやって勉強だってしてる】

 夏休み前の、朝の図書館で。
 付き合う前に、彼はそう言った。


【秀平くんは、札幌に詳しいんだね】
【来年からここに住むつもりだから】

 真夏の札幌の、とあるファストフード店で。
 憧れの大学の目と鼻の先で、彼はそう語った。


【だって……秀平くんはどんなことがあっても絶対に北大行っちゃうんでしょ?】
【そのつもりだけど】

 晩秋の木枯らしが吹く、学校帰りの道で。
 付き合っている彼女の問いに、彼はそう答えた。


 そのすべてを、梨緒子は昨日のことのようにハッキリと覚えている。秀平とのやりとりは、どんな些細なことも大切な宝物なのだから。
 秀平の側にいて、秀平の声を聞いて。
 北大へのひたむきな思いで彼が勉強していたことは、誰よりも梨緒子がよく知っているのである。

【梨緒子がついてこれないって言うなら、俺が歩を緩めればすむ話だから】

 ――そんなの、間違ってる。

 梨緒子はどうしたらいいのか、まったく分からなくなってしまった。
「秀平くんはやりたいことがあるんでしょ? だから北大目指してるんでしょ?」
 秀平の表情が彫像のように固まった。
「違うの?」
「……」
 秀平は黙ったままかすかに眉を寄せ、じっと梨緒子を凝視している。
 怖い。でも負けてはいられない。
「やりたいことねじ曲げて私と一緒にいることが、本当に大事なの?」
「仕方ないだろ。約束破ったのはそっちなんだから」
「約束破ったって……そんな言い方ひどすぎ」
「ひどいのはどっちだよ」
 秀平の言葉が、梨緒子の心に鋭く突き刺さった。
 勢いが止まらない。一度怒りのスイッチが入ってしまうと、すべてを吐き出さないと気がすまないらしい。
「一生懸命頑張るとか、ずっと側にいるとか、そう言ってたはずなのに。受けて駄目ならまだ諦めもつくけど――それで、何? いまのいまになって兄貴のところの短大だけ受けるって? 全然意味分からないんだけど」
「もう、いい加減にして! 諦めがつく? 何それ」
 梨緒子は手にしていた地元国立大の願書を、力任せに勢いよく破った。紙の裂ける派手な音が、部屋の中に響き渡る。
「何するんだよ!」
 秀平はベッドから立ち上がり、梨緒子を止めようと手首を掴んだ。
 力が強い。梨緒子はすぐに動きを封じ込められてしまう。
 至近距離での攻防が続く。
「こんなもの、必要ないはずでしょ? そっちの、北大のだけあればそれでいいんじゃないの?」
 机の上には、北大の願書が入っているであろう封筒が残されている。
 梨緒子は破った地元国立大の願書を、秀平の胸に叩きつけるようにして、その身体ごと押し退けた。
 秀平は呆然とその場に立ち尽くしたまま――。
 破られた紙片が、そのままカーペットの上へふわりと落ちていく。
 梨緒子はその場の空気に耐えられず、自分の荷物を持って、逃げるようにして秀平の部屋を飛び出した。


 階段を駆け下りていくと、梨緒子は居間に優作の姿を確認した。
 家庭教師の時間に合わせて、外から帰ってきたばかりらしい。着ていたコートを脱ぎ、その手に携えている。
「ごめんなさい優作先生。今日はもう帰るから!」
 二人の言い争う声は、階下の優作の耳にも届いていたに違いない。優作は特に理由を聞こうともせずに、玄関で靴を履く梨緒子を追いかけてくる。
「待って、梨緒子ちゃん。送っていくよ」
「大丈夫! 一人で帰れるから!」
「駄目だよ、病み上がりなんだから」
 優作はすぐに持っていたコートを羽織り、梨緒子のあとを追うようにして家を出てきた。

「梨緒子ちゃん、もうちょっとゆっくり歩こう」
 一つ目の角を曲がり、振り返っても永瀬家の建物が見えなくなるところまで来て、ようやく梨緒子はその速度を緩めた。
 心臓の鼓動が、早鐘のように鳴っている。
 呼吸を整えようとするも、なかなか上手くいかない。
「ねえ、梨緒子ちゃん」
「どうしよう……私、秀平くんのこと、怒鳴りつけちゃった……」
 ぐるぐると、思考が堂々巡りしている。

 ――なんてことしちゃったんだろう、私。

 梨緒子はひたすら自己嫌悪に陥っていた。
「秀平のことを本当に好きだからこそ、梨緒子ちゃんは怒ったんでしょ?」
 やはり、二人の言い争いは優作の耳に届いていたようだ。穏やかに、事の真相を問いただしてくる。
「でも、元はといえば、点取れなかった私が悪いのに」
「ひょっとして、あいつも北大受けないとか言い出した?」
 梨緒子は頷いた。
 すると優作は、呆れ返ったような長いため息を、空をめがけてゆっくりと吐き出した。
「あいつはとことん馬鹿だな。そんなことしたら梨緒子ちゃんが困るだけなのに」
 この人は、すべてを分かってくれる。
 自分の気持ちを誰よりも理解してくれている。
「梨緒子ちゃん、いまならまだ間に合うから、北大に願書出しなさい」
「どうして?」
「どうしてって、可能性をゼロにしてはいけないよ。宝くじだって、買わなくちゃ当たらないからね。いくら確率が微々たるものだったとしても」
「大学を選ぶ理由を、他人に委ねないように――そう教えてくれたのは優作先生だよ?」
 その梨緒子の言葉に、優作は驚いたようにたれ気味の両目を大きく見開いた。
 梨緒子は尚もたたみかけるように言う。
「優作先生に教えてもらったんだよ、私」
「梨緒子ちゃん……」
「好きな人と同じ大学目指して、一緒になれなかったって。でも一生懸命相手のために勉強したこと、後悔してないって。そう言ってたよね?」
「そうだけど……本当にいいの、梨緒子ちゃん?」
「なんかね、吹っ切れた! 北大に行かないって決めたら、自分のやりたいことだけちゃんと見つめることができたのかなー」
 そこはかとない寂しさが、ずしりと梨緒子の肩に圧し掛かってくる。
 半分、本当。
 もう半分は、嘘――。
「だってね、このままじゃ私だけじゃなく、秀平くんも駄目になっちゃうから」
 梨緒子は泣きそうになるのを必死にこらえた。
 目を閉じると、そこに秀平がいる。
 離しかけた手をしっかりと掴み、もどかしそうに何度も繋ぎ直す彼の手の感触が、まだ手のひらに残っている。

 素直に『手を繋ごう』と言うことができない彼。
 遠回しな態度でしか、愛情表現できない彼。
 それはすべて、側にいるからこそ分かり合えるのだということ。

 離れてしまったら――。

「分かってる。どうして秀平くんが怒ったのか、どうして秀平くんを迷わせたのか、ちゃんと分かってる……」
 優作は梨緒子の歩に合わせゆっくりと歩き、黙って梨緒子の話に耳を傾けている。
 梨緒子は、絡み合いもつれた糸をゆっくりとほぐしていくように、一つ一つ自分の気持ちを口に出していく。
「でもね、秀平くんは本当に北大に行きたいの。行かなくちゃ駄目なの。地元に残る選択肢なんて、あっていいはずがないの。いつだって私は、秀平くんを応援してあげる彼女でいたいの」
 梨緒子は歩道の真ん中で立ち止まった。
 もう、我慢ができない。
「……彼女でいるうちは、最後まで――応援してあげたいから」
 つまり、そういうことなのだと、梨緒子はいまさらながらに気づいた。
 自らの選択は間違っていない――自分自身を勇気づけるために、梨緒子は大きな声を出す。
「そうだよ。私は秀平くんの彼女なんだもん! 間違いそうになったら、それをちゃんと教えてあげなくちゃ……いけないんだもんね」
 梨緒子は空を見上げた。
 いま下を向いたら、きっと涙が零れ落ちてしまう。梨緒子はそれを必死にこらえた。
 すると。
 優作は穏やかに頷いて、ゆっくりと諭すように言った。
「間違いではないんじゃない? 秀平が真剣に考えた上での結論なら、それが秀平にとっての『正解』なんだよ」
「でも――」
「それにしても、梨緒子ちゃんはすごいね」
「優作先生……」
「僕の自慢の生徒だ、文句なしに」
 梨緒子はもう、ここで泣いてしまいたかった。
 優作がいてくれるからこそ、自分は頑張れるのだ。
 いつだってこの家庭教師は、勉強だけではなく、大切なことをたくさん、梨緒子に教えてくれる。
「さすが、あの秀平を本気にさせただけあるよ」
 優作の笑顔に、梨緒子は心から救われる思いがした。

 ――これで良かったんだ、これで……。

 この先どうなっていくのかは、梨緒子にはまったく見当がつかない。
 もっと、考える時間が必要だ。しかし、秀平と梨緒子に残された時間は――あまりにも少ない。

 梨緒子は優作に促されるようにして、家に向かって再び歩き出した。
 何も喋らず、ただひたすら歩き続ける。
 いまはとにかく、前を向いて歩くしかないのである。
「秀平のこと、信じてやってね」
 兄としてお願いするよ、と優作は呟くように言った。
 梨緒子はその思いを噛み締めるように、何度も何度も頷き答える。
「さあ、勉強頑張らないとね。北大ほどじゃないとはいえ、ウチの短大だってそこそこ難しいんだよ?」
「平気だよ。優作先生がついてるから、大丈夫だもん!」
「へこんでたかと思えば……これだ! ハハハ、梨緒子ちゃんらしいよ」
 梨緒子の空元気を見透かしているのか、優作はいつになく楽しそうな明るい声で笑ってみせた。