騙されてもいい

 二月。それは、極寒の風が身にしみいる如月の候――。
 学校は今日から二次試験対策用のカリキュラムのため、選択授業となった。
 各自受験する科目に合わせて、授業を選ぶのである。

 空き時間は多目的教室が割り当てられ、そこで自主勉強に励むことになる。
 多目的教室にはたくさんの問題プリントが用意され、それらを自由に利用して勉強するのだ。
 二時間目と四時間目に授業が入っている生徒は、二時間目開始の時間に合わせゆっくり登校し、そして三時間目を多目的教室で自習し、四時間目を受けた後はそのまま早く帰宅できるのである。
 そのため、この時期になると同級生でも顔を合わせなくなることが多い。
 つまり、同じ大学同じ学科を受験しないかぎり、一緒に行動することができなくなるのである。


 梨緒子が美月と顔を合わせたのは、選択授業になってから三日目の朝のことだった。
 お互い別の教科の一時間目を受け、二時間目が空き時間で重なったためである。
 さっそく二人は、多目的教室の隅の席に並ぶようにして陣取り、勉強そっちのけで話に花を咲かせた。
 生徒は他にも数人いる。邪魔にならないよう、声をひそめなければならない。
「えっ……梨緒ちゃん北大受けるの止めたの?」
「うん」
「うんって……永瀬くんは?」
「さあ。北大受けるんじゃないの?」
 あの日秀平の部屋で願書を破りケンカをしてから、秀平とは完全な絶交状態にあった。
 姿も見ていない。
 二次対策の授業カリキュラムになってから、梨緒子は秀平と同じ授業を受けることがなくなってしまったのである。
「ちょっと梨緒ちゃん」
「どうして……どうして上手くいかないかなー、私たち」
 梨緒子はようやくセンター試験での顛末を美月に説明した。
 これまではさすがに自分の気持ちの整理もついていなかったこともあり、同じ受験生の美月には話せずにいたのである。
 梨緒子がセンター試験で致命的なミスをしていたなど、考えもしていなかったらしい。唖然とした表情で、梨緒子の顔を見つめている。
「そんな、そんな! じゃあ、遠距離決定ってこと?」
「遠距離もなにも……秀平くんはそもそも遠距離するつもりなかったみたいだし、それが元で大ゲンカになっちゃった」
 あの日秀平が取った行動に、梨緒子の胸は激しく痛んでいた。
 正直なところ、秀平が恋愛を理由に第一志望を諦めることなどない、と梨緒子は思っていたのである。

『ひどいのはどっちだよ――』

『受けて駄目ならまだ諦めもつくけど――』

 秀平に言われた言葉が、梨緒子の脳裏に焼きついている。

 ――要するに、私が落ちたら諦めるつもりだったってことだよね、付き合い続けるの。

「たぶん、このまま仲直りできないで終わっちゃうんだろうな」
 梨緒子は自虐的なため息を一つついた。
「北大行ったらさ、いま以上に女の子から人気出るだろうし。私のことなんかすぐに忘れちゃうよ、きっと」
「梨緒ちゃん、永瀬くんのこと何だと思ってるの」
 小声で囁く美月の声が、梨緒子の耳に鋭く刺さった。
「人気あったって、永瀬くんは女とっかえひっかえするような男じゃないでしょ。むしろ真逆なわけで」
 親友の言うことはもっともだ。
 秀平がどんな人間であるか、梨緒子が一番身を持って感じていることなのである。
「不安になる気持ちも分かる。でも永瀬くんを信じてあげられるのは梨緒ちゃんだけなんだよ?」
「美月ちゃん……」
「だって、彼女なんだもん」
 みんな同じことを梨緒子に言う。
 家庭教師の優作も、秀平のことを信じてやって――と梨緒子に話していた。

 信じる?
 いったい何を?

「北大に合格することは信じてるよ。でもこの先、私がずるずる気持ちを引きずってたら、秀平くんのためにならないから」
「梨緒ちゃん……」
「ずっとずっと遠い場所で、新しい人間関係築いて、やりたかったことをするんだよ」
 彼の夢を信じたい。
「もう、私の手の届かないところへ行っちゃうんだよ」
 彼の成功を信じたい。
「大丈夫だから。私がそうして欲しいって、秀平くんをつけ離したんだから。悲しいとか落ち込んでるとか、そんなことじゃないから」
 そう。
 彼のことが好きだから。彼のことが何よりも大切だから。

 ――たった、それだけのことなんだから。

 美月は話題を変え、明るい声を出した。
「そういえば、もうすぐバレンタインだね」
 二月十四日は、恋する乙女の一大イベントである。
 それは、梨緒子にとっても美月にとっても同じこと。
 ふと。
 梨緒子は気になっていたことを、思い切って親友に尋ねてみる。
「……美月ちゃん、ルイくんにあげるの?」
「あげないよ。義理だってあげない」
「そうなの? どうして?」
「作戦……かな。押して駄目なら引いてみろって言うし」
 来るもの拒まずが信条の類は、毎年この時期きまって、『義理チョコが欲しい』と女子に広く公言している。
 十円チョコ一つ、アーモンドチョコ一粒にも大袈裟なまでに喜んで、そのすべてにきちんとホワイトデーのお返しもしているのだから、類は実にマメな男である。
 確かに。
 そんな類に対しては、その他大勢の一人になるより、あげないというのも一つの意思表示になるだろう。
「ええ? じゃあ、私もあげないほうがいい?」
 梨緒子は毎年、父親と兄の薫と類の三人に義理チョコを贈っていた。
 今年はそれに優作がプラスされるため、日ごろの感謝を込めて、いつもよりもグレードの高い義理チョコを用意しようと考えていたところだった。
「どうせしつこく催促してくるに決まってるよ。恵んでやれば? 梨緒ちゃんの義理チョコがルイの生きがいなんだから」
「ははは、美月ちゃん大袈裟だってー」
「それよりさ、永瀬くんにはどうするつもり?」
 返答に困った。
 現在の絶交状態では、おそろしく気がすすまない。
「……きっと、興味ないと思う。クリスマスもお正月も完全スルーされたしね。しかもケンカ別れしたままだし」
「仲直りするチャンスじゃない!」
「……別にこのままでいいよ」
 仲直りをする必然性が、梨緒子にはまったく感じられなかった。
 どのみち、終わりがすぐそこまでやってきている。
 梨緒子の覇気の無さに、美月は苛立ちを隠せないでいる。美月は半ば興奮気味に梨緒子を一喝した。
「ケンカしようがなにしようが、永瀬くんはいま、梨緒ちゃんの彼氏なんだから!」
「分かってるよ」
「分かってないよ! 去年までは渡そうとしても渡せなかったんだよ? あの気持ち、忘れたわけじゃないよね?」

 それは一年前。
 高校二年生のバレンタイン風景――。


【来たよ梨緒ちゃん、早く!】
【ダメ、やっぱり渡せない。絶対迷惑だって!】
【リオの手作り、食いたいー】
【さっき義理チョコもらったでしょ! もう、ルイはあっち行ってなさい。ほら、早くしないと永瀬くん帰っちゃうよ!】
【……だって、ダメだったら私、明日から学校来れないもん】
【だよなー。だから俺が代わりにもら――痛っ、グーで殴るなグーで!】


 懐かしい。
 秀平が雲の上の存在だったころの話だ。
 同級生でありながら、一度も言葉を交わしたことがなく、名前を覚えてもらっているのかさえ怪しくて。
 でもいまは違う。
 彼は雲の上から降りてきて、背を向けてはいるものの、いつも梨緒子の側にいるのである。
「最初で最後かもしれないのなら――なおさらね」
「美月ちゃん……」
 親友は梨緒子になけなしの勇気をくれる。
 正直なところ、バレンタインのことなどまったく考えていなかった。しかし、これまでカップルらしいイベントを何一つしてこなかったことを考えると、最後くらいは――という欲が梨緒子にもじわじわと出てくる。
「短大の入試ね、十四日なんだよ。さすがに手作りしてる時間ないし、当日渡せるかどうかも分かんない」
「試験何時に終わるの?」
「三時過ぎかな」
「大丈夫。その日永瀬くんが受けてる物理が最後の時間に入ってる。急いで学校まで来れば間に合うよ! 私がなんとしてでも引き止めておくから」
 自宅に直接届けるという手もある。しかし、万が一両親と遭遇してしまったら、秀平に冷たくあしらわれてしまうのは目に見えている。
 やはり学校で渡すのが無難かもしれない――梨緒子はそう考えた。
「ほら、騙されたと思ってさ! さっそく今日の帰り、一緒に買いに行こうよ、ね?」
「なんか私、ホントに騙されそう……」
「私になら、騙されてもいいでしょ?」
 そう言って笑う親友の満足げな顔に、梨緒子はすでに騙されたのだな、と思った。