無理無理!
相変わらず、秀平とは絶交状態が続いている。
秀平はどんなことがあっても、自分からは折れることができない性格であることは、梨緒子にはすでに分かっていた。孤高と呼ばれるだけあり、他人との距離を縮めることが極端に不得手なのである。
その性格はいったいどこに起因しているものなのか、梨緒子には分からない。同じ両親を持ち同じ屋根の下で暮らしている目の前の男と、まったく似ても似つかないのだから、家庭環境の問題ではなさそうである。
ただ、負けず嫌いなのは、優秀な頭脳を持つ兄の影響が大きいだろう。
「梨緒子ちゃん、秀平とは相変わらず?」
「うん。学校でもほとんど会わなくなっちゃったし、お互い試験控えてるから、それどころじゃないって感じかな」
梨緒子は優作の問いに淡々と答えた。
それに対する優作の返答はない。
「……秀平くん、ちゃんと北大に出願した?」
「さあね。聞いてない」
「家族なのに聞いてないってことはないでしょ?」
「うちの両親ね、放任主義なんだよ」
優作とも付き合いは長い。言葉の奥に潜む彼の『策』は感じ取れる。
それが『何か』までは、梨緒子はまだ読みきれない。
優作は先ほどから、しきりにあごの無精ひげをいじっている。
「心配?」
「……まあ」
地元国立大の願書を破り、北大の願書だけを残したのだから、単純に考えれば北大に出願したと考えるべきである。しかし、地元国立大なら直接願書をもらいに行くことも時間的に可能だ。それに机の引き出しに予備が入っていたかもしれない。
そう考え始めると、秀平が第一志望の北大へ出願したのかどうか、気になって仕方がないのである。
「さあ、明日は梨緒子ちゃんの本命だ。体調は悪くない?」
「今度は大丈夫」
「持っている力を出せれば充分クリアできるから。そして、今日で僕の授業はおしまいね」
「優作先生、これ」
梨緒子は部屋の隅に置いていた紙袋の中から、リボンがかけられた小さな箱をていねいに取り出した。
もちろん中身はチョコレートの詰め合わせである。
「優作先生にはいろいろとお世話になりました」
「おっ、前日にくれるところがいかにも義理チョコっぽくていいなあ」
優作は楽しそうにはしゃいでみせた。切り返し方が慣れていて上手い。
見た目は冴えないが、一緒にいて楽しくてそして癒される。優作は彼女がいないと言っているが、おそらく女性には好かれているだろう。
「梨緒子ちゃん、これからは先生と生徒としてではなく、仲間としてどうぞよろしく」
優作は梨緒子の手を掴み、固く握手をした。
「うちの医大と梨緒子ちゃんの受ける短大は同じ系列だからね。梨緒子ちゃんが合格できたら、僕たちは同門の志となる。近い将来、同じ職場で働けることを願ってるよ。頑張ってね」
優作とは長い付き合いになりそうだ。
梨緒子は優作の励ましに笑顔で応えた。
次の日――。
梨緒子は朝から緊張していた。
短大の入試だから、ではない。心はすでに、バレンタインのことで埋め尽くされてしまっている。
いままで北大目指して勉強していたため、短大の入試は余裕を持って解くことができた。
同じ過ちを繰り返さぬよう、記入ミスには細心の注意を払い、最終科目の化学では試験終了の時間が来るのをひたすら待ち続けた。
試験の終了は三時ちょうどである。
学校までは歩いて四十分かかる。
秀平が受けている物理の授業は三時二十分まで。帰り支度をすませる時間を考慮しても、ぎりぎりアウトだ。
――やっぱり、走るしかないよね。間に合うのかな……。
美月が引き止めると言ってくれたものの、うまくいくとは限らない。
試験終了の合図とともに、梨緒子は試験会場を飛び出して、学校めがけて走り出した。
梨緒子が生徒昇降口に滑り込んだのは、ちょうど三時半をまわったところだった。
もともと帰宅部の上に受験生という身分のため、完全な運動不足である。三十分で辿り着けたのは、奇跡に近い。
呼吸を整えながら下駄箱で靴を履き替えていると、まさに目的の人物がすぐ近くへやってくるような気配がした。
「永瀬先輩!」
現れたのは、後輩たち数人グループだ。それぞれ手には様々な包みを抱えている。
梨緒子は慌てて下駄箱の物陰に身を潜めるようにして、その様子を覗った。
「受験、頑張ってください。応援してます」
「みんな永瀬先輩のファンなんです!」
いくらファンと称しているとはいえ、秀平が自分以外の女子からモノをもらうことなど、決してありえない。
秀平は周りを取り囲まれて、身動きが取れない状態になっている。逃げたくても逃げられない状況だ。
「俺、受け取れないけど――」
秀平は困ったようにため息をついた。
しかし。後輩たちは尚も人数の力で押し切ろうとする。
「彼女いても別にいいんです!」
「お返しとかもいらないですし、永瀬先輩の好きにしてくれてもいいので、受け取ってください!」
秀平は切れ長の二重まぶたをゆっくりと瞬かせ、やがて観念したように片手を差し出した。
「……どうもありがとう」
――嘘。受け取った?
梨緒子は目の前の光景が信じられなかった。
次々に受け取り、その数は十個あまり。あっという間に、両手で抱えられるギリギリまで達してしまう。
彼女である自分からもらったあとなら、まだ話は分かる。
いくらケンカをしているとはいえ――ひょっとしたら秀平は、もう完全に関係が壊れたと思っているのかもしれない。
だからこうやって、知らない女子から平気でチョコレートを受け取れるのだ、そうに違いない。
梨緒子は用意していたチョコレートを、完全に渡す気をなくしてしまった。
急いで走って学校までやってきた自分が、馬鹿らしく思えてならない。
もう、やるせない思いでいっぱいだった。
梨緒子はそのまま力なく一人図書館へと向かい、書架の奥の人気のない場所を選んで座った。
そしてカバンの中から、綺麗にラッピングされたチョコレートの包みを取り出すと、一呼吸置いて包装紙に手をかけた。
お洒落なトリュフの詰め合わせだ。有名ショコラティエによる逸品である。
梨緒子は並んだトリュフの一つをつまみ、無表情でかじりついた。
そのときである。
上着のポケットに入れていた梨緒子の携帯に着信があった。
美月からのメールだ。
件名:【お疲れサマ】
本文:【梨緒ちゃんいまどこ?】
梨緒子はもう一つチョコレートをつまみ、それを口に放り込みながら、返事を打った。
件名:【いまは】
本文:【図書館。一緒に帰れるかな? 話聞いてくれたら嬉しいかも】
返信したあと、美月からは返事がこない。
OKということなのだろう。こちらへ向かっているはずだ。
梨緒子はチョコレートの箱にもう一度手を伸ばした。
今度のは苦い。コーヒーの味がする。
そのときである。
「図書館は――飲食禁止だろ」
チョコレートをかじる動きが完全に止まってしまった。
背後から聞こえてくるこの声の持ち主に、思い当たるのは、たった一人。
全身から汗が噴き出してくる。嫌な予感は焦りに変わり、そして。
梨緒子が怖々と振り返ると、そこに立っていたのは――やはり。
「……しゅ、秀平くん?」
いったい何が起こっているのか、梨緒子にはすぐに理解できなかった。
親友の美月が来るはずなのに、どうして彼が――。
そして、パズルのピースがはめられていき、その答えは現れる。
――そっか、美月ちゃん秀平くんのこと引き止めるって……。
しかし。
まさかそんな直接的な方法で引き止めているとは、思ってもみなかったのである。
美月がメールを送ってきたすぐ横には、おそらく秀平がいたのだろう。
何を言ったのだろう。
どうやって説明をしたのだろう。
そして秀平は、どうしてここまで――。
「シャープペンと消しゴム貸して」
秀平は梨緒子の隣に当然のように座り、梨緒子の筆記用具を使って、持ってきたプリントに何かを書き付け始めた。
実に半月ぶりの遭遇である。
梨緒子はこれまでにないほどの緊張を強いられていた。
秀平は書き物に没頭して、いっこうに話しかけてこない。
まだ怒っているのだろうか。
謝るのを待っているのだろうか。
梨緒子の心臓は、もはや破裂寸前である。
秀平にあげるはずだったチョコレートは、食べかけのまま机の上に放り出してある。この状態ではとても彼に渡すことなどできない。
そもそも、どうして自分がここでチョコレートを食べているのか。
梨緒子は気を取り直し、努めて平静を装って秀平に声をかけた。
「それ……なに?」
「二次対策。北大の。これから先生に添削してもらうから」
「そう――」
それ以上、言葉が出てこない。
長い長い沈黙が二人を包む。
梨緒子は再び重い口を開いた。
「……知らない人から物もらうなって、親から言われてるんじゃなかったの?」
「その通りだけど」
「秀平くん、たくさんもらってたじゃない?」
「もらってないよ」
「私、見てたんだよ」
シャープペンの動きが止まった。
しかし秀平は、顔を梨緒子のほうに向けようとせず、そのままプリントの解答を書きすすめる。
「先生たちに全部渡してきたよ。お返しもいらないし、好きにしていいって言ってたから」
「そんな。みんなの気持ちがこもってるのに、簡単にもらったりあげたり……」
「だからそれ、自分で食べてるんだ」
秀平はひたすらシャープペンを動かし、プリントの解答を書き直す作業に没頭している。
自分がもらうはずのチョコレートを、彼女が開封して食べているその理由――。
「ど……どうして分かるの?」
「分かるよ」
すると、その手を緩めることなく、秀平はおどけたようにひと言。
「――彼氏ですから」
梨緒子は言葉を失った。
この人は、いつのまにこんなにも自分のことを分かるようになったのだろう。驚くことに、秀平は梨緒子の些細な言動一つで、すべての状況を正確に把握できるようになっている。
秀平は席を立ち、梨緒子に背中を向けた。
「俺、先生と約束してるからもう行く」
「秀平くん」
梨緒子はもう、こらえられなくなっていた。
「ごめんね」
「謝らなくてもいいって言っただろ」
結果的に、彼氏である秀平との約束を守れなかったのは、自分なのだ。
悔しい。
どんどん目の前の秀平の顔がぼやけていく。
「泣くなよ……」
困ったような彼の優しい声が、梨緒子を包み込む。
「俺、梨緒子のこと泣かせるために北大受けるって決めたわけじゃない」
「私、ホントは離れたくなかった――」
止めどなくあふれる涙を拭うことをせず、座る梨緒子の椅子の側で立ち尽くしている秀平の顔を、こいねがうように見上げた。
「秀平くんがこっちへ残ってもいいって言ってくれたその気持ちに、甘えることができたら……って。でも、でもね」
「もういいよ梨緒子。もういいから」
半月もの長い時間が、確実に秀平の心を変えているようだった。
お互いの気持ちを、お互いが充分理解している。
梨緒子は懸命に涙を拭い、笑顔を作った。
「秀平くんの側で、秀平くんの目指すものを、この目で見てみたかったなー」
秀平は黙ったまま、じっと梨緒子の顔を心配そうに見下ろしている。
その艶やかな焦げ茶色の瞳が、わずかに揺れるのを梨緒子は見た。
「まだ、受かると決まったわけじゃないから。それじゃ、時間だから――」
秀平の足音が、書架の合間の通路を遠ざかっていく。
彼がきちんと北大に願書を出したという安心感と。
これで完全に終わりが見えてしまった虚しさと。
梨緒子は、秀平が使っていたシャープペンと消しゴムに、のそのそと手を伸ばした。
きっとあのプリントは、初めからちゃんとできていたに違いない。おそらく座って話す口実だったのだろう。
たとえそれが、美月につつかれて仕方なくやってきたのだとしても、秀平が自分から歩み寄りをみせたことに、梨緒子は少なからずの驚きを感じていた。
筆記用具をペンケースにしまい、食べかけのチョコレートの箱に蓋をしようとしたとき――。
「梨緒子、ちょっと待って」
振り返ると。
図書館の外まで出てすぐに引き返してきたらしい秀平が、梨緒子の背後に立っていた。
「ビックリした……どうしたの?」
「肝心なもの、忘れるところだった」
秀平は、梨緒子が食べた跡のあるチョコレートの箱から、ホワイトチョコのコーティングがされたトリュフをつまみ、それを口の中へと放り込んだ。
「図書館での飲食禁止――俺も同罪だな。ごちそうさま」
梨緒子が返事をする間もなく、秀平は梨緒子の肩を軽く叩いて、駆け足でその場を離れていく。
先生との約束の時間は、とっくに過ぎているに違いない。
――肝心なもの? ……だから秀平くんは自分から――もう。
別れなければいけない。そう心に言い聞かせれば言い聞かせるほど、いままで以上に彼のことを好きになり続けているという事実。
――秀平くんのこと忘れるなんて、そんなの無理無理! 絶対に無理!
梨緒子は秀平が先ほど食べたチョコレートがあった場所を眺め、こみ上げてくる寂しさに耐えられず、図書館の隅で一人、ひたすら泣きじゃくった。
秀平はどんなことがあっても、自分からは折れることができない性格であることは、梨緒子にはすでに分かっていた。孤高と呼ばれるだけあり、他人との距離を縮めることが極端に不得手なのである。
その性格はいったいどこに起因しているものなのか、梨緒子には分からない。同じ両親を持ち同じ屋根の下で暮らしている目の前の男と、まったく似ても似つかないのだから、家庭環境の問題ではなさそうである。
ただ、負けず嫌いなのは、優秀な頭脳を持つ兄の影響が大きいだろう。
「梨緒子ちゃん、秀平とは相変わらず?」
「うん。学校でもほとんど会わなくなっちゃったし、お互い試験控えてるから、それどころじゃないって感じかな」
梨緒子は優作の問いに淡々と答えた。
それに対する優作の返答はない。
「……秀平くん、ちゃんと北大に出願した?」
「さあね。聞いてない」
「家族なのに聞いてないってことはないでしょ?」
「うちの両親ね、放任主義なんだよ」
優作とも付き合いは長い。言葉の奥に潜む彼の『策』は感じ取れる。
それが『何か』までは、梨緒子はまだ読みきれない。
優作は先ほどから、しきりにあごの無精ひげをいじっている。
「心配?」
「……まあ」
地元国立大の願書を破り、北大の願書だけを残したのだから、単純に考えれば北大に出願したと考えるべきである。しかし、地元国立大なら直接願書をもらいに行くことも時間的に可能だ。それに机の引き出しに予備が入っていたかもしれない。
そう考え始めると、秀平が第一志望の北大へ出願したのかどうか、気になって仕方がないのである。
「さあ、明日は梨緒子ちゃんの本命だ。体調は悪くない?」
「今度は大丈夫」
「持っている力を出せれば充分クリアできるから。そして、今日で僕の授業はおしまいね」
「優作先生、これ」
梨緒子は部屋の隅に置いていた紙袋の中から、リボンがかけられた小さな箱をていねいに取り出した。
もちろん中身はチョコレートの詰め合わせである。
「優作先生にはいろいろとお世話になりました」
「おっ、前日にくれるところがいかにも義理チョコっぽくていいなあ」
優作は楽しそうにはしゃいでみせた。切り返し方が慣れていて上手い。
見た目は冴えないが、一緒にいて楽しくてそして癒される。優作は彼女がいないと言っているが、おそらく女性には好かれているだろう。
「梨緒子ちゃん、これからは先生と生徒としてではなく、仲間としてどうぞよろしく」
優作は梨緒子の手を掴み、固く握手をした。
「うちの医大と梨緒子ちゃんの受ける短大は同じ系列だからね。梨緒子ちゃんが合格できたら、僕たちは同門の志となる。近い将来、同じ職場で働けることを願ってるよ。頑張ってね」
優作とは長い付き合いになりそうだ。
梨緒子は優作の励ましに笑顔で応えた。
次の日――。
梨緒子は朝から緊張していた。
短大の入試だから、ではない。心はすでに、バレンタインのことで埋め尽くされてしまっている。
いままで北大目指して勉強していたため、短大の入試は余裕を持って解くことができた。
同じ過ちを繰り返さぬよう、記入ミスには細心の注意を払い、最終科目の化学では試験終了の時間が来るのをひたすら待ち続けた。
試験の終了は三時ちょうどである。
学校までは歩いて四十分かかる。
秀平が受けている物理の授業は三時二十分まで。帰り支度をすませる時間を考慮しても、ぎりぎりアウトだ。
――やっぱり、走るしかないよね。間に合うのかな……。
美月が引き止めると言ってくれたものの、うまくいくとは限らない。
試験終了の合図とともに、梨緒子は試験会場を飛び出して、学校めがけて走り出した。
梨緒子が生徒昇降口に滑り込んだのは、ちょうど三時半をまわったところだった。
もともと帰宅部の上に受験生という身分のため、完全な運動不足である。三十分で辿り着けたのは、奇跡に近い。
呼吸を整えながら下駄箱で靴を履き替えていると、まさに目的の人物がすぐ近くへやってくるような気配がした。
「永瀬先輩!」
現れたのは、後輩たち数人グループだ。それぞれ手には様々な包みを抱えている。
梨緒子は慌てて下駄箱の物陰に身を潜めるようにして、その様子を覗った。
「受験、頑張ってください。応援してます」
「みんな永瀬先輩のファンなんです!」
いくらファンと称しているとはいえ、秀平が自分以外の女子からモノをもらうことなど、決してありえない。
秀平は周りを取り囲まれて、身動きが取れない状態になっている。逃げたくても逃げられない状況だ。
「俺、受け取れないけど――」
秀平は困ったようにため息をついた。
しかし。後輩たちは尚も人数の力で押し切ろうとする。
「彼女いても別にいいんです!」
「お返しとかもいらないですし、永瀬先輩の好きにしてくれてもいいので、受け取ってください!」
秀平は切れ長の二重まぶたをゆっくりと瞬かせ、やがて観念したように片手を差し出した。
「……どうもありがとう」
――嘘。受け取った?
梨緒子は目の前の光景が信じられなかった。
次々に受け取り、その数は十個あまり。あっという間に、両手で抱えられるギリギリまで達してしまう。
彼女である自分からもらったあとなら、まだ話は分かる。
いくらケンカをしているとはいえ――ひょっとしたら秀平は、もう完全に関係が壊れたと思っているのかもしれない。
だからこうやって、知らない女子から平気でチョコレートを受け取れるのだ、そうに違いない。
梨緒子は用意していたチョコレートを、完全に渡す気をなくしてしまった。
急いで走って学校までやってきた自分が、馬鹿らしく思えてならない。
もう、やるせない思いでいっぱいだった。
梨緒子はそのまま力なく一人図書館へと向かい、書架の奥の人気のない場所を選んで座った。
そしてカバンの中から、綺麗にラッピングされたチョコレートの包みを取り出すと、一呼吸置いて包装紙に手をかけた。
お洒落なトリュフの詰め合わせだ。有名ショコラティエによる逸品である。
梨緒子は並んだトリュフの一つをつまみ、無表情でかじりついた。
そのときである。
上着のポケットに入れていた梨緒子の携帯に着信があった。
美月からのメールだ。
件名:【お疲れサマ】
本文:【梨緒ちゃんいまどこ?】
梨緒子はもう一つチョコレートをつまみ、それを口に放り込みながら、返事を打った。
件名:【いまは】
本文:【図書館。一緒に帰れるかな? 話聞いてくれたら嬉しいかも】
返信したあと、美月からは返事がこない。
OKということなのだろう。こちらへ向かっているはずだ。
梨緒子はチョコレートの箱にもう一度手を伸ばした。
今度のは苦い。コーヒーの味がする。
そのときである。
「図書館は――飲食禁止だろ」
チョコレートをかじる動きが完全に止まってしまった。
背後から聞こえてくるこの声の持ち主に、思い当たるのは、たった一人。
全身から汗が噴き出してくる。嫌な予感は焦りに変わり、そして。
梨緒子が怖々と振り返ると、そこに立っていたのは――やはり。
「……しゅ、秀平くん?」
いったい何が起こっているのか、梨緒子にはすぐに理解できなかった。
親友の美月が来るはずなのに、どうして彼が――。
そして、パズルのピースがはめられていき、その答えは現れる。
――そっか、美月ちゃん秀平くんのこと引き止めるって……。
しかし。
まさかそんな直接的な方法で引き止めているとは、思ってもみなかったのである。
美月がメールを送ってきたすぐ横には、おそらく秀平がいたのだろう。
何を言ったのだろう。
どうやって説明をしたのだろう。
そして秀平は、どうしてここまで――。
「シャープペンと消しゴム貸して」
秀平は梨緒子の隣に当然のように座り、梨緒子の筆記用具を使って、持ってきたプリントに何かを書き付け始めた。
実に半月ぶりの遭遇である。
梨緒子はこれまでにないほどの緊張を強いられていた。
秀平は書き物に没頭して、いっこうに話しかけてこない。
まだ怒っているのだろうか。
謝るのを待っているのだろうか。
梨緒子の心臓は、もはや破裂寸前である。
秀平にあげるはずだったチョコレートは、食べかけのまま机の上に放り出してある。この状態ではとても彼に渡すことなどできない。
そもそも、どうして自分がここでチョコレートを食べているのか。
梨緒子は気を取り直し、努めて平静を装って秀平に声をかけた。
「それ……なに?」
「二次対策。北大の。これから先生に添削してもらうから」
「そう――」
それ以上、言葉が出てこない。
長い長い沈黙が二人を包む。
梨緒子は再び重い口を開いた。
「……知らない人から物もらうなって、親から言われてるんじゃなかったの?」
「その通りだけど」
「秀平くん、たくさんもらってたじゃない?」
「もらってないよ」
「私、見てたんだよ」
シャープペンの動きが止まった。
しかし秀平は、顔を梨緒子のほうに向けようとせず、そのままプリントの解答を書きすすめる。
「先生たちに全部渡してきたよ。お返しもいらないし、好きにしていいって言ってたから」
「そんな。みんなの気持ちがこもってるのに、簡単にもらったりあげたり……」
「だからそれ、自分で食べてるんだ」
秀平はひたすらシャープペンを動かし、プリントの解答を書き直す作業に没頭している。
自分がもらうはずのチョコレートを、彼女が開封して食べているその理由――。
「ど……どうして分かるの?」
「分かるよ」
すると、その手を緩めることなく、秀平はおどけたようにひと言。
「――彼氏ですから」
梨緒子は言葉を失った。
この人は、いつのまにこんなにも自分のことを分かるようになったのだろう。驚くことに、秀平は梨緒子の些細な言動一つで、すべての状況を正確に把握できるようになっている。
秀平は席を立ち、梨緒子に背中を向けた。
「俺、先生と約束してるからもう行く」
「秀平くん」
梨緒子はもう、こらえられなくなっていた。
「ごめんね」
「謝らなくてもいいって言っただろ」
結果的に、彼氏である秀平との約束を守れなかったのは、自分なのだ。
悔しい。
どんどん目の前の秀平の顔がぼやけていく。
「泣くなよ……」
困ったような彼の優しい声が、梨緒子を包み込む。
「俺、梨緒子のこと泣かせるために北大受けるって決めたわけじゃない」
「私、ホントは離れたくなかった――」
止めどなくあふれる涙を拭うことをせず、座る梨緒子の椅子の側で立ち尽くしている秀平の顔を、こいねがうように見上げた。
「秀平くんがこっちへ残ってもいいって言ってくれたその気持ちに、甘えることができたら……って。でも、でもね」
「もういいよ梨緒子。もういいから」
半月もの長い時間が、確実に秀平の心を変えているようだった。
お互いの気持ちを、お互いが充分理解している。
梨緒子は懸命に涙を拭い、笑顔を作った。
「秀平くんの側で、秀平くんの目指すものを、この目で見てみたかったなー」
秀平は黙ったまま、じっと梨緒子の顔を心配そうに見下ろしている。
その艶やかな焦げ茶色の瞳が、わずかに揺れるのを梨緒子は見た。
「まだ、受かると決まったわけじゃないから。それじゃ、時間だから――」
秀平の足音が、書架の合間の通路を遠ざかっていく。
彼がきちんと北大に願書を出したという安心感と。
これで完全に終わりが見えてしまった虚しさと。
梨緒子は、秀平が使っていたシャープペンと消しゴムに、のそのそと手を伸ばした。
きっとあのプリントは、初めからちゃんとできていたに違いない。おそらく座って話す口実だったのだろう。
たとえそれが、美月につつかれて仕方なくやってきたのだとしても、秀平が自分から歩み寄りをみせたことに、梨緒子は少なからずの驚きを感じていた。
筆記用具をペンケースにしまい、食べかけのチョコレートの箱に蓋をしようとしたとき――。
「梨緒子、ちょっと待って」
振り返ると。
図書館の外まで出てすぐに引き返してきたらしい秀平が、梨緒子の背後に立っていた。
「ビックリした……どうしたの?」
「肝心なもの、忘れるところだった」
秀平は、梨緒子が食べた跡のあるチョコレートの箱から、ホワイトチョコのコーティングがされたトリュフをつまみ、それを口の中へと放り込んだ。
「図書館での飲食禁止――俺も同罪だな。ごちそうさま」
梨緒子が返事をする間もなく、秀平は梨緒子の肩を軽く叩いて、駆け足でその場を離れていく。
先生との約束の時間は、とっくに過ぎているに違いない。
――肝心なもの? ……だから秀平くんは自分から――もう。
別れなければいけない。そう心に言い聞かせれば言い聞かせるほど、いままで以上に彼のことを好きになり続けているという事実。
――秀平くんのこと忘れるなんて、そんなの無理無理! 絶対に無理!
梨緒子は秀平が先ほど食べたチョコレートがあった場所を眺め、こみ上げてくる寂しさに耐えられず、図書館の隅で一人、ひたすら泣きじゃくった。