つまんない……

 同級生たちのほとんどが本命としている、国公立の前期試験まであと一週間を切っているこの時期、校内は慌しい様相を呈している。
 短大の試験が終わった梨緒子は、学校へ出てきて授業を受ける必要がなくなった。
 しかし。
 梨緒子は二時間目の途中、悠々と学校へ登校し、自習場所である多目的教室へとやってきた。
 思ったよりも人が少ない。
 教室を一通り見渡すと、窓際の席に知っている生徒の姿を発見した。
 安藤類少年である。
 梨緒子がゆっくりと近づいていくと、類はこちらに気づき、顔を上げた。
「あれ、もう試験終わったんだろ。何で学校に来てんだ、リオ」
「とりあえず合格発表が終わるまでは――なんとなく」
「いーなー、俺も早く受験生活から足洗いたい」
 類の使っている参考書には、びっしりと書き込みがされている。
 梨緒子は感心しながら、類の隣の席に腰を下ろした。
「どうせ、理由はあいつだろ?」
「……別に約束してるわけじゃないんだけど、ね」
 類はすでに集中力が途切れたらしい。シャープペンを机の上に置き、片肘をついて梨緒子のほうへと向き直った。
「美月から聞いた。いろいろと」
「そう」
「何であえて遠距離選ぶわけ? それでホントにいいのかよ、リオは」
 いろいろということは、梨緒子がセンター試験で失敗したことも、それが元で秀平が北大を受けるのを止めると言い出したことも、大ゲンカの末に秀平が北大へ出願したことも、すべて聞いたに違いない。
「でも、秀平くんが決めたことだから」
「ハッ、ヤツは離れる気満々か?」
「満々かどうかは分かんないけど、離れる覚悟はできてるみたい。秀平くんはああいう人だから……正直ね、いまでも毎日不安だらけなのに、離れたら――ダメになるよね、きっと」
 弱音を吐く梨緒子を横目に、類は面白くなさそうに白々しいため息をついてみせた。
「永瀬は馬鹿だな。本当にどうしようもない馬鹿だ……」


 しばらくして、二時間目終了のチャイムが鳴った。
 三時間目に授業が入っている生徒が、次々と多目的教室を出て行き、今度は三時間目が空いている生徒が入ってくる。
 類は配布されていた時間割表のプリントを取り出した。
「次、俺生物入ってるだろ。美月も……たぶんここの英語受けるから、リオは一人で我慢だな」
「あ、そうなんだ」
 梨緒子は類と寄り添うようにして、一緒にプリントを覗き込んだ。
 そして素早く確認する。

 ――あ、ひょっとして。

 その予想はすぐに確信に変わった。
 類と梨緒子が仲良く寄り添ってプリントを覗いている目の前に、すらりとした長身の少年が立ちはだかったからである。
 気づくのが遅かった――梨緒子は怖々と顔を上げた。
「梨緒子……どうして学校に来てるの?」
 秀平は驚いている。瞳をゆっくりと瞬かせ、梨緒子と類の顔を交互に見つめている。
 梨緒子が説明をしようと口を開くよりも先に、類が面倒臭そうに言い放った。
「一番、美月とおしゃべりしたかったから。二番、俺と密会デートしたかったから。三番、ラブラブな彼氏と一緒にお昼ご飯が食べたかったから。はい、永瀬クンの答えは?」
 秀平の突き刺すような冷たい眼差しが怖い。
 梨緒子はごくりと唾を飲み込んだ。
「……知らないよそんなの」
「ふうん、二番だったらどうする?」
「もう、ルイくん!」
 類は、梨緒子と離れる決断をした秀平のことが、とにかく気に入らないらしい。
 その類の挑発に、秀平の表情がいっそう強ばる。
「あー俺、もう時間だから行くわ。素直じゃねぇ野郎には付き合いきれねー、悪いけど。んじゃ」

 三時間目が始まってから、秀平はずっと黙ったままだった。
 とりあえず梨緒子の隣の席に座り、数学やら物理やらの問題を解き始める。
 文字を書きつける音さえもはっきりと聞こえるほど、多目的教室内は静寂に包まれている。
 話しかけづらい雰囲気だ。
 梨緒子は声をひそめて、隣に座る彼氏に語りかけた。
「そんなんじゃ、ないからね?」
「何が」
 怒っている、確実に。
 せっかくバレンタインで仲直りしたのもつかの間、やはり近いうちにやってくるであろう未来を考えると、あと一歩を踏み込む勇気が出てこない。
 自然消滅。円満別離。
「秀平くん、ちゃんと信じてくれてる?」
「質問がおかしい」
 もっと近づきたい。
 でも、近づけば近づくほど別れが辛くなる。
 無性に寂しさがこみ上げてきて、例えようもない悲しみが梨緒子を襲う。
 梨緒子は話しかけるのを諦め、秀平と反対側を向き、ぼうっと窓の外の景色を眺め始めた。


 どのくらいの時間が経った頃だろう。
 秀平が一通り数学と物理のプリントを解き終えたらしい。シャープペンを置く音が、梨緒子の耳に届いた。
 すると。
「…………分かったよ」
 そう言うと、秀平は突然席を立ち、隣に座っていた梨緒子の腕を強引に掴んで、その場に立ち上がらせた。
「ほら、早く」
「早くって……ど、どこに行くの?」
「答えは三番で正解。だから学食に行く」
 学食は二月から選択授業の三年生に合わせ、営業開始時間が三十分早くなっている。
 いまは三時間目の途中だが、おそらくすでに学食は開いているはずだった。
「えっ? ま、真面目に? 嘘……」
「駄目?」
「駄目じゃないけど……でも、いっぱい人来るよ?」
「分かってるよ」
「みんなに見られるよ?」
 秀平は諦めたように、長いため息をついてみせた。
「……一緒に食べたいの、食べたくないの、どっち?」
 学校で一緒にご飯を食べるなど、いままでに一度もない。
 秀平が本気で言っているのかどうか、梨緒子には疑問だった。
「ホントにいいの?」
「いいよ。残された時間は有効に使わないと」
 そう。
 二人に残された時間はもう、ひと月もないのだから――。


 静まり返った廊下を、二人は並んでゆっくりと歩いていく。
 まだ授業中だ。大声で喋るわけにはいかない。
 とにかく梨緒子は嬉しくてたまらなかった。
 ずっとずっと、憧れていたのだ。
 学校の中でも、普通のカップルのように、仲良くご飯を食べたりすること――。
 たったそれだけのことが、この『孤高』と呼ばれる彼氏には通用しなかったのである。
 その証拠に、梨緒子の横で秀平は呟くように言った。
「俺、学食に行くの初めて」
「そうなの? もうすぐ卒業するのに?」
「人の多いところに行くとさ、なんか知らないけど、妙な視線やたらと感じるし、疲れるから」
 その端整な容貌で、女子生徒の視線を一手に集めてしまうのだから、当然である。
 しかし当の本人は、それが好意的な眼差しであることにまるで気づいていない。
「じゃあ止める? 無理しなくてもいいよ」
「梨緒子が一緒だから、別にいい」
 秀平は澄ました顔でそう答えた。

 やがて二人は、学食のある生徒会館の入り口の角へと差し掛かった。
「すみません」
 不意に耳元で秀平の声がしたかと思うと、腕を引っ張られた。
 秀平が謝った相手は、梨緒子が衝突しそうになった学校の事務職員だった。その礼儀正しい対応に、初老の男性事務員は会釈をし、通り過ぎていく。
「よそ見するなよ、人にぶつかるだろ」
 自分がぶつかったわけでもないのに、まるで保護者のように梨緒子をかばい、そして注意する。
 傍から見れば些細なことかもしれないが――梨緒子はそれだけのことが嬉しくてたまらなかった。


 二人は学食入口に設置されている食券販売機の前に並んで立った。
「おごるよ」
 秀平は自分の財布から千円札を取り出すと、それを食券販売機へ投入した。
 すぐに購入可の赤いランプが、すべてのボタンに点灯する。
「あ、別に気をつかわなくてもいいよ?」
「この間、チョコレート『一粒』もらったし」
 秀平は『一粒』という言葉を、あえて強調するように言った。
 二人の間に、どうにも気まずい空気が流れる。

 ――そりゃ、確かに一粒だったかもしれないけど。

 しかし、秀平は特に悪意があったわけではなさそうだ。ちらり見やると、当の本人は梨緒子の隣で、ボタンに書かれたメニューをただ物憂げに眺めている。
 梨緒子は胸を撫で下ろした。
 学食のメニューはすべてが五百円以下。よほどの大食漢でない限り、二人で千円でも充分お釣りがくる。
 梨緒子がBランチを選ぶと、秀平は同じものでいいと食券を二枚購入した。
 Aランチは和風、Bランチは洋風メニューが基本の、日替わり定食である。


 学食はまだ空いていた。
 食券をカウンターに差し出すと、すぐにトレイに載せられたBランチが二つ出てくる。
 秀平と梨緒子はトレイを持って、学食の隅のテーブルに向かい合って座った。
「俺、グリーンピース嫌いだから」
 そう言って秀平は、クリームシチューの中に入っているミックスベジタブルの緑を、スプーンでていねいに避けていく。
「あ、そうなんだ」
「あと、ブロッコリーと春菊と、あとオクラもダメ」
 初めて知る秀平のレア情報に、梨緒子の胸はわずかに弾んだ。
 食べ物の好みは、側に長くいることがなければ、絶対に知ることができないからである。
「……何か、間違って食べた」
 秀平は渋い顔をしながらお冷のグラスを手にすると、あおるようにして一気に飲み干した。
 しかし、まだ治まらないらしい。今度は梨緒子のグラスに手を付け、なんのためらいもなく中身を飲み干してみせる。
 秀平はそのまま、空いたグラス二つを梨緒子のほうへ滑らせた。
「お替り。行ってきて、梨緒子」

 ――もう、秀平くんって、わがまま。

 でも、それは彼女である自分にだけなのだ。
 そう思うと、何でも許せてしまうから不思議なものである。

 彼が一人待つ席へ、お冷のグラスを携えて戻ってみると――。
 信じられない光景に、梨緒子は愕然となった。
 なんと。
 梨緒子が最後に食べようととっておいたチョコレートプリンを、秀平が涼しい顔をしながら勝手に食べている。
 ついさっき、『何でも許せてしまう』と思ってしまった自分の記憶を、梨緒子はあっけなく消去する。
 梨緒子はくんできたばかりのお冷のグラスを、テーブルの上に叩きつけるようにして置いた。
「ひどいよ秀平くん……せめて半分残してくれたって」
「分かった分かった、はいこれ」
 秀平はなだめるようにして、自分が残した鶏のから揚げを梨緒子の皿の上に載せた。
「代わりにあげるよ。俺、鶏肉あんまり好きじゃない」
「やだ、チョコプリンがいい。秀平くんの頂戴!」
 そう。
 秀平のトレイには、いまだ手付かずのチョコレートプリンが残されているのである。
 しかし。
「これは俺のだから」
「ええ? 意味分かんない」
「俺の記憶が正しければ、バレンタインにチョコ一粒しかもらってないんだよね」
 梨緒子は二の句が継げなかった。
 食券を買うときにも、秀平は同じことを言っていた。梨緒子はハッキリと覚えている。
「……ホント、秀平くんって根に持つタイプだよね」
「そうだよ」
 秀平は澄ましていた表情をふと崩し、微笑んだ。そして、楽しそうにいつまでもいつまでも、笑い続けている。
「梨緒子はそうやって怒ったり拗ねたり笑ったりしてる方がいい」

 ――ああ、もう。

 このまま時間が止まってしまえばいい――梨緒子は本気でそう願った。
 どうしてこの人を好きになってしまったのだろう。
 梨緒子の脳から爪先まで、ありとあらゆる全身の細胞が、彼のすべてを好きだと言っている。
 ずっとこうして彼の側にいたいと、叫んでいる。
 しかし。
 無情にも、時間は刻一刻と確実に過ぎていく。
「泣いている顔も嫌いじゃないけど、心配でたまらなくなるから――」
「大丈夫だよ、もう。私のことなら心配しないで。ね?」
 秀平は返事もせずに、黙々とプリンを頬張っている。
 梨緒子は話題を変えた。
「二次試験、秀平くんはいつこっち発つの?」
「土曜の飛行機で向かうつもりだけど。日曜に下見に出かけて、月曜日が本番で、こっちへ戻ってくるのは火曜日かな」
「ふーん……遠い大学だと、移動も大変だね」
 梨緒子が他人事のようにそう呟くと。
 秀平はスプーンをくわえたまま、どことなく寂しげにゆっくりと頷いてみせた。



 土曜日の昼下がり――。
 梨緒子はみんなが二次試験の勉強で忙しい中、一人のんびりと過ごしていた。
 しかし、楽しく遊びまわるほどの余裕はない。
 まだ進路が決定しているわけではない。結果待ちという不安が付きまとっている。

 ――秀平くんは、もう北海道へと向かったかな。

 梨緒子は壁掛け時計に何度も目をやりながら、秀平のことばかり考えていた。

 土曜の飛行機で札幌へ向かい。
 日曜に試験会場の下見に出かけて。
 月曜日が二次試験本番で。
 戻ってくるのは、火曜日――。

 そんなことを、思い出していたときである。
 センターテーブルの上に置いていた梨緒子の携帯が、突然鳴り出した。
 ディスプレイには『永瀬家自宅』と表示されている。
 おそらく家庭教師の優作からだ――梨緒子はすぐに通話ボタンを押した。
『梨緒子ちゃん、元気にしてた?』
 その懐かしい声に、梨緒子の緊張は一気にほぐれた。
『明日合格発表だよね。お昼からだっけ? 直接見に行くんでしょ?』
「ええ? 一人で行くの不安……落ちてたらどうする?」
『じゃあ、僕も一緒に行こうか。発表場所で待ち合わせしよう。どうせ隣の敷地だしね』
 願ってもないことである。
 一年間、さまざまな面で梨緒子をサポートし、苦楽をともにしてきた優作が一緒なら、なによりも心強い。
『受かったらお祝いにね、梨緒子ちゃんの欲しいもの、プレゼントしてあげるよ』
 受話器の向こうから聞こえてくる優作の声は、何故かいつも以上に楽しげだ。
 その明るさが、憂鬱な梨緒子の心を励ましてくれる。
 梨緒子は発表予定時刻の五分前に、短大の正門前で優作と待ち合わせる約束をして、電話を切った。



 あくる日の日曜日――。
 約束の時間になっても、優作は待ち合わせの場所に現れなかった。

 ――優作先生、遅いな……。

 短大の周辺は、受験した生徒やその父兄でかなり混雑していた。
 中には梨緒子のように一人で発表を見にきた高校生の姿もあった。しかし、それは少数だ。
 優作がやってくるよりも先に、大学職員によって合格者の番号が掲示板に貼り出された。
 梨緒子は人波に揉まれるようにして、貼り出された掲示板に近づき、見知らぬ人間の後頭部の合間をぬって、受験番号を確認した。
「あっ……た」

 ――とりあえず、進路決定……。

 梨緒子はホッと胸を撫で下ろした。
 しかし。
 喜びをわかち合いたい相手は、まだ姿を現さない。
 梨緒子は辺りを落ち着きなく見回しながら、優作を捜した。
「あ、梨緒子ちゃん? そうだよね?」
 名を呼ばれ、振り向くと。
 声をかけてきたのは、優作の友人・草津青年だった。
「あ……えっと、その節はどうも」
 梨緒子が挨拶をすると、草津は人懐っこそうな笑顔を振りまいて、親しげに話しかけてくる。
「やっぱりそうだ。おーい白浜、優ちゃんのところの梨緒子ちゃん発見!」
 人波をかき分けるようにして、優作の友人がもう一人現れた。
 こちらも見覚えがある。
 草津に白浜。優作に『温泉コンビ』と呼ばれている二人だ。
「おお! その顔は合格?」
 決して悪い人たちではないのだが――いつもその勢いに押され、梨緒子は上手く対処ができないのである。
「いや……あの……すみません、優作先生は?」
「今日は学校来てないよ。例の彼女とデートでもしてるんじゃない?」
「今度さ、合格祝いしよう! もちろん優ちゃんも一緒で」
 梨緒子の話などろくに聞きもせず、どんどん勝手に話を進めていく。梨緒子はなんとか拒もうと必死になった。
「あの……そこまでしてもらう義理もないので」
「そんな、遠慮しなくていいからー」
「か、彼氏に怒られますから、あの、ホントに」
 このままでは、いつぞやの二の舞だ。
 しかも、頼みの綱の優作も、いまどこにいるのか分からない。

 そのときである。
 梨緒子は、背後から誰かに羽交い絞めにされた。
 両腕を押さえ込むようにして、半ば抱き締められるような格好になる。
 何が起こっているのか、自分でもよく分からない。
 目の前には、いまだ優作の友人たちの姿が見えている。
 ということは、梨緒子の知らない、彼らの別の仲間が――。

 梨緒子は恐怖のあまり、半狂乱になってもがいた。
 周りに人は大勢いるのだが、みな合格発表に夢中だ。
 恐怖のあまり、声も出せない。
 もがき抵抗する梨緒子を押さえ込もうと、羽交い絞めしてくる腕の力はいっそう強くなる。
「そう暴れるなよ、梨緒子」
 梨緒子は自分の耳を疑った。
 確かにそれは、聞き覚えのある声である。
 梨緒子が抵抗するのを止めると、羽交い絞めにされていた腕の力が徐々に緩んだ。
 慌てて振り返ると、すぐそこで焦げ茶色の透き通った瞳が、物憂げに瞬いているのが見えた。
「う、う、嘘!?」
 梨緒子は驚きを隠せず、限界まで見開いた両目で何度も確認する。
 昨日のうちに札幌へ向けて旅立ったはずの秀平が、なぜ目の前に――。
 秀平は驚く梨緒子を左腕でしっかりと抱き締めたまま、呆然と立ち尽くす大学生の男たちに礼儀正しく会釈した。
「いつも兄がお世話になってます」
 その言葉に、草津と白浜は顔を見合わせた。
「あ、ひょっとして優ちゃんの弟? すげ、ウワサ通りの美少年だなこりゃ」
「てことは…………そっか、梨緒子ちゃんの彼氏?」
 返事をしようにも言葉が出てこない。
 梨緒子は震えながら、必死に首を縦に振った。
「そっか、それじゃダメだわなー」
 温泉コンビは悪びれずに肩をすくめてみせると、また今度ね――と、その場を去っていった。

 それよりなにより。
 前期試験は明日なのである。
 まさかいまのいまになって、北大の受験を取り止めてしまったのではないかと、梨緒子の心に緊張が走った。
「ちょっと秀平くん、こんなところで何やってるの?」
「やっぱり受けるの止めた」
「う……嘘!?」
「冗談だよ」
 間髪入れずに秀平は返答する。
 どうしてこの人は、平気な顔してさらりと冗談なんか言えるのだろう。
「夕方の便で札幌に向かうから、ギリギリ間に合う。うまく空席が出たから――」
「もう! 心配させないで……」
 明日は自分の大切な試験があるというのに。
 飛行機の便を遅らせてまで、わざわざ秀平がここまでやってきた理由が、梨緒子にはまったく分からない。
「それより、どうだったの?」
「え?」
「結果」
 秀平は梨緒子としっかりと向き合った。真っ直ぐな眼差しで梨緒子の顔をじっと見下ろしている。
 梨緒子はゆっくりと息を吸い込んだ。
「――受かったよ」
 秀平は安心したようにわずかに表情を緩めると、何度も頷いてみせた。
「そうか、おめでとう。それじゃ」
「待って、秀平くん」
 梨緒子は踵を返した秀平の腕を掴み、引き止めた。
 どうしても、知りたい。
 聞かずにはいられない。
「結果聞くだけなら、メールでも電話でも、良かったでしょ? なのにどうして……?」
 秀平は言いたくなさそうな素振りを見せていたが、梨緒子に掴まれた腕を振り払うわけにもいかず、観念したようにため息をついた。
「…………誰よりも先に、梨緒子に直接『おめでとう』って言いたかった」

 ――ああ、だから。

【梨緒子ちゃんの欲しいもの、プレゼントしてあげるよ】

 ――だから、優作先生は来ないんだ。

 もう何度も優作の策にはまっているというのに、まったく学習しない自分の単純さが梨緒子は恨めしかった。
 こうやっていつも、梨緒子は優作に助けられてきたというのに――。

「じゃあ俺、行ってくる」
 秀平は今度こそ、梨緒子に背を向けた。
 梨緒子は、歩き去っていく秀平の背中に向かって声をかける。
「絶対、合格してね」
「うん」
 秀平は振り向くことなく返事をした。
「約束だからね!」
「うん」
 彼の背中が、どんどん遠く離れていく。
「秀平くんなら、きっと大丈夫だから……」
 おそらくもう、梨緒子の声は秀平には届かない。

 本当なら彼と手を取り合って、一緒に北の大地へと旅立っていたはずなのに――。

「やっぱり、つまんない……こんなの」
 泣きたい。でも泣けない。
 大好きな彼を心配させるわけには――いかないのだから。
 梨緒子は合格発表の喧騒の中に一人取り残され、いつまでもいつまでも、秀平が消えていった雑踏をおぼろげに見つめていた。