ご存じだよ。

 梨緒子は短大への進学が決まり、しばらくの間は自由な時間を過ごせるはずだった。
 しかし。
 卒業までの残り少ない日々を一人、ただ憂鬱に過ごしていた。

 秀平は当初予定していた通り、国立二次の前期試験が終わったあくる日に、札幌から帰ってきた。
 それっきり、相変わらず電話もメールもしてこない。
 現在はケンカをしているわけではないのだから、こちらからメールをすればきっと返信してくれるだろう。
 つまり、裏を返せば、こちらからアプローチしないと、まったく反応がないということになり――そのことが梨緒子の気分をいっそう陰鬱とさせる結果となっていた。
 梨緒子は自分の携帯電話を取り出し、何度も画面を開いてはまた閉じるという行為を繰り返していた。

 試験を出来を聞いてみればいいのだろうか。
 頭のいい彼のことである、出来が悪かったなどというのは考えにくい。
 そして、出来が良かったとなると、素直に喜べない自分がいる。
 出来が良ければ、合格する。
 合格するということは――離れるということに他ならないのである。
 結局梨緒子は、秀平と連絡をとる勇気が出ないまま、不安の海に一人、取り残されていた。



 一週間後――。
 梨緒子をはじめとする三年生たちは、今日が高校生活最後の日となった。
 制服の胸につけられた小さなピンク色のリボンは、卒業生の証である。
 涙にくれる下級生たちの姿が、校舎内のいたるところで見受けられる。三月は別れの季節――まさに風物詩だ。
 始まりがあれば終わりがあり、出会いがあればいつか必ず別れがやってくる。
 永遠に続くものなど、この世には存在しないのだから。
 ついこの間入学したばかりのような気もする。楽しかった高校生活も、あっけなく終わりを迎えることとなった。
「あっという間だったねー、卒業式。あれ……ルイの奴、どこいったんだろ。約束忘れてるのかなー、まったく」
「ルイくんは下級生たちに人気あるから、きっとつかまってるんだよ。もうちょっと待ってみようよ」
 帰宅部だった梨緒子や美月は、類少年のように仲の良い後輩などはいない。同級生たちとつかの間の別れを惜しむくらいである。
 梨緒子と美月は胸に卒業証書を携えて、生徒昇降口を出たところで、冷たい風に吹かれながら類少年を待っていた。
「それはそうと梨緒ちゃん、永瀬くんは?」
「さあ……よく分かんない」
 梨緒子の冴えない返事に、美月は驚きをあらわにした。
「まさか、またケンカ!? バレンタインで仲直りしたんじゃないの?」
「ううん、いまはケンカはしてないけど。でもほら、もうすぐ別れるし」
 淡々と答える梨緒子の態度が、美月にはどうも腑に落ちないらしい。
「ちょっと、遠距離で頑張るんじゃないの?」
「うーん……どうかなー」
 梨緒子はすべてを諦めたように、ため息をついた。
 四年という時間は、あまりにも長すぎる。
 自分の気持ちはともかく、秀平の気持ちがずっと変わらないという保証はどこにもないのである。
「ケンカ別れじゃないだけいいのかなー、って」
「永瀬くんのこと、信じてないの? 永瀬くん、梨緒ちゃんと別れようと思って北大受けたわけじゃないんでしょ? 地元に残ってでも梨緒ちゃんとずっと一緒にいたいって、永瀬くんだって思ってたんでしょ?」
「それは……離れたら駄目になるって、秀平くんも分かってたからだと思う。だからね、そのあとまた北大を目指したってことはつまり、そういう覚悟をしたってことでしょ?」
「そうなのかなあ……」
「大丈夫だよ。私ももう納得してるから」
 そこへ、ようやく待ち人が現れた。
 花束やらプレゼントやらを大きな紙袋二つに詰めて、それぞれの手に提げている。制服のボタンは見事なまでにすべて取られ、その姿は寒々しいほどだ。
 目の前に現れた類を、梨緒子と美月は好奇の眼差しで観察した。
「予想通りとはいえ……ルイくん凄くない?」
「まあ、ルイは部活の後輩がいるから、こんなもんでしょ?」
 類は気を良くしたのか、勝ち誇ったように自慢げに語り出す。
「バーカ、俺様の実力だっつーの。人気者ってつらいよなー、ハハハ。美月にやるもの、何にも残ってねーわ」
「……欲しいなんて言ってないでしょ」
 最後までこの幼馴染はこの調子だ。

 そのときである。
 梨緒子は背後から誰かに肩を叩かれた。
 振り向くと、そこにいたのは、彼氏・永瀬秀平だ。
 その姿に、梨緒子は思わず言葉を失った。
 いつもの堅い着こなしの制服は、もはや見る影もない。その乱れは類以上だ。
「ちょっと秀平くん……大丈夫?」
 類とは対照的なその不機嫌そうな表情から、その修羅場が目に浮かぶ。
 美月は横目で秀平を眺め、白々しく言った。
「さすが……学校イチの人気者は違うよね」
「人気って……別に違うだろ。はさみ向けられて、身の危険感じたから、動かないでいたら――こうなっただけ」
 秀平は言われるがままにボタンやら校章やら、奪われたらしい。
 よく見ると、ご丁寧にもシャツのボタンまで取られている。
 美月は秀平に向かって、これ見よがしにため息をついてみせた。
「ボタンはともかく、ネクタイは梨緒ちゃんのものでしょうが! 永瀬くんって、つくづく鈍感というか、分かってないよねー」
 一方の秀平は、美月の説明が理解できないらしく、微かに眉を寄せて、梨緒子のほうをちらりと見やった。
 梨緒子は彼氏に簡単な説明を試みる。
「卒業の記念に、好きな人のネクタイとかリボンをもらうの。だからね、普通なら付き合ってたら交換するカタチになる……ってことを美月ちゃんは言ってるんだよ」
「へえ……そうなんだ」
 学校のジンクスにうとい彼から、当然すぎるほどの反応が返ってくる。
「分かったんなら、さっさとネクタイ取り返してくれば?」
 美月は半ば説教めいた口ぶりで、秀平をけしかけた。
 すると秀平は、明らかに面倒臭そうな顔をして、ため息をついた。
「あ、別にいいの! せっかくもらったもの返せなんて言われたら、その子絶対ショック受けちゃうし」
「俺、別にリボンなんか要らない」
 呼吸が止まった。
 すぐに言葉が出てこない。
「……だ、だよねー。要らないよね」
「梨緒ちゃんの馬鹿……」
 それまで黙っていた類が、珍しく美月の援護射撃をした。
「俺、リオのリボンが欲しい! 永瀬が要らないんなら、俺がもらっちゃおうかなー?」
「好きにすれば」
「…………マジで? おいおい」
 類は半々の気持ちだったらしい。もちろん欲しい気持ちもあったのだろうが、秀平を挑発してやろうというのが主な目的だったのが――当の本人の反応は、類の予想を裏切るものだったようだ。
「ちょっと永……」
「いいの美月ちゃん。もういいの」
 二次試験を終えて、札幌から帰ってきてからの秀平の態度は、あっさりとしたものだった。
 憧れ続けていた大学の入学試験を実際に受け、その手応えに希望を新たにしたのだろう。地元に残る梨緒子に構っている余裕はない。
 進路と恋愛は別物。彼がそう考えているのは紛れもない事実。
 梨緒子が北大受験を取りやめてから、そして彼が迷った挙句北大への出願を決めた瞬間から、秀平の心に占める自分の割合は限りなく少なくなっている。
 ゼロではない。が、しかし。
 確実にゼロに近づいている。
「俺、用事があるから先に帰る」
「そう」
「梨緒子」
 秀平は梨緒子の耳元で囁くように言った。
「合格発表のあとにさ、一度会いたいんだけど。連絡するから」

 ――あー、これって……完全、そういうことだよね。




 卒業式を終えて、さらに二日後の午後のことだった。
 江波家に、ある人物が訪ねてきた。
 家庭教師の永瀬優作である。優作が江波家を訪れるのは、二週間ぶりのことだった。
 これまでは毎週二回、多い時には一日置きに顔を合わせていた優作の顔が、梨緒子にはとても懐かしく思えた。
 今日はお祝いを兼ねて、家族に挨拶にきたらしい。梨緒子は家族への挨拶もそこそこに切り上げさせ、優作を自分の部屋へと招き入れた。
 話したい事がたくさんあるのだ。

 センターテーブルを挟んで、二人は向かい合って座った。
「卒業おめでとう。あと、合格祝いもまだだったね。本当に嬉しいよ」
 優作は心から嬉しそうに微笑んだ。
 短大の合格発表を一緒に見に行くと約束をしていたが、結局優作と会うことはなかったのである。
「草津と白浜にまた絡まれたんだって?」
「そう。優作先生のお友達って、いろんなところに出没するから、なんだか怖くて」
「合格発表からね、サークルの勧誘とかしたりするんだよ。だからあいつらも合格発表に出向いてたんだと思うけど……また梨緒子ちゃんにちょっかい出すとは、さすがに計算外だったかなー」
 その優作の言葉に、梨緒子は自分の考えが当たっていた事を再確認する。
 あの場所に、秀平が突然現れたのは――。
「やっぱり優作先生の『計算』だったんだ」
「別に僕がお膳立てしたわけじゃないよ。たまたま、ね。まあ、今度は自分で梨緒子ちゃんを助けられたんだから、秀平は満足だったんじゃない?」
 嫌な予感がする。
 優作の友人『温泉コンビ』に絡まれところを秀平に助けられた――確かにその通りなのであるが、しかし。
「秀平くんに聞いたの?」
「まさか。そんなこと自分から言うやつじゃないしね。草津と白浜が事細かく、実演付きで説明してくれたから」
「じ、実演付き? ……もう」
 どう考えても、優作の友人たちは『秀平役』と『梨緒子役』とに別れて、優作の前で再現したとしか思えない。恥ずかしすぎる。
 梨緒子はため息をつきつつ、平静を装って優作に尋ねた。
 それは、同居する実兄の彼にしか聞けない事だ。
「秀平くんは……どうしてる?」
「どうしてるって、本人に直接聞いたらどう?」
「ううん、別にいいの」
 優作はふと首を傾げた。梨緒子の反応に違和感を感じ取ったらしい。それについて深く聞くことはせず、梨緒子の質問にさらりと答えた。
「とりあえず後期試験の勉強してるよ。でも前期試験で手応えはあったみたいだから、部屋の片付けとかもう始めてるけどね。やたらと忙しそうにあちこち動き回ってるし」
「新しい生活の準備とかもあるもんね……そうだよね、忙しいんだもんね」
 どんどんと曇る梨緒子の顔を、優作は見逃さない。複雑な想いが絡み合う。
「ひょっとして、最近の秀平は梨緒子ちゃんにそっけなかったりするの?」
「うん……仕方ないけど」
「電話なりメールなりしてみたら?」
 梨緒子は首を横に振った。
 いまはただ、秀平からの最後の連絡を待つのみだ。
 もう梨緒子には、それしか残されていないのである。

 優作はしばらくの間黙っていたが、やがてゆっくりと話し始めた。
「あさってだっけ? 前期の合格発表」
「うん」
 完全に、決まってしまう。
 もうすでに決まっているようなものだが、とりあえず合格発表までは、ハッキリと別れは決まらない。
 しかし、これでとうとう――。
「二人が離れないでいられるのは、秀平くんが北大落ちて浪人するときだけ。でも、落ちるのを願うなんて、彼女だったらしてはいけないことだもん」
「つらいね」
「うん」
「受かって欲しいし、でも離れたくないし」
「うん――」
 どうしてこの人は、自分の前にいるのだろう。
 いつもいつも、誰よりも、自分の気持ちを理解してくれる。
 梨緒子はもう、崩れてしまいそうだった。
「でも……秀平くんみたいな頭のいい人が、合格できないわけがないし――」
 友達の前では虚勢をはることができても、この家庭教師の前ではそれがいとも容易く崩壊してしまう。
 気がつくと、梨緒子は決壊する堤防のごとく、それまでこらえてきた涙を一気にあふれさせた。
「ごめんなさい先生。秀平くんのことはちゃんと笑顔で送り出すから、だから……」
 優作はすぐさま立ち上がり梨緒子の隣へ移動すると、しっかりと肩を抱き、励ますように身体を揺すった。
「大丈夫だよ、梨緒子ちゃん。大丈夫だからね」
 梨緒子はその優しい温もりにどうしようもならなくなり、そのまま優作の胸に抱きついて泣き続けた。
「いつ言われるんだろう、いつ言われるんだろうって……。怖くて怖くてたまらないの、ホントは」
 優作は抱きつく梨緒子の頭を、何度も何度も撫でた。そして、梨緒子の髪に自分の頬を寄せて、落ち着いた低い声で梨緒子に語りかける。
「秀平はこの一年で随分と変わった。自分のことしか考えない、他人に興味がない、誰とも群れない一匹狼だったのに――いまじゃ梨緒子ちゃんのことで頭がいっぱいなんだからね」
「……そんなことない。秀平くんの頭の中は、もう北大のことだけだよ」
「梨緒子ちゃんのことで頭がいっぱいなのは、本当だよ。僕は兄貴だ。あの馬鹿の考えなんか、手にとるように分かるんだ」
 それが本当だったら、どんなに嬉しいだろう。
 梨緒子は怖々と優作の胸から顔を上げた。
 そこには、いつも変わらない優作の人懐っこい笑顔があった。
「お陰で最近太っちゃってさ――まさに医者の不養生だよ」
 意味が分からない。
 優作はたまにこうやって訳の分からないことを言い出し、梨緒子を混乱させる。
 秀平のことと優作の体重に、いったいどんな関係があるというのだろう。
 しかしきっと、何か意味があるのだろう。
 この男は弟以上に頭のいい『策士』であることは、何度も思い知らされてきている。
 無邪気な笑顔を見せる優作を、梨緒子は怪訝な眼差しで見つめていたが、やがてつられるようにして笑った。
 涙は不思議と止まってしまう。思い切り泣いて優作にぶつけたことで、梨緒子の気持ちはかなり落ち着きを取り戻した。
「梨緒子ちゃん、これが僕からの最後の指導。もう梨緒子ちゃんの先生じゃないけど――」
「先生はずっと先生だよ。お医者さんと看護師になったら、やっぱり優作先生は『先生』だし」
 それもそうだね、と笑いながら、優作はさらに続けた。
「前にも言ったけどね、男って単純な生き物なんだよ。秀平なんかその典型」
 梨緒子の目の前で、まったく似ていないはずの兄と弟が重なっていく。
 優作はくしゃりと表情を崩し、そのたれ目がなくなるほどの笑顔をみせた。
「大好きな彼女にね、『カッコいい』って言われたいから、男は頑張るの。梨緒子ちゃんがいるからね、秀平は頑張れるんだよ」
 優作はそう言って、楽しそうな笑顔を梨緒子に向けた。


 運命の、前期試験合格発表の日――。
 梨緒子は朝からベッドの中で愚図愚図していた。
 枕元に置いた携帯にメールが着信するたび、怯えていた。
 美月だったり、類だったり――それぞれが合否結果を梨緒子に伝えてくる。
 それはすべて、地元に残る仲間たちだ。
 学校は別々になっても、会いたいときに会って話ができる距離にいる仲間である。

 彼からの連絡は、なかなか来なかった。
 寂しい。どこまでも寂しい。
 一緒にドキドキしながら、この瞬間を待ちわびたかった。
 しかしいま自分は、一人きり――。

 携帯の着信ランプか光った。
 ディスプレイには、ハッキリと彼の名前が表示されている。
 梨緒子はもう、胸が押しつぶされそうだった。
 こんなにも彼からのメールが嫌だと感じたことはない。
 それが喜びの報告ならば、梨緒子にとっては離縁状にも等しいのだから。

 件名:【受かった】

 本文:【あさって三時、この前二人で行ったカフェで待ってる】


 梨緒子はベッドの中で静かに携帯を閉じ、再び布団に包まり直した。

 ――もう、どうでもいい。

 どのくらい時間が経った頃だろう――突然ベッドの端が大きく揺れるのを感じ、梨緒子は驚いて布団から半分だけ顔を出した。
 するとそこには、兄の薫が悠然と腰かけていた。
「……薫ちゃん? ノックくらいちゃんとしてよ、もう」
「彼氏くんの結果、いち早く教えてあげようかなーと思ってさ」
「……」
 誰から聞いたのだろうか。大方の予想はつくが――。
 梨緒子は布団から顔をもう半分出し、綺麗な姉の風貌の兄を、のそりと見上げた。
「あらら、そのしけた顔。ひょっとしてもうご存知?」
「……ご存知だよ。もう、しけてなんかないもん。すごくすごく喜んでるもん!」
「ったく、意地っ張り。だったら、さっさと起きて飯食えよ」
 その冷たい口調とは裏腹に、薫は布団の上から梨緒子の背中を元気づけるように叩くと、部屋を出て一階に降りて行った。