Lesson 1 恋人修業のお時間 (2)
短大の入学祝にと親戚祖父母から貰ったお金が、手元に幾らか残っている。
梨緒子は引出しから袋を取り出し、その中身を机の上にすべてぶちまけるようにして出した。
一万円札三枚に、五千円札一枚。
財布の中には今月のお小遣いの残金が、六千円あまり。
すべてを合わせても、四万ほどにしかならない。
――足りない。夏休みまでにはバイトして貯めようと思ってたから……。
でも、そんなに待っていられない。
もう、いてもたってもいられずに、その他の何も手につかないでいる。
――何とかしないと……何とか。
梨緒子はおもむろにクローゼットを開いた。
中に入っている洋服やカバンを片っ端から取り出し、それらを床の上に広げていく。
梨緒子が部屋中をかき回していると、その物音を不審に思った兄が、向かいの部屋から出てきた。
現在デザイナー修業中で女装癖のある、キレイな姉のような一応『兄』の薫である。
くせのないストレートの長い髪を後ろで一つに束ね、自作のカラフルなワンピースに身を包み、ドアのところで梨緒子の部屋の凄惨な状況を、不思議そうに見渡している。
「何やってんだよ、梨緒子」
「売れそうなものを探してるの」
「バザー? フリマ?」
薫の問いに、梨緒子は力なく首を横に振った。
「お金が必要なの」
梨緒子が小声でそう告げると、薫は何でもないといったふうに、さらりと返した。
「母さんから貰えばいいじゃん?」
「二万もなんて、くれないでしょ。絶対理由聞かれるし」
ふうん、と気のない兄の声が返ってくる。
薫は首を傾げながら、床に座り込む梨緒子の周りを取り囲む服の山に、ざっと目を通した。
「……お前の持ってる古着じゃ、到底二万なんて値はつかないだろ。何なのさ、理由って」
「ちょっと」
「ちょっと、じゃ分からない」
兄妹の間に、しばしの沈黙が流れる。
梨緒子は大きく息を吸い込み、ため息とともに思いを吐き出した。
「……札幌に、行きたい」
「はあー……なるほどね」
薫は呆れかえったように呟いた。
札幌という地名が、妹にとってどんな意味を持つ場所であるのか、薫はよく知っている。
手持ちの品物を売ってお金を工面してまで、彼に会いに行きたいという気持ちは若気の至りだと呆れつつも、一応理解しているはずだ。
「それにしても、何で二万なの?」
そもそも手元に残してあったお金は、夏休みになったら札幌まで秀平に会いに行こう、そう思って貯めておいたものだ。
往復の飛行機代プラス宿泊費用となると、最低でも六万は必要になる。
それが梨緒子の考えだった。
「入学祝いで貰ったお金が四万あるから、往復の飛行機代と宿泊代と――」
「宿泊代はいらないじゃん」
「え?」
兄は梨緒子の言葉を遮るようにして、食いついた。
「彼氏くん、アパート暮らしなんでしょ。問題なく泊まれるんじゃないの」
「だ、だって、いきなり行ったら、泊めてもらえないかもしれないし、それに秀平くんの部屋に泊まっちゃうなんてそんな」
「別にさ、彼女だったら当たり前のことでしょ」
「ええ?」
「それに飯も食わせてもらえば、飛行機代だけですむし」
それはいくらなんでも図々しいだろう――梨緒子はそう思った。
彼も梨緒子と同じ学生という身分である。多少のアルバイトでお金を稼ぐことはあっても、学費や生活費は親の仕送りでまかなっているはずだ。
食事の世話をしてもらうのは、あまりに気が引けてしまう。
それに――。
「薫ちゃんの頭の中には『もしも』という言葉はないの?」
「もしも、何?」
梨緒子は渇いた喉を潤すように、ごくりと唾を飲み込んだ。
「もしも、他の女の人ができてたりしたら――とか」
考えたくもない、そんな悪夢のような状況は。
自分以外の誰かを、自分にしてきたのと同じように抱きしめ、そして優しくキスをして――考えるだけでおぞましい。
たとえその現場を押さえなくても、秀平にそっけなくあしらわれてしまったり、彼の部屋に何らかの痕跡が残っていたりしたら。
――そんなの、とても耐えられない。
梨緒子の心は途端に曇る。
すると、薫は不敵な笑みを浮かべ、梨緒子の頭をポンと軽く叩いた。
「そのときはグーで、あの澄ましたキレイな顔をさ、遠慮なく張り飛ばしてやれ」
「……グー、で?」
もちろん薫も本気で言っているわけではないのだろうが――とても想像がつかない。
「それはそうと、梨緒子は彼氏くんに内緒で乗り込むつもりなんだ?」
「乗り込むだなんて、そんな……」
信じたい。でも、信じきれない。
だから梨緒子は、秀平には黙って札幌まで行こうとしている。
真実を確かめるために。
いまの彼をもっとよく知るために――そう、だから。
――後ろめたくなる必要なんて、ないんだから。
薫は両腕を組み、じっと梨緒子を見つめている。兄なりにいろいろと思うところがあるようだ。
やがて薫は、ゆっくりとため息をつき、梨緒子に告げた。
「とりあえず、優しいお兄様が一万は貸してやる」
「ホント?」
願ってもないことである。
あとは母親にお小遣いの前借りをすれば、何とかなりそうだ。
嬉々として浮かれる梨緒子に、薫はあくまで冷静に付け加える。
「それでもし、梨緒子の考えが外れていたら――そのときはちゃんと彼氏くんに、それ相応の償いをしろよ」
「償いって……何?」
「何、じゃないよ馬鹿。お子様か? 梨緒子チャンは」
薫は、そもそもの経緯をちゃんと理解していない。
GWに帰ってくるという約束を守らなかった秀平が、すべての原因なのである。
そして、彼が疑いの持たれる言動をしているのもまた事実。
疑ったほうに非があるとは、とても言える状況ではない。
梨緒子は思わず薫に反論してしまう。
「何で私が謝らなくちゃいけないの? 償わなくちゃならない事なんて何も――」
「……そういうことじゃなくてさ。彼氏の部屋に泊まるなら、それ相応の覚悟していけってこと」
その薫の意味ありげな微笑みで。
償いという『それ相応の覚悟』の意味が、梨緒子にはようやく理解できた。
つまり薫の言いたい事は――。
梨緒子は激しく首を横に振った。
「そ、そんなことないない! あるわけないって! 秀平くんってそういうのにゼンゼン興味ないし!」
「ははっ、それって梨緒子お前、女としての魅力が足りてないってことなんじゃないの?」
絶句。
反論できない自分が、梨緒子は悔しかった。
自分には、男であるキレイな兄の、半分ほどの女らしさも備わっていないのだから――。
梨緒子は引出しから袋を取り出し、その中身を机の上にすべてぶちまけるようにして出した。
一万円札三枚に、五千円札一枚。
財布の中には今月のお小遣いの残金が、六千円あまり。
すべてを合わせても、四万ほどにしかならない。
――足りない。夏休みまでにはバイトして貯めようと思ってたから……。
でも、そんなに待っていられない。
もう、いてもたってもいられずに、その他の何も手につかないでいる。
――何とかしないと……何とか。
梨緒子はおもむろにクローゼットを開いた。
中に入っている洋服やカバンを片っ端から取り出し、それらを床の上に広げていく。
梨緒子が部屋中をかき回していると、その物音を不審に思った兄が、向かいの部屋から出てきた。
現在デザイナー修業中で女装癖のある、キレイな姉のような一応『兄』の薫である。
くせのないストレートの長い髪を後ろで一つに束ね、自作のカラフルなワンピースに身を包み、ドアのところで梨緒子の部屋の凄惨な状況を、不思議そうに見渡している。
「何やってんだよ、梨緒子」
「売れそうなものを探してるの」
「バザー? フリマ?」
薫の問いに、梨緒子は力なく首を横に振った。
「お金が必要なの」
梨緒子が小声でそう告げると、薫は何でもないといったふうに、さらりと返した。
「母さんから貰えばいいじゃん?」
「二万もなんて、くれないでしょ。絶対理由聞かれるし」
ふうん、と気のない兄の声が返ってくる。
薫は首を傾げながら、床に座り込む梨緒子の周りを取り囲む服の山に、ざっと目を通した。
「……お前の持ってる古着じゃ、到底二万なんて値はつかないだろ。何なのさ、理由って」
「ちょっと」
「ちょっと、じゃ分からない」
兄妹の間に、しばしの沈黙が流れる。
梨緒子は大きく息を吸い込み、ため息とともに思いを吐き出した。
「……札幌に、行きたい」
「はあー……なるほどね」
薫は呆れかえったように呟いた。
札幌という地名が、妹にとってどんな意味を持つ場所であるのか、薫はよく知っている。
手持ちの品物を売ってお金を工面してまで、彼に会いに行きたいという気持ちは若気の至りだと呆れつつも、一応理解しているはずだ。
「それにしても、何で二万なの?」
そもそも手元に残してあったお金は、夏休みになったら札幌まで秀平に会いに行こう、そう思って貯めておいたものだ。
往復の飛行機代プラス宿泊費用となると、最低でも六万は必要になる。
それが梨緒子の考えだった。
「入学祝いで貰ったお金が四万あるから、往復の飛行機代と宿泊代と――」
「宿泊代はいらないじゃん」
「え?」
兄は梨緒子の言葉を遮るようにして、食いついた。
「彼氏くん、アパート暮らしなんでしょ。問題なく泊まれるんじゃないの」
「だ、だって、いきなり行ったら、泊めてもらえないかもしれないし、それに秀平くんの部屋に泊まっちゃうなんてそんな」
「別にさ、彼女だったら当たり前のことでしょ」
「ええ?」
「それに飯も食わせてもらえば、飛行機代だけですむし」
それはいくらなんでも図々しいだろう――梨緒子はそう思った。
彼も梨緒子と同じ学生という身分である。多少のアルバイトでお金を稼ぐことはあっても、学費や生活費は親の仕送りでまかなっているはずだ。
食事の世話をしてもらうのは、あまりに気が引けてしまう。
それに――。
「薫ちゃんの頭の中には『もしも』という言葉はないの?」
「もしも、何?」
梨緒子は渇いた喉を潤すように、ごくりと唾を飲み込んだ。
「もしも、他の女の人ができてたりしたら――とか」
考えたくもない、そんな悪夢のような状況は。
自分以外の誰かを、自分にしてきたのと同じように抱きしめ、そして優しくキスをして――考えるだけでおぞましい。
たとえその現場を押さえなくても、秀平にそっけなくあしらわれてしまったり、彼の部屋に何らかの痕跡が残っていたりしたら。
――そんなの、とても耐えられない。
梨緒子の心は途端に曇る。
すると、薫は不敵な笑みを浮かべ、梨緒子の頭をポンと軽く叩いた。
「そのときはグーで、あの澄ましたキレイな顔をさ、遠慮なく張り飛ばしてやれ」
「……グー、で?」
もちろん薫も本気で言っているわけではないのだろうが――とても想像がつかない。
「それはそうと、梨緒子は彼氏くんに内緒で乗り込むつもりなんだ?」
「乗り込むだなんて、そんな……」
信じたい。でも、信じきれない。
だから梨緒子は、秀平には黙って札幌まで行こうとしている。
真実を確かめるために。
いまの彼をもっとよく知るために――そう、だから。
――後ろめたくなる必要なんて、ないんだから。
薫は両腕を組み、じっと梨緒子を見つめている。兄なりにいろいろと思うところがあるようだ。
やがて薫は、ゆっくりとため息をつき、梨緒子に告げた。
「とりあえず、優しいお兄様が一万は貸してやる」
「ホント?」
願ってもないことである。
あとは母親にお小遣いの前借りをすれば、何とかなりそうだ。
嬉々として浮かれる梨緒子に、薫はあくまで冷静に付け加える。
「それでもし、梨緒子の考えが外れていたら――そのときはちゃんと彼氏くんに、それ相応の償いをしろよ」
「償いって……何?」
「何、じゃないよ馬鹿。お子様か? 梨緒子チャンは」
薫は、そもそもの経緯をちゃんと理解していない。
GWに帰ってくるという約束を守らなかった秀平が、すべての原因なのである。
そして、彼が疑いの持たれる言動をしているのもまた事実。
疑ったほうに非があるとは、とても言える状況ではない。
梨緒子は思わず薫に反論してしまう。
「何で私が謝らなくちゃいけないの? 償わなくちゃならない事なんて何も――」
「……そういうことじゃなくてさ。彼氏の部屋に泊まるなら、それ相応の覚悟していけってこと」
その薫の意味ありげな微笑みで。
償いという『それ相応の覚悟』の意味が、梨緒子にはようやく理解できた。
つまり薫の言いたい事は――。
梨緒子は激しく首を横に振った。
「そ、そんなことないない! あるわけないって! 秀平くんってそういうのにゼンゼン興味ないし!」
「ははっ、それって梨緒子お前、女としての魅力が足りてないってことなんじゃないの?」
絶句。
反論できない自分が、梨緒子は悔しかった。
自分には、男であるキレイな兄の、半分ほどの女らしさも備わっていないのだから――。