Lesson 1 恋人修業のお時間 (3)
現在秀平が住んでいるアパートの住所は、携帯電話の電話帳に登録してある。
一人でその場所まで辿り着けるか、梨緒子はかなり不安だった。
札幌を訪れるのは、生まれてこのかた二度目である。
初めて訪れたのは去年の夏。
兄の薫と一緒に新千歳空港に降り立って、迎えに着た優作の運転する車で、札幌を通過し美瑛という町まで行き、そこで三日間を過ごした。
あの夏には、いろいろな思い出が詰まっている。
秀平とはまだ付き合っていなかった。もう口をきかないとさえ言われて距離を置かれていた。
それなのに、荒療治の兄たちの策にまんまと嵌り、札幌駅北口に二人取り残される羽目になり、それでも尚、秀平は梨緒子を無視し続けて――。
いま思い返すと笑い話である。
でも、あの時は本当に必死で、その仕打ちが惨めで悲しくて、やけになって一人札幌の街を彷徨って。
挙句の果てに道に迷い、途方に暮れ――そして最終的に梨緒子が助けを求めたのは、無視し続けていた『彼』だった。
【高校生にもなって、迷子で泣いてるんじゃ、恥ずかしいよ】
秀平の声が聞こえてくる。とても懐かしい、あの夏の彼の声。
すべてはここ、札幌から始まったのだ。
そしてその夜、美瑛の野原の真ん中で。
友達という関係ですらなかった彼と想いが通じ合った、満天の星空の下でのキス。
目を閉じると、あのときの情景がリアルな感触を持って思い出される。
札幌も美瑛も、秀平と梨緒子の二人にとって、大切な大切な思い出の場所なのである。
一人での飛行機。そして千歳から札幌までの移動。
初めてのことだらけだ。
それでも札幌は大きい都市であるため、大きな人の流れに身を任せて、他人のやり方を真似るだけでよかった。
札幌駅に到着したあとも、いつか来たことのある『北口』を目指し、案内表示に従って構内を歩いていく。
すると。
――知ってる、この風景。
梨緒子はようやく実感がわいてきていた。
ここは紛れもない札幌の街。
昨夏、二人でこの北口あたりを歩いた記憶が、はっきりと蘇ってくる。
秀平はいまこの街にいる。会いにいける距離まで近づいている。
梨緒子ははやる気持ちを抑えながら、持ってきた大きな旅行カバンを肩にかけ直した。飛行機の機内で予習した秀平の住む場所までの行き方を、ポケット地図で再確認し、梨緒子は一歩踏み出した。
目的の建物には、思ったほどの苦労もなく辿り着くことができた。
よくある学生向けの二階建てアパートである。外観は新しい。
秀平の住んでいるところは一階の一番奥の部屋のようだった。
ドアの前まで行き、念のためドアノブをひねってみる。やはり鍵がかかっている。
梨緒子はドアの前に荷物の詰まった大きな旅行カバンを置き、その上に腰を下ろした。
――秀平くん、ビックリするかな?
静かだ。ときおりすぐ傍の道を小中学生が下校していくような声が聞こえてくる。もう午後四時を過ぎている。
梨緒子は大きな旅行カバンとは別に、貴重品を入れたもう一つの小さな手提げカバンから、携帯を取り出した。
メールの作成画面を開き、部屋の主のアドレスを探し出し――しかし梨緒子は、すぐに操作する指の動きを止めた。
秀平とはおととい電話越しに大ゲンカしてから、音信不通状態になっている。毎日欠かさず送ってきていた秀平からのメールも、昨日はそれが初めて送られてこなかった。
――ここまで来てるって連絡したら、帰ってこなかったりして。
悪いほう悪いほうへと思考が進んでしまう。梨緒子は悩んだ挙句、再びカバンに携帯をしまいこんだ。
秀平はいつまで待っても帰ってこない。日は落ち、あたりは闇に包まれる。
同じアパートの住人が訝しげに梨緒子に一瞥をくれていくが、他人と極力関わりを持ちたくないためか、すぐに見て見ぬふりをする。
空腹と寒さに耐えかね、梨緒子はようやく重い腰を上げた。
――勉強してる? それともバイトでも始めた? どこかで外食してる?
梨緒子は再び肩から大きなカバンを提げ、アパート前の人通りの少ない路地に出て、いったん来た道を戻ろうとした。
すると。
薄闇の中、前方から学生らしき若者の集団が近づいてくるのが見えた。
四、五人ほどで、談笑する声から男女入り混じったグループであることが分かる。
男ばかりの集団と暗い路地で一人遭遇するのは緊張するが、女性が混じっていると安心できる。
おそらく大学生だろう。徐々にその集団は近づいてくる。
「ねえねえ、永瀬くんも一緒に行こうよ。夕飯まだなんでしょ?」
「家で食べるから、いい」
「ひょっとして、誰かと一緒だったり?」
「そんなんじゃないけど」
歩みが止まった。
すくんでしまい、動くことができない。
この声は。この声は――。
「ったく、お前たちはさっきから永瀬永瀬って、俺の存在忘れてない?」
「ほら、成沢も説得して。永瀬くんのこといろいろと知っとかないと、同期なんだし」
――でた。同期。
どんどんその集団は近づいてくる。
薄暗闇で顔はハッキリと確認できないが、長身の男は彼に間違いない。自分が間違うわけがない。
梨緒子が身動きできずに立ちすくんだ側を、大学生男女四人は談笑しながら通り過ぎていく。
梨緒子は顔を見せないよう、集団から顔を背けるようにしてじっと固まっていた。
そのときである。
「…………梨緒子?」
一人でその場所まで辿り着けるか、梨緒子はかなり不安だった。
札幌を訪れるのは、生まれてこのかた二度目である。
初めて訪れたのは去年の夏。
兄の薫と一緒に新千歳空港に降り立って、迎えに着た優作の運転する車で、札幌を通過し美瑛という町まで行き、そこで三日間を過ごした。
あの夏には、いろいろな思い出が詰まっている。
秀平とはまだ付き合っていなかった。もう口をきかないとさえ言われて距離を置かれていた。
それなのに、荒療治の兄たちの策にまんまと嵌り、札幌駅北口に二人取り残される羽目になり、それでも尚、秀平は梨緒子を無視し続けて――。
いま思い返すと笑い話である。
でも、あの時は本当に必死で、その仕打ちが惨めで悲しくて、やけになって一人札幌の街を彷徨って。
挙句の果てに道に迷い、途方に暮れ――そして最終的に梨緒子が助けを求めたのは、無視し続けていた『彼』だった。
【高校生にもなって、迷子で泣いてるんじゃ、恥ずかしいよ】
秀平の声が聞こえてくる。とても懐かしい、あの夏の彼の声。
すべてはここ、札幌から始まったのだ。
そしてその夜、美瑛の野原の真ん中で。
友達という関係ですらなかった彼と想いが通じ合った、満天の星空の下でのキス。
目を閉じると、あのときの情景がリアルな感触を持って思い出される。
札幌も美瑛も、秀平と梨緒子の二人にとって、大切な大切な思い出の場所なのである。
一人での飛行機。そして千歳から札幌までの移動。
初めてのことだらけだ。
それでも札幌は大きい都市であるため、大きな人の流れに身を任せて、他人のやり方を真似るだけでよかった。
札幌駅に到着したあとも、いつか来たことのある『北口』を目指し、案内表示に従って構内を歩いていく。
すると。
――知ってる、この風景。
梨緒子はようやく実感がわいてきていた。
ここは紛れもない札幌の街。
昨夏、二人でこの北口あたりを歩いた記憶が、はっきりと蘇ってくる。
秀平はいまこの街にいる。会いにいける距離まで近づいている。
梨緒子ははやる気持ちを抑えながら、持ってきた大きな旅行カバンを肩にかけ直した。飛行機の機内で予習した秀平の住む場所までの行き方を、ポケット地図で再確認し、梨緒子は一歩踏み出した。
目的の建物には、思ったほどの苦労もなく辿り着くことができた。
よくある学生向けの二階建てアパートである。外観は新しい。
秀平の住んでいるところは一階の一番奥の部屋のようだった。
ドアの前まで行き、念のためドアノブをひねってみる。やはり鍵がかかっている。
梨緒子はドアの前に荷物の詰まった大きな旅行カバンを置き、その上に腰を下ろした。
――秀平くん、ビックリするかな?
静かだ。ときおりすぐ傍の道を小中学生が下校していくような声が聞こえてくる。もう午後四時を過ぎている。
梨緒子は大きな旅行カバンとは別に、貴重品を入れたもう一つの小さな手提げカバンから、携帯を取り出した。
メールの作成画面を開き、部屋の主のアドレスを探し出し――しかし梨緒子は、すぐに操作する指の動きを止めた。
秀平とはおととい電話越しに大ゲンカしてから、音信不通状態になっている。毎日欠かさず送ってきていた秀平からのメールも、昨日はそれが初めて送られてこなかった。
――ここまで来てるって連絡したら、帰ってこなかったりして。
悪いほう悪いほうへと思考が進んでしまう。梨緒子は悩んだ挙句、再びカバンに携帯をしまいこんだ。
秀平はいつまで待っても帰ってこない。日は落ち、あたりは闇に包まれる。
同じアパートの住人が訝しげに梨緒子に一瞥をくれていくが、他人と極力関わりを持ちたくないためか、すぐに見て見ぬふりをする。
空腹と寒さに耐えかね、梨緒子はようやく重い腰を上げた。
――勉強してる? それともバイトでも始めた? どこかで外食してる?
梨緒子は再び肩から大きなカバンを提げ、アパート前の人通りの少ない路地に出て、いったん来た道を戻ろうとした。
すると。
薄闇の中、前方から学生らしき若者の集団が近づいてくるのが見えた。
四、五人ほどで、談笑する声から男女入り混じったグループであることが分かる。
男ばかりの集団と暗い路地で一人遭遇するのは緊張するが、女性が混じっていると安心できる。
おそらく大学生だろう。徐々にその集団は近づいてくる。
「ねえねえ、永瀬くんも一緒に行こうよ。夕飯まだなんでしょ?」
「家で食べるから、いい」
「ひょっとして、誰かと一緒だったり?」
「そんなんじゃないけど」
歩みが止まった。
すくんでしまい、動くことができない。
この声は。この声は――。
「ったく、お前たちはさっきから永瀬永瀬って、俺の存在忘れてない?」
「ほら、成沢も説得して。永瀬くんのこといろいろと知っとかないと、同期なんだし」
――でた。同期。
どんどんその集団は近づいてくる。
薄暗闇で顔はハッキリと確認できないが、長身の男は彼に間違いない。自分が間違うわけがない。
梨緒子が身動きできずに立ちすくんだ側を、大学生男女四人は談笑しながら通り過ぎていく。
梨緒子は顔を見せないよう、集団から顔を背けるようにしてじっと固まっていた。
そのときである。
「…………梨緒子?」