Lesson 1  恋人修業のお時間 (4)

 嘘。嘘だ、絶対に。
 これはきっと幻聴だ。

 梨緒子は恐る恐る、呼ばれたほうを振り返った。
 薄暗闇の中。
 すれ違ったばかりの集団の中で一人、歩みを止めてこちらを凝視している長身の男――。
 そして、それにつられて次々に立ち止まっていく学生たちの姿。
「誰?」
「永瀬くんの知り合い?」
 秀平は驚きのあまり、直立不動のまま仲間たちの問いに答えることもしない。
 梨緒子はありったけの力を振り絞り、叫んだ。
「ひ、ひ、人違いです!」
 慌てるあまり、梨緒子は大きな荷物をその場に置き去りにし、貴重品が入った小さなカバンだけを抱え、全力でその場から逃げるようにして駆け出した。

 デートではないかもしれない。
 これからちょっとしたコンパをするのかもしれない。
 たまたま帰る方向が一緒になっただけかもしれない。
 でも。それでも。
 自分の及ぶところではない領域に彼がいる。

 走る。
 当然のごとく、追いかけてくる。
 つかまりたくない。
 いや、つかまえてほしい。
 相反する二つの気持ちが、梨緒子の中でぐちゃぐちゃになっている。
 いまはとにかく限界まで逃げる。それだけだ。
 自分よりはるかに運動神経のいい彼なら、ちゃんとつかまえてくれるはずだ。
 やがて梨緒子の予想通り、背後からしっかりと腕を掴まれ、引き戻された。
「離して、秀平くん!」
「やーっと、つかまえた!! 結構足速いね、君」
 そこにいたのは秀平ではなかった。梨緒子は乱れた呼吸を整える間もなく、掴まれた腕を振り払おうと必死にもがいた。
「い、いや……誰か」
「俺、永瀬と同じ学科の仲間でさ、成沢圭太っていうの」
 その説明で、この成沢と名乗った男はあの集団の中にいた別の男であることが、梨緒子にはようやく分かった。
 圭太はすぐに、掴んでいた梨緒子の腕を放した。
「あーっと、ゴメンゴメン。別に何もしないから、とりあえず立ち止まって欲しいんだけど」
「……」
 二人はそのまま何度も深呼吸をし、息を落ち着かせる。
 梨緒子はもうどうしてよいのか分からずに、呆然と圭太の顔を見つめていた。
「君さ、永瀬の彼女でしょ?」
「違います。そんな人知りません。全然関係ないです」
「知りませんって……さっき俺のこと『秀平くん』って、そう呼んだよね?」
「……もし自分の彼女だったら、追いかけてくるはずでしょ? なのに……追いかけてこようともしない」
「それはさ、あのままリオコちゃんの荷物を放っとくわけにはいかなかったから――じゃないの?」
「私よりも荷物!?」
「あ、やっぱり。リオコちゃんで間違いないんだ?」
 興奮のあまり気づくのが遅れたが、どうしてこの男は自分の名前を知っているのだろう。
 梨緒子は訳が分からずに、圭太の顔を見つめたまま。
「梨園の梨に、堪忍袋の緒の緒に、子猫の子で、梨緒子ちゃん。そうでしょ? 永瀬がこの間そう言ってたよ、『梨緒子』――それが彼女の名前だって」
 この男はそれを聞いていたから、わざとカマをかけるように自分の名を呼んだのだ。
 さすがは秀平の同期だ。おそらく彼と同じくらい頭がいいのだろう。
「それにさ、永瀬の携帯の待ち受けの女の子、君に良く似てるし」
 その圭太の追加説明に、梨緒子は喜んだのもつかの間、一転してどん底に叩き落された。
 待ち受けの、女の子。
「……それ、私じゃない。だって私、秀平くんに撮られたこと、一度もないもん」
 そもそも秀平がカメラ機能を頻繁に使うようになったのは、遠距離になってからのことである。高校時代、一緒に写真をとったりしたことはない。

 ――誰なんだろう。あの秀平くんが、携帯の待ち受けにって……もう。

 梨緒子の携帯が鳴り出した。ディスプレイには疑惑の彼の名前が表示されている。
「永瀬からだろ? 出たら?」
「出たくない」
「何で。心配してるよ、きっと」
 無視し続けていると、やがて音が止んだ。
 続くようにして、今度は圭太の携帯の着信音が鳴り響く。
「はい、成沢です――ああ、永瀬? 俺の番号よく分かったな。……ああ、そっか。そこに千里がいたんだもんな」

 ――ちさとって、さっき秀平くんの側にいた女の人のどっちかだ。

 アパートのほうは今、どうなっているのだろう。
 この成沢圭太という男がここにいるということは、秀平はいま、梨緒子の荷物とともに同期の女たちに囲まれているはずで。
「大丈夫、横にいるよ。そんなに怖い声出すなって。こっちへ来なくてもいいよ、大して離れてないし。今からちゃんと連れて行くから」
 圭太は自分の携帯を、梨緒子の前に差し出した。
「代わって欲しいって」
 ほら早く、と圭太は人懐っこい目で急かしてくる。
 梨緒子は怖々と携帯を受け取り、そっと耳に当てた。

【梨緒子】

 彼が自分の名を呼んでいる。
 梨緒子は目眩で気が遠くなりそうになった。

【返事して――梨緒子】

 返事をしようにも、言葉が出てこない。
 何をやっているんだろう、自分は。
 恥ずかしい。怖い。自己嫌悪。

 ――もう、イヤ。

 梨緒子は無言のまま、圭太の携帯を切った。
「あらあら……切っちゃった」
 肩をすくめ、呆れたように呟く圭太に、梨緒子は携帯を押し付けるようにして返した。
 もう、彼に合わせる顔がない――梨緒子は途方にくれ、大きなため息をついた。