章タイトル

 圭太は自分の携帯電話をズボンのポケットにしまうと、立ちすくんだままの梨緒子を促した。
「さあ、行こっか?」
 まるで鉛の靴を履かされたかのように、梨緒子の足は動かない。
「いい、行かない。このまま帰る」
「でも、荷物永瀬のとこにあるし」
 この際、荷物なんかどうだっていい。
 財布と帰りのチケットと携帯は手元にある。この成沢圭太という秀平の同期に、あとで荷物を送ってもらうよう秀平に頼んでもらえばいいのである。
「だって、いっぱい女の人いたし、私なんかが行ったら秀平くんに迷惑がかかっちゃう」
 この状況はまったく予想していなかったわけではない。
 あれだけの整った容姿を持っている彼が、多数の女性に囲まれていることは簡単に予測できた。
 遠距離になるということは、まさにこういうことなのである。
 そう。
 梨緒子は現実を突きつけられただけにすぎない。
「それに、来るって約束してなかったし……もういいの、ホントに」
 精一杯の勇気を出して、ここまでやってきた。
 もう充分、頑張った。
 すると。
 圭太は、一人泣きそうになっている梨緒子を見て、軽く笑い飛ばした。
「ハハハ、あいつらは永瀬とは無関係だよ。友達ですらないって。それにしても、リオコちゃんって本当に永瀬の事が大好きなんだね」
 この飄々とした掴み所のない男は、当たり前のことを口にする。
 好き、大好き――たぶん。
「さあ、行こう。きっと待ってるよ」


 重々しいため息ばかりが、梨緒子の口から吐き出される。
 辺りはすっかりと暗くなっていた。
 圭太のあとを、梨緒子は不安一杯な気持ちでついていくと、やがて見覚えのある風景の路地に出た。
 秀平たちと遭遇した、彼の住むアパートの前の通りだ。
 梨緒子は身構えた。

 アパートの前の街灯の下に、男が立っている。彼だ。
 秀平は一人でたたずんでいた。他の女たちの姿も、梨緒子のカバンらしきものも見当たらない。
 梨緒子は圭太の背中に隠れるようにして、ゆっくりと彼に近づいていった。

 ――き、気まずすぎる。

 梨緒子の気持ちを知ってか知らずか、圭太はあくまで能天気に秀平に歩みより、声を掛けた。
「あ、千里たちどうした? ハハハ、やっぱり諦めたか」
「いつもの店で、先に行って待ってるって」
「そう。それじゃ、あとは二人仲良くね」
 圭太はどうやらこれから、先ほどの同期の女たちと『いつもの店』で落ち合うつもりらしい。
 この状態で二人きりにされてしまっては――梨緒子は途惑った。
 恐る恐る秀平の表情を覗うと、街灯の人工光に照らされた彼はニコリともせずにじっと圭太を見つめている。
 梨緒子のほうへは、いつまで経っても向こうとしない。
 やはり歓迎されていない――梨緒子の心はいっそう不安に苛まされた。
「成沢、迷惑掛けた」
「迷惑だなんてそんなことないよ。なんかさ、ちょっと安心した」
「何で成沢が安心するの」
「本物だったんだなーって。『脳内彼女』だったらどうしようかと思ってた」
「……」
「その子は、永瀬の『彼女』なんだよな?」
 圭太は試すようにして秀平に尋ねた。
 すると。
「そうだよ。高校の時から付き合ってる」
 圭太は満足げに頷きながら、意味ありげに梨緒子に目配せをしてみせた。



 圭太が去ったあと、秀平は一転してその態度を硬化させた。
 期待していたような再会の抱擁もない。そのまま梨緒子に背を向け、アパートの建物の中へと入っていく。
 部屋のドアを開けたところで、秀平はようやく梨緒子を振り返った。
「何してるの、早く入って」
 たったそのひと言が、梨緒子のすべてを崩していく。
 勝手にここまで来てしまったのだ。追い帰されても文句は言えない。なのに――。
 秀平はドアを押さえて開いたまま、梨緒子を待っている。
 梨緒子は勇気を振り絞って、硬い表情のままの秀平にひと言だけ尋ねた。
「怒ってる?」
「別に」
 秀平の答えは、たったの三文字だった。


 中へ入るとすぐキッチンがある。そこからすぐ側にある蛍光灯の明かりがもれるドアと、電気の点いていない二つのドア。
 明るいほうは普段秀平がいる場所だろう。暗いほうはお風呂場とトイレに違いない。
 梨緒子の予想通り、秀平は明るいほうのドアの中へと促してくる。
 辺りを見回しながら部屋の中へと入ると、ベッドの上には先ほど置き去りにした梨緒子のカバンが載っていた。
「ご飯は?」
「まだ、だけど」
「作るから一緒に食べよう。先にお風呂どうぞ」
「お、お、お風呂? いや、あの、そんな……」
「まさか、これから帰るわけじゃないんだろ?」
 秀平があまりに平然と言うため、逆に梨緒子が焦ってしまう。
 ここまであっさりと秀平がお泊りを許容する発言をすることに、梨緒子は驚きを隠せなかった。
 そうなったらどうしようと、一人想像して浮かれたりもしていたが、実際にそういう状況が訪れると上手く対処ができない。
「い、一応ね、明日のお昼の便のチケット、とってあるけど。でも、ホテルとかもあるし!」
「わざわざホテル予約したの?」
「まだしてない……けど」
 秀平は付かず離れずの距離を保ったまま、澄まし顔で言った。
「それじゃお風呂、入って。バスタオルとか適当に使っていいから」
「あ、あのね……パジャマ持ってきてないし」
「俺のを着ればいい」
「ええ!?」
 もはや梨緒子の思考回路はショート寸前だ。
「そんなに嫌がらなくても。ちゃんと洗濯してある」
「い、嫌なんかじゃ全然ないけど……男物、だよね?」
「パジャマ着て外出るわけじゃないし、ここには俺しかいないんだし」

 ――なんかちょっと、予想以上の展開。