Lesson 1  恋人修業のお時間 (6)

 秀平が用意してくれたバスタオルとパジャマを抱えて、梨緒子は洗面所へ向かった。
 ドアを閉めると、ようやく一人の空間となる。
 ふと、我に返り冷静に考えてみると。

 ――先にお風呂って、お風呂って! もう、どうしよう……。

 秀平の部屋は、初めてではない。
 実家のほうの部屋には、何度か遊びに行ったことがある。
 しかし、それはあくまで彼が、勉強したり、本を読んだり、音楽を聴いたり、着替えたり、眠ったり――そんな場所だった。
 しかし、彼がいま住むアパートはもっともっとプライベートな領域だ。
 ここ、バスルームもそのひとつ。

 ――秀平くんの歯ブラシ。フェイスタオル。

 そのとき。
 梨緒子の脳裏に、兄の薫に言われたことがリアルに蘇ってきた。

【もし、梨緒子の考えが外れていたら――そのときはちゃんと彼氏くんに、それ相応の償いをしろよ】

 まだ、疑いが完全に晴れたわけではない。
 謎はいくつも残っている。
 償い――償い、なんて。



 梨緒子がお風呂場を出たのは一時間後だった。
 実際には三十分ほどだったが、髪の毛をいつもより丁寧に乾かしたりしているうちに、あっという間に時間は過ぎていった。

 キッチンとは薄いドア一枚で隔たれている。
 ご飯を作ると言っていた秀平は、待ちくたびれているかもしれない。
 そんな梨緒子の心配をよそに、調理はまだ続いていた。
「ごめん、あともうちょっと待ってて」
 台の上には、ありったけの食材が所狭しと並べられている。
 秀平の手さばきは丁寧だが、どこかたどたどしい。
「手伝うよ。ミニトマト、洗うね」
 梨緒子は台の上からプラスチックのパックに入ったミニトマトを手に取ると、シンクの中にあったボウルに中身を空けた。
 水道の蛇口レバーを上げると、勢いよく水が出てくる。
「袖が濡れるよ」
 秀平はタオルで手を拭き、既に両手がボウルの水に浸された梨緒子の代わりに、袖をまくり始めた。
 身体に触れるか触れないかの微妙な距離。
 心臓が爆発しそうなほどに鼓動を繰り返す。
「だ、だって秀平くんのパジャマ、大きいんだもん……」
 袖をまくり終えた秀平の手が、そのまま梨緒子が着ているパジャマの胸元のボタンにかかった。
 ひょっとして、ここで脱がされてしまったら――梨緒子は極度の緊張に陥り、がちがちに身体を強ばらせた。
 すると。
「ちゃんとボタン、一番上までしめて。冷える」
 梨緒子の思惑とは逆に、秀平はもどかしそうな慣れない手つきで、梨緒子が着ている自分のパジャマの第一ボタンをゆっくりとかけた。
「あ、ありがとう……」
 秀平に限って、そんなことがあるはずないのだ。
 たくましすぎる自分の想像力が恨めしい――そう反省したのもつかの間。
「というか、見えてるから」

 二人の間の時間が、止まった。
 梨緒子は恥ずかしさのあまり、瞬時に赤面した。
 何が、と問うまでもない。

 秀平がしめた第一ボタンが、開いていたときに見えたもの。
 長身の彼の視線は、当然梨緒子を見下ろしているわけで――。

 梨緒子は努めて冷静を装ったまま、流水に浸されているミニトマトを何度もこするようにして洗った。
 秀平も黙ったまま、梨緒子の隣でレタスをちぎり、二つの小鉢に盛り付けている。
 いつまでもトマトを洗い続ける不自然な梨緒子の行動を横目で見て、秀平はため息混じりにさらりと言った。
「別に、見ようと思って見た訳じゃないから」
 まるで梨緒子に興味がないといった風に呟く秀平が、とても冷たい人間に思えた。
 見られたことを怒っているわけではない。
 しかし。
 その言葉の真意は図りかねるが――見せられたこっちが迷惑だ、と言わんばかりの秀平の態度が、梨緒子にはショックだったのである。
 返事もせずに黙ったままの梨緒子が気になったのか、秀平はキュウリを五ミリほどの輪切りにしながら、不思議そうに尋ねた。
「どうしたの?」
「…………ううん、何でもない」
 汚れが完全に取れたミニトマトを、梨緒子はなおも無言で洗い続ける。
 すると。
「もっと見たい――って、そう言えば良かった?」
 ふと、見上げると。
 秀平の透き通った焦げ茶色の瞳が、真っ直ぐに梨緒子に向けられて、憂うようにしてゆっくりと瞬いている。
 梨緒子は一気に頭に血がのぼり、顔はもちろん耳まで真っ赤に染まった。しどろもどろになりながら、慌てて首を横に振る。
「そ、そ、そんなわけない! 全然そんなこと思ってない!」
「ああ……トマトが一個、増えた」
 梨緒子を見て、秀平はようやく表情を緩め、楽しそうに笑い出した。