Lesson 1 恋人修業のお時間 (7)
秀平と完全に二人きりでご飯を食べるのは、これが初めてだった。
ファーストフード店や学食で二人で食事することはあったが、周りには他に人がいた。もちろん、このようなパジャマ姿などという気を許した格好でもなかったし、彼がたどたどしい腕前で調理したものでもなかった。
極上のひとときだ。
相変わらず秀平は淡々としながらも、自分の箸を動かすのをやめて、じっと梨緒子の食べるさまを眺めている。
味はどう? なのか、美味しい? なのか。
聞けばすむ話なのに、秀平はいつもこうやって観察して、自己完結させてしまう。
梨緒子はこの沈黙を破るようにして、自分から話題を振ることにした。
「さっきの人……ほら、成沢圭太くんっていう」
共通の話題は、いまのところこれだけだ。
すると秀平は、梨緒子の問いを先読みするようにして答えた。
「学籍番号が俺の一つ後なんだ。だから顔見知りになっただけなんだけど」
「顔見知りって……友達なんでしょ?」
「よく分からない。というか、どうでもいい」
相変わらずの反応をする秀平が、梨緒子の目にはひどく滑稽に映った。
この年齢になると、環境は変わっても性格はそうそう変わらない。彼は他人にまるで興味を持たない『孤高』の人なのだ。
でも、梨緒子は知っている。
秀平は、興味のない人間には極力、側へ近づこうとしないのである。
秀平と圭太の関係は違う――梨緒子はそう感じ取っていた。
「なんかね、秀平くんって、ああいう人が好きなんだろうなって、思っちゃった」
「ああいう人?」
「あの人、ルイくんに似てる」
「別に俺、安藤のこと好きじゃないけど」
秀平はあっさりと言い切った。
その強がるさまが、まるで子供みたいで可愛い――梨緒子は思った。
「ハハハ、そんなこと言ってー。今頃くしゃみしてるよ、きっと」
いつまでも笑い続ける梨緒子が気に触ったのか、秀平は拗ねたようにツイと顔をそむけた。
ご飯を食べ終えた頃、インターホンが鳴った。不意の来客である。
秀平は立ち上がると、そのまま部屋を出て行き、キッチンや玄関へと続くドアをきっちりと閉めた。
パジャマ姿の梨緒子が見えないように、という彼なりの配慮だろう。
梨緒子はドアのそばへ寄って、耳を押し付けて部屋の外の様子をうかがった。
【いいって、気にすんなって。貸しにしておくから】
姿は見えないが、聞いたような声だ。
玄関にいるのはおそらく、先ほどまで一緒にいた成沢圭太である。
【いきなり来ちゃったらさ、困るだろ――これで上手くやれよ】
息が止まった。
いま、何て?
いきなり来たら、困る――いきなり来てしまったのは梨緒子、そして困るのは秀平、という意味に違いない。
圭太は秀平の同期だ。もちろん、大学生活における彼のことを良く知っているはずである。
自分が突然訪ねて来て、困る――だなんて。
秀平自身が密かにそう思うのは構わない。
しかし。
第三者の彼の目から見て、はっきりと困ると分かるということは、自分の知らない何かがそこには存在しているのだろう――梨緒子はドアから耳を離すと、何事も無かったかのようにセンターテーブルのところまで戻り、落胆のため息を一つついた。
間もなくして、秀平はその手に小さな紙袋を持って戻ってきた。
梨緒子はそ知らぬ顔をして、目の前に立ち尽くしている秀平に聞いた。
「誰だったの?」
「成沢だった」
やはり梨緒子の予想通りだった。先ほど同期の女たちと合流すると言っていた圭太だったが、どうやらその帰りにここへ寄ったらしい。
「何か……借りたの?」
「え、何が!?」
秀平が珍しく大きな声で聞き返した。
「あ、ごめんなさい。別に盗み聞きするつもりじゃなかったんだけど、『貸しにしておくから』って言葉が何となく聞こえたから、それで――」
「…………やっぱり、安藤と似てるかもしれない。おそろしくおせっかいなんだ」
「ふうん」
梨緒子はそれ以上詮索するのを止めた。
夕食の後片付けがすむと、秀平は適当にしててと言い残し、バスタオルと着替えを持って部屋を出て行った。
一人になり、梨緒子はようやく落ち着いて、辺りを見回すことができた。
ここに住み始めてから一ヶ月以上は経っているはずなのだが、どことなく殺風景だ。
まず、テレビがない。実家の部屋にもテレビは無かった。勉強してばかりだった彼に、テレビを視聴するという習慣はないのであろう。
机も椅子も本棚も、こちらで揃えたもののようだ。本棚には難しそうな教科書が並んでいる。
ふと。
梨緒子は、その背の高い本棚の中段に目を止めた。
確かに見覚えのあるものが、そこに並んでいる。
――あれ、私のハンカチ?
高校時代、彼がプレゼントしてくれたハンカチと交換するようなカタチで、梨緒子があげたものに間違いはない。
――秀平くん、札幌へ持ってきたんだ。
よくよく思い返してみると、秀平とのモノのやりとりは少ない。
誕生日もクリスマスもバレンタインも、梨緒子は秀平にまともにプレゼントをあげていないのである。
このハンカチは数少ないモノの一つだ。数少ないどころか、唯一かもしれない。
とりあえず、彼が自分のことをちゃんと好きでいてくれることは分かった。
突然ここまで来て、彼がちゃんと部屋に泊めてくれているし、自分のハンカチもこうやって大切に側に置いてくれているのだから。
しかし。
――解決してない問題はまだ、ある。
秀平がお風呂に入っている間、梨緒子はあることを思い出していた。
【でも、永瀬の携帯の待ち受けの子、君に良く似てるけど――】
どんなに記憶を探ってみても、秀平が自分を撮ったことは一度もない。よく似ているというからには、正面からのアップ画像なのだろう。
それは自分ではない。
ということは、雰囲気の似ている『誰か』?
突然ここまで来たのに、やけに優しくご機嫌取りをするかのごとく至れり尽くせりなのは、何かを隠そうとしているのかもしれない――そう思えてしまう。
先ほど圭太がわざわざ訪ねてきたのも、なにか隠蔽工作をするためではないかと、勘繰ってしまう。
――これだけは、やるまいと思っていたけれど。
梨緒子は、机の上に置きっぱなしにしてある秀平の携帯に手を伸ばした。
いくら彼氏とはいえ、他人の携帯を勝手に見ることが、梨緒子にはどうしても許せなかった。
しかし。
いましかない。
彼がお風呂に入っている今しか、チャンスがない。
梨緒子は画面を開いた。
同時に、息が止まった。
――恥ずかしい。恥ずかしすぎる。
彼に撮られたことは一度もない。
けれど。
彼に自分の姿を撮った画像を一枚だけ送ったことは、ある。
その写真が元で、付き合って初めての大ゲンカに発展し、彼に冷たい言葉を浴びせかけられ――。
でも彼は、その写真を大切にとっておき、遠距離恋愛となった今、携帯の待ち受けにそれを使っている。
――秀平くんてばホントに……もう。
梨緒子は、分厚い教科書と教科書の間に挟み込まれた、圭太が先ほど持ってきた紙袋に手をかけた。
圭太がやってきたのは、まったく関係のないことだったのだろう。
秀平が挙動不審だったのは、梨緒子が勘繰るように詮索をしてしまったからに違いない。
梨緒子はそう思い直し、軽い気持ちでその中を覗いた。
その瞬間。
紙袋を掴む手が固まった。そして、その手は徐々に小刻みに震え出す。
――う、うそ。コレってひょっとして!!
梨緒子は慌てて封をし、元あった場所にその紙袋を押し込んだ。
先ほど彼が挙動不審だった理由が、ようやく梨緒子には分かったのである。
秀平が浴室から出てくるような物音がした。
梨緒子は慌てて秀平の携帯を机の上に戻し、後ろめたさのあまりそのまま秀平のベッドに寝転がり、掛け布団を頭からかぶった。
そのまま息を潜めて、ふと気づく。
――勝手に秀平くんのベッドに寝て、これって私、待っちゃってる?
慌てて飛び起きようとするも、すでに秀平が洗面所から出て、こちらの部屋へと入ってきた後だった。
身動きが取れない。
秀平が立ち止まって、こちらを観察しているような気配を感じる。
【それでもし、梨緒子の考えが外れていたら――そのときはちゃんと彼氏くんに、それ相応の償いをしろよ】
全身が脈打っている。自分はどうなってしまうのだろう。
秀平への疑惑が晴れてしまった、今。
兄の助言に従うなら、『それ相応の償い』をするということになり――。
梨緒子はもはや破裂寸前の心臓を、彼の大きなパジャマの上からぎゅっと押さえつけ、掛け布団の向こうにいるであろう秀平の気配を、じっと息を潜めてうかがっていた。
ファーストフード店や学食で二人で食事することはあったが、周りには他に人がいた。もちろん、このようなパジャマ姿などという気を許した格好でもなかったし、彼がたどたどしい腕前で調理したものでもなかった。
極上のひとときだ。
相変わらず秀平は淡々としながらも、自分の箸を動かすのをやめて、じっと梨緒子の食べるさまを眺めている。
味はどう? なのか、美味しい? なのか。
聞けばすむ話なのに、秀平はいつもこうやって観察して、自己完結させてしまう。
梨緒子はこの沈黙を破るようにして、自分から話題を振ることにした。
「さっきの人……ほら、成沢圭太くんっていう」
共通の話題は、いまのところこれだけだ。
すると秀平は、梨緒子の問いを先読みするようにして答えた。
「学籍番号が俺の一つ後なんだ。だから顔見知りになっただけなんだけど」
「顔見知りって……友達なんでしょ?」
「よく分からない。というか、どうでもいい」
相変わらずの反応をする秀平が、梨緒子の目にはひどく滑稽に映った。
この年齢になると、環境は変わっても性格はそうそう変わらない。彼は他人にまるで興味を持たない『孤高』の人なのだ。
でも、梨緒子は知っている。
秀平は、興味のない人間には極力、側へ近づこうとしないのである。
秀平と圭太の関係は違う――梨緒子はそう感じ取っていた。
「なんかね、秀平くんって、ああいう人が好きなんだろうなって、思っちゃった」
「ああいう人?」
「あの人、ルイくんに似てる」
「別に俺、安藤のこと好きじゃないけど」
秀平はあっさりと言い切った。
その強がるさまが、まるで子供みたいで可愛い――梨緒子は思った。
「ハハハ、そんなこと言ってー。今頃くしゃみしてるよ、きっと」
いつまでも笑い続ける梨緒子が気に触ったのか、秀平は拗ねたようにツイと顔をそむけた。
ご飯を食べ終えた頃、インターホンが鳴った。不意の来客である。
秀平は立ち上がると、そのまま部屋を出て行き、キッチンや玄関へと続くドアをきっちりと閉めた。
パジャマ姿の梨緒子が見えないように、という彼なりの配慮だろう。
梨緒子はドアのそばへ寄って、耳を押し付けて部屋の外の様子をうかがった。
【いいって、気にすんなって。貸しにしておくから】
姿は見えないが、聞いたような声だ。
玄関にいるのはおそらく、先ほどまで一緒にいた成沢圭太である。
【いきなり来ちゃったらさ、困るだろ――これで上手くやれよ】
息が止まった。
いま、何て?
いきなり来たら、困る――いきなり来てしまったのは梨緒子、そして困るのは秀平、という意味に違いない。
圭太は秀平の同期だ。もちろん、大学生活における彼のことを良く知っているはずである。
自分が突然訪ねて来て、困る――だなんて。
秀平自身が密かにそう思うのは構わない。
しかし。
第三者の彼の目から見て、はっきりと困ると分かるということは、自分の知らない何かがそこには存在しているのだろう――梨緒子はドアから耳を離すと、何事も無かったかのようにセンターテーブルのところまで戻り、落胆のため息を一つついた。
間もなくして、秀平はその手に小さな紙袋を持って戻ってきた。
梨緒子はそ知らぬ顔をして、目の前に立ち尽くしている秀平に聞いた。
「誰だったの?」
「成沢だった」
やはり梨緒子の予想通りだった。先ほど同期の女たちと合流すると言っていた圭太だったが、どうやらその帰りにここへ寄ったらしい。
「何か……借りたの?」
「え、何が!?」
秀平が珍しく大きな声で聞き返した。
「あ、ごめんなさい。別に盗み聞きするつもりじゃなかったんだけど、『貸しにしておくから』って言葉が何となく聞こえたから、それで――」
「…………やっぱり、安藤と似てるかもしれない。おそろしくおせっかいなんだ」
「ふうん」
梨緒子はそれ以上詮索するのを止めた。
夕食の後片付けがすむと、秀平は適当にしててと言い残し、バスタオルと着替えを持って部屋を出て行った。
一人になり、梨緒子はようやく落ち着いて、辺りを見回すことができた。
ここに住み始めてから一ヶ月以上は経っているはずなのだが、どことなく殺風景だ。
まず、テレビがない。実家の部屋にもテレビは無かった。勉強してばかりだった彼に、テレビを視聴するという習慣はないのであろう。
机も椅子も本棚も、こちらで揃えたもののようだ。本棚には難しそうな教科書が並んでいる。
ふと。
梨緒子は、その背の高い本棚の中段に目を止めた。
確かに見覚えのあるものが、そこに並んでいる。
――あれ、私のハンカチ?
高校時代、彼がプレゼントしてくれたハンカチと交換するようなカタチで、梨緒子があげたものに間違いはない。
――秀平くん、札幌へ持ってきたんだ。
よくよく思い返してみると、秀平とのモノのやりとりは少ない。
誕生日もクリスマスもバレンタインも、梨緒子は秀平にまともにプレゼントをあげていないのである。
このハンカチは数少ないモノの一つだ。数少ないどころか、唯一かもしれない。
とりあえず、彼が自分のことをちゃんと好きでいてくれることは分かった。
突然ここまで来て、彼がちゃんと部屋に泊めてくれているし、自分のハンカチもこうやって大切に側に置いてくれているのだから。
しかし。
――解決してない問題はまだ、ある。
秀平がお風呂に入っている間、梨緒子はあることを思い出していた。
【でも、永瀬の携帯の待ち受けの子、君に良く似てるけど――】
どんなに記憶を探ってみても、秀平が自分を撮ったことは一度もない。よく似ているというからには、正面からのアップ画像なのだろう。
それは自分ではない。
ということは、雰囲気の似ている『誰か』?
突然ここまで来たのに、やけに優しくご機嫌取りをするかのごとく至れり尽くせりなのは、何かを隠そうとしているのかもしれない――そう思えてしまう。
先ほど圭太がわざわざ訪ねてきたのも、なにか隠蔽工作をするためではないかと、勘繰ってしまう。
――これだけは、やるまいと思っていたけれど。
梨緒子は、机の上に置きっぱなしにしてある秀平の携帯に手を伸ばした。
いくら彼氏とはいえ、他人の携帯を勝手に見ることが、梨緒子にはどうしても許せなかった。
しかし。
いましかない。
彼がお風呂に入っている今しか、チャンスがない。
梨緒子は画面を開いた。
同時に、息が止まった。
――恥ずかしい。恥ずかしすぎる。
彼に撮られたことは一度もない。
けれど。
彼に自分の姿を撮った画像を一枚だけ送ったことは、ある。
その写真が元で、付き合って初めての大ゲンカに発展し、彼に冷たい言葉を浴びせかけられ――。
でも彼は、その写真を大切にとっておき、遠距離恋愛となった今、携帯の待ち受けにそれを使っている。
――秀平くんてばホントに……もう。
梨緒子は、分厚い教科書と教科書の間に挟み込まれた、圭太が先ほど持ってきた紙袋に手をかけた。
圭太がやってきたのは、まったく関係のないことだったのだろう。
秀平が挙動不審だったのは、梨緒子が勘繰るように詮索をしてしまったからに違いない。
梨緒子はそう思い直し、軽い気持ちでその中を覗いた。
その瞬間。
紙袋を掴む手が固まった。そして、その手は徐々に小刻みに震え出す。
――う、うそ。コレってひょっとして!!
梨緒子は慌てて封をし、元あった場所にその紙袋を押し込んだ。
先ほど彼が挙動不審だった理由が、ようやく梨緒子には分かったのである。
秀平が浴室から出てくるような物音がした。
梨緒子は慌てて秀平の携帯を机の上に戻し、後ろめたさのあまりそのまま秀平のベッドに寝転がり、掛け布団を頭からかぶった。
そのまま息を潜めて、ふと気づく。
――勝手に秀平くんのベッドに寝て、これって私、待っちゃってる?
慌てて飛び起きようとするも、すでに秀平が洗面所から出て、こちらの部屋へと入ってきた後だった。
身動きが取れない。
秀平が立ち止まって、こちらを観察しているような気配を感じる。
【それでもし、梨緒子の考えが外れていたら――そのときはちゃんと彼氏くんに、それ相応の償いをしろよ】
全身が脈打っている。自分はどうなってしまうのだろう。
秀平への疑惑が晴れてしまった、今。
兄の助言に従うなら、『それ相応の償い』をするということになり――。
梨緒子はもはや破裂寸前の心臓を、彼の大きなパジャマの上からぎゅっと押さえつけ、掛け布団の向こうにいるであろう秀平の気配を、じっと息を潜めてうかがっていた。