Lesson 1  恋人修業のお時間 (8)

 部屋の中を歩き回るような気配と足音がする。
 彼はいま、何をしているのだろうか。
 気になる。気になる。気になる。
 梨緒子は、秀平のベッドの上で掛け布団に包まりながら、何度も何度も深呼吸を繰り返した。
 しばらくすると、部屋の灯りが消え、やがて室内は静寂に包まれた。
 しかし。
 いつまで経っても、何も起こらない。
 音をたてないようにして、そろりと掛け布団をはぎ頭を出すと、梨緒子の視界に秀平の姿はなかった。

 ――どういうこと?

 徐々に暗闇に目が慣れてくる。
 寝返りをうつ要領でベッドの端へと移動し、顔半分だけ乗り出すようにすると。
 ベッドの横に客用の布団を敷き、そこに秀平が横たわっているのが見えた。

 ――ああ。やっぱりそう来るか。

 あ、俺のベッドで寝てる。客用の布団出すの、待ちきれなかったんだろうな。じゃあ俺、こっちで寝よう。

 きっと、こんなところだろう。
 マンガやドラマとは全然違う。
 秀平が関係を進めようと迫ってくる――そんな期待と不安は簡単に吹き飛んでしまったということになる。

 ――いくら成沢くんがあんなの持ってきたからって……はああ、秀平くんだもんね。


 そのときである。
 不意に、秀平が起き上がった。
 ベッドの端から彼を見下ろしていた梨緒子は、元の位置に戻る暇もなく、不自然な状況のまま慌てて弁解をした。
「ビ、ビックリしたー。どうしたの?」
「寒いから、そっちの布団一枚――」
「あ、いいよ。三枚もだと多いから」
 梨緒子は掛けずに足元のほうへ折りたたんであった毛布に手を伸ばし、端をつかまえて秀平へ差し出した。
 すると。
 梨緒子は毛布を掴んでいた腕ごと引っ張られ、あっという間にベッドから転がり落ちるようにして、秀平が寝ていた布団の上に落ちた。
 掴んでいた毛布が上手い具合にクッションになり、痛みはほとんどない。あるのは、目の前にいる彼氏の不可解な行動への驚きだけだ。
「……な、な、何?」
「暗いから、毛布と梨緒子を間違えた」
 真面目に言っているのかふざけているのか、この暗闇では表情が読み取れない。
 梨緒子は緊張を隠すようにして、わざと明るい声を出した。
「ヤだなー、秀平くんってば」
 しかし。
 いつまで経っても、秀平からの返答はない。
 梨緒子は不思議に思い、毛布を挟んだ向こう側に座る秀平にもう一度聞き返した。
「……秀平くん?」
「やっぱり本物だ」
 暗闇の中から、ようやく秀平の声がした。
 すぐそこにいるはずなのに、上手く距離感がつかめない。
「自分の幻想なんじゃないかって。でも、本物の梨緒子だ」
「当たり前でしょ?」
 奇妙なことを言う。
 閉ざされた空間の中に、二人きり。
 いま、二人の間に障害となる余計なものは、何もない。
「……あんなに怒ってたから、もう駄目なのかと思ってた」
 寂しさと安堵が入り混じった秀平の低く艶のある声が、梨緒子の心の隅々まで染み込んでいく。
 梨緒子はこみ上げてくる涙を必死にこらえた。
「すごく楽しみにしてたんだもん。同期の友達と遊ぶために勝手に帰られたら、怒りたくもなるでしょ?」
「遊びじゃないよ。興味のある分野を研究されてる教授と、話ができる機会があってそれで――」
「それで? 私に説明もしないで?」
 問い詰めるような梨緒子の強い口調に、秀平は言葉を詰まらせた。
 しばらく黙ったあと、秀平は小さな声で素早く言い切った。
「……梨緒子なら許してくれると思った」
 まるで母親に言い訳をする小さな子供だ。
 いったい何なのだろう、永瀬秀平という男は。
 何度も何度も振り回されて、それなのにたった一言で――すべてを許してしまう自分がいる。
 梨緒子は、大きな大きなため息を一つついた。
「秀平くんの事はよく分かってるけど、でもね、離れていたら不安になっちゃうの。電話やメールだけじゃ、どうしようもなく不安になっちゃうの。遠距離なんだもん。五分でも十分でも、どんなに少ない時間だっていい。少しの間でも、こうやって側にいて、声を直に聞きたいし、実物の秀平くんだーって、ちゃんと触って確かめたいの」
 梨緒子は思っていたことをようやく、秀平にぶつけることができた。
 自分が不安だということを、恋愛温度が低い彼に少しでも伝わって欲しいと、切に願いながら。
 しかし。
「じゃあ、いいよ。触っても」
 梨緒子は言葉を失った。
 いったいどうすれば、こういう答えが返ってくるのだろうか。
 触って確かめる――それはお互いの存在を確かめたいという比喩のようなものであり、ただ触って確かめるというような直接的なものではないのである。
「そ、そ、そんなあらたまって言われても……いいよ別に」
「そう。じゃあ、おやすみ」
 そう言って秀平はひとり横たわり、梨緒子に背を向けてしまった。

 ――な、何それ……もう、ホントに秀平くんてば。

 本当に本当に、この人の彼女でいるのは大変なことなのだ。
 異性に絶大な人気を誇る彼の『特別』でいるということは、同時に多大な嫉妬に耐えぬかなければならず――それよりなにより、彼は思ったことを真っ直ぐに伝えられない不器用な性格のため、本気と冗談の区別がおそろしく曖昧なのである。

 好きなのか、嫌いなのか。
 嬉しいのか、悲しいのか。
 して欲しいのか、して欲しくないのか。

 梨緒子は横たわる秀平の背にそっと顔を寄せ、そのまま抱きついた。
 秀平が動く。
 梨緒子はそれを遮った。
「そのままでいい――眠ってていいから」

 パジャマ越しに触れる秀平の背中は、しなやかな筋肉がついていて、程よい弾力がある。お風呂から上がって間もないためか、熱い肌の温もりがハッキリと伝わってくる。
「もういい? ……そろそろ離れて欲しいんだけど。落ち着かない」
 梨緒子は尚いっそう、秀平の背中に抱きつく。
「頼むから離れて」
「イヤ」
「そんな、子供のわがままみたいなこと言うなよ」
 梨緒子が要求に応じる気がないことを知ると、秀平は背中にかかった梨緒子の腕を振り解くようにして、強引に上半身を起こした。
 温もりが奪われていく。
 梨緒子はその空虚な冷たさに耐えられず、とうとうこらえられずに、両目から涙をあふれさせた。
 止まらない。シーツがどんどん涙で染まっていく。
「どうしてそういうこと言うの? 明日になったらまた一人っきり。せめていまだけでも、それがわがままだって言うの? こんなに近くにいるのに……秀平くんが遠くに感じる」
 せめて、いまだけでも――。
 簡単に会うことが出来ない距離に、二人は置かれている。高校時代のように、他愛もない時間を共有することもできない。
 お互いがどんな生活を送っているのか、電話やメールだけでは到底すべてを知ることはできない。
 それが「遠距離恋愛をする」ということ――二人はいま、まさにそれを思い知らされていた。
「どうして欲しいの? 俺はどうしたらいいの? どうすれば梨緒子を泣かせずにすむの?」
 秀平は梨緒子に答えを求めているわけではない。
 それは、彼の中に存在する迷いに他ならない。
「俺は本当に、梨緒子だけなのに」
「しゅう……」
 名前を呼ぼうとするも、梨緒子のなけなしの声は、彼の唇ですぐさまかき消された。
 何が起こったのか、すぐに把握することができない。
 重い。熱い。痛い。柔らかい。ありとあらゆる感覚が、いっぺんに梨緒子に襲いかかる。
 灯りの点いていない暗い部屋の真ん中で、梨緒子は彼に半ば組み敷かれるようなカタチでキスをされているということに気がついた。
 全身に震えが来る。脊髄と脳髄がビリビリと痺れていく。重なり合う部分に、彼の重みとその存在を感じる。
 息が苦しい。その激しいキスに、上手く呼吸を合わせることができない。
 梨緒子が今までに体験したことのないほどの力強いキスに、気が遠くなった。
 唇を離したあとも、秀平と梨緒子は至近距離で見詰め合ったまま。
 二人の荒い呼吸の音が、暗く静かな部屋に響いているだけだ。
「秀平くん……あの、ね」
「うん」
 たったひと時の、キス。
「大好き」
 秀平は大きく息をつくと、再び布団に転がるようにして、梨緒子の隣に並んで横たわった。
「話して、梨緒子のこと。聞いてるから」
「どんな……話を、すればいいの?」
「何でも。学校のこととか、家のこととか、友達のこととか……楽しいこと嬉しいこと哀しいこと寂しいこと全部」
 梨緒子は秀平に言われるがまま、会えなかった二ヶ月間の出来事を少しずつ話した。
 秀平は梨緒子の横で、ひたすら「うん」と相槌をうつだけだ。
 たったそれだけで。
 梨緒子の中の何かが、確実に満たされていくのを感じた。

 しばらくすると、秀平からの返事がなくなった。
「秀平くん?」
「……」
「秀平くんってば」
「……」
 秀平は無言のまま。
「眠っちゃったの?」
 秀平の腕が梨緒子の身体に絡みついた。そのまま梨緒子は秀平の胸の中へとしっかり引き寄せられる。
「――続けて。ちゃんと聞いてるよ」
 秀平は、そのまま梨緒子をしっかりと抱き締めて、頬や耳たぶにゆっくりと何度も口づけ始めた。
 その微妙な感触に、梨緒子はわずかに身体をのけぞらせる。
 じゃれているのか、本気なのか。梨緒子にはそれを試す術はない。
「もう、これじゃ喋れないよ?」
「じゃあ、もう喋らなくてもいい――」
 耳元で、彼が囁くように言う。
 梨緒子はもう、ここがどこなのか分からなくなっていた。
「梨緒子。このまま、一緒に眠ろう」
 彼だけを見て、彼の声だけを聞いて。
 他には何もない。何も――いらない。
 梨緒子は返事の代わりに、秀平の身体に自分の身をしっかりと寄せて、彼にすべてを預けた。