Lesson 1 恋人修業のお時間 (9)
朝になってから、二人の間に会話はほとんどなかった。
淡々と時間は過ぎていく。
秀平はいつもと変わらない。
いつも通りの生活リズムを決して崩すことはない。梨緒子が布団の中でぐずぐずしているうちに、秀平はシャワーを浴び着替えもすませてしまっている。
そして、食パンに目玉焼きとカップスープ、という簡単な朝食を二人分作り、テーブルの上にそれらを並べ始めてようやく、梨緒子はのそりと起き出した。
しかし、食欲がまったくわいてこない。
「……シャワー、借りる」
梨緒子がひと言そう告げると、秀平は無言で頷いた。
梨緒子が身支度を整えて部屋へ戻ってくると、秀平は待たずに先に朝食をすませていた。
「俺、今日は全コマ講義入ってるから、八時過ぎには出る」
平日の朝は、悠々としている時間はないのである。
「せめて土日に来てくれたら、いろいろなところを案内してあげたんだけど――」
「ちゃんと勉強頑張ってる秀平くんのほうがいい」
秀平は梨緒子に、スープだけでもどうぞ、と勧めた。
梨緒子は言われるがまま、冷めかけたコーンスープのカップに手をつける。
「札幌駅まで送っていく。空港までは乗り継ぎなしに電車一本でいけるから、前みたいに迷子になることもない」
「送ってもらわなくても大丈夫。駅まで一人でいけるから、ここからそのまま大学に行って?」
「でも――」
「もう。小さい子供じゃないんだから、平気だよ」
秀平は心配そうにじっと、梨緒子の顔をまっすぐ見つめている。
梨緒子にはここ札幌で迷子になった前科があるため、秀平は不安がぬぐいきれないようだ。
「本当に平気?」
「……うん」
わずかな時間でも一緒にいたい。それは本音だ。
しかし。
駅まで送ってもらうと、かえって別れが辛くなってしまう気がしていた。
別れの時がやってきた。
梨緒子は大きな荷物を抱えて秀平のアパートの部屋を出て、彼が鍵を施錠するのを側で見届けた。
アパートの建物の前で、彼は言った。
「今年の夏は無理そうだね、天の川」
もともと夏休みのためにとっておいた旅行資金に、今回手をつけてしまったのだ。それは秀平にも予想がついたらしい。
「ごめんなさい……」
「別に謝らなくてもいいよ。来年も再来年もあるから」
秀平はいつもながら、あっさりとしたものだった。
結局、三月に別れるときに交わした約束は、二人とも守れなかったことになる。
GWに秀平が戻ってくるのも。
夏に梨緒子が札幌に遊びに行くのも。
遠距離恋愛は思った以上に難しいということに、ここへきて二人は改めて気づかされることとなる。
「じゃあ……またね」
「うん。気をつけて」
泣かない、絶対に。梨緒子はそう心に決めていた。
秀平の艶やかな焦げ茶色の瞳が、何かを言いたげに揺れている。
今度はいつ会えるのか――完全に、先行き不透明だ。
ひょっとしたら、これが永久の別れとなるかもしれない。そんな妄想が梨緒子の脳裏をよぎっていく。
いまはたった数センチの距離が、夕方には数百いや数千キロメートルという距離へと広がってしまう。
「頑張ってね」
すると。
秀平は首を横に振った。
「そうじゃない、『頑張ろうね』だろ」
「秀平くん……」
そう。
一人ではないのだ。
ここに同じ想いを分かち合う人がいる。
「あと、三年十ヶ月だ――たったの」
二人はゆっくりと頷きあうと、その場で同時にくるりと背を向けて、アパートの前の道をそれぞれの方向へ歩き出した。
梨緒子はどこにも寄り道をせず、そのまま空港へと向かった。
帰りの便まで四時間以上もあったが、観光する気分には到底なれなかった。
寝不足のためか、体調が優れない。
梨緒子は空港ロビーの片隅のベンチで、膝上に大きな旅行カバンを載せ、それを抱え込むようにして身を伏せていた。
この際、お土産なんかどうだっていい。
それよりも。
――薫ちゃんになんて言おう。美月ちゃんにも絶対聞かれるだろうな……。
正直に言ったところで、おそらく信じないのではないか――そんな気もする。
昨日ここへやってきたときの自分と、いまの自分はまったくの別人になってしまった。
ここまで来たことを、決して後悔はしていない。
しかし。
予想以上の変化が梨緒子の身に訪れた。
梨緒子は、ゆっくりと深呼吸をしながら、痛みの残る身体のあちこちを、そっと手のひらで撫でさすった。
梨緒子は搭乗手続きをして、そのまま搭乗待合室へ移動しようと考えた。
疲れきって、もう何もしたくない。
面倒なことは帰ってから考えよう――梨緒子はようやく抱えていたカバンから身を起こした。
そして横に置いていた小さな手提げカバンの中から携帯を取り出すと、早々に電源を落とそうとした。
そのとき。
タイミングを見計らったかのように、着信ランプが光った。
ディスプレイに表示されているのは、先ほどまで一緒に過ごしていた最愛の彼氏の名前である。
何か言い忘れたことでもあったのだろうか――梨緒子は首を傾げつつ画面を開き、すぐさまメッセージを確認した。
梨緒子は驚いた。
いつもの五文字以内メッセージの殺風景な画面とはまるで違い、長文のメッセージが打ち込まれている。
緊張のあまり、携帯を持つ手がじっとりと汗ばんでくる。
梨緒子はごくりとつばを飲み込み、秀平からのメッセージを読んだ。
【昨夜のことですが。
なにぶん初めてのことだったので無作法は許してください。
俺も緊張してました。
この次はもっと優しくするよう、努力します】
梨緒子はその内容に動揺した。
そして、秀平の言う『昨夜のこと』を思い出し、一人赤面してしまう。
本文はまだ続いている。
たくさんの改行の後、スクロールした先に付け加えるようにして、一文が添えられていた。
【――こんな俺ですが、終生よろしく】
ですます調の妙にあらたまった文体が、なんとも愛しく感じる。
画面の文字がどんどん滲んでいく。
気づくと自分の涙が、大粒の雨のように彼の言葉の上に降り注いでいた。
【ちゃんと、責任とってね】
梨緒子は試すように、一文だけを返した。
すると。
すぐにレスが返ってきた。今度はいつものように、短い短い文字の並び。
彼からの返事は、たったの三文字――。
【喜んで】
勇気を出して札幌まで来てよかった。梨緒子は心の底からそう思った。
身も心も、彼と一つになれたのだ。
梨緒子は携帯を抱きしめて、昨夜の彼の温もりと感触を思い出し、空港ロビーの隅で一人、嬉し涙にくれていた。
淡々と時間は過ぎていく。
秀平はいつもと変わらない。
いつも通りの生活リズムを決して崩すことはない。梨緒子が布団の中でぐずぐずしているうちに、秀平はシャワーを浴び着替えもすませてしまっている。
そして、食パンに目玉焼きとカップスープ、という簡単な朝食を二人分作り、テーブルの上にそれらを並べ始めてようやく、梨緒子はのそりと起き出した。
しかし、食欲がまったくわいてこない。
「……シャワー、借りる」
梨緒子がひと言そう告げると、秀平は無言で頷いた。
梨緒子が身支度を整えて部屋へ戻ってくると、秀平は待たずに先に朝食をすませていた。
「俺、今日は全コマ講義入ってるから、八時過ぎには出る」
平日の朝は、悠々としている時間はないのである。
「せめて土日に来てくれたら、いろいろなところを案内してあげたんだけど――」
「ちゃんと勉強頑張ってる秀平くんのほうがいい」
秀平は梨緒子に、スープだけでもどうぞ、と勧めた。
梨緒子は言われるがまま、冷めかけたコーンスープのカップに手をつける。
「札幌駅まで送っていく。空港までは乗り継ぎなしに電車一本でいけるから、前みたいに迷子になることもない」
「送ってもらわなくても大丈夫。駅まで一人でいけるから、ここからそのまま大学に行って?」
「でも――」
「もう。小さい子供じゃないんだから、平気だよ」
秀平は心配そうにじっと、梨緒子の顔をまっすぐ見つめている。
梨緒子にはここ札幌で迷子になった前科があるため、秀平は不安がぬぐいきれないようだ。
「本当に平気?」
「……うん」
わずかな時間でも一緒にいたい。それは本音だ。
しかし。
駅まで送ってもらうと、かえって別れが辛くなってしまう気がしていた。
別れの時がやってきた。
梨緒子は大きな荷物を抱えて秀平のアパートの部屋を出て、彼が鍵を施錠するのを側で見届けた。
アパートの建物の前で、彼は言った。
「今年の夏は無理そうだね、天の川」
もともと夏休みのためにとっておいた旅行資金に、今回手をつけてしまったのだ。それは秀平にも予想がついたらしい。
「ごめんなさい……」
「別に謝らなくてもいいよ。来年も再来年もあるから」
秀平はいつもながら、あっさりとしたものだった。
結局、三月に別れるときに交わした約束は、二人とも守れなかったことになる。
GWに秀平が戻ってくるのも。
夏に梨緒子が札幌に遊びに行くのも。
遠距離恋愛は思った以上に難しいということに、ここへきて二人は改めて気づかされることとなる。
「じゃあ……またね」
「うん。気をつけて」
泣かない、絶対に。梨緒子はそう心に決めていた。
秀平の艶やかな焦げ茶色の瞳が、何かを言いたげに揺れている。
今度はいつ会えるのか――完全に、先行き不透明だ。
ひょっとしたら、これが永久の別れとなるかもしれない。そんな妄想が梨緒子の脳裏をよぎっていく。
いまはたった数センチの距離が、夕方には数百いや数千キロメートルという距離へと広がってしまう。
「頑張ってね」
すると。
秀平は首を横に振った。
「そうじゃない、『頑張ろうね』だろ」
「秀平くん……」
そう。
一人ではないのだ。
ここに同じ想いを分かち合う人がいる。
「あと、三年十ヶ月だ――たったの」
二人はゆっくりと頷きあうと、その場で同時にくるりと背を向けて、アパートの前の道をそれぞれの方向へ歩き出した。
梨緒子はどこにも寄り道をせず、そのまま空港へと向かった。
帰りの便まで四時間以上もあったが、観光する気分には到底なれなかった。
寝不足のためか、体調が優れない。
梨緒子は空港ロビーの片隅のベンチで、膝上に大きな旅行カバンを載せ、それを抱え込むようにして身を伏せていた。
この際、お土産なんかどうだっていい。
それよりも。
――薫ちゃんになんて言おう。美月ちゃんにも絶対聞かれるだろうな……。
正直に言ったところで、おそらく信じないのではないか――そんな気もする。
昨日ここへやってきたときの自分と、いまの自分はまったくの別人になってしまった。
ここまで来たことを、決して後悔はしていない。
しかし。
予想以上の変化が梨緒子の身に訪れた。
梨緒子は、ゆっくりと深呼吸をしながら、痛みの残る身体のあちこちを、そっと手のひらで撫でさすった。
梨緒子は搭乗手続きをして、そのまま搭乗待合室へ移動しようと考えた。
疲れきって、もう何もしたくない。
面倒なことは帰ってから考えよう――梨緒子はようやく抱えていたカバンから身を起こした。
そして横に置いていた小さな手提げカバンの中から携帯を取り出すと、早々に電源を落とそうとした。
そのとき。
タイミングを見計らったかのように、着信ランプが光った。
ディスプレイに表示されているのは、先ほどまで一緒に過ごしていた最愛の彼氏の名前である。
何か言い忘れたことでもあったのだろうか――梨緒子は首を傾げつつ画面を開き、すぐさまメッセージを確認した。
梨緒子は驚いた。
いつもの五文字以内メッセージの殺風景な画面とはまるで違い、長文のメッセージが打ち込まれている。
緊張のあまり、携帯を持つ手がじっとりと汗ばんでくる。
梨緒子はごくりとつばを飲み込み、秀平からのメッセージを読んだ。
【昨夜のことですが。
なにぶん初めてのことだったので無作法は許してください。
俺も緊張してました。
この次はもっと優しくするよう、努力します】
梨緒子はその内容に動揺した。
そして、秀平の言う『昨夜のこと』を思い出し、一人赤面してしまう。
本文はまだ続いている。
たくさんの改行の後、スクロールした先に付け加えるようにして、一文が添えられていた。
【――こんな俺ですが、終生よろしく】
ですます調の妙にあらたまった文体が、なんとも愛しく感じる。
画面の文字がどんどん滲んでいく。
気づくと自分の涙が、大粒の雨のように彼の言葉の上に降り注いでいた。
【ちゃんと、責任とってね】
梨緒子は試すように、一文だけを返した。
すると。
すぐにレスが返ってきた。今度はいつものように、短い短い文字の並び。
彼からの返事は、たったの三文字――。
【喜んで】
勇気を出して札幌まで来てよかった。梨緒子は心の底からそう思った。
身も心も、彼と一つになれたのだ。
梨緒子は携帯を抱きしめて、昨夜の彼の温もりと感触を思い出し、空港ロビーの隅で一人、嬉し涙にくれていた。