Lesson 3  恋星は煌く (3)

 秀平はようやく状況を把握したのか、梨緒子の頭のてっぺんからつま先まで、身辺をくまなく観察するように見回している。
 梨緒子の緊張は、極限まで達していた。
「秀平くん、あの……私」
「荷物はどこ?」
 九ヶ月ぶりに、彼の声が直に、梨緒子の耳へと届く。
 いつもと同じである。そこに、社交辞令的な挨拶は存在しない。
「あのね、アパートの部屋の前に置いてきた」
「外に置きっぱなし?」
 言いたいことはすぐに分かった。無用心すぎる、という説教めいた言葉を、彼は喉の奥に飲み込んでいる。

 そこへ、別の学生の集団がこちらへ近づいてきた。
 女子学生ばかりの三人グループだ。
「あー、成沢またサボり?」
「なんだ珍しいな、お前たちが学食来るなんて」
 親しげに会話を交わしているところを見ると、同じ学科の仲間なのだろう。
 梨緒子は一人部外者である。ここではひたすらやり取りを見ている他はない。
 その成り行きを見守っていると、秀平はあっという間に女子学生グループにやんわりと囲まれてしまった。
「永瀬くんにね、今度のレポートのことについて聞こうと思って」
「そうそう。永瀬くんの考えもレポートの参考にしたいし」
「ホントにそれが目当てか? ハッ、でも、今日は無理そうだな」
 圭太は手にしていた缶コーヒーを飲み干すと、冷やかすように言う。
 すると、秀平は幾分途惑ったような表情をしながらも、取り巻く女子学生たちを容易く切り捨てた。
「ああ……悪いけど俺、帰る」
「ええ? どうして?」
「連休前に要点だけでも押さえておきたかったんだけど……」
 取り囲む女子学生たちは、なかなか引き下がろうとしない。
 おそらく秀平は普段から、勉強のことに関する話題であれば、昼休みなどの講義と講義の合間の時間に限り、こうやって彼女たちと会話をしているのだろう。
 純粋に専門分野について意見を交わしたいのかもしれないが、同性の梨緒子の目からは、秀平と話がしたいための口実にしか見えない。
 高校時代は、秀平のその頭脳明晰ぶりに、女子は皆遠巻きに見て憧れているだけだった。
 しかし、現在周囲にいるのはすべて北大の学生である。彼と対等に話せるだけの知識を持ち合わせている才媛揃いだ。
「行くよ、梨緒子」
 取り囲んだ人垣の合間から、秀平は外側に追いやられていた梨緒子を呼んだ。
「ええ? でも……」
 すると。
 女子学生たちが明らかに驚いたようにして、いっせいに梨緒子のほうを振り返った。
 秀平は早々に踵を返すと、周囲を気にすることなく、そのまま学食の外へと歩き去っていく。
「おまえら、見りゃ分かるだろ。この子は永瀬の彼女だよ」
 女子学生たちは、唖然と梨緒子を見つめている。視線がどこまでも痛い。
 その気まずい沈黙をかき分けて、梨緒子は秀平の後を追い、逃げるようにして学食をあとにした。



 秀平の背中には、すぐに追いつくことができた。
 真夏の正午過ぎ――照りつける太陽の日差しはとても強い。
 茹だるような暑さの中、秀平はあくまで涼しげに淡々と、並んで歩く梨緒子に説明をしてくる。
「美瑛までは、車で行くから」
「車?」
「春に買ったんだ。親戚の叔父さんのお下がりだから、タダ同然だったけど」
「ええ!? すごい……」
 初めて聞く話だった。
 おそらく、自分を驚かせようと思って、ずっと黙っていたに違いない。
 なんと言っていいのか分からない。それは驚きであり感激でもあり――梨緒子は、彼の思惑通りの反応をしてしまう。
 秀平の所有する車に乗せてもらって、目的地までドライブしながら行くことができるとは、予想を遥かに上回る展開だ。
「駐車場とかガソリンとか、けっこう維持費がかかるんだ。バイト代の2割は、車に消えてる」
「残りの8割は?」
「とりあえず貯めてる。お金目的というより、社会勉強のつもりでやってるから、あまりお金には興味ないんだけど」
 高校の頃と比べて、随分と変わった――梨緒子の知らない間に、彼はどんどん大人びていく。
 梨緒子のアルバイト代は、秀平に逢うための交通費だったり、友達と遊ぶために使ってしまい、貯金など考えたこともない。
 車の免許を取ったり、車を買ったり、はたまた社会勉強と称して勉強をおろそかにすることなく日夜アルバイトに励むなど、自分の彼氏ながらとても自分と同じ人間とは思えない。


 秀平の駐車場は、アパートのすぐ裏手にあった。
 中古といっても、質感はまだ新しい。街でよく見かける黒のコンパクトタイプの普通車だ。
 車の後部座席には、すでにたくさんの荷物が積み込まれていた。
 大きなクーラーボックスの中身は、主に食材のようだ。その他に、カバンが大小合わせて五つもあった。
 何が入ってるのだろう――梨緒子はカバンの個数を数えながら、ふとそんなことを考えた。
 秀平はアパートの部屋の前に置きっぱなしにしていた、梨緒子の大きな旅行カバンを取ってきて、それも後部座席の足元に詰め込むようにして載せた。



「予定よりもだいぶ早いけど、美瑛に向かおう」
 秀平の運転はまったく危なげなかった。
 無謀なスピードを出すこともなく、どこまでも安全運転である。

 運転席に座っている彼の態度は、とても冷ややかだ。
 久しぶりに会ったというのに、硬い表情のままである。
 梨緒子の他愛もない話に、秀平はそう、とか、ふうん、とか気のない相槌を繰り返すばかり。
 しかし、人を乗せて運転をする緊張もあるに違いない。梨緒子は勝手にそう自分に言い聞かせ、運転に支障のないようなさして重要でもない話ばかりしていた。

 それから三十分ほど経った頃、秀平が突然、助手席の梨緒子に向かって喋り始めた。
「携帯――」
「ん? 携帯がどうしたの?」
 梨緒子は何の気なしに聞き返した。
 すると。
「成沢と何やってたの」
 心臓が縮み上がった。
 済んだ出来事だとばかり思っていたため、梨緒子はすっかり油断していた。
 閉ざされた空間に、二人きり。ここから逃げ出すことはできない。
「番号交換、しただけだけど?」
「だけ? 何で番号交換する必要があるの?」
 完全に、スイッチが入ってしまった。
 梨緒子は必死に弁解を試みる。
「そ、そんな、挨拶代わりで、ホントに掛けるわけじゃないし」
 運転席の秀平は、前方から目をそらすことはない。梨緒子がその表情をうかがうも、冷めた横顔が見えているばかりだ。
 初めてではない。
 いままで何度か、梨緒子はこの冷たい表情を目にしてきた。

 ――嫉妬。

 それ以上でも、それ以下でもない。
 付き合う彼氏なら当然の反応かもしれないが――秀平の嫉妬心は相当強いと、梨緒子はハッキリと感じていた。
 ただ彼の場合、思っていることを素直に表に出すということが不得手であるため、付き合いが長くならないと、その扱いにおそろしく手を焼かされることとなる。
 付き合い始めのころは、彼の気質がよく分からず、突然怒鳴られそして泣かされて、反省した彼が不器用ながらも歩み寄りをみせる――その繰り返しだった。
 しかし、遠く離れてしまった今。
 当然のことながら、突然怒鳴られるようなこともなくなっている。共有する時間がゼロに等しいため、自ずと嫉妬心という感情をむき出しにされることもなくなり――。
 そう。
 こんな嫉妬心をあらわにした不機嫌な彼を見ているだけで、梨緒子はどうしようもなく嬉しくなってしまった。

 やがて車は、赤信号に引っかかって停まった。
 秀平はようやく、助手席に座る梨緒子のほうへと顔を向けた。
 そして、ゆるく笑っている梨緒子を見て、いっそう深いため息をついてみせる。
「どうしたの? ため息をつくとね、そのたびに幸せがひとつ逃げていっちゃうんだよ」
「俺、別に幸せじゃないから、逃げていく幸せもない」
「私と一緒でも幸せじゃないの?」
「幸せって、何?」
「ええ?」
「幸せかどうかなんて、どうすれば分かるの?」
 彼は真面目に聞いているのだろうか――梨緒子は返答に困った。
 赤信号で停車中の彼は、じっと梨緒子を見つめて、その答えを待っている。
「それは人それぞれだと思うけど……私は秀平くんが側にいて、ぎゅーってしてくれると、幸せだよ」
「ぎゅう?」
 秀平の焦げ茶色の瞳が、梨緒子のすぐ近くで、不思議そうに瞬いている。
「牛じゃないよ」
「……ぎゅう」
「目閉じてどうするの」
「じゃあ、ぎゅう」
「握りこぶしじゃない! もう、ふざけてるの?」
 秀平は途惑ったように首を傾げて、ふうとまた一つため息をついた。
「……ふざけてなんか、ないけど」
 そう。
 これが永瀬秀平という男なのだ。
 『天然』という言葉だけではとても言い表すことのできない、愛しい愛しい彼氏なのである。
「そんなことより、秀平くん! 途中どっか寄って、花火買っていこうよ」
「花火? 俺、別にやりたくない」
「私がやりたいの。ねえねえ、一緒にやろうよ!」
 信号が青になり、秀平は返事もせずに、再び車を発進させた。


 車をしばらく走らせたあと、道沿いの大きなホームセンターを見つけ、寄り道をした。
 梨緒子の願いを、秀平は素直に聞き入れる気になったようだ。

 カゴを持って花火を選んでいる間も、秀平はずっと無言だった。黙って梨緒子の後をついてきている。
 まったく楽しそうな表情をみせない。
 夏と言えば、「外で楽しく花火」というのが当たり前だと思っていた梨緒子にしてみれば、秀平の反応はかなり意外なものだった。
 付き合うようになってから、二人が一緒に夏の夜を過ごすのはこれが初めてだった。
 以前美瑛を訪れたときは、兄たちの計らいで花火は用意してあったものの、そこに至る前に色々な出来事があり、とても花火をするような雰囲気ではなかったのである。
 たとえあの夏、星空の下で何も起こらなかったとしても、秀平が素直に花火をしたかどうか――それはかなり疑問である。
 まだまだ彼の気質習性を知るには、時間がかかりそうだ。

 秀平が手持ち無沙汰に、陳列してあった花火を一つ手にとった。
 梨緒子はすかさず、明るい声を出して秀平のテンションを上げようと試みる。
「あ、落下傘だ。秀平くんそれ、やる?」
「やらない」
 秀平はさほど興味がなさそうに、すぐに花火を棚に戻してしまった。
 まったく、扱いづらい。扱いづら過ぎる。
 梨緒子は秀平に構うのあきらめて、大きな花火セットと線香花火の束をカゴに放り込んだ。そして、先ほど秀平が手にとっていた落下傘の打ち上げ花火も、一緒に入れてやる。
 すると。
「もうそのくらいでいいだろ。カゴ貸して」
 秀平は梨緒子からカゴを奪うようにして取ると、そのまま一人、レジへと歩いていってしまった。

 ――ホント、根に持ちすぎ。

 秀平は、自分の財布から花火代をすべて支払った。
 梨緒子はレジから少し離れたところで待ち、会計を終えた秀平にすかさず尋ねた。
「いくらだった? 半分出すよ」
「いらない。さあ、無駄な寄り道はこれくらいにして、さっさと行くよ」

 ――む、無駄? もう、ひどい……。

 彼の不機嫌は、なかなか収まりそうにない。
 梨緒子は思わず大きなため息をひとつつき、ふと気づいて、あわてて吐き出した空気をもう一度吸い直した。
 小さな幸せ一つも、逃がしてしまわないように――。