Lesson 3 恋星は煌く (4)
いつか来たことのある、木目が美しいログハウス風の別荘へと、二人は到着した。
すべてが懐かしかった。
すぐ正面に大きな暖炉。もちろん真夏なので薪は燃えていない。
吹き抜けの広々としたリビング。天窓からは光が差し込んでいる。
リビングの壁に沿うように階段があり、それを上がっていくとロフトのようなつくりの二階の廊下に続いている。
廊下の手すりからは、リビングを見渡せるようになっている。
秀平は黙々と車から荷物を降ろし、手際よくリビングへと運び込んでいる。すべて運び終えると、秀平は自分の荷物だけを選んで、二階へと向かった。
梨緒子も自分の荷物を肩から下げると、秀平の後を追うようにして、階段を上がっていった。
秀平は、二つ並んでいるドアの前で立ち止まった。
「梨緒子はそっちの部屋、使えばいい」
秀平は背中を向けたまま、抑揚のない声でそう告げた。
二階には、ツインの寝室が二部屋ある。
以前ここを訪れたときには、その二部屋を永瀬兄弟と江波兄妹とに分かれて利用していた。
しかし。
「二人なんだから、一緒でも……良くない?」
まさか別々の部屋で寝ようと思っているのだろうか――梨緒子は不安になった。
シングルの部屋ならまだしも、ツインならちゃんとベッドが二つ用意されているのである。
「せっかく二人なんだから、広々と使えばいいんじゃないの?」
秀平はあくまでさらりと言い切った。
何故だろう――モヤモヤばかりが残ってしまう。
もちろん愛を確かめ合うことだけが目的ではないが、恋人同士が二人きりで旅行するのに、部屋が別々なのは、どうにも不自然である。
梨緒子が唖然と立ちすくんでいると、秀平は自分が使うつもりの部屋のドアノブに手をかけて、早々に中へと入ろうとした。
「俺、やることあるからしばらく一人にして」
「やること?」
「ご飯もお風呂も、適当にやって。俺のことは構わなくていい」
それだけ言うと、秀平はドアを内側から固く閉ざしてしまった。
梨緒子はどっと疲れを覚えていた。
どうにもやり切れない思いに、ため息が出てしまう。
――携帯くらいで、そこまで怒らなくても。
第一、成沢圭太は秀平の友人なのである。
初対面でもなく、秀平と梨緒子の仲もちゃんと知っているのだ。
電話番号とアドレスを交換したくらいで、どうしてここまで機嫌を損ねてしまうのか、梨緒子にはまったく理解できなかった。
短大の友人たちとは、男女問わず番号とアドレスを交換している。メールのやり取りだって、もちろんある。
この程度のことで、延々やきもちを焼かれてしまっては、困ってしまう。
――何だか、全然楽しくない。
ケンカというには、あまりにも一方的すぎるのである。
今日はもういくら頑張っても、秀平の機嫌は直らないだろう。
梨緒子は早々にあきらめ、秀平に言われた通り、一人先にお風呂に入り、ご飯も電子レンジで温めるだけのピラフとスープだけですませた。
一晩寝て、彼が頭を冷やしてくれることを願って、梨緒子は一人ベッドにもぐりこんだ。
次の日の朝を迎えても、秀平は部屋から出てこようとしなかった。
キッチンには、何かを調理したような痕跡が残っている。
おそらく梨緒子が寝たあとに、秀平が部屋から出てきて使っていたのだろう。
彼は今起きているのかまだ眠っているのか――締め切られたドアからは中の様子を窺い知ることはできない。
梨緒子は思い切って、秀平の部屋のドアをノックした。
返事はない。
梨緒子はそっとドアを開け、中をうかがうと――秀平はドレッサーを机代わりにして、ノートパソコンを持ち込んで、何かを打ち込んでいた。
車に積んであったたくさんの荷物の一つは、どうやらこれだったらしい。
その他にも、分厚い本を何冊も、ベッドの上に広げている。
「何やってるの?」
「レポートまとめてる。週明け締め切りのが二本あるから」
確かに昨日、北大の学生食堂で、同じ学科の仲間らしき女子学生たちが、確かにそのようなことを言っていた覚えがある。
秀平が部屋に閉じこもったのは、嫉妬で機嫌を損ねたわけではなく、本当にやることがあった、ということなのだろう。
梨緒子は胸を撫で下ろした。
「ここに一緒にいちゃ駄目?」
「……好きにすれば」
こうなったら、少しずつ、彼の頑なな心を解きほぐしていくしかない。
梨緒子はベッドの上に座って、秀平の背中をときおり眺めつつ、暇つぶしに携帯を取り出して、適当にいじり始めた。
秀平はひたすらレポート作りに励んでいる。梨緒子のほうを振り返ろうともしない。
しばらくの間、二人は同じ部屋で、同じ空気を吸って、同じ時間をただゆるりと過ごしていた。
やがて、秀平が深々とため息をつきながら、ようやくベッドの上にいる梨緒子を振り返った。
「やっぱり出て行って」
「……どうして?」
「そんなところで携帯ばかりいじられたら、集中できないだろ」
また、携帯だ。
いったい彼は、どうしたいのだろう。
どうすれば、機嫌を直してくれるのだろう。
いつまでも子供のように拗ねて、冷たくあしらうだけだなんて――毎日顔を合わせていられるなら、一日二日の仲違いは我慢できる。
しかし。
いま、自分たちは遠距離恋愛中なのだ。しかも、ここ美瑛への三泊四日の小旅行は、九ヶ月ぶりに二人が一緒に過ごすことのできる、貴重な時間なのである。
それなのに、彼は――。
梨緒子はもう、我慢の限界だった。
「もう。レポートと私と、どっちが大事なの?」
「レポートを提出しなかったら、単位が取れないだろ」
梨緒子の訴えに、秀平はまったく怯まない。
むしろそれが、彼の怒りのスイッチを押してしまう結果となる。
秀平はキーボードを打つ手を止め立ち上がると、梨緒子の前に進み出て、真正面に立ちはだかった。
「言わせてもらうけど、梨緒子。昨日の授業はどうしたんだよ」
怖い。
嫌。
その強く責めるような口調に、梨緒子の身体はすくみ上がった。
「……休講だったの」
「一日一杯? 看護系はそんなにカリキュラムが甘くないだろ」
彼に誤魔化しはきかない。
すべてを見透かしている。確信があるからこそ、ここまで強く出てこれるのだ。
そう。
彼は、小手先で崩せるような人間ではないのである。
梨緒子ではとても太刀打ちできないほどの、優秀な頭脳の持ち主だ。あらゆる事柄を冷静に分析して、物事を先読みする能力を持ち合わせている。
「どうなの。ちゃんと正直に答えて」
彼が自分を責めている。
彼が自分のしたことを怒っている。
どうして、そんな――。
梨緒子はもう泣いてしまいそうだった。
「だって、九ヶ月ぶりに秀平くんに逢うんだよ。一日くらい講義休んだって……」
「親に学費出してもらっておいて、そんな理由で授業休むなんてどうかしてる」
「そんな理由? 秀平くんに早く逢いたいって、そう思っちゃいけない?」
信じられなかった。
目の前がどんどん霞んでいく。
もう、嫌。
彼の怒鳴る声なんて、聞きたくない。
「初めの約束じゃ、最終便でこっちへ来るって言ってたはずだろ。素直に授業受けてから来たって、充分間に合ったんじゃないのか?」
「驚かせたかったんだもん」
涙をこらえようとしているせいで、自分でも驚くような低い声が出る。
秀平の勢いは止まらない。彼の端整な顔は、怒っていても決して崩れることはない。ただ真っ直ぐと、怜悧に梨緒子を見下ろしている。
「梨緒子は前からそうだ。いつもいつも、何なんだよ驚かせるって。一度決めたことはちゃんと守れよ。とにかく、無断で勝手な行動されて振り回されるのには、もううんざりだ」
「う……う……うんざりって、そんな」
言葉の刃が、梨緒子の胸を切り裂いた。
勝手に、身体が震え出してしまう。
それは恐怖なのか、怒りなのか、悲しみなのか――梨緒子にはもう、何が何だか分からなかった。
「秀平くんだって、突然帰ってきたりするでしょ?」
「授業をサボったことはない、俺は」
俺は、というところを強調して、秀平は梨緒子の言い分を切り捨てた。
――もう……もう駄目。
梨緒子は秀平の部屋を飛び出した。そして、隣の部屋に置いてある自分の荷物をまとめて、再び廊下へと出る。
するとそこには、秀平がまだ何かを言いたげにして、梨緒子を待ち受けていた。
「私、帰る」
「どうやって」
「そんなの、秀平くんに関係ないでしょ!」
梨緒子は、秀平を振り切るようにして階段を駆け下りると、急いで靴を履き、無我夢中で別荘を飛び出した。
数歩進んだところで、梨緒子は躊躇し、一度立ち止まった。
彼が自分を引き止めようとするのではないか――という淡い期待が、心のどこかに残っていた。
しかし。
いつまで経っても、秀平が梨緒子を追いかけてくることはなかった。
すべてが懐かしかった。
すぐ正面に大きな暖炉。もちろん真夏なので薪は燃えていない。
吹き抜けの広々としたリビング。天窓からは光が差し込んでいる。
リビングの壁に沿うように階段があり、それを上がっていくとロフトのようなつくりの二階の廊下に続いている。
廊下の手すりからは、リビングを見渡せるようになっている。
秀平は黙々と車から荷物を降ろし、手際よくリビングへと運び込んでいる。すべて運び終えると、秀平は自分の荷物だけを選んで、二階へと向かった。
梨緒子も自分の荷物を肩から下げると、秀平の後を追うようにして、階段を上がっていった。
秀平は、二つ並んでいるドアの前で立ち止まった。
「梨緒子はそっちの部屋、使えばいい」
秀平は背中を向けたまま、抑揚のない声でそう告げた。
二階には、ツインの寝室が二部屋ある。
以前ここを訪れたときには、その二部屋を永瀬兄弟と江波兄妹とに分かれて利用していた。
しかし。
「二人なんだから、一緒でも……良くない?」
まさか別々の部屋で寝ようと思っているのだろうか――梨緒子は不安になった。
シングルの部屋ならまだしも、ツインならちゃんとベッドが二つ用意されているのである。
「せっかく二人なんだから、広々と使えばいいんじゃないの?」
秀平はあくまでさらりと言い切った。
何故だろう――モヤモヤばかりが残ってしまう。
もちろん愛を確かめ合うことだけが目的ではないが、恋人同士が二人きりで旅行するのに、部屋が別々なのは、どうにも不自然である。
梨緒子が唖然と立ちすくんでいると、秀平は自分が使うつもりの部屋のドアノブに手をかけて、早々に中へと入ろうとした。
「俺、やることあるからしばらく一人にして」
「やること?」
「ご飯もお風呂も、適当にやって。俺のことは構わなくていい」
それだけ言うと、秀平はドアを内側から固く閉ざしてしまった。
梨緒子はどっと疲れを覚えていた。
どうにもやり切れない思いに、ため息が出てしまう。
――携帯くらいで、そこまで怒らなくても。
第一、成沢圭太は秀平の友人なのである。
初対面でもなく、秀平と梨緒子の仲もちゃんと知っているのだ。
電話番号とアドレスを交換したくらいで、どうしてここまで機嫌を損ねてしまうのか、梨緒子にはまったく理解できなかった。
短大の友人たちとは、男女問わず番号とアドレスを交換している。メールのやり取りだって、もちろんある。
この程度のことで、延々やきもちを焼かれてしまっては、困ってしまう。
――何だか、全然楽しくない。
ケンカというには、あまりにも一方的すぎるのである。
今日はもういくら頑張っても、秀平の機嫌は直らないだろう。
梨緒子は早々にあきらめ、秀平に言われた通り、一人先にお風呂に入り、ご飯も電子レンジで温めるだけのピラフとスープだけですませた。
一晩寝て、彼が頭を冷やしてくれることを願って、梨緒子は一人ベッドにもぐりこんだ。
次の日の朝を迎えても、秀平は部屋から出てこようとしなかった。
キッチンには、何かを調理したような痕跡が残っている。
おそらく梨緒子が寝たあとに、秀平が部屋から出てきて使っていたのだろう。
彼は今起きているのかまだ眠っているのか――締め切られたドアからは中の様子を窺い知ることはできない。
梨緒子は思い切って、秀平の部屋のドアをノックした。
返事はない。
梨緒子はそっとドアを開け、中をうかがうと――秀平はドレッサーを机代わりにして、ノートパソコンを持ち込んで、何かを打ち込んでいた。
車に積んであったたくさんの荷物の一つは、どうやらこれだったらしい。
その他にも、分厚い本を何冊も、ベッドの上に広げている。
「何やってるの?」
「レポートまとめてる。週明け締め切りのが二本あるから」
確かに昨日、北大の学生食堂で、同じ学科の仲間らしき女子学生たちが、確かにそのようなことを言っていた覚えがある。
秀平が部屋に閉じこもったのは、嫉妬で機嫌を損ねたわけではなく、本当にやることがあった、ということなのだろう。
梨緒子は胸を撫で下ろした。
「ここに一緒にいちゃ駄目?」
「……好きにすれば」
こうなったら、少しずつ、彼の頑なな心を解きほぐしていくしかない。
梨緒子はベッドの上に座って、秀平の背中をときおり眺めつつ、暇つぶしに携帯を取り出して、適当にいじり始めた。
秀平はひたすらレポート作りに励んでいる。梨緒子のほうを振り返ろうともしない。
しばらくの間、二人は同じ部屋で、同じ空気を吸って、同じ時間をただゆるりと過ごしていた。
やがて、秀平が深々とため息をつきながら、ようやくベッドの上にいる梨緒子を振り返った。
「やっぱり出て行って」
「……どうして?」
「そんなところで携帯ばかりいじられたら、集中できないだろ」
また、携帯だ。
いったい彼は、どうしたいのだろう。
どうすれば、機嫌を直してくれるのだろう。
いつまでも子供のように拗ねて、冷たくあしらうだけだなんて――毎日顔を合わせていられるなら、一日二日の仲違いは我慢できる。
しかし。
いま、自分たちは遠距離恋愛中なのだ。しかも、ここ美瑛への三泊四日の小旅行は、九ヶ月ぶりに二人が一緒に過ごすことのできる、貴重な時間なのである。
それなのに、彼は――。
梨緒子はもう、我慢の限界だった。
「もう。レポートと私と、どっちが大事なの?」
「レポートを提出しなかったら、単位が取れないだろ」
梨緒子の訴えに、秀平はまったく怯まない。
むしろそれが、彼の怒りのスイッチを押してしまう結果となる。
秀平はキーボードを打つ手を止め立ち上がると、梨緒子の前に進み出て、真正面に立ちはだかった。
「言わせてもらうけど、梨緒子。昨日の授業はどうしたんだよ」
怖い。
嫌。
その強く責めるような口調に、梨緒子の身体はすくみ上がった。
「……休講だったの」
「一日一杯? 看護系はそんなにカリキュラムが甘くないだろ」
彼に誤魔化しはきかない。
すべてを見透かしている。確信があるからこそ、ここまで強く出てこれるのだ。
そう。
彼は、小手先で崩せるような人間ではないのである。
梨緒子ではとても太刀打ちできないほどの、優秀な頭脳の持ち主だ。あらゆる事柄を冷静に分析して、物事を先読みする能力を持ち合わせている。
「どうなの。ちゃんと正直に答えて」
彼が自分を責めている。
彼が自分のしたことを怒っている。
どうして、そんな――。
梨緒子はもう泣いてしまいそうだった。
「だって、九ヶ月ぶりに秀平くんに逢うんだよ。一日くらい講義休んだって……」
「親に学費出してもらっておいて、そんな理由で授業休むなんてどうかしてる」
「そんな理由? 秀平くんに早く逢いたいって、そう思っちゃいけない?」
信じられなかった。
目の前がどんどん霞んでいく。
もう、嫌。
彼の怒鳴る声なんて、聞きたくない。
「初めの約束じゃ、最終便でこっちへ来るって言ってたはずだろ。素直に授業受けてから来たって、充分間に合ったんじゃないのか?」
「驚かせたかったんだもん」
涙をこらえようとしているせいで、自分でも驚くような低い声が出る。
秀平の勢いは止まらない。彼の端整な顔は、怒っていても決して崩れることはない。ただ真っ直ぐと、怜悧に梨緒子を見下ろしている。
「梨緒子は前からそうだ。いつもいつも、何なんだよ驚かせるって。一度決めたことはちゃんと守れよ。とにかく、無断で勝手な行動されて振り回されるのには、もううんざりだ」
「う……う……うんざりって、そんな」
言葉の刃が、梨緒子の胸を切り裂いた。
勝手に、身体が震え出してしまう。
それは恐怖なのか、怒りなのか、悲しみなのか――梨緒子にはもう、何が何だか分からなかった。
「秀平くんだって、突然帰ってきたりするでしょ?」
「授業をサボったことはない、俺は」
俺は、というところを強調して、秀平は梨緒子の言い分を切り捨てた。
――もう……もう駄目。
梨緒子は秀平の部屋を飛び出した。そして、隣の部屋に置いてある自分の荷物をまとめて、再び廊下へと出る。
するとそこには、秀平がまだ何かを言いたげにして、梨緒子を待ち受けていた。
「私、帰る」
「どうやって」
「そんなの、秀平くんに関係ないでしょ!」
梨緒子は、秀平を振り切るようにして階段を駆け下りると、急いで靴を履き、無我夢中で別荘を飛び出した。
数歩進んだところで、梨緒子は躊躇し、一度立ち止まった。
彼が自分を引き止めようとするのではないか――という淡い期待が、心のどこかに残っていた。
しかし。
いつまで経っても、秀平が梨緒子を追いかけてくることはなかった。