Lesson 3 恋星は煌く (5)
灼熱の太陽が、ありとあらゆるものを照りつける。
聞こえるのは、自分の足音だけだ。
うんざりだ。
うんざりだ。
もう――うんざりだ。
早く逢いたいがために、授業を休んでしまったこと?
勝手に早い便に変更して、しかもそのことを連絡せずに、北大まで押しかけたこと?
そして、成沢圭太と携帯の番号のアドレスを交換したこと?
秀平の不機嫌の理由は、彼の友人である成沢圭太と番号を交換したことだと、梨緒子はそう思っていた。
その嫉妬が嬉しいとさえ感じ、一人浮かれていた。
しかし秀平にしてみれば、梨緒子のその一挙一動が腹立たしかったに違いない。
再会してから別荘でのやり取りに至るまでの時間が、極彩色から無彩色へと変化していく。
何度同じことを繰り返せばすむのだろう。
高校時代の大ゲンカが、まるで昨日のことのようにハッキリと蘇ってくる。
ちゃんと自分のことを真剣に考えてくれているから、彼は怒る――それは、分かる。
でも。
思ったときにすぐ伝えてくれればいいものを、腹の中に押し止め、ためにためて一気に決壊させる。
そして、梨緒子はなす術もなく、彼に打ちのめされてしまうのだ。
――本当に、一人ぼっち。
別荘は、かなり人里離れた風光明媚な野山の中にある。徒歩で繁華街まで向かうのは、かなり無謀だった。
梨緒子は重い荷物を肩から提げ、途方に暮れながら繁華街までの長い道のりを一人歩いた。
ときおり追い越していく車に、梨緒子は密かな期待を寄せる。
しかし、そのどれもが秀平の車ではなかった。
気の遠くなるような長い道のりを、炎天下の中、歩かなければならないことは、秀平にだって分かっているはずだ。
それなのに。
――連れ戻す気なんて、ないんだな。
どのくらい歩いたことだろう。
頭の中がグルグルと回っている。暑さがさらに体力を奪っていく。
喉も渇く。不安による緊張もある。
札幌で一人はぐれたときと、まったく同じだ。
梨緒子は道端に大きな木を見つけると、歩くのを止めて日陰に入り、その場に荷物を降ろした。
汗ばんだ手で、携帯電話を取り出す。
もう、一人ではどうしようもならなくなってしまっていた。
誰かに助けを求めたい。助言が欲しい。
梨緒子は誰に電話を掛けるか、迷った。
美月も優作も、札幌からは遠く離れたところにいる。迎えには来てもらえない。
それでも美月なら、話を聞いて何かしらのアドバイスはしてくれるだろうし、優作なら――弟である秀平を電話で直接諭してくれるだろう。
しかし、それは諸刃の剣である。秀平の怒りの矛先が優作に向けられるのは避けられない。
むしろ、血縁に頼らないほうが賢い選択かもしれない。
そう考えた梨緒子の脳裏に、ある人物が浮かんできた。
【困ったことがあったら、気軽にどうぞ】
そう言って、気さくな笑顔を見せた一人の男――成沢圭太だ。
梨緒子にとって、北海道での数少ない知り合いである。
番号はまだ消さずに残してある。とりあえず札幌まで戻るにしても、地理に明るい人間がいると心強い。
梨緒子は、圭太に掛けてみようと思った。
携帯の電話帳を検索し、ナ行の一覧を表示させた。
そこでふと、目に入ってきたもの。
成沢圭太の一行上には、『永瀬優作』の名前がある。そして、さらにその上には――。
【永瀬秀平】
再び涙が出てきた。
どんなことがあっても、彼は自分からは折れることはない。
そういう人間なのだ。
それは、彼女として二年間やってきた自分が、誰よりもよく分かっている。
どうしよう。
どうしよう。
別荘でいまだ一人、ふてくされているであろう彼の姿を想像し、梨緒子はすべての思いを吐き出すように、大きなため息をついた。
梨緒子は『永瀬秀平』の番号を呼び出し、発信ボタンを押した。
怖い。とても怖い。
呼吸を止めたまま、じっと携帯を押し当てる左耳に、全神経を集中させる。
次の瞬間。
無情にも、コール音は一回半で途切れた。
――嘘。き……切られちゃった。
涙がどっとあふれてきた。梨緒子は携帯を握りしめたまま、その場にうずくまるようにして座り込んだ。
声にならない嗚咽が、梨緒子の中から溢れ出す。
「うっ、ううう……うえっ」
完全に、彼を怒らせてしまった。
謝る機会さえ、与えてはくれない。
「ううう、うっ、……秀……平くん、ひっ、ぐすっ、ぐすっ」
「…………はい、どうしたの」
空から、彼の声が降ってきた。頭の上に載せられる、大きな手のひらの感触。
梨緒子は振り返りざまに見上げた。
涙でよく見えない。
でも、間違いない。
そこに立っていたのは、梨緒子をどん底に叩き落した張本人だった。
「なんで……電話……切っちゃった……私……ううう」
「電話で話すほどの距離じゃなかったから」
そう説明する彼の手には、携帯電話が握りしめられている。
通話が途切れた理由は――二人の間の距離。
「ひっ……ううう、しゅ、秀平くん」
「なに?」
「ぐすっ……い……いつから?」
「ずっと」
梨緒子が別荘を飛び出してから、秀平は付かず離れずの距離を保ち、追いかけて引き止めるでもなく、ただ――。
「私が困ってるのを、ひっく、じっと、見てたって……こと? ぐすっ」
しゃくりあげる度に、喋る言葉が途切れ途切れになる。
梨緒子は、秀平の顔をじっと見上げながら深呼吸を繰り返し、気持ちを落ち着かせようと努めた。
「最初に、誰に連絡するのかな――と思って」
「何それ……私がどんな気持ちでいたと……一人ぼっちにされて」
彼の表情は硬いままだ。
追いかけてきたというよりも、電話で呼ばれたから仕方なく来た――そんな態度を、彼はひたすら貫き通す。
「一番が誰なのか、確かめたかった」
「……ひどい、ひどすぎるよ。そんなに、私のことが信じられない?」
「すべてを信じることと、何でも許すこととは、全然違うだろ」
「不満があるなら、そう思ったときに言ってよ。我慢して我慢して一気に怒鳴りつけられたら、私だって壊れちゃう……こんなことまでして、一番かどうか確かめたい? ホントに、ひどすぎる……」
「もう――」
もう?
もう終わり?
もう嫌だ?
もう疲れた?
「もう? もう、何?」
涙混じりの梨緒子の問いに、秀平は大きなため息を一つついた。
呼吸をすることさえためらわれるような無音の世界に、二人は包み込まれていく。
やがて秀平は、そっと梨緒子に頭を下げた。
「もう、しません――――ごめんなさい」
それは、まるで小さな子供のような謝罪だった。
梨緒子は目を瞠った。
秀平が、素直に頭を下げたことに驚き、思わず涙も引っ込んでしまう。
「一緒に花火、するから」
「……いまさら、そんな」
どうにも素直になれない。
「……だって秀平くん、花火、嫌いなんでしょ?」
「俺、落下傘は好きなんだ」
「……そんなこと、知らない」
「あとで、ちゃんと『ぎゅう』ってするから――ほら、機嫌直して」
軽く肩を叩き、秀平は梨緒子の耳元でそうささやいた。
秀平は照れ隠しのためか、梨緒子の荷物を奪うようにして持ち右肩にかけると、梨緒子に背を向けて、別荘までの道のりを、再びゆっくりと戻り始めた。
【私は秀平くんが側にいて、ぎゅーってしてくれると、幸せだよ】
本当に本当に、この不器用な彼氏は――。
彼は黙って先を歩きながら、空いた左手を後方へ差し出している。
結局、彼にはかなわないのだ――梨緒子は観念し、秀平の手に自分の手を重ねた。
すると。
秀平は無言のまま、しっかりとお互いの手と手を繋ぎ合わせた。
二度と離れてしまわぬように――。
聞こえるのは、自分の足音だけだ。
うんざりだ。
うんざりだ。
もう――うんざりだ。
早く逢いたいがために、授業を休んでしまったこと?
勝手に早い便に変更して、しかもそのことを連絡せずに、北大まで押しかけたこと?
そして、成沢圭太と携帯の番号のアドレスを交換したこと?
秀平の不機嫌の理由は、彼の友人である成沢圭太と番号を交換したことだと、梨緒子はそう思っていた。
その嫉妬が嬉しいとさえ感じ、一人浮かれていた。
しかし秀平にしてみれば、梨緒子のその一挙一動が腹立たしかったに違いない。
再会してから別荘でのやり取りに至るまでの時間が、極彩色から無彩色へと変化していく。
何度同じことを繰り返せばすむのだろう。
高校時代の大ゲンカが、まるで昨日のことのようにハッキリと蘇ってくる。
ちゃんと自分のことを真剣に考えてくれているから、彼は怒る――それは、分かる。
でも。
思ったときにすぐ伝えてくれればいいものを、腹の中に押し止め、ためにためて一気に決壊させる。
そして、梨緒子はなす術もなく、彼に打ちのめされてしまうのだ。
――本当に、一人ぼっち。
別荘は、かなり人里離れた風光明媚な野山の中にある。徒歩で繁華街まで向かうのは、かなり無謀だった。
梨緒子は重い荷物を肩から提げ、途方に暮れながら繁華街までの長い道のりを一人歩いた。
ときおり追い越していく車に、梨緒子は密かな期待を寄せる。
しかし、そのどれもが秀平の車ではなかった。
気の遠くなるような長い道のりを、炎天下の中、歩かなければならないことは、秀平にだって分かっているはずだ。
それなのに。
――連れ戻す気なんて、ないんだな。
どのくらい歩いたことだろう。
頭の中がグルグルと回っている。暑さがさらに体力を奪っていく。
喉も渇く。不安による緊張もある。
札幌で一人はぐれたときと、まったく同じだ。
梨緒子は道端に大きな木を見つけると、歩くのを止めて日陰に入り、その場に荷物を降ろした。
汗ばんだ手で、携帯電話を取り出す。
もう、一人ではどうしようもならなくなってしまっていた。
誰かに助けを求めたい。助言が欲しい。
梨緒子は誰に電話を掛けるか、迷った。
美月も優作も、札幌からは遠く離れたところにいる。迎えには来てもらえない。
それでも美月なら、話を聞いて何かしらのアドバイスはしてくれるだろうし、優作なら――弟である秀平を電話で直接諭してくれるだろう。
しかし、それは諸刃の剣である。秀平の怒りの矛先が優作に向けられるのは避けられない。
むしろ、血縁に頼らないほうが賢い選択かもしれない。
そう考えた梨緒子の脳裏に、ある人物が浮かんできた。
【困ったことがあったら、気軽にどうぞ】
そう言って、気さくな笑顔を見せた一人の男――成沢圭太だ。
梨緒子にとって、北海道での数少ない知り合いである。
番号はまだ消さずに残してある。とりあえず札幌まで戻るにしても、地理に明るい人間がいると心強い。
梨緒子は、圭太に掛けてみようと思った。
携帯の電話帳を検索し、ナ行の一覧を表示させた。
そこでふと、目に入ってきたもの。
成沢圭太の一行上には、『永瀬優作』の名前がある。そして、さらにその上には――。
【永瀬秀平】
再び涙が出てきた。
どんなことがあっても、彼は自分からは折れることはない。
そういう人間なのだ。
それは、彼女として二年間やってきた自分が、誰よりもよく分かっている。
どうしよう。
どうしよう。
別荘でいまだ一人、ふてくされているであろう彼の姿を想像し、梨緒子はすべての思いを吐き出すように、大きなため息をついた。
梨緒子は『永瀬秀平』の番号を呼び出し、発信ボタンを押した。
怖い。とても怖い。
呼吸を止めたまま、じっと携帯を押し当てる左耳に、全神経を集中させる。
次の瞬間。
無情にも、コール音は一回半で途切れた。
――嘘。き……切られちゃった。
涙がどっとあふれてきた。梨緒子は携帯を握りしめたまま、その場にうずくまるようにして座り込んだ。
声にならない嗚咽が、梨緒子の中から溢れ出す。
「うっ、ううう……うえっ」
完全に、彼を怒らせてしまった。
謝る機会さえ、与えてはくれない。
「ううう、うっ、……秀……平くん、ひっ、ぐすっ、ぐすっ」
「…………はい、どうしたの」
空から、彼の声が降ってきた。頭の上に載せられる、大きな手のひらの感触。
梨緒子は振り返りざまに見上げた。
涙でよく見えない。
でも、間違いない。
そこに立っていたのは、梨緒子をどん底に叩き落した張本人だった。
「なんで……電話……切っちゃった……私……ううう」
「電話で話すほどの距離じゃなかったから」
そう説明する彼の手には、携帯電話が握りしめられている。
通話が途切れた理由は――二人の間の距離。
「ひっ……ううう、しゅ、秀平くん」
「なに?」
「ぐすっ……い……いつから?」
「ずっと」
梨緒子が別荘を飛び出してから、秀平は付かず離れずの距離を保ち、追いかけて引き止めるでもなく、ただ――。
「私が困ってるのを、ひっく、じっと、見てたって……こと? ぐすっ」
しゃくりあげる度に、喋る言葉が途切れ途切れになる。
梨緒子は、秀平の顔をじっと見上げながら深呼吸を繰り返し、気持ちを落ち着かせようと努めた。
「最初に、誰に連絡するのかな――と思って」
「何それ……私がどんな気持ちでいたと……一人ぼっちにされて」
彼の表情は硬いままだ。
追いかけてきたというよりも、電話で呼ばれたから仕方なく来た――そんな態度を、彼はひたすら貫き通す。
「一番が誰なのか、確かめたかった」
「……ひどい、ひどすぎるよ。そんなに、私のことが信じられない?」
「すべてを信じることと、何でも許すこととは、全然違うだろ」
「不満があるなら、そう思ったときに言ってよ。我慢して我慢して一気に怒鳴りつけられたら、私だって壊れちゃう……こんなことまでして、一番かどうか確かめたい? ホントに、ひどすぎる……」
「もう――」
もう?
もう終わり?
もう嫌だ?
もう疲れた?
「もう? もう、何?」
涙混じりの梨緒子の問いに、秀平は大きなため息を一つついた。
呼吸をすることさえためらわれるような無音の世界に、二人は包み込まれていく。
やがて秀平は、そっと梨緒子に頭を下げた。
「もう、しません――――ごめんなさい」
それは、まるで小さな子供のような謝罪だった。
梨緒子は目を瞠った。
秀平が、素直に頭を下げたことに驚き、思わず涙も引っ込んでしまう。
「一緒に花火、するから」
「……いまさら、そんな」
どうにも素直になれない。
「……だって秀平くん、花火、嫌いなんでしょ?」
「俺、落下傘は好きなんだ」
「……そんなこと、知らない」
「あとで、ちゃんと『ぎゅう』ってするから――ほら、機嫌直して」
軽く肩を叩き、秀平は梨緒子の耳元でそうささやいた。
秀平は照れ隠しのためか、梨緒子の荷物を奪うようにして持ち右肩にかけると、梨緒子に背を向けて、別荘までの道のりを、再びゆっくりと戻り始めた。
【私は秀平くんが側にいて、ぎゅーってしてくれると、幸せだよ】
本当に本当に、この不器用な彼氏は――。
彼は黙って先を歩きながら、空いた左手を後方へ差し出している。
結局、彼にはかなわないのだ――梨緒子は観念し、秀平の手に自分の手を重ねた。
すると。
秀平は無言のまま、しっかりとお互いの手と手を繋ぎ合わせた。
二度と離れてしまわぬように――。