Lesson 3  恋星は煌く (6)

 別荘へと戻ってから、二人は揃って遅い昼食をとることにした。
 すでに午後三時をまわっている。このままで行けば、夕食兼用となりそうである。
 メニューは素麺と、冷やしトマトのサラダと、海老の天麩羅だ。

 二つあるガスコンロに、素麺をゆでる鍋と、サラダ油を入れた深型のフライパンを、それぞれかける。
 梨緒子は素麺を、秀平は天麩羅を担当し、二人は並んで調理を始めた。
 梨緒子の腕のすぐ側には、Tシャツの袖からのぞく引き締まった秀平の腕がある。
 筋肉のつき方が自分とは違う――もう、何度も見ているはずなのに、梨緒子は秀平のしなやかな腕に見惚れてしまった。

 秀平は相変わらず口数が少なかった。
 それでも、どんなときでも彼女の『一番』の存在でありたいという、そんな彼のこだわりが満たされたからであろう。
 梨緒子に対する彼の態度は、とても優しいものへと変化した。



 夜になり、二人は別荘の外へと出た。
 あいにくの曇り空である。星は雲間からわずかに確認できる程度だ。
「天体観測は明日にしよう。晴れるといいけど。今夜は花火だけ」
「はーい」
 秀平は水の入ったバケツを用意し、玄関先のコンクリートの上にそれを置いた。花火用の大きなロウソクに点火用ライターで火をつけ、そのまま数段ある玄関への段差に戻って腰を下ろしてしまう。
 ロウソクの脇に、花火と梨緒子だけが残された状態だ。
 どうしてよいか分からずに、梨緒子はほのかな灯りの中で首を傾げた。
「俺見てるから、好きなだけやって」
「一緒にやるって言ってたでしょ?」
「落下傘だけ。ちゃんとここで、梨緒子のこと見てるから」
 それにしても随分と距離がある。五、六メートルはあるだろう。
「……まあ、いいけど。どうしてこういう普通の花火は駄目なの?」
「網膜に光の残像が焼きつくのが、幼稚園の頃から苦手なんだ」
「そうなんだ……」
 この分だと、この先二人で浴衣を着て花火大会見物デートなど、夢のまた夢の話になりそうだ。
 秀平の説明はさらに続く。
「光の出ないやつは、大丈夫。落下傘とか、ヘビ玉とか」
「ヘビ玉って、黒いのがしゅるしゅる伸びていくだけの地味なやつでしょ?」
「そう。中学校の野外教室でキャンプやったときも、一人でヘビ玉やってた。ああ、一人じゃなかったな……理科の先生と、ヘビ玉の仕組みについて議論してたんだ、そういえば」
「……いったい、どんな中学生? それ」
 そう言いつつも、何となく想像できてしまう。
「落下傘はさ、夏にここへ来るたび兄貴とやってたんだ」
「優作先生と? それで?」
「兄貴とさ、その日の湿度とか風向きとか風速とかで、落下傘がどこへ落ちるかを予測するんだ。そして実際に花火を打ち上げて、より落下傘が予想場所の近くに落ちたほうが勝ち――って」
「……純粋に「落下傘だー」って追っかけたりしないんだ?」
 頭脳明晰で誉れ高い永瀬兄弟の子供時代は、やはり普通とは違うようだ。
 これでは一緒に花火を楽しむことは、一生期待できそうにない。
 それでも。
 秀平がこうやって自分の過去の話を語ってくれることが、梨緒子はとても嬉しかった。



 梨緒子は明日の朝食の準備をするためキッチンへ、その間に秀平は先にシャワーを浴びたいと洗面所と浴室へ、それぞれ向かった。
 やることはたくさんある。
 冷蔵庫につっこんだままの食材の整理や、簡単な下ごしらえをするだけで、かなりの時間がかかってしまった。
 お米を研ぎながら、梨緒子はふと空想をめぐらせる。

 ――もし、結婚とかしたら、こんな感じなのかな。

 ちょうどその時である。
「梨緒子。水かお茶、欲しいんだけど」
 お風呂上がりの秀平が、頭からバスタオルをかぶり、パジャマ姿でキッチンへとやってきた。
 このような姿を何度か見たことがあるとはいえ、いまだ慣れることはない。
 梨緒子は緊張のあまり、不自然な笑顔になってしまった。
「冷たいの、だよね。アイスティーでもいい?」
「甘い?」
「甘くないよ」
「じゃあそれでいい。部屋まで持ってきて」
 秀平はそれだけ言うと、早々にキッチンを出て行ってしまった。

 ――うわー、いまのって、完全それっぽいかも。ドキドキ。

 キッチンでの作業を終え、梨緒子はアイスティーのグラスを持って、秀平のいる部屋まで行った。
 彼は再び机に向かって、ノートパソコンでレポートを作成していた。
 梨緒子は作業の邪魔にならないように、脇からそっと近寄り、机の右端にコースターとグラスを置く。
「はい、どうぞ」
「うん」
「今日は、ここにいてもいいの?」
 昼間ケンカをして別荘を飛び出し、そして連れ戻されたときに、梨緒子の荷物は秀平の手の中にあった。その荷物は、そのまま秀平の部屋へと運ばれて、いまもすぐそこのベッドの上に置かれている。
「レポートを今日中に片付けてしまいたいから、先に寝ててもいいよ」
 分かりにくい言葉だったが、先に寝てもいいということは、つまり同じ部屋でOKということなのだろう。
「じゃあ私、お風呂に行ってくるね」
「うん」
 梨緒子は、レポート作りに熱中する秀平を、そっとしておくことにした。


 梨緒子はお風呂から戻ってから、パジャマ姿のままベッドに横たわり、ゆるゆると過ごしていた。
 やはり秀平はあっさりしている。自分から迫ってくるようなことはない。
 よくよく思い返してみると、秀平は自分から行動を起こしたことがほとんどないのである。
 一旦その気になれば真っ直ぐに愛情行動に励むが、波が引いてしまうとクールダウンしてしまう。
 二度目のときでさえ、珍しく自分から行動を起こし誘ってきたかと思えば、そこへ至るまでがおそろしく長かった。

 梨緒子は暇を持て余し、いまだレポート作りに没頭しノートパソコンを操作している秀平の背中に向かって話し掛けた。
「秀平くんは、そういう気分になること……ないの?」
「そういう気分って?」
 ディスプレイから目を離すことなく、秀平は梨緒子に背を向けたまま、淡々と答える。
 レポートの文章をまとめながらも、耳だけは梨緒子のほうへ向ける気になったようだ。
 優秀な彼は、二つのことを同時にこなすことが簡単にできるのである。
「女の子とね、二人っきりになって……いつもと違う感じになったりしないのかな、って」
「その『女の子』って、一般的に言うところの『異性』ってこと?」
「まあ、そう」
 秀平の真面目すぎる反応に、梨緒子は脱力感のようなものを覚えてしまった。
 とりあえず、彼の返答を待ってみる。
 すると。
「そういう気分になることはまずない。99パーセントありえない」
「……100、じゃないんだ?」
「そういう気分になることもある『残りの1パーセント』は、唯一身に覚えがある人間が知っているはずだけど」
 秀平はその、身に覚えがある人間の存在を確認するように、一瞬だけ背後のベッドの上を振り返った。 
「だいぶ前のことだから、もう忘れちゃったもん。ずーっと放って置かれてるから」
「俺は詳細に覚えてるよ。梨緒子の表情も、声も、感触も――全部覚えてる」
 単調なキーを打つ音だけが薄暗い室内に響く。
 クーラーがきいていて、心地よい。
 そして、秀平の言葉も何もかもが、心地よい――。


「梨緒子、ちょっとそっち寄って」
 眠りに落ちかけていた梨緒子がその呼び声に気づき目を開けると、ベッドの端に秀平が立っているのが見えた。
 秀平は横たわる梨緒子をじっと見下ろしている。
 梨緒子は言われるがままに、壁側へと身体をずらしてスペースを空ける。
 秀平は掛け布団をめくり、その空いた場所に身体を滑らせるようにして横たわった。
「終わったの?」
「うん。ちょっと疲れてるから、今日はこのまま眠らせて」
 それだけを言うと、秀平は梨緒子の隣で、行儀よく仰向けになり、部屋の照明をオフにした。

 暗闇と静寂が二人を包んでいく。

 ここはツインルームなのだから、疲れて何もする気がないのであれば、もう一つのベッドで眠ればいいものを――狭いのを承知で梨緒子のベッドで眠ろうとしている秀平が、とても愛しく感じられた。
 梨緒子はそっと秀平の左手を探り、そこに自分の右手を重ねた。
 すると。
 秀平はまだ眠りに落ちていなかったのか、その手を握り返してきた。
「……私ね、金魚なの。いつも一人ぼっちで、金魚鉢の中から飼い主の背中を眺めてる」
「何それ」
 暗闇の中、ベッドの中で二人の会話が続く。
「こっち見て欲しくて金魚は水の上をぴょんぴょん跳ねて、そのうち勢い余って金魚鉢の外へ出ちゃうの」
 返事がない。
 その代わりに、繋いだ手をもう一度、握り返してくる。
 梨緒子はさらに続けた。
「苦しいんだよ。息も出来なくて、早く水の中に戻して欲しいって思うのに、飼い主はね、苦しがってるのを黙って見てるの」
「……飼い主って、俺のこと?」
「苦しくて苦しくてどうにもならなくなったときに、ようやく摘み上げられて、結局金魚鉢の中に戻されちゃうの」
 いつも一匹だけの、寂しい金魚。
 飼い主のことが大好きな、寂しい小さな金魚。
「でも、例えこっちを向いていてくれなくても、秀平くんの金魚鉢の中にいられるだけで、私は幸せ」
 梨緒子が喋るのを止めると、部屋の中に再び静寂が訪れた。
 今度こそ、彼は眠りに落ちたのだろう。暗闇に彼の返答はなかった。


 どのくらい時間が経った頃だろう。
 梨緒子は、ベッドのスプリングが大きく揺れる衝撃を感じた。
 秀平がそれまで繋いでいた手を放し、梨緒子のほうへ向くように寝返りを打ったためである。
「やっぱり眠るの止めた」
「……え?」
「俺も、金魚になる」
 梨緒子は、秀平の言っていることがすぐに理解できなかった。
 暗闇の中、唖然としながらも、彼の挙動を慎重に見守る。
「いまから金魚になって、寂しがりやの金魚と一緒に泳ぐ――」
 隣に横たわっていた秀平の身体はゆっくりと動き、徐々にその体勢を変えていく。梨緒子の頭と枕の間に彼の左手が差し込まれ、後頭部がしっかりと包み込まれた。
 半分折り重なるようにしながら、しかし全体重をかけまいと肘や膝で上手く支える。
 彼の右手は、梨緒子を抱きすくめるようにして、背中の下へと差し入れられる。
 梨緒子もそれを受け入れようと、わずかに背中を持ち上げた。より身体が密着する。
 秀平の透き通った焦げ茶色の瞳が、すぐそこにある。彼のまぶたがゆっくりと閉じていくのに合わせて、梨緒子も目を瞑った。

 それを合図に、秀平の唇が梨緒子の唇に、静かに重ねられた。

 厳かな儀式のように、重く、長く、そしてどこまでも深く、優しいキス。
 お互いの呼吸やシーツの布ずれの音だけが、室内に響いている。
 ここには二人だけしかいない。
 身に受ける重みが、あまりにも心地いい。
 梨緒子は『量』より『質』のキスを受けながら、秀平の背中に回していた両腕を、もどかしげに泳がせた。
 彼を、感じる――。
 二人は抱き締め合って、お互いの温もりを感じなから、九ヶ月間の空白を埋めていった。

 わずかに唇が離れ、二匹の金魚は息継ぎするために水面に顔を出した。
「ずっとね、こうして欲しかったの」
「俺も――こうしたかった気がする」
 息継ぎを終えた金魚たちは、再び水の中へと戻っていく。

 梨緒子は彼の存在感と愛情を、その身にしっかりと受け止めた。