Lesson 4  恋敵の憂愁 (3)

「どうしたんだよ安藤? 見とれてないで早く座れよ」
 洋輔は立ちすくむ友人の腕を引っ張り、空いている席に半ば強引に座らせた。

 目の前にいるのは、紛れもない、梨緒子の元彼でもある安藤類だ。
 高校時代同級生だった二人も、卒業を境に疎遠になりつつあった。メールのやり取りはしているものの、美月のように週イチで会って遊ぶような関係ではなくなっている。
 今回の遭遇も、実に二ヶ月ぶりのことだった。それでも、彼氏の秀平よりも会う頻度は高いのだが――。

「二人とも、いま彼氏いないんだって」
 梨緒子が事情を説明するより先に、歌川洋輔という男は類にそう説明をした。
 当然、類の表情は訝しげだ。その違和感とこの状況を照らし合わせて、いろいろなことを思い巡らせているらしい。
 一方、野乃香は完全に心を奪われている。
「初めましてー、沢口野乃香です。ほら、江波ちゃんも挨拶して」
「ええと………………は、初めまして」
 梨緒子は思案した挙句、やっとの思いで言葉をしぼり出した。
 わずかに沈黙が流れる。
 人一倍空気の流れを読み、雰囲気を明るくしようといつも努めるはずの類が、笑顔も見せずに黙っている。
「そんな緊張しなくてもいいって。せっかくだし、楽しく盛り上がろう。なあ、安藤?」
 余計なことを詮索するのは得策ではないと思ったのか、やがて類は梨緒子に向かって「どうも、ハジめまして」とひと言だけ喋り、そのままメニューの冊子を開いて飲み物を選び始めた。


 注文した飲み物が運ばれて、何事もなかったかのように乾杯し、『忘年会』という名の合コンが始まった。
 梨緒子を除く三人はアルコールの入ったドリンクだ。梨緒子も軽く勧められたが、そこまで妥協はできず、ウーロン茶にした。
「安藤くんって、洋輔と同じ大学なんだよね?」
「ああ。理学部の化学科専攻だよ」
 野乃香がこの場の話題の主導権を握っている。
 梨緒子は初対面の人間に積極的に話し掛けていくことが得意ではないため、すべて野乃香に任せて聞き役に徹することにした。
「高校はどこ? うちらは北高で一緒。クラスは違うんだけど、部活が一緒だったんだ」
 梨緒子の心臓が高鳴った。
 この話の流れは当然とはいえ――マズい。
 そんな梨緒子の不安をよそに、類は野乃香の質問に淡々と答えた。
「俺は、東高出身だけど」
「え? じゃあ、江波ちゃんと同じじゃん!? ひょっとして知ってたりする?」

 ――不安、的中。

 やはり、野乃香に食いつかれてしまった。
「安藤くんくらいカッコいい子だったら、きっと目立ってたでしょ?」
「え、え、えっとね……」
 なんと返事をしたらいいか梨緒子が迷っていると、すかさず類が、それまで封印していた持ち前のノリの良さを出してみせた。
「上手いねー、野乃香ちゃん。そんなおだてちゃって、何欲しいのー?」
「えー? ねだったら、くれちゃったりするの?」
「なんか欲しいものあるの?」
「優しい彼氏とか?」
「あー、俺、洋輔より優しくねーからなー。残念」
「洋輔の場合ね、優しいっていうより、男くさくないっていうか、体育会系のノリ皆無なだけ。吹奏楽部でトランペット吹いてたの、コイツ。あたしはねー、あ、せっかくだから当ててみて?」
 野乃香は既に酔いが回っているらしい。いつも以上によく喋っている。
 類が一瞬だけ、梨緒子に目配せをした。
 そしてまたすぐに、野乃香のお喋りに付き合い出す。
 その空気で。
 類が自分のために、わざと話題をそらしてくれたのだ――と、梨緒子は気がついた。


 他愛もない話が、延々続いていく。
 しばらくしてお酒もすすんでくると、勉強、部活、サークル、バイトの話から、恋愛の話へと話題が変化し始めた。
 梨緒子は一人しらふのまま、ひたすら流れに身を任せていた。
「類くんって、いままで何人と付き合ったの?」
「一人」
 類は即答してみせた。
 梨緒子は窺うようにして類を見つめていた。しかし、まったく視線を向けてこようとはしない。
「ふーん。いつ頃? どれくらい続いたの?」
「野乃、お前根掘り葉掘り聞きすぎだよ」
 洋輔の牽制に、野乃香は悪びれずに肩をすくめてみせる。
 それを、類はまあまあ、と調子よく仲裁した。
「いや、別に隠すことじゃないし。高三のとき、一ヵ月半くらい……だったかな」
 梨緒子の胸に、何かが重く圧し掛かってくる。
 類の言うことは、他の誰よりも自分がよく知っている。
「えー? じゃあ、大学に入ってまだ誰とも付き合ってないの? もったいないー。ねえ、江波ちゃんもそう思わない?」
「そう、だね……もったいないよね」
 野乃香に同意を求められ、梨緒子はようやく口を開いた。
 緊張のあまり、気のきいた言葉が何一つ出てこない。
 そんな梨緒子の気持ちなどお構いなしに、今度は洋輔が補足するように説明した。
「こいつさ、初めて付き合った彼女のこと、今でも忘れられないんだって。だからさ、告白とかけっこうされんのに、断ってばかりでさ、かなり男たちに疎まれてるんだよ」
「疎まれてるかー? ハハ、そりゃ気づかなかったわ」
 初めて付き合った彼女。
 知ってる、その子。
 今でも忘れられないから、告白されても――――ああ。
「すごーい。類くんって、そんなに彼女のこと好きなんだー」
「もう昔の話だよ。忘れられないなんてそんな、みんな大袈裟に言ってるだけだって」
 ようやく類は、梨緒子に意味ありげな視線を送った。

 その時である。
 テーブルの上に出してあった梨緒子の携帯の受信ランプが灯った。ディスプレイには、送ってきた相手の名前が表示されている。
 類は黙ったままじっと、梨緒子の携帯に視線を落としている。
 梨緒子は慌てて携帯を掴み、カバンの中へと突っ込んだ。
 その様子を見ていた野乃香は、不思議そうに梨緒子に尋ねた。
「江波ちゃん、返事しなくていいの?」
「あ、いいの。たいした用事じゃないから、気にしないで!」
 類がカルピスサワーをあおるようにして飲み干した。すかさず次の飲み物を注文すべく、メニューの冊子を手に取って、選び始める。
 梨緒子はいたたまれなくなって、カバンを持って席を立った。
「ごめん、ちょっとトイレに行ってくる」
 すると。
「あ、俺も我慢してたんだった。野乃香ちゃん、ジン・トニック頼んでおいてもらえる?」
「了解ー」

 ――とうとう、来た。

 この先の展開は、容易に想像がついた。
 類はあくまで偶然を装った距離を保って、梨緒子のあとを追うようにしてついてくる。
 店内の奥へと進み、角を曲がって客席の死角となるところまでやってくると、梨緒子は類におもむろに腕を掴まれ、強引に引き止められた。
 梨緒子が振り返ると、完全問い詰めモードに入った元彼の黒い瞳が、静かな炎を燃やしているのが見えた。
「……おい」
「る、ルイくん。あのね」
「いったいどういうことなんだよ、リオ?」
 梨緒子は勢いに押され、後ずさった。すぐに壁に背中がぶつかってしまう。
 完全に、退路を断たれてしまった。
「あいつと別れたのか?」
「ううん……」
「だよな。そうじゃなかったら、メールなんか寄越すわけないよな。じゃあ、どうしてこんなことやってんだよ?」
 やはり、先ほどのメールの送り主を、類は見逃していなかったらしい。
 梨緒子はもう、類の顔を直視できなかった。肩を震わせ、うつむき加減に顔をそらしてしまう。
「知らなかったの! まさか合コンなんて思ってなかったし」
 梨緒子は悔いるように何度も、首を横に振った。
 しかし、類の詰問はさらに続く。
「だったら、なんで彼氏いないとか嘘つく必要あんだよ?」
「それは……野乃香ちゃんの手前もあって」
 痛いところを突かれてしまった。
 確かに、嘘をついたことを野乃香に注意することができずに、その場の雰囲気に流されるままになってしまったのは――自分自身の責任だ。
「そんなんでよ、洋輔に告られたらどうするんだよ?」
「大丈夫だよ。もし、仮に、そんなことになったら、ちゃんと断るから」
「ちゃんと、じゃねーよ。洋輔の気持ちをもてあそぶようなことすんなよ」
「もてあそぶって……そんな」
「変に気ぃ、持たせるなってこと。永瀬と別れんのか? だったら、俺がとやかく言うことじゃねーけど」
 秀平と別れるなんて、そんなことは絶対にありえない。
 梨緒子のすべては、秀平のものである。
 しかし、それはあくまで梨緒子から見た場合であって、もし秀平に嫌われて彼に別れを言い渡されてしまったら――。

 そう。

 秀平に嫌われるようなことを、してしまったら。
 秀平を裏切ってしまうようなことを、してしまったら。

 いま自分は、してしまっている。現在進行形で。

 どんどん曇っていく梨緒子の表情を見て、類は幾分声を和らげた。
「あいつはどうしてるんだ? 大学だってもう休みだろ?」
「忙しいから、冬休みは帰れないって」
 梨緒子は素直に答えた。
 すると。
 類は『理解不能』の四文字をハッキリと顔に浮かべた。
「は? いくらなんでも正月くらい帰るだろ、普通はよ? 地元に彼女残してんのに帰れないって、どういう神経してんだよ。あーあ、馬ッ鹿じゃねーの。だから俺は言ったんだ」
「馬鹿って……そんな」
 秀平の弁護をしようと口を開きかけたが、思い止まった。
 この状況では、火に油を注いでしまうだけである。
「帰るぞ」
「ええ?」
 梨緒子は類に腕を掴まれたまま、半ば引きずられるようにして、野乃香と洋輔の待つテーブルへと戻ってきた。
「俺たち抜けるわ。悪いな」
「え? え? どういうこと?」
「こいつ、彼氏持ち。俺の『親友』とつきあってんだよ。俺ら、実は知り合いなんだわ」
 類は自分の財布からお札を抜き取ると、二人分プラス迷惑料を上乗せして、テーブルの上に置いた。
 すぐ側に、類が注文したジン・トニックが、手付かずのまま残されている。類は惜しそうに、グラスの縁を指でなぞった。
「また別の機会に、あらためて飲もうぜ? 野乃香ちゃん、今度新年会ヨロシク」
 類はコートを羽織ると、ぐずぐずしている梨緒子のコートとカバンを取り上げて、一人先に店の外へと出て行ってしまった。


 今にも雪が降り出しそうなほど、外は空気が冷たかった。
 梨緒子は店の外で待っていた類からあわててコートを取り返すと、それをすぐに羽織った。
 吐く息が白い。この調子でいけば、明日はホワイトクリスマスとなるだろう。
 梨緒子に、ロマンティックなクリスマスは関係ないのだが――。
「じゃ……私、帰るね」
 梨緒子はカバンを返してもらおうと、類に右手を差し出した。
 しかし。
 類はいっこうに返す素振りをみせない。
「カバン、返して?」
「駄目、返さない。リオも、帰さない」

 知らない男との飲み会から、梨緒子を救い出したのではない。
 それはあくまで、類の口実に過ぎなかったことに、梨緒子はいまさらながらに気づいてしまった。