Lesson 4 恋敵の憂愁 (4)
「か、帰さないって、そんなこと言われても困るんだけど?」
困ったことになった。
いま、主導権はこの『元彼』のほうにある。
弱みを握られていることを抜きにしても、梨緒子は類に対して、どうも強く出ることができなかった。
「まだ六時半だ。どうせこのあと時間は空いてんだろ? もともと飲み会の予定だったんだしさ」
「そりゃ、空いてるけど……でも」
帰りたい。
しかし梨緒子のカバンは、しっかりと類の肩に掛けられてしまっている。
「話、全部聞かせてもらうから」
「全部って……」
当然それは、秀平との関係のことだろう。
しかし、いくら類と梨緒子が仲のよい友人関係にあるとはいえ、秀平の話題は『鬼門』である。
「どこに行くの?」
「二人っきりで、静かに過ごせるところ――」
梨緒子の耳元で、類の低い声がささやく。いつもよりゆっくりとしたその口調が、只ならぬ雰囲気をかもし出している。
まずい――梨緒子はごくりと唾を飲み込んだ。
秀平と付き合いだしてから、類と二人きりになったことはなかった。もちろん気まずさもあったためなのだが、やはり親友の美月が目を光らせ間に入り、うまくバランスをとってくれていたのである。
梨緒子は一抹の望みを賭けて、いままでいた居酒屋の扉を振り返った。しかし、人の出てくる気配はない。
やはり、短大の友人である野乃香には、類と梨緒子の複雑な事情が飲み込めていない。そのため、飲み会を切り上げて無理矢理ついてきてくれる――はずもないのである。
梨緒子は困り果て、ひとつ大きなため息をついた。白い息が空へゆっくり立ち上り、やがて消えていく。
「ルイくんあのね、両方は……駄目」
「両方って?」
類は首を傾げている。梨緒子の言葉の意味するものを、どうやら図りかねているようだ。
しかし。
どうしても誘いを受け入れられない理由が、梨緒子にはあるのである。
例えそれが、純粋な友情からくるものであったとしても――ただ、類と梨緒子の間には、友情では割り切れないものが確かに存在している。
梨緒子は心を決め、正面に立つ類の顔を見上げると、その両瞳を真っ直ぐに見つめた。
「二人っきりがいいなら、人がたくさんいる賑やかなところにして。静かな場所がいいなら、いまから美月ちゃんをここに呼んで三人にして」
類は黙った。
梨緒子は、元彼にさらに問う。
「どちらかを、選んで欲しいの」
「俺のこと、信用できない?」
「信用するとかしないとか、そんなんじゃないから」
「ハッ、分かってるよ。永瀬への義理立てだろ?」
類は可笑しくなさそうに笑った。
二人を取り巻く雰囲気はいまだ重い。それでも、とりあえず類が理解を示してくれたことで、梨緒子の心は少し軽くなった。
「じゃあさ、遊園地に行こう、二人で」
「遊園地?」
ようやく、元彼が梨緒子に笑顔を見せた。
「駅裏のショッピングモールのところにできたアレ。俺、まだ行ったことないんだ。リオは?」
「私もない」
類の言う『アレ』とは、今春オープンしたアミューズメント・パークである。
立地が郊外型ではないため、大きなアトラクションは、メリーゴーランドと観覧車くらいだ。むしろ併設されている屋内の遊技施設が充実しており、小さな遊園地と言うより、巨大なゲームセンターと言ったほうが近い。
確かに遊園地なら、賑やかという条件に合致する。
今日は祝日で、クリスマス・イブの前日である。そして午後六時半過ぎという時間帯、まだたくさんの人がいるだろう。
梨緒子は、類の提案を了承した。
現在地からは歩いて十五分ほどである。
二人はゆっくりと、目的地に向かって付かず離れずの距離を保って歩き始めた。
「今度あいつと行けば? 今日はその下見、ということでさ」
「たぶん秀平くんは行かないと思うけど……」
「なんで?」
「遊園地も映画館もショッピングも駄目だから、そういうデートっぽいことしたことないし――そもそも一緒にいる時間もないんだけど」
梨緒子は諦めたように、大きくため息をひとつついた。
程なくして、二人は目的地のアミューズメント・パークへとやってきた。
梨緒子の予想通り、敷地内はたくさんの人であふれていた。
クリスマス仕様のイルミネーションが、ロマンティックな雰囲気を漂わせており、愛を語らうカップルたちが、煌めく光の下で寄り添っている。
「あれ乗りたい! すっげー見晴らしよさそうじゃね? ほら早くしろってリオ」
「ええ?」
梨緒子の返事を待たずに、類は観覧車のチケットを二人分購入すると、梨緒子のカバンを人質にしたまま一人、搭乗ゲートの中へと進んでいく。
「きれいな夜景見ないと損するぞー?」
「んもう……」
カバンの中には、財布も携帯電話も、そして秀平からもらったお守りの鍵も入っている。
梨緒子は子供のようにはしゃぐ元彼の背中を追うようにして、観覧車の搭乗ゲートをくぐった。
二人が観覧車のゴンドラに乗り込むと、徐々に上昇を始めた。
夜の空中散歩である。
類と梨緒子は対角線に向かい合うようにして腰掛けて、しばらく黙って街の灯りを眺めていた。
その時――。
突然、ゴンドラが不自然に揺れ始めるのを梨緒子は感じた。
地上の風は強くなかったはずなのに――梨緒子は思わず座席にしがみついた。
すると。
「ハハッ、怖いかー?」
揺れは風のせいではなく、人為的なものだったらしい。揺らした張本人は、怖がる梨緒子の様子を見て無邪気に笑っている。
「ルイくん! 危ないから揺らさないでよーっ!!」
その言葉を待っていたかのように、類が動いた。
類は、それまで座っていた向かい側の席から、梨緒子の隣へと移動してきた。
「こうすれば、大丈夫」
梨緒子は強引に肩を抱かれ、そのままゴンドラの壁面に身体を押し付けられて――気づいたときには、身動きを完全に封じられてしまっていた。
熱い――とても。
「は、放して……お願いだから」
放してくれたとしても、何の効果もないのは分かっている。
ここは観覧車。地上からは既に、はるか遠ざかってしまっている。
完全な二人きりの密室だ。
「ルイくん……酔ってるの?」
「誤魔化すなよ」
先ほどまで、類がいつも通り陽気にはしゃいでいる姿を見て、つい気を許してしまったことを、梨緒子は激しく悔やんだ。
この感覚は、初めてではない。類にはこうやって抱きしめられたことがあった。
彼の情熱と愛情にほだされて付き合うことを決めた過ぎ去りし日々が、ふと梨緒子の脳裏によみがえる。
「幸せなんだって、寂しくなんかないって、毎日満たされてるって、リオが俺を納得させるまで、絶対に放さない」
幸せ、だもん。
寂しくなんかない、もん。
毎日、満たされてる……もん。
「答えろよ。ちゃんと俺の目を見て言え」
声が出ない。
偽りの声は、この男には届かない。
梨緒子はもう堪えられなくなり、両目から大粒の涙を溢れさせた。
「……そうだよ。寂しいよ? 毎日満たされているとは言えないよ?」
類はじっと、梨緒子の頬に伝う光の筋を見つめている。
もう、何度目か分からない。
類の優しさに甘え、梨緒子はこうして涙を見せてしまう。
「でもね、それは私たちが選んだ道なんだもん、我慢しなくちゃいけないの」
「なんでリオが我慢する必要あんだよ?」
類は片手でしっかりと梨緒子を抱き締めたまま、もう片方の手の親指で、梨緒子の頬に伝う涙をそっと拭った。
「俺はリオにこんな思いさせるために、別れたわけじゃねーんだぞ?」
分かっている。
梨緒子が幸せならそれでいいと、類は手放してくれたのである。
その後何事もなかったかのように、いつも明るく振る舞っていた類が、誰よりも辛い思いをしたはずだった。
「俺なら絶対、リオを寂しがらせたりしないのに」
「ルイくん、駄目」
類は梨緒子を更なる力を込めて抱き締めた。
慌てて身体をよじり束縛を解こうともがくも、思うようにいかない。
「俺のこと嫌い?」
「嫌いじゃない……けど、でも」
「嫌いになってもいい。むしろ嫌われたほうがあきらめもつく」
「ルイくんの、ことは……嫌いになんか、なれ、ない」
「好きにもならないくせにか?」
梨緒子は抵抗を止めた。
「何で抵抗しないんだよ……するぞ、ホントに?」
「しないよ。ルイくんは、できない」
長い沈黙が、二人の間に流れた。
お互いの吐息が感じられる至近距離で、二人は抱き合ったまま見つめ合う。
刹那――。
類の唇が、梨緒子の唇をとらえた。
瞬間の出来事だった。
梨緒子は全身の血が一気に逆流していくような感覚に陥った。
「ほ、ほ、ホントにした……」
「挑発されたら怯んで、しないと思ったか? ハッ、こんなのキスのうちに入るかよ。もっと濃ゆーいの、あいつとしてんだろ?」
「……」
肯定も、否定もできない。
しかし、決して『濃さ』の問題ではない。
類は尚も梨緒子を抱き締めたまま、耳元で囁いた。
「恨むんなら、永瀬を恨めよ。彼女を放っておく罰だ」
「罰って何? 私の、私の気持ちはどうだっていいの!?」
「じゃあちゃんと、毎日幸せですって、満たされてますって、言ってくれよ。そうじゃなかったら俺、安心して次、見つけらんないだろ」
その時である。
観覧車のゴンドラ内に、携帯の着信音が鳴り響いた。
それは、向かい側の席に投げ出してあった梨緒子のカバンから聞こえてくる。
「永瀬からなんじゃないのか?」
「いいの別に。大したメールじゃないし――」
しかし、着信音がいつまでも続いている。
「メールじゃなくて電話だろ? 出ろよ」
そう言うと類は、ようやく梨緒子の身体を放した。
梨緒子はようやく自由になり、自分のカバンを手元に引き寄せた。
鳴り続ける携帯を取り出すと、ディスプレイには確かに『永瀬秀平』と表示されている。
気が重い。
例えようもないほどの後ろめたさが、梨緒子の胸を苦しめる。
梨緒子は両目を瞑り、通話ボタンを押した。
最愛の彼氏の声が、梨緒子の耳に届く。
『いま着いたけど』
秀平は相変わらず、言葉足らずである。
梨緒子はいまいち状況が飲み込めず、素直に秀平に聞き返した。
「…………どこに?」
『どこにって、札幌発つ前にメールしたはずだけど、見てないの?』
その秀平の言葉に、梨緒子は唖然となった。
――メール? って、あの時の!?
飲み会の最中に、確かに秀平からメールがあったことを、梨緒子は思い出した。
秀平は普段から「生存報告」と称して、夕食の写メールを送ってくるという習慣がある。基本的に返信不要のため、夕方のメールはすぐに確認しないことが多い。
そのため、今日のメールも確認していなかったのである。確認できる状況でもなかったのであるが――。
「えっ……ち、ちょっとまって! 秀平くん、いまどこにいるの?」
『空港。次の便で帰るから、そっちまで行く余裕がないんだ。だから、梨緒子のほうから来てもらえると助かるんだけど』
「次の便って、何時!?」
『八時二十分』
現在時刻七時半。空港まではタクシーを飛ばしても三十分はかかる。搭乗手続きの時間を考慮しても、残りはせいぜい十分程度だろう。
「そうやって、いつもいつも突然――」
言いたいことは山ほどある。
しかし、いまそれをぶつけている余裕はない。
「とにかく今すぐ向かうから、待ってて!」
『うん――暗いから、気をつけて』
通話を切ると、観覧車は空中散歩を終えて、ようやく地上へと降りてきた。
困ったことになった。
いま、主導権はこの『元彼』のほうにある。
弱みを握られていることを抜きにしても、梨緒子は類に対して、どうも強く出ることができなかった。
「まだ六時半だ。どうせこのあと時間は空いてんだろ? もともと飲み会の予定だったんだしさ」
「そりゃ、空いてるけど……でも」
帰りたい。
しかし梨緒子のカバンは、しっかりと類の肩に掛けられてしまっている。
「話、全部聞かせてもらうから」
「全部って……」
当然それは、秀平との関係のことだろう。
しかし、いくら類と梨緒子が仲のよい友人関係にあるとはいえ、秀平の話題は『鬼門』である。
「どこに行くの?」
「二人っきりで、静かに過ごせるところ――」
梨緒子の耳元で、類の低い声がささやく。いつもよりゆっくりとしたその口調が、只ならぬ雰囲気をかもし出している。
まずい――梨緒子はごくりと唾を飲み込んだ。
秀平と付き合いだしてから、類と二人きりになったことはなかった。もちろん気まずさもあったためなのだが、やはり親友の美月が目を光らせ間に入り、うまくバランスをとってくれていたのである。
梨緒子は一抹の望みを賭けて、いままでいた居酒屋の扉を振り返った。しかし、人の出てくる気配はない。
やはり、短大の友人である野乃香には、類と梨緒子の複雑な事情が飲み込めていない。そのため、飲み会を切り上げて無理矢理ついてきてくれる――はずもないのである。
梨緒子は困り果て、ひとつ大きなため息をついた。白い息が空へゆっくり立ち上り、やがて消えていく。
「ルイくんあのね、両方は……駄目」
「両方って?」
類は首を傾げている。梨緒子の言葉の意味するものを、どうやら図りかねているようだ。
しかし。
どうしても誘いを受け入れられない理由が、梨緒子にはあるのである。
例えそれが、純粋な友情からくるものであったとしても――ただ、類と梨緒子の間には、友情では割り切れないものが確かに存在している。
梨緒子は心を決め、正面に立つ類の顔を見上げると、その両瞳を真っ直ぐに見つめた。
「二人っきりがいいなら、人がたくさんいる賑やかなところにして。静かな場所がいいなら、いまから美月ちゃんをここに呼んで三人にして」
類は黙った。
梨緒子は、元彼にさらに問う。
「どちらかを、選んで欲しいの」
「俺のこと、信用できない?」
「信用するとかしないとか、そんなんじゃないから」
「ハッ、分かってるよ。永瀬への義理立てだろ?」
類は可笑しくなさそうに笑った。
二人を取り巻く雰囲気はいまだ重い。それでも、とりあえず類が理解を示してくれたことで、梨緒子の心は少し軽くなった。
「じゃあさ、遊園地に行こう、二人で」
「遊園地?」
ようやく、元彼が梨緒子に笑顔を見せた。
「駅裏のショッピングモールのところにできたアレ。俺、まだ行ったことないんだ。リオは?」
「私もない」
類の言う『アレ』とは、今春オープンしたアミューズメント・パークである。
立地が郊外型ではないため、大きなアトラクションは、メリーゴーランドと観覧車くらいだ。むしろ併設されている屋内の遊技施設が充実しており、小さな遊園地と言うより、巨大なゲームセンターと言ったほうが近い。
確かに遊園地なら、賑やかという条件に合致する。
今日は祝日で、クリスマス・イブの前日である。そして午後六時半過ぎという時間帯、まだたくさんの人がいるだろう。
梨緒子は、類の提案を了承した。
現在地からは歩いて十五分ほどである。
二人はゆっくりと、目的地に向かって付かず離れずの距離を保って歩き始めた。
「今度あいつと行けば? 今日はその下見、ということでさ」
「たぶん秀平くんは行かないと思うけど……」
「なんで?」
「遊園地も映画館もショッピングも駄目だから、そういうデートっぽいことしたことないし――そもそも一緒にいる時間もないんだけど」
梨緒子は諦めたように、大きくため息をひとつついた。
程なくして、二人は目的地のアミューズメント・パークへとやってきた。
梨緒子の予想通り、敷地内はたくさんの人であふれていた。
クリスマス仕様のイルミネーションが、ロマンティックな雰囲気を漂わせており、愛を語らうカップルたちが、煌めく光の下で寄り添っている。
「あれ乗りたい! すっげー見晴らしよさそうじゃね? ほら早くしろってリオ」
「ええ?」
梨緒子の返事を待たずに、類は観覧車のチケットを二人分購入すると、梨緒子のカバンを人質にしたまま一人、搭乗ゲートの中へと進んでいく。
「きれいな夜景見ないと損するぞー?」
「んもう……」
カバンの中には、財布も携帯電話も、そして秀平からもらったお守りの鍵も入っている。
梨緒子は子供のようにはしゃぐ元彼の背中を追うようにして、観覧車の搭乗ゲートをくぐった。
二人が観覧車のゴンドラに乗り込むと、徐々に上昇を始めた。
夜の空中散歩である。
類と梨緒子は対角線に向かい合うようにして腰掛けて、しばらく黙って街の灯りを眺めていた。
その時――。
突然、ゴンドラが不自然に揺れ始めるのを梨緒子は感じた。
地上の風は強くなかったはずなのに――梨緒子は思わず座席にしがみついた。
すると。
「ハハッ、怖いかー?」
揺れは風のせいではなく、人為的なものだったらしい。揺らした張本人は、怖がる梨緒子の様子を見て無邪気に笑っている。
「ルイくん! 危ないから揺らさないでよーっ!!」
その言葉を待っていたかのように、類が動いた。
類は、それまで座っていた向かい側の席から、梨緒子の隣へと移動してきた。
「こうすれば、大丈夫」
梨緒子は強引に肩を抱かれ、そのままゴンドラの壁面に身体を押し付けられて――気づいたときには、身動きを完全に封じられてしまっていた。
熱い――とても。
「は、放して……お願いだから」
放してくれたとしても、何の効果もないのは分かっている。
ここは観覧車。地上からは既に、はるか遠ざかってしまっている。
完全な二人きりの密室だ。
「ルイくん……酔ってるの?」
「誤魔化すなよ」
先ほどまで、類がいつも通り陽気にはしゃいでいる姿を見て、つい気を許してしまったことを、梨緒子は激しく悔やんだ。
この感覚は、初めてではない。類にはこうやって抱きしめられたことがあった。
彼の情熱と愛情にほだされて付き合うことを決めた過ぎ去りし日々が、ふと梨緒子の脳裏によみがえる。
「幸せなんだって、寂しくなんかないって、毎日満たされてるって、リオが俺を納得させるまで、絶対に放さない」
幸せ、だもん。
寂しくなんかない、もん。
毎日、満たされてる……もん。
「答えろよ。ちゃんと俺の目を見て言え」
声が出ない。
偽りの声は、この男には届かない。
梨緒子はもう堪えられなくなり、両目から大粒の涙を溢れさせた。
「……そうだよ。寂しいよ? 毎日満たされているとは言えないよ?」
類はじっと、梨緒子の頬に伝う光の筋を見つめている。
もう、何度目か分からない。
類の優しさに甘え、梨緒子はこうして涙を見せてしまう。
「でもね、それは私たちが選んだ道なんだもん、我慢しなくちゃいけないの」
「なんでリオが我慢する必要あんだよ?」
類は片手でしっかりと梨緒子を抱き締めたまま、もう片方の手の親指で、梨緒子の頬に伝う涙をそっと拭った。
「俺はリオにこんな思いさせるために、別れたわけじゃねーんだぞ?」
分かっている。
梨緒子が幸せならそれでいいと、類は手放してくれたのである。
その後何事もなかったかのように、いつも明るく振る舞っていた類が、誰よりも辛い思いをしたはずだった。
「俺なら絶対、リオを寂しがらせたりしないのに」
「ルイくん、駄目」
類は梨緒子を更なる力を込めて抱き締めた。
慌てて身体をよじり束縛を解こうともがくも、思うようにいかない。
「俺のこと嫌い?」
「嫌いじゃない……けど、でも」
「嫌いになってもいい。むしろ嫌われたほうがあきらめもつく」
「ルイくんの、ことは……嫌いになんか、なれ、ない」
「好きにもならないくせにか?」
梨緒子は抵抗を止めた。
「何で抵抗しないんだよ……するぞ、ホントに?」
「しないよ。ルイくんは、できない」
長い沈黙が、二人の間に流れた。
お互いの吐息が感じられる至近距離で、二人は抱き合ったまま見つめ合う。
刹那――。
類の唇が、梨緒子の唇をとらえた。
瞬間の出来事だった。
梨緒子は全身の血が一気に逆流していくような感覚に陥った。
「ほ、ほ、ホントにした……」
「挑発されたら怯んで、しないと思ったか? ハッ、こんなのキスのうちに入るかよ。もっと濃ゆーいの、あいつとしてんだろ?」
「……」
肯定も、否定もできない。
しかし、決して『濃さ』の問題ではない。
類は尚も梨緒子を抱き締めたまま、耳元で囁いた。
「恨むんなら、永瀬を恨めよ。彼女を放っておく罰だ」
「罰って何? 私の、私の気持ちはどうだっていいの!?」
「じゃあちゃんと、毎日幸せですって、満たされてますって、言ってくれよ。そうじゃなかったら俺、安心して次、見つけらんないだろ」
その時である。
観覧車のゴンドラ内に、携帯の着信音が鳴り響いた。
それは、向かい側の席に投げ出してあった梨緒子のカバンから聞こえてくる。
「永瀬からなんじゃないのか?」
「いいの別に。大したメールじゃないし――」
しかし、着信音がいつまでも続いている。
「メールじゃなくて電話だろ? 出ろよ」
そう言うと類は、ようやく梨緒子の身体を放した。
梨緒子はようやく自由になり、自分のカバンを手元に引き寄せた。
鳴り続ける携帯を取り出すと、ディスプレイには確かに『永瀬秀平』と表示されている。
気が重い。
例えようもないほどの後ろめたさが、梨緒子の胸を苦しめる。
梨緒子は両目を瞑り、通話ボタンを押した。
最愛の彼氏の声が、梨緒子の耳に届く。
『いま着いたけど』
秀平は相変わらず、言葉足らずである。
梨緒子はいまいち状況が飲み込めず、素直に秀平に聞き返した。
「…………どこに?」
『どこにって、札幌発つ前にメールしたはずだけど、見てないの?』
その秀平の言葉に、梨緒子は唖然となった。
――メール? って、あの時の!?
飲み会の最中に、確かに秀平からメールがあったことを、梨緒子は思い出した。
秀平は普段から「生存報告」と称して、夕食の写メールを送ってくるという習慣がある。基本的に返信不要のため、夕方のメールはすぐに確認しないことが多い。
そのため、今日のメールも確認していなかったのである。確認できる状況でもなかったのであるが――。
「えっ……ち、ちょっとまって! 秀平くん、いまどこにいるの?」
『空港。次の便で帰るから、そっちまで行く余裕がないんだ。だから、梨緒子のほうから来てもらえると助かるんだけど』
「次の便って、何時!?」
『八時二十分』
現在時刻七時半。空港まではタクシーを飛ばしても三十分はかかる。搭乗手続きの時間を考慮しても、残りはせいぜい十分程度だろう。
「そうやって、いつもいつも突然――」
言いたいことは山ほどある。
しかし、いまそれをぶつけている余裕はない。
「とにかく今すぐ向かうから、待ってて!」
『うん――暗いから、気をつけて』
通話を切ると、観覧車は空中散歩を終えて、ようやく地上へと降りてきた。