Lesson 5 恋初めし君と (4)
秀平は上手く人々の合間をすり抜け、あくまで自然を装って、あっという間に店の外へと出て行ってしまった。
梨緒子はその背中を見送りながら、深い深いため息をつく。
そこへ美月が再び、一人取り残された梨緒子のもとへとやってきた。
「美月ちゃん、どうしよう……」
「どうしようじゃないでしょ。一緒にいられる貴重な時間なんだよ? クラス会より、永瀬くんでしょ!」
不安にかられている梨緒子とは対照的に、美月は興奮気味だ。
もちろん、親友の言うことは正しい。
正しいのだが、しかし。
これは、絶対に『訳あり』だ。梨緒子には分かる。
彼女逢いたさにはるばる飛行機で帰ってきた――そんな筈はない。
――まさか……これじゃない、よね?
梨緒子はざっと会場の中を見回し、元彼・安藤類の姿を捜した。
類は男子グループの中に混じって歓談している。
すぐに目と目が合った。向こうもこちらの様子をうかがっていたらしい。
取り合えず、類と話をしていたところは秀平に見られていない。
ふざけて肩を抱き寄せられてしまったのも、見られずにすんでいる。
梨緒子は大きく深呼吸をし、ようやく覚悟を決めた。
重厚なガラスのドアを抜けると、天井の高い広い空間に出た。
シティホテル側のロビーである。ショッピングゾーンとは違い、カーペットが敷き詰められている。足音が吸い込まれ、静かだ。
先に抜け出していた秀平は、ロビーに併設されたラウンジの椅子に腰掛けていた。黒のシャツにジーンズ、温かそうな厚手のコートに身を包んでいる。
梨緒子はゆっくりと近づき、秀平の隣に並ぶようにして腰掛けた。
まずはこのような状況に至った経緯を、問いたださなくてはならない。
「相変わらず、前もって連絡一つ寄越してくれないんだから」
梨緒子がたしなめるように言うと、秀平は梨緒子のほうへ身体を向き直らせた。
膝と膝とがわずかに触れ合う。
「決めたの今朝だったから、上手く飛行機のチケット取れるか分からなかったし。それに、明日の朝の飛行機で、また札幌に戻るけど」
「そうなの? なんでそんな無理して――」
「無理してないよ」
「じゃあ、どうして? まさかクラス会に出る気になったから、なんて理由じゃないんでしょ」
「うん」
梨緒子の質問に、秀平は淡々と答える。
しかし、その答えは曖昧だ。
梨緒子はなんとなく引っかかっていたことを、ストレートに問いただした。
「……まさか、ちゃんと約束守ってるか、調べにきた?」
【その代わり、ちゃんと約束して】
【必要以上に他の男と話をしないこと。簡単に誘いにのらないこと。あと――】
【安藤に、絶対近づかないこと】
梨緒子はごくりとつばを飲み込み、秀平の顔色をうかがった。
すると。
秀平はあっさりと首を横に振った。
「違うよ。梨緒子のこと迎えにきたんだ」
ますます腑に落ちない。
「……迎えに? どこへ行くの?」
「ウチに帰る」
これは、既視感。
このやり取りに、覚えがある。
以前も秀平は、突然前触れもなく帰ってきて、一緒にウチに帰ろうと梨緒子を誘ってきたことがある。
その理由は――愛を確かめ合うため、だった。
俄然、初夢が正夢になりそうな気配を帯びてきたことに、梨緒子の胸は高鳴った。
しかし。
さすがに今回は、喜びよりも途惑いのほうが大きい。
「え……あの、だって」
口ごもる梨緒子の様子を見て、秀平は不思議そうに首を傾げた。
「どうしたの?」
「家族、いるんじゃないの?」
「その通りだけど」
「さすがに家族いるときは……マズくない?」
「マズい?」
梨緒子の微妙な表情で、秀平はすべてを悟ったらしい。
呆れ返ったようなため息を、梨緒子にあてつけるようにしてゆっくりと吐き出す。
「……あのさ、今回は『そのため』じゃないんだけど」
憂いに満ちた彼の瞳に、「軽蔑」の二文字が浮かび上がる。
そして秀平は、梨緒子から視線を外し天井を見上げ、さらりと付け加えた。
「ウチに帰って、紹介するだけだから」
「なー……んだ。そっか、そうだよねー」
梨緒子は顔を赤らめた。自分の勘違いに、顔から火が出そうになる。
恥ずかしさをかき消すように、梨緒子は笑って誤魔化した。
ふと――。
違和感を覚え、梨緒子はほんの数秒、時間を巻き戻す。
「しょ、しょっ、紹介!? 誰に?」
「両親」
「ええ? これから??」
「うん」
あり得ない。
両親に紹介する――だなんて、あり得ない。
「困るよそんないきなり!」
「何で困るの?」
「だって、こんな適当な格好だし!」
よそ行きの格好ではあるが、それはあくまで同年代の友人たちの前だから通用するものである。
いま梨緒子が着ているものは、色にしてもデザインにしても、彼の両親に挨拶しに行くものとは程遠い。
「いいよ別に。服装なんかどうだって」
「それに、それに、手土産とかも用意してないし!」
「いらないよ、そんなの」
淡々とした彼氏の反応に、梨緒子は面食らうばかりだ。
「やだ、気遣いもできないだらしのない子だって思われちゃう!」
「一緒に来てくれないと俺、困るんだけど」
秀平は、艶やかな焦げ茶色の瞳をゆっくりと瞬かせながら、物憂げにため息をついた。
よほどの事情があるらしい。
梨緒子はようやく息をひとつつき、澄まし顔の彼氏を困り顔で見つめた。
「そんなこと言われたって……ねえ、どうしていきなりそんな話になってるの?」
秀平は黙った。
梨緒子はひたすら待つ。
やがて秀平は根負けしたように長いため息をつくと、事の顛末をぼそりと説明し始めた。
「正月に、叔父さんがうちの親に喋ったんだ」
「喋る?」
「俺が夏に彼女を連れて、叔父さんの貸し別荘に三泊した――って」
「えっ……」
梨緒子は思わず絶句した。
どうして秀平がこんなことを言い出したのか、梨緒子はようやく理解できたのである。
別荘を借りるにあたって、秀平は叔父夫婦には彼女と一緒であることを説明をしていたはずだ。
久しぶりに会った両親と叔父夫婦との会話の流れで、それがふとしたきっかけで出てしまった、ということなのだろう。
「別に隠すつもりじゃなかったけど、俺、親に付き合ってる相手がいるとか話してなかったから、かなり驚いたらしくて。そのうち紹介するって言ったんだけど、……一緒に旅行までする関係で『そのうち』はないだろう、って聞かなくて」
雲行きがすこぶる怪しい。
ただ単に秀平が、付き合っている彼女を紹介したい、というニュアンスではなさそうである。
二人きりで三泊も過ごす相手の氏素性を、この目できっちりと確かめたいと、彼の両親が無愛想な息子をけしかけたということなのだろう。
到底、両手放しで歓迎ムード、とは言えない雰囲気である。
新年早々、大きな大きな関門が梨緒子の前に立ちはだかってしまった。
秀平はおもむろに立ち上がり、隣に座っていた梨緒子の腕をとると、そのままホテルの正面玄関へと向かった。
梨緒子はもう、強引な彼氏のなすがままだ。
出てすぐのところに、数台のタクシーが停まっている。
梨緒子はそのタクシーの後部座席に、半ば押し込まれるようなカタチで乗せられてしまった。
秀平は静かに行き先を告げた。するとすぐに、タクシーは緩やかに発進する。
もう逃げられない。
秀平の自宅まではワンメーターで着く距離だ。歩いていけなくもないはずなのに、とにかく急いでいるらしい。
――なんでこんな……。
心の準備もできないまま、タクシーはあっという間に秀平の自宅の近くまで到着した。
秀平はひとつ前の角のところでタクシーを停め、料金を支払うと、乗り込んだ時同様、強引に梨緒子を連れ降ろした。
例えようもないほどの不安が、梨緒子の胸に襲い掛かってくる。
何度か訪れたことのある永瀬家の自宅が、すぐそこの角を曲がった先にある。
――どうしよう。ホントにどうしよう……。
秀平はどんどん目的地へ向かって進んでいく。
梨緒子は慌てて、一人先に行く秀平を呼び止めた。
「待って秀平くん。まだ打ち合わせしてないけど」
「打ち合わせって、何を?」
秀平はその場で立ち止まり、ゆっくりと梨緒子を振り返った。
「紹介って、どうやって? 秀平くんとのこと聞かれたら、私はなんて答えたらいい?」
「さあ」
「さあ??」
「俺、紹介するのなんて初めてだし。何をどう打ち合わせするのか聞かれたって、そんなの分からない」
ぷつりと、どこかで何かが切れる音がした。
彼のそっけない態度が、梨緒子の緊張と不安の細い糸を、容赦なく引きちぎってしまう。
――限界。
「もう、いったい何なの!?」
梨緒子は勢いに任せて、秀平の胸に向かい、取り留めもない言葉を一気に吐き出した。
「秀平くんは自分の親だからいいのかもしれないけど、私は全然面識もないのに『さあ』とか『分からない』とか言われたら、私はどうしていいか分からないし、せめてもっと早く言ってくれてたら心の準備だって出来たかもしれないのに、こんな突然連れてこられて、私、もうどうしたらいいか」
「そんなに怒ることないだろ」
「怒ってないもん」
「その口調が怒ってる」
「怒ってないって、言ってるでしょ?」
瞬間。
梨緒子の言葉は遮られた。
彼の香りが、梨緒子のすべてを包み込んでいく。
言葉は、ない。
不安と緊張で強ばった身体が、彼の腕の中で緩んでいくのが、梨緒子にはハッキリと分かった。
梨緒子は怖々と秀平の背中に手を回した。
その感触を受けて、秀平は尚いっそう、深く梨緒子を抱き締める。
初夢のような強引さも激しさもない。
そう。
実物の彼はどこまでも気高く、そしてこんなにも――優しい。
秀平はしっかりと梨緒子を抱き締めたまま、梨緒子の髪に頬擦りをした。
温もりとくすぐったさが、梨緒子の頭のてっぺんから足の先まで駆け巡っていく。
「突然なのは分かってるけど、いつかは通る道なんだから――そんなに怒らないで」
梨緒子の耳元で、彼の声が静かにそして淡々と響いた。
この先、ともに人生を歩んでいくのなら。
これは、『通過儀礼』なのだと、彼は言う。
そう。
必ず二人が通る道であるのなら、迷うことなどない。
秀平は梨緒子が落ち着いたのを確認し、抱き締めていた梨緒子の身体を放した。
いまだ心配そうな秀平の両瞳が、梨緒子を真っ直ぐに見下ろしている。
梨緒子は名残を惜しむように、秀平の胸に手を置き、ゆっくりと息を吐いた。
「怒って、ないよ。ホントに」
すると。
秀平は安堵したように小さく頷くと、それじゃ行こうか――とコートを翻し、そっと梨緒子を促した。
梨緒子はその背中を見送りながら、深い深いため息をつく。
そこへ美月が再び、一人取り残された梨緒子のもとへとやってきた。
「美月ちゃん、どうしよう……」
「どうしようじゃないでしょ。一緒にいられる貴重な時間なんだよ? クラス会より、永瀬くんでしょ!」
不安にかられている梨緒子とは対照的に、美月は興奮気味だ。
もちろん、親友の言うことは正しい。
正しいのだが、しかし。
これは、絶対に『訳あり』だ。梨緒子には分かる。
彼女逢いたさにはるばる飛行機で帰ってきた――そんな筈はない。
――まさか……これじゃない、よね?
梨緒子はざっと会場の中を見回し、元彼・安藤類の姿を捜した。
類は男子グループの中に混じって歓談している。
すぐに目と目が合った。向こうもこちらの様子をうかがっていたらしい。
取り合えず、類と話をしていたところは秀平に見られていない。
ふざけて肩を抱き寄せられてしまったのも、見られずにすんでいる。
梨緒子は大きく深呼吸をし、ようやく覚悟を決めた。
重厚なガラスのドアを抜けると、天井の高い広い空間に出た。
シティホテル側のロビーである。ショッピングゾーンとは違い、カーペットが敷き詰められている。足音が吸い込まれ、静かだ。
先に抜け出していた秀平は、ロビーに併設されたラウンジの椅子に腰掛けていた。黒のシャツにジーンズ、温かそうな厚手のコートに身を包んでいる。
梨緒子はゆっくりと近づき、秀平の隣に並ぶようにして腰掛けた。
まずはこのような状況に至った経緯を、問いたださなくてはならない。
「相変わらず、前もって連絡一つ寄越してくれないんだから」
梨緒子がたしなめるように言うと、秀平は梨緒子のほうへ身体を向き直らせた。
膝と膝とがわずかに触れ合う。
「決めたの今朝だったから、上手く飛行機のチケット取れるか分からなかったし。それに、明日の朝の飛行機で、また札幌に戻るけど」
「そうなの? なんでそんな無理して――」
「無理してないよ」
「じゃあ、どうして? まさかクラス会に出る気になったから、なんて理由じゃないんでしょ」
「うん」
梨緒子の質問に、秀平は淡々と答える。
しかし、その答えは曖昧だ。
梨緒子はなんとなく引っかかっていたことを、ストレートに問いただした。
「……まさか、ちゃんと約束守ってるか、調べにきた?」
【その代わり、ちゃんと約束して】
【必要以上に他の男と話をしないこと。簡単に誘いにのらないこと。あと――】
【安藤に、絶対近づかないこと】
梨緒子はごくりとつばを飲み込み、秀平の顔色をうかがった。
すると。
秀平はあっさりと首を横に振った。
「違うよ。梨緒子のこと迎えにきたんだ」
ますます腑に落ちない。
「……迎えに? どこへ行くの?」
「ウチに帰る」
これは、既視感。
このやり取りに、覚えがある。
以前も秀平は、突然前触れもなく帰ってきて、一緒にウチに帰ろうと梨緒子を誘ってきたことがある。
その理由は――愛を確かめ合うため、だった。
俄然、初夢が正夢になりそうな気配を帯びてきたことに、梨緒子の胸は高鳴った。
しかし。
さすがに今回は、喜びよりも途惑いのほうが大きい。
「え……あの、だって」
口ごもる梨緒子の様子を見て、秀平は不思議そうに首を傾げた。
「どうしたの?」
「家族、いるんじゃないの?」
「その通りだけど」
「さすがに家族いるときは……マズくない?」
「マズい?」
梨緒子の微妙な表情で、秀平はすべてを悟ったらしい。
呆れ返ったようなため息を、梨緒子にあてつけるようにしてゆっくりと吐き出す。
「……あのさ、今回は『そのため』じゃないんだけど」
憂いに満ちた彼の瞳に、「軽蔑」の二文字が浮かび上がる。
そして秀平は、梨緒子から視線を外し天井を見上げ、さらりと付け加えた。
「ウチに帰って、紹介するだけだから」
「なー……んだ。そっか、そうだよねー」
梨緒子は顔を赤らめた。自分の勘違いに、顔から火が出そうになる。
恥ずかしさをかき消すように、梨緒子は笑って誤魔化した。
ふと――。
違和感を覚え、梨緒子はほんの数秒、時間を巻き戻す。
「しょ、しょっ、紹介!? 誰に?」
「両親」
「ええ? これから??」
「うん」
あり得ない。
両親に紹介する――だなんて、あり得ない。
「困るよそんないきなり!」
「何で困るの?」
「だって、こんな適当な格好だし!」
よそ行きの格好ではあるが、それはあくまで同年代の友人たちの前だから通用するものである。
いま梨緒子が着ているものは、色にしてもデザインにしても、彼の両親に挨拶しに行くものとは程遠い。
「いいよ別に。服装なんかどうだって」
「それに、それに、手土産とかも用意してないし!」
「いらないよ、そんなの」
淡々とした彼氏の反応に、梨緒子は面食らうばかりだ。
「やだ、気遣いもできないだらしのない子だって思われちゃう!」
「一緒に来てくれないと俺、困るんだけど」
秀平は、艶やかな焦げ茶色の瞳をゆっくりと瞬かせながら、物憂げにため息をついた。
よほどの事情があるらしい。
梨緒子はようやく息をひとつつき、澄まし顔の彼氏を困り顔で見つめた。
「そんなこと言われたって……ねえ、どうしていきなりそんな話になってるの?」
秀平は黙った。
梨緒子はひたすら待つ。
やがて秀平は根負けしたように長いため息をつくと、事の顛末をぼそりと説明し始めた。
「正月に、叔父さんがうちの親に喋ったんだ」
「喋る?」
「俺が夏に彼女を連れて、叔父さんの貸し別荘に三泊した――って」
「えっ……」
梨緒子は思わず絶句した。
どうして秀平がこんなことを言い出したのか、梨緒子はようやく理解できたのである。
別荘を借りるにあたって、秀平は叔父夫婦には彼女と一緒であることを説明をしていたはずだ。
久しぶりに会った両親と叔父夫婦との会話の流れで、それがふとしたきっかけで出てしまった、ということなのだろう。
「別に隠すつもりじゃなかったけど、俺、親に付き合ってる相手がいるとか話してなかったから、かなり驚いたらしくて。そのうち紹介するって言ったんだけど、……一緒に旅行までする関係で『そのうち』はないだろう、って聞かなくて」
雲行きがすこぶる怪しい。
ただ単に秀平が、付き合っている彼女を紹介したい、というニュアンスではなさそうである。
二人きりで三泊も過ごす相手の氏素性を、この目できっちりと確かめたいと、彼の両親が無愛想な息子をけしかけたということなのだろう。
到底、両手放しで歓迎ムード、とは言えない雰囲気である。
新年早々、大きな大きな関門が梨緒子の前に立ちはだかってしまった。
秀平はおもむろに立ち上がり、隣に座っていた梨緒子の腕をとると、そのままホテルの正面玄関へと向かった。
梨緒子はもう、強引な彼氏のなすがままだ。
出てすぐのところに、数台のタクシーが停まっている。
梨緒子はそのタクシーの後部座席に、半ば押し込まれるようなカタチで乗せられてしまった。
秀平は静かに行き先を告げた。するとすぐに、タクシーは緩やかに発進する。
もう逃げられない。
秀平の自宅まではワンメーターで着く距離だ。歩いていけなくもないはずなのに、とにかく急いでいるらしい。
――なんでこんな……。
心の準備もできないまま、タクシーはあっという間に秀平の自宅の近くまで到着した。
秀平はひとつ前の角のところでタクシーを停め、料金を支払うと、乗り込んだ時同様、強引に梨緒子を連れ降ろした。
例えようもないほどの不安が、梨緒子の胸に襲い掛かってくる。
何度か訪れたことのある永瀬家の自宅が、すぐそこの角を曲がった先にある。
――どうしよう。ホントにどうしよう……。
秀平はどんどん目的地へ向かって進んでいく。
梨緒子は慌てて、一人先に行く秀平を呼び止めた。
「待って秀平くん。まだ打ち合わせしてないけど」
「打ち合わせって、何を?」
秀平はその場で立ち止まり、ゆっくりと梨緒子を振り返った。
「紹介って、どうやって? 秀平くんとのこと聞かれたら、私はなんて答えたらいい?」
「さあ」
「さあ??」
「俺、紹介するのなんて初めてだし。何をどう打ち合わせするのか聞かれたって、そんなの分からない」
ぷつりと、どこかで何かが切れる音がした。
彼のそっけない態度が、梨緒子の緊張と不安の細い糸を、容赦なく引きちぎってしまう。
――限界。
「もう、いったい何なの!?」
梨緒子は勢いに任せて、秀平の胸に向かい、取り留めもない言葉を一気に吐き出した。
「秀平くんは自分の親だからいいのかもしれないけど、私は全然面識もないのに『さあ』とか『分からない』とか言われたら、私はどうしていいか分からないし、せめてもっと早く言ってくれてたら心の準備だって出来たかもしれないのに、こんな突然連れてこられて、私、もうどうしたらいいか」
「そんなに怒ることないだろ」
「怒ってないもん」
「その口調が怒ってる」
「怒ってないって、言ってるでしょ?」
瞬間。
梨緒子の言葉は遮られた。
彼の香りが、梨緒子のすべてを包み込んでいく。
言葉は、ない。
不安と緊張で強ばった身体が、彼の腕の中で緩んでいくのが、梨緒子にはハッキリと分かった。
梨緒子は怖々と秀平の背中に手を回した。
その感触を受けて、秀平は尚いっそう、深く梨緒子を抱き締める。
初夢のような強引さも激しさもない。
そう。
実物の彼はどこまでも気高く、そしてこんなにも――優しい。
秀平はしっかりと梨緒子を抱き締めたまま、梨緒子の髪に頬擦りをした。
温もりとくすぐったさが、梨緒子の頭のてっぺんから足の先まで駆け巡っていく。
「突然なのは分かってるけど、いつかは通る道なんだから――そんなに怒らないで」
梨緒子の耳元で、彼の声が静かにそして淡々と響いた。
この先、ともに人生を歩んでいくのなら。
これは、『通過儀礼』なのだと、彼は言う。
そう。
必ず二人が通る道であるのなら、迷うことなどない。
秀平は梨緒子が落ち着いたのを確認し、抱き締めていた梨緒子の身体を放した。
いまだ心配そうな秀平の両瞳が、梨緒子を真っ直ぐに見下ろしている。
梨緒子は名残を惜しむように、秀平の胸に手を置き、ゆっくりと息を吐いた。
「怒って、ないよ。ホントに」
すると。
秀平は安堵したように小さく頷くと、それじゃ行こうか――とコートを翻し、そっと梨緒子を促した。