Lesson 6 恋心、一筆啓上。 (3)
短大の校舎の入り口を出たすぐのところに、「遊歩道」がある。
紅葉した色鮮やかな木々の下にベンチが設置されていて、学生たちが待ち合わせに使用したり、天気のいい日には昼食をとったり――とてものどかな場所だ。
遊歩道の先は、隣接する医学部の裏手へと繋がっているため、ときおり医学生の姿も見られる。
今日の空は晴れ渡っている。澄み切った空の青と、穏やかな秋風がどこまでも心地よい。
梨緒子は野乃香と二人、遊歩道のベンチに腰かけて、次の授業までのわずかな空き時間をつぶしていた。
「江波ちゃん、さっきからどうしたの? ため息なんかついちゃってさ」
野乃香は缶ジュースを片手に、梨緒子の様子を不思議そうに眺めている。
なんと答えたらいいものか――言葉がすぐに出てこない。
ため息の原因に、もちろん心当たりはあった。
しかし、野乃香に説明するのはあまりに面倒なので、梨緒子は適当にはぐらかした。
「んー、別にどうもしてないけど?」
そう答えるそばから、ため息がまた一つ出てしまう。
梨緒子は野乃香に気づかれないよう、慌ててそれを吸い込んだ。
先週末から、どうも調子が狂わされている。
「そう? なんか江波ちゃん、平凡で退屈で面白いことが何もないって顔してるよ。よかったら、また合コンでもしてみる?」
「彼氏に怒られるからパスだって、いつも言ってるでしょ」
野乃香は梨緒子の話を聞きながら、缶ジュースを飲み干し、空いた缶をベンチの端へコトリと置いた。そして、仕方がないといったように肩をすくめてみせる。
「遠距離なんだから、いちいち言わなきゃいいじゃん。合コンなんて、別に彼氏探しの目的じゃなくてもいいんだし。とりあえず友達になって、時間を持て余してるときに適当に連絡とって、一緒にご飯食べたり飲みに行ったり。そういう男がいたっていいじゃない? 彼氏とは別でしょ」
「……そう? よく分んないけど」
引っかかる。
最近それと似たようなことを、梨緒子は言われたような気がする。
『彼氏がいること』と『一緒にご飯を食べること』は、まったく関係がない――と。
「洋輔でよかったら、どう? また飲みにいこうよ、四人でさ!」
「四人?」
「安藤くん」
当たり前すぎるほどの答えが返ってくる。
以前、野乃香にそそのかされて初めて参加した合コンに、歌川洋輔という名の男がいた。
いろいろな経緯があって、途中で合コンを切り上げてしまったため、洋輔という男とは友達にすらならずに終わってしまったのである。
もう、顔もハッキリと思い出せない。
それでも、彼には悪い印象もないため、もう一度くらい会って話をしてみてもいいとは思うが――四人でとなると話は別だ。
いまの梨緒子にとって、あまりにも取り合わせの悪い面子である。
「あ……なんかね、ルイくんは彼女できたって言ってた。だから、あんまり会いたくないんだけどなー」
「どうして? 安藤くんとは友達なんでしょ? それとも何? 友達に彼女できたら江波ちゃんは嫌なわけ?」
「嫌じゃないけど……何ていうか」
梨緒子は口ごもった。
過去には『好きだ』と意思表示をされたことがある。
その対象が、自分ではなく他の女に移った――というだけのこと。
自分勝手な感情なのだと分かってはいるが、梨緒子は類の心変わりに、そこはかとなく寂しい気持ちになってしまったのである。
野乃香は、梨緒子が再びため息をついたのを横目で見つつ、ここぞとばかりに興味深げに尋ねてくる。
「あ、ひょっとして江波ちゃん、安藤くんのこと好きだったりとか?」
「そ、そんなことないって! いまは全然……」
「いまは? へー、そういうことー。とりあえず、好きだったことはあるんだ?」
これが『語るに落ちる』ということなのだろう。
梨緒子は野乃香の誘導尋問に、あっさりと引っかかってしまった。
野乃香は興味津々、問いただす気満々である。
もう、隠しておくのも限界だ――梨緒子は野乃香に白状した。
「好きだったっていうか……ルイくんはね、私が初めて付き合った人なの。いまの彼は、二人目」
野乃香の表情が一変した。
完全に取り乱しているのは、傍目にも明らかだ。
「え、ちょっと待って! 片想いじゃなくて、付き合ってたって、ちょっと待ってちょっと待って、落ち着け野乃香」
野乃香の驚き方は尋常ではない。思考に言葉が追いつかないのか、口をパクパクさせている。
「だって、あのとき安藤くん、ほら、いままで付き合ったのは一人で、その初めて付き合った彼女のことが今でも忘れられないとか、言ってなかった??」
「言ってた…………かな」
「つまり、それが江波ちゃんのことだったってわけ!?」
ようやく、野乃香は真実に辿り着いたようだ。
そしていつぞやの合コンでの、どことなく不自然なやり取りを思い返し、一人納得したように頷いてみせる。
「ふうん。それで江波ちゃんは、元彼に彼女ができたって聞いて、ショック受けちゃったってわけねー」
梨緒子は肩の荷が下りたように、大きく息をついた。
野乃香の言うことは当たっているような、そうでないような――梨緒子にはよく分からない。
「付き合ってたっていっても、一ヶ月くらいだったし、それももう三年も前の話だから。ショック……というか、まあ」
「ていうか、江波ちゃんには『完璧彼氏』がいるんでしょ? そんなことで落ち込むなんて、贅沢贅沢」
きっとこの友人には、自分の気持ちは分からない。
梨緒子は、本日何度目かの大きなため息をついてしまった。
そのときである。
野乃香の視線がふと、梨緒子を通り越した先に向けられた。そして、何かを宝物を発見したかのように瞳が輝きだす。
「あっ、ちょっと! オーリーじゃないアレ??」
野乃香のひと言で、梨緒子の緊張は一気に高まった。
――オーリー? って、まさか。
怖くて野乃香の視線の先を辿ることができない。
ここは短大部の敷地内だ。医大の付属病院の目と鼻の先にあるとはいえ、医者がたまたま通りかかるような場所ではないのである。
「ほら! ほら! 江波ちゃんあっち見て! こっちの方に来るんじゃない??」
野乃香の執拗なまでの促しに負け、梨緒子はのろのろと遊歩道の先に視線をやった。
白衣姿の男が、颯爽と早足で近づいてくる。梨緒子は何度も目を瞬かせ、近づいてくるその姿を確認した。
間違いない。織原直人だ。
梨緒子が彼の白衣姿を見るのは、これが初めてだった。胸には付属病院の医師であることを示す所属のネームプレートがつけられている。
梨緒子が野乃香の隣で身を固くしながらベンチに座っていると、織原は素通りすることなく、真っ直ぐに梨緒子の元へと歩み寄ってきた。
その手には、光沢のある丈夫な質感の紙袋を提げている。
織原は目の前に立ちはだかり、持っていた紙袋を梨緒子に差し出した。
「週明けに取りに来いと言っただろうが。もう週の半ばだぞ。わざわざ届けるほど、俺はヒマじゃないんだからな」
その織原の言葉に、梨緒子はいまだ新しい記憶をたぐり寄せる。
【お前、本気で勉強する気があるのか?】
【だったら、俺が使っていた基礎の本を貸してやろう。週明けに俺のところまで取りに来い】
梨緒子は本屋でのやり取りを、ようやく思い出した。
まさか織原が本気で言っていたとは、まったく思っていなかったのである。
そもそも、大して勉強する気などなかったので、そのやり取り自体、すっかり忘れ去ってしまっていたのだ。
「……す、すみません」
梨緒子は怖々と紙袋を受け取りつつ、素直に頭を下げた。
すると。
その反応に満足したのか、織原はわずかに表情を緩めた。
「時間が空いてたら、八時に、この間の店まで来い」
梨緒子が反応するヒマもなく、織原は言いたいことを言うとそのままくるりと背を向けて、医学部の建物の方角へと歩き去っていった。
梨緒子は驚きのあまり、ただ呆けて織原直人の背中を見送っていた。
この状況に驚いているのは、梨緒子ばかりではない。
野乃香は目の前で繰り広げられた「医者」と「友人」のやり取りに、目も飛び出さんばかりに驚いている。
野乃香はその勢いに任せて、梨緒子に食いついてきた。
「ちょっとちょっとちょっと! 江波ちゃんどういうこと??」
「どういうって……」
「オーリーと何があったの? 『この間の店』? なになになんなの、この間って??」
梨緒子以上に、野乃香は混乱してしまっている。
いまのわずかなやり取りだけで、いろいろなことを連想させてしまったらしい。
無理もないことである。
梨緒子は、織原から半ば押し付けられるようにして受け取った紙袋を、しっかりと胸に抱き締めため息をつくと、これ以上誤魔化しきれないと観念し、野乃香に先週末に起こった事の顛末を説明しはじめた。
「いや、たまたま本屋さんで会って、無理矢理ご飯に付き合わされただけで……」
「む、無理矢理ってそれどういうことよ!?」
「の、野乃香ちゃん、声が大きい」
梨緒子は慌てて手を伸ばし、野乃香の口を塞いだ。
野乃香の興奮は収まるどころか、エスカレートする一方だ。
もう、何を言っても無駄であるに違いない。
「ホントにご飯食べただけだって。ほとんど話もしなかったし。気まずすぎて、全然食べた心地がしなかった」
野乃香はじっと恨めしそうに、梨緒子の顔を見据えている。
「江波ちゃん、まさかオーリーに乗り換えるんじゃないでしょうね?」
思いもよらない友人の発言に、梨緒子は慌てふためきながら首を横に振った。
「ないない! 絶対ない! 第一向こうがそんなつもりじゃないし。婚約者がいるってこと、本人からはっきりと言われたし、私に彼氏がいることも向こうは知ってるし」
「じゃあ何で一緒にご飯食べるの? 一度ならず二度までも!」
「まだ一回だけだよ」
「今夜八時って言われてたじゃん。当然行くんでしょ?」
野乃香の思惑が、手に取るように分かる。
梨緒子はありったけの知恵を絞って、あれこれ考えをめぐらせた。
「……断りたくても、電話番号もメールアドレスも知らないし。無視してたら何言われるか分からないし、それにね、本を借りた手前、黙っているわけにもいかないし……」
「ふーん? じゃあ、私もついていっちゃおうかな? ねえ、いいでしょ、江波ちゃん?」
喜色満面の笑みを浮かべてお願いをしてくる野乃香に、梨緒子はやんわりと釘を刺した。
「んー、止めといた方がいいよ」
「なんで?」
わずかな沈黙があった。
そして梨緒子はあることに気づく。
――いま自分は、断る理由ではなく、彼に会うための理由を探している。
それも、『二人きり』で。
どうして自分がそんなことを言い出しているのか、梨緒子にもよく分からない。
本能が、梨緒子を支配している。
「なんでってね、織原先生気難しそうだから、絶対いい顔しないと思うよ」
「あ、江波ちゃん、オーリーを独り占めする気だ! ずるい! 完璧彼氏がいるくせにっ」
「ご飯食べるのと、彼氏とは別だって、野乃香ちゃんさっき言ってたじゃない……」
秀平の淡々と澄ました顔が一瞬だけ、梨緒子の脳裏をよぎっていく。
しかし、それだけだった。
梨緒子を躊躇させるだけの力は、もはやない。
それは、心の隙間を埋めてはくれぬ遥か遠くにいる彼の存在が、梨緒子の中で揺らぎ始めた証だった。
紅葉した色鮮やかな木々の下にベンチが設置されていて、学生たちが待ち合わせに使用したり、天気のいい日には昼食をとったり――とてものどかな場所だ。
遊歩道の先は、隣接する医学部の裏手へと繋がっているため、ときおり医学生の姿も見られる。
今日の空は晴れ渡っている。澄み切った空の青と、穏やかな秋風がどこまでも心地よい。
梨緒子は野乃香と二人、遊歩道のベンチに腰かけて、次の授業までのわずかな空き時間をつぶしていた。
「江波ちゃん、さっきからどうしたの? ため息なんかついちゃってさ」
野乃香は缶ジュースを片手に、梨緒子の様子を不思議そうに眺めている。
なんと答えたらいいものか――言葉がすぐに出てこない。
ため息の原因に、もちろん心当たりはあった。
しかし、野乃香に説明するのはあまりに面倒なので、梨緒子は適当にはぐらかした。
「んー、別にどうもしてないけど?」
そう答えるそばから、ため息がまた一つ出てしまう。
梨緒子は野乃香に気づかれないよう、慌ててそれを吸い込んだ。
先週末から、どうも調子が狂わされている。
「そう? なんか江波ちゃん、平凡で退屈で面白いことが何もないって顔してるよ。よかったら、また合コンでもしてみる?」
「彼氏に怒られるからパスだって、いつも言ってるでしょ」
野乃香は梨緒子の話を聞きながら、缶ジュースを飲み干し、空いた缶をベンチの端へコトリと置いた。そして、仕方がないといったように肩をすくめてみせる。
「遠距離なんだから、いちいち言わなきゃいいじゃん。合コンなんて、別に彼氏探しの目的じゃなくてもいいんだし。とりあえず友達になって、時間を持て余してるときに適当に連絡とって、一緒にご飯食べたり飲みに行ったり。そういう男がいたっていいじゃない? 彼氏とは別でしょ」
「……そう? よく分んないけど」
引っかかる。
最近それと似たようなことを、梨緒子は言われたような気がする。
『彼氏がいること』と『一緒にご飯を食べること』は、まったく関係がない――と。
「洋輔でよかったら、どう? また飲みにいこうよ、四人でさ!」
「四人?」
「安藤くん」
当たり前すぎるほどの答えが返ってくる。
以前、野乃香にそそのかされて初めて参加した合コンに、歌川洋輔という名の男がいた。
いろいろな経緯があって、途中で合コンを切り上げてしまったため、洋輔という男とは友達にすらならずに終わってしまったのである。
もう、顔もハッキリと思い出せない。
それでも、彼には悪い印象もないため、もう一度くらい会って話をしてみてもいいとは思うが――四人でとなると話は別だ。
いまの梨緒子にとって、あまりにも取り合わせの悪い面子である。
「あ……なんかね、ルイくんは彼女できたって言ってた。だから、あんまり会いたくないんだけどなー」
「どうして? 安藤くんとは友達なんでしょ? それとも何? 友達に彼女できたら江波ちゃんは嫌なわけ?」
「嫌じゃないけど……何ていうか」
梨緒子は口ごもった。
過去には『好きだ』と意思表示をされたことがある。
その対象が、自分ではなく他の女に移った――というだけのこと。
自分勝手な感情なのだと分かってはいるが、梨緒子は類の心変わりに、そこはかとなく寂しい気持ちになってしまったのである。
野乃香は、梨緒子が再びため息をついたのを横目で見つつ、ここぞとばかりに興味深げに尋ねてくる。
「あ、ひょっとして江波ちゃん、安藤くんのこと好きだったりとか?」
「そ、そんなことないって! いまは全然……」
「いまは? へー、そういうことー。とりあえず、好きだったことはあるんだ?」
これが『語るに落ちる』ということなのだろう。
梨緒子は野乃香の誘導尋問に、あっさりと引っかかってしまった。
野乃香は興味津々、問いただす気満々である。
もう、隠しておくのも限界だ――梨緒子は野乃香に白状した。
「好きだったっていうか……ルイくんはね、私が初めて付き合った人なの。いまの彼は、二人目」
野乃香の表情が一変した。
完全に取り乱しているのは、傍目にも明らかだ。
「え、ちょっと待って! 片想いじゃなくて、付き合ってたって、ちょっと待ってちょっと待って、落ち着け野乃香」
野乃香の驚き方は尋常ではない。思考に言葉が追いつかないのか、口をパクパクさせている。
「だって、あのとき安藤くん、ほら、いままで付き合ったのは一人で、その初めて付き合った彼女のことが今でも忘れられないとか、言ってなかった??」
「言ってた…………かな」
「つまり、それが江波ちゃんのことだったってわけ!?」
ようやく、野乃香は真実に辿り着いたようだ。
そしていつぞやの合コンでの、どことなく不自然なやり取りを思い返し、一人納得したように頷いてみせる。
「ふうん。それで江波ちゃんは、元彼に彼女ができたって聞いて、ショック受けちゃったってわけねー」
梨緒子は肩の荷が下りたように、大きく息をついた。
野乃香の言うことは当たっているような、そうでないような――梨緒子にはよく分からない。
「付き合ってたっていっても、一ヶ月くらいだったし、それももう三年も前の話だから。ショック……というか、まあ」
「ていうか、江波ちゃんには『完璧彼氏』がいるんでしょ? そんなことで落ち込むなんて、贅沢贅沢」
きっとこの友人には、自分の気持ちは分からない。
梨緒子は、本日何度目かの大きなため息をついてしまった。
そのときである。
野乃香の視線がふと、梨緒子を通り越した先に向けられた。そして、何かを宝物を発見したかのように瞳が輝きだす。
「あっ、ちょっと! オーリーじゃないアレ??」
野乃香のひと言で、梨緒子の緊張は一気に高まった。
――オーリー? って、まさか。
怖くて野乃香の視線の先を辿ることができない。
ここは短大部の敷地内だ。医大の付属病院の目と鼻の先にあるとはいえ、医者がたまたま通りかかるような場所ではないのである。
「ほら! ほら! 江波ちゃんあっち見て! こっちの方に来るんじゃない??」
野乃香の執拗なまでの促しに負け、梨緒子はのろのろと遊歩道の先に視線をやった。
白衣姿の男が、颯爽と早足で近づいてくる。梨緒子は何度も目を瞬かせ、近づいてくるその姿を確認した。
間違いない。織原直人だ。
梨緒子が彼の白衣姿を見るのは、これが初めてだった。胸には付属病院の医師であることを示す所属のネームプレートがつけられている。
梨緒子が野乃香の隣で身を固くしながらベンチに座っていると、織原は素通りすることなく、真っ直ぐに梨緒子の元へと歩み寄ってきた。
その手には、光沢のある丈夫な質感の紙袋を提げている。
織原は目の前に立ちはだかり、持っていた紙袋を梨緒子に差し出した。
「週明けに取りに来いと言っただろうが。もう週の半ばだぞ。わざわざ届けるほど、俺はヒマじゃないんだからな」
その織原の言葉に、梨緒子はいまだ新しい記憶をたぐり寄せる。
【お前、本気で勉強する気があるのか?】
【だったら、俺が使っていた基礎の本を貸してやろう。週明けに俺のところまで取りに来い】
梨緒子は本屋でのやり取りを、ようやく思い出した。
まさか織原が本気で言っていたとは、まったく思っていなかったのである。
そもそも、大して勉強する気などなかったので、そのやり取り自体、すっかり忘れ去ってしまっていたのだ。
「……す、すみません」
梨緒子は怖々と紙袋を受け取りつつ、素直に頭を下げた。
すると。
その反応に満足したのか、織原はわずかに表情を緩めた。
「時間が空いてたら、八時に、この間の店まで来い」
梨緒子が反応するヒマもなく、織原は言いたいことを言うとそのままくるりと背を向けて、医学部の建物の方角へと歩き去っていった。
梨緒子は驚きのあまり、ただ呆けて織原直人の背中を見送っていた。
この状況に驚いているのは、梨緒子ばかりではない。
野乃香は目の前で繰り広げられた「医者」と「友人」のやり取りに、目も飛び出さんばかりに驚いている。
野乃香はその勢いに任せて、梨緒子に食いついてきた。
「ちょっとちょっとちょっと! 江波ちゃんどういうこと??」
「どういうって……」
「オーリーと何があったの? 『この間の店』? なになになんなの、この間って??」
梨緒子以上に、野乃香は混乱してしまっている。
いまのわずかなやり取りだけで、いろいろなことを連想させてしまったらしい。
無理もないことである。
梨緒子は、織原から半ば押し付けられるようにして受け取った紙袋を、しっかりと胸に抱き締めため息をつくと、これ以上誤魔化しきれないと観念し、野乃香に先週末に起こった事の顛末を説明しはじめた。
「いや、たまたま本屋さんで会って、無理矢理ご飯に付き合わされただけで……」
「む、無理矢理ってそれどういうことよ!?」
「の、野乃香ちゃん、声が大きい」
梨緒子は慌てて手を伸ばし、野乃香の口を塞いだ。
野乃香の興奮は収まるどころか、エスカレートする一方だ。
もう、何を言っても無駄であるに違いない。
「ホントにご飯食べただけだって。ほとんど話もしなかったし。気まずすぎて、全然食べた心地がしなかった」
野乃香はじっと恨めしそうに、梨緒子の顔を見据えている。
「江波ちゃん、まさかオーリーに乗り換えるんじゃないでしょうね?」
思いもよらない友人の発言に、梨緒子は慌てふためきながら首を横に振った。
「ないない! 絶対ない! 第一向こうがそんなつもりじゃないし。婚約者がいるってこと、本人からはっきりと言われたし、私に彼氏がいることも向こうは知ってるし」
「じゃあ何で一緒にご飯食べるの? 一度ならず二度までも!」
「まだ一回だけだよ」
「今夜八時って言われてたじゃん。当然行くんでしょ?」
野乃香の思惑が、手に取るように分かる。
梨緒子はありったけの知恵を絞って、あれこれ考えをめぐらせた。
「……断りたくても、電話番号もメールアドレスも知らないし。無視してたら何言われるか分からないし、それにね、本を借りた手前、黙っているわけにもいかないし……」
「ふーん? じゃあ、私もついていっちゃおうかな? ねえ、いいでしょ、江波ちゃん?」
喜色満面の笑みを浮かべてお願いをしてくる野乃香に、梨緒子はやんわりと釘を刺した。
「んー、止めといた方がいいよ」
「なんで?」
わずかな沈黙があった。
そして梨緒子はあることに気づく。
――いま自分は、断る理由ではなく、彼に会うための理由を探している。
それも、『二人きり』で。
どうして自分がそんなことを言い出しているのか、梨緒子にもよく分からない。
本能が、梨緒子を支配している。
「なんでってね、織原先生気難しそうだから、絶対いい顔しないと思うよ」
「あ、江波ちゃん、オーリーを独り占めする気だ! ずるい! 完璧彼氏がいるくせにっ」
「ご飯食べるのと、彼氏とは別だって、野乃香ちゃんさっき言ってたじゃない……」
秀平の淡々と澄ました顔が一瞬だけ、梨緒子の脳裏をよぎっていく。
しかし、それだけだった。
梨緒子を躊躇させるだけの力は、もはやない。
それは、心の隙間を埋めてはくれぬ遥か遠くにいる彼の存在が、梨緒子の中で揺らぎ始めた証だった。