Lesson 6 恋心、一筆啓上。 (4)
辺りはすっかりと暗くなった。
梨緒子は織原に指定された時間に合わせ、繁華街の表通りから一本外れた、こじんまりとした飲食店が建ち並ぶ裏通りに足を踏み入れた。
土曜日に会ったときに織原に連れて来られた店は、大学病院から程近い場所にあった。隣接する短大からも、充分歩いていける距離だ。
隣接する駐車スペースには、織原の所有する車が停まっていた。
――ホントに来てる。
緊張感と安心感とが複雑に絡み合い、梨緒子の胸をいっそう高鳴らせる。
ここは織原の行きつけの店らしい。知る人ぞ知る隠れ家的な店である。無国籍の創作料理がメインで、値段も手ごろだ。
梨緒子は店の扉の前で大きく深呼吸をした。
髪を手ぐしで整え、服装に乱れがないか入念にチェックをする。
そしてようやく、『OPEN』のプレートが提がったドアノブに、ゆっくりと手をかけた。
店内に一歩足を踏み入れると、そこは異世界だった。
ほの暗い照明と、混沌とした内装は、南米とアジアをかけ合わせたような雑然とした雰囲気だ。
広すぎず狭すぎず、うるさすぎず静かすぎず、ゆっくりと落ち着ける空間となっている。
織原直人は、すでにカウンターに座って待っていた。手持ち無沙汰に、雑誌をぱらぱらとめくっている。
梨緒子が近づくと、織原は無言で隣のカウンター椅子を引いた。挨拶する間もない。
梨緒子は軽く会釈をして、そのまま席に着いた。
織原は梨緒子が着席するのを確認し、目の前に立て掛けられていたメニューに手を伸ばした。
注文をせず、待っていたらしい。
時間が空いていたら――そう言っていたはずなのに。
もし空いていなかったら、注文せずにずっと待ち続けるつもりだったのだろうか。
不思議だ。
この男は、秀平にどことなく似ている――梨緒子は何となくそう思った。
二人並んで座っているときの間と雰囲気が、とても似ているのである。
「俺は一番上のにする。お前は?」
織原はすぐに決め、手にしていたメニューを梨緒子のほうへと滑らせた。
「えっと……ちょっと待ってください。私はその下のパスタにします」
「日替わりとその下のパスタ、あと食後にコーヒー二つ」
注文を終えたあとも、織原は黙ったまま、梨緒子のほうに目をくれようともしない。先ほどまで読んでいた雑誌に、視線を落としている。
梨緒子は織原の隣で黙ったまま、暇つぶしにカウンターの中を眺めていた。
居心地が悪い。
けれどもそれは、知っている感覚であることに、梨緒子はふと気づいた。
秀平と付き合う前。
初めて言葉を交わしたとき、朝の図書館で並んで勉強することになったときも、同じような感じだった。
懐かしい。
――いまは秀平くんといても、こんな感じじゃないし……。
黙ったまま考えをめぐらしていると、織原は雑誌から目を離してふと顔を上げ、梨緒子のほうをちらりと見た。
「俺のことが怖いか?」
「え? あ……少し、だけ」
「正直だな」
そう言って、織原は再び雑誌を読み始めた。
どこまでもマイペースな人間だ。
しかし、どうして自分が織原に二度も誘われたのか、梨緒子にはまるで見当がつかなかった。
確かに一度目は偶然だったのかもしれない。
しかし、二度目は必然だ。
秀平に言わせれば、「1と2の間には大きな壁がある」のである。
一度きりなら偶然ですませられるが、二度目は――。
二度あることは三度ある。
やがて、目の前に注文の品が差し出された。
ようやく織原は読んでいた雑誌を閉じ、脇へ置いた。
そして二人で一緒に、ご飯を食べ始める。
会話もせず、ただ並んでご飯を食べるだけだ。
梨緒子は二口ほど食べ進んだところでフォークを置き、無言で食べ続ける織原におずおずと話しかけた。
「あの……織原先生」
「なんだ?」
返事の語調は、意外にも穏やかだった。
梨緒子は続けた。
「織原先生は、いつご結婚されるんですか」
「さあな。明日かもしれないし、十年後かもしれない」
聞いたことには素直に返してくる。
話しながら食べることは、嫌いではないらしい。
初めてご飯に誘われたときも、本人は確かにそう言っていた。
しかし、織原からは話題を振ってこないため、黙っていたほうがいいのかと、梨緒子は勝手に思っていたのである。
織原は食べる手を止め、お冷のグラスに手を伸ばした。水を喉に流し込み、ふうと軽く息をつく。
「――俺の預かり知らないところで、婚約相整いました、ってことだな」
「好き……じゃないんですか?」
「嫌いではない。相性の良し悪しを判断できるほど、一緒に時間を過ごしていないからな」
「婚約者なのに?」
「結婚は好きな人とするもの、ってか? ハッ、お前はまだまだ子供だな」
ふわりと、大人の男の色香が漂う。
思いがけない織原の柔らかな表情に、梨緒子の心臓は跳ね上がった。
上手く距離感をつかむことができない。
彼の『存在』は、はるか遠くにあるかと思えば、いきなり至近距離へと現れる。
梨緒子はもう、食べているモノの味も、分からなくなってしまっていた。
織原はそんな梨緒子に気づいているのかいないのか、食事を続けながら、あくまでさらりと尋ねてくる。
「お前は、彼氏のことが好きか?」
「……好き、です」
「最後に会ったのはいつ?」
「二月です」
すると。
織原は突然、豪快に笑い出した。
「じゃあ、もう半年以上、放ったらかされてるわけか。ハハハ」
「……何が、おかしいんですか?」
意味が分からない。何を考えているのか、まるで読めない。
梨緒子がじっと答えを待っていると、織原は食べる手を休め、フォークを皿の上に置いた。
そして、わずかに身体をずらし、梨緒子のほうへと向き直った。
「今日ここへ、お前は来ないんじゃないかと思ってた。でもこうやって、来た」
「それは……」
梨緒子はそれ以上、何も言えなくなった。
心の奥底に潜むものを、完全に読み取られてしまっている。
「そりゃ、寂しくもなるだろう。遠距離するなら、せめて月イチで生身と触れ合ってやる努力は必要だ」
「べべ別に、触れ合うとかそんな……」
「言葉の意味をストレートにとらえるな。恋人関係である以上もちろんそれも含むが、それだけではないだろ」
取り繕っても、無駄だ。
この男には、きっとかなわない。頭の良さでは、おそらく秀平以上だ。
「そこにいるだけでいいんだ」
織原は、計算された緻密な駆け引きで、巧みに梨緒子を翻弄していく。
「俺なら最低限、週イチ可能だ」
その後、織原はまた黙って、料理を食べ続けた。
梨緒子も冷めかけたパスタをフォークに絡ませ、あれこれ考え事をしながらそれを口に運んだ。
――週イチ、可能。
それは、これからの自分たちの関係のあり方について、であろう。
そういう関係を望んでいる、ということなのだろうか。
――そこにいるだけで、いい。
それは単純に、時間のあるときには会ってご飯を食べるような――それなら、いまでも優作とはそうしているのだから、織原とそういう関係を築くのは難しいことではない。
しかし。
織原自身は、どういう考えなのだろうか。
婚約者の話も、野乃香から聞いた話とは印象が違っている。自分の意思ではないということは、熱愛状態ではないということだろう。
突然、目の前の風景が、そして梨緒子を取り巻いている世界が、大きく広がった気がした。
あのとき医学部の学食で出会ったのは、偶然だったのかもしれない。
医師である織原と、短大の看護科に属する自分が、お互いたまたま出向いた先で――。
最初の印象は、最悪だった。
でもいま、こうして二人きり、一緒に隣り合って、晩御飯を食べている。
――ひょっとしたら、これって『運命』だったりして。
自分を満たせるのは、この人なのかもしれない。
喜びも寂しさも理解し分かち合える。
いつでも。きっと、この人が――。
いまはまだ分からない。
けれども、そんな未来もあるのかもしれない。
可能性がゼロというのは、ありえないのである。
梨緒子はいつの間にか、織原という男の存在を、異様なまでに意識してしまっていることに気づいた。
好きとか愛してるとか、そんなことは分からない。
ただ、この男のことが気になってしまう――それだけが、真実。
自分に彼氏がいるとか、相手に婚約者がいるとか、そんな理由で付き合いを絶ってしまったら、一生後悔してしまう――そんな気がしていた。
知らない世界だからこそ、憧れるのかもしれない。
もう少しだけ彼の世界を見てみたい、梨緒子はそう思い始めていた。
「織原先生……あの」
「なんだ?」
「メールアドレス、教えてください」
「どうして」
「もしものときのために、です」
織原はカウンターの上に置いてある紙ナプキンを一枚とり、上着の内ポケットからボールペンを取り出して、英数字をつづり始めた。
「あの、赤外線で送ってくれれば、簡単ですけど」
「そんなの、やり方が分からない」
「合コンとかで、女の子とアドレス交換とかしたりしないんですか?」
「お前の目には、俺がどういう人間に映ってるんだ」
「織原先生は、すごくモテそうですし……そういうのに慣れてそうだから」
織原は梨緒子をにらみつけた。相変わらず、迫力がある。しかし、慣れてきたのかもう怖くはなかった。
織原はシャツの胸ポケットからおもむろに携帯電話を取り出すと、それを梨緒子の前に無造作に置いた。
「勝手にやっておけ」
梨緒子は驚いた。
どんなに仲が深まろうと、秀平と梨緒子はお互いの携帯には干渉しない。見られて困るようなものは何もないが、お互いのプライバシーを尊重したいという気持ちの表れである。
しかし、織原は――こんなにも簡単に携帯を触ることを許してくる。
梨緒子は慣れない機種に途惑いつつも、それらしい機能を発見してデータのやり取りをした。
「私のも入れておきました」
織原は黙ったまま、じっと梨緒子の目を真っ直ぐに見つめてくる。
梨緒子の行動の意図を探っているようだ。
「いらなければ削除してください」
織原は梨緒子が差し出した携帯を黙って受け取ると、すぐに上着の胸ポケットにそれをしまった。
食後のコーヒーを飲み終えると、織原は早々にカウンター席を立った。
梨緒子もそれにならい、身支度を整えていると、その間に織原は二人分の支払いをすませ、先に店の外へと出て行ってしまった。
梨緒子は、慌てて織原を追いかけた。
織原は、駐車場に停めてある自分の車の前に立って待っていた。
「さあ、これから病院に戻って仕事だ」
「じゃあ私、歩いて帰ります」
梨緒子が気を遣って、そう言うと。
「馬鹿。さっさと乗れ」
織原は右手のひらで車のキーを遊ばせながら、梨緒子を助手席へと促した。
梨緒子は家に帰ってからさっそく、織原にメールを送ってみることにした。
メール作成画面を開き、読むのに負担にならないよう、短くお礼の文章を打ち込んだ。
【ごちそうさまでした。
お仕事頑張ってください】
――返事は期待してない。とにかくご飯をおごってもらったお礼を言いたいだけ。
自分の心に言い訳をしながら、『送信』を選択する。
あとは、ボタンを押すだけだ。
緊張する。送信ボタンを押す指が震えてしまう。
誰かにメールをするのに、こんなに緊張したことが過去にあっただろうか。
どうしてこんなにも、彼のことを――。
その時である。
一分も待たずに、メールの着信音が鳴り響いた。
うそ。
誰。
もしかして。
そんなはずない。
どうしよう。
梨緒子は息を殺して、おそるおそるメールを確認した。
そこにあったのは、短い言葉。
【頑張ります。おやすみ】
こんなに早く、返事が来た。
たったそれだけのことが――。
織原という男は、梨緒子が忘れかけていた感情に、完全に火をつけてしまったのである。
梨緒子は織原に指定された時間に合わせ、繁華街の表通りから一本外れた、こじんまりとした飲食店が建ち並ぶ裏通りに足を踏み入れた。
土曜日に会ったときに織原に連れて来られた店は、大学病院から程近い場所にあった。隣接する短大からも、充分歩いていける距離だ。
隣接する駐車スペースには、織原の所有する車が停まっていた。
――ホントに来てる。
緊張感と安心感とが複雑に絡み合い、梨緒子の胸をいっそう高鳴らせる。
ここは織原の行きつけの店らしい。知る人ぞ知る隠れ家的な店である。無国籍の創作料理がメインで、値段も手ごろだ。
梨緒子は店の扉の前で大きく深呼吸をした。
髪を手ぐしで整え、服装に乱れがないか入念にチェックをする。
そしてようやく、『OPEN』のプレートが提がったドアノブに、ゆっくりと手をかけた。
店内に一歩足を踏み入れると、そこは異世界だった。
ほの暗い照明と、混沌とした内装は、南米とアジアをかけ合わせたような雑然とした雰囲気だ。
広すぎず狭すぎず、うるさすぎず静かすぎず、ゆっくりと落ち着ける空間となっている。
織原直人は、すでにカウンターに座って待っていた。手持ち無沙汰に、雑誌をぱらぱらとめくっている。
梨緒子が近づくと、織原は無言で隣のカウンター椅子を引いた。挨拶する間もない。
梨緒子は軽く会釈をして、そのまま席に着いた。
織原は梨緒子が着席するのを確認し、目の前に立て掛けられていたメニューに手を伸ばした。
注文をせず、待っていたらしい。
時間が空いていたら――そう言っていたはずなのに。
もし空いていなかったら、注文せずにずっと待ち続けるつもりだったのだろうか。
不思議だ。
この男は、秀平にどことなく似ている――梨緒子は何となくそう思った。
二人並んで座っているときの間と雰囲気が、とても似ているのである。
「俺は一番上のにする。お前は?」
織原はすぐに決め、手にしていたメニューを梨緒子のほうへと滑らせた。
「えっと……ちょっと待ってください。私はその下のパスタにします」
「日替わりとその下のパスタ、あと食後にコーヒー二つ」
注文を終えたあとも、織原は黙ったまま、梨緒子のほうに目をくれようともしない。先ほどまで読んでいた雑誌に、視線を落としている。
梨緒子は織原の隣で黙ったまま、暇つぶしにカウンターの中を眺めていた。
居心地が悪い。
けれどもそれは、知っている感覚であることに、梨緒子はふと気づいた。
秀平と付き合う前。
初めて言葉を交わしたとき、朝の図書館で並んで勉強することになったときも、同じような感じだった。
懐かしい。
――いまは秀平くんといても、こんな感じじゃないし……。
黙ったまま考えをめぐらしていると、織原は雑誌から目を離してふと顔を上げ、梨緒子のほうをちらりと見た。
「俺のことが怖いか?」
「え? あ……少し、だけ」
「正直だな」
そう言って、織原は再び雑誌を読み始めた。
どこまでもマイペースな人間だ。
しかし、どうして自分が織原に二度も誘われたのか、梨緒子にはまるで見当がつかなかった。
確かに一度目は偶然だったのかもしれない。
しかし、二度目は必然だ。
秀平に言わせれば、「1と2の間には大きな壁がある」のである。
一度きりなら偶然ですませられるが、二度目は――。
二度あることは三度ある。
やがて、目の前に注文の品が差し出された。
ようやく織原は読んでいた雑誌を閉じ、脇へ置いた。
そして二人で一緒に、ご飯を食べ始める。
会話もせず、ただ並んでご飯を食べるだけだ。
梨緒子は二口ほど食べ進んだところでフォークを置き、無言で食べ続ける織原におずおずと話しかけた。
「あの……織原先生」
「なんだ?」
返事の語調は、意外にも穏やかだった。
梨緒子は続けた。
「織原先生は、いつご結婚されるんですか」
「さあな。明日かもしれないし、十年後かもしれない」
聞いたことには素直に返してくる。
話しながら食べることは、嫌いではないらしい。
初めてご飯に誘われたときも、本人は確かにそう言っていた。
しかし、織原からは話題を振ってこないため、黙っていたほうがいいのかと、梨緒子は勝手に思っていたのである。
織原は食べる手を止め、お冷のグラスに手を伸ばした。水を喉に流し込み、ふうと軽く息をつく。
「――俺の預かり知らないところで、婚約相整いました、ってことだな」
「好き……じゃないんですか?」
「嫌いではない。相性の良し悪しを判断できるほど、一緒に時間を過ごしていないからな」
「婚約者なのに?」
「結婚は好きな人とするもの、ってか? ハッ、お前はまだまだ子供だな」
ふわりと、大人の男の色香が漂う。
思いがけない織原の柔らかな表情に、梨緒子の心臓は跳ね上がった。
上手く距離感をつかむことができない。
彼の『存在』は、はるか遠くにあるかと思えば、いきなり至近距離へと現れる。
梨緒子はもう、食べているモノの味も、分からなくなってしまっていた。
織原はそんな梨緒子に気づいているのかいないのか、食事を続けながら、あくまでさらりと尋ねてくる。
「お前は、彼氏のことが好きか?」
「……好き、です」
「最後に会ったのはいつ?」
「二月です」
すると。
織原は突然、豪快に笑い出した。
「じゃあ、もう半年以上、放ったらかされてるわけか。ハハハ」
「……何が、おかしいんですか?」
意味が分からない。何を考えているのか、まるで読めない。
梨緒子がじっと答えを待っていると、織原は食べる手を休め、フォークを皿の上に置いた。
そして、わずかに身体をずらし、梨緒子のほうへと向き直った。
「今日ここへ、お前は来ないんじゃないかと思ってた。でもこうやって、来た」
「それは……」
梨緒子はそれ以上、何も言えなくなった。
心の奥底に潜むものを、完全に読み取られてしまっている。
「そりゃ、寂しくもなるだろう。遠距離するなら、せめて月イチで生身と触れ合ってやる努力は必要だ」
「べべ別に、触れ合うとかそんな……」
「言葉の意味をストレートにとらえるな。恋人関係である以上もちろんそれも含むが、それだけではないだろ」
取り繕っても、無駄だ。
この男には、きっとかなわない。頭の良さでは、おそらく秀平以上だ。
「そこにいるだけでいいんだ」
織原は、計算された緻密な駆け引きで、巧みに梨緒子を翻弄していく。
「俺なら最低限、週イチ可能だ」
その後、織原はまた黙って、料理を食べ続けた。
梨緒子も冷めかけたパスタをフォークに絡ませ、あれこれ考え事をしながらそれを口に運んだ。
――週イチ、可能。
それは、これからの自分たちの関係のあり方について、であろう。
そういう関係を望んでいる、ということなのだろうか。
――そこにいるだけで、いい。
それは単純に、時間のあるときには会ってご飯を食べるような――それなら、いまでも優作とはそうしているのだから、織原とそういう関係を築くのは難しいことではない。
しかし。
織原自身は、どういう考えなのだろうか。
婚約者の話も、野乃香から聞いた話とは印象が違っている。自分の意思ではないということは、熱愛状態ではないということだろう。
突然、目の前の風景が、そして梨緒子を取り巻いている世界が、大きく広がった気がした。
あのとき医学部の学食で出会ったのは、偶然だったのかもしれない。
医師である織原と、短大の看護科に属する自分が、お互いたまたま出向いた先で――。
最初の印象は、最悪だった。
でもいま、こうして二人きり、一緒に隣り合って、晩御飯を食べている。
――ひょっとしたら、これって『運命』だったりして。
自分を満たせるのは、この人なのかもしれない。
喜びも寂しさも理解し分かち合える。
いつでも。きっと、この人が――。
いまはまだ分からない。
けれども、そんな未来もあるのかもしれない。
可能性がゼロというのは、ありえないのである。
梨緒子はいつの間にか、織原という男の存在を、異様なまでに意識してしまっていることに気づいた。
好きとか愛してるとか、そんなことは分からない。
ただ、この男のことが気になってしまう――それだけが、真実。
自分に彼氏がいるとか、相手に婚約者がいるとか、そんな理由で付き合いを絶ってしまったら、一生後悔してしまう――そんな気がしていた。
知らない世界だからこそ、憧れるのかもしれない。
もう少しだけ彼の世界を見てみたい、梨緒子はそう思い始めていた。
「織原先生……あの」
「なんだ?」
「メールアドレス、教えてください」
「どうして」
「もしものときのために、です」
織原はカウンターの上に置いてある紙ナプキンを一枚とり、上着の内ポケットからボールペンを取り出して、英数字をつづり始めた。
「あの、赤外線で送ってくれれば、簡単ですけど」
「そんなの、やり方が分からない」
「合コンとかで、女の子とアドレス交換とかしたりしないんですか?」
「お前の目には、俺がどういう人間に映ってるんだ」
「織原先生は、すごくモテそうですし……そういうのに慣れてそうだから」
織原は梨緒子をにらみつけた。相変わらず、迫力がある。しかし、慣れてきたのかもう怖くはなかった。
織原はシャツの胸ポケットからおもむろに携帯電話を取り出すと、それを梨緒子の前に無造作に置いた。
「勝手にやっておけ」
梨緒子は驚いた。
どんなに仲が深まろうと、秀平と梨緒子はお互いの携帯には干渉しない。見られて困るようなものは何もないが、お互いのプライバシーを尊重したいという気持ちの表れである。
しかし、織原は――こんなにも簡単に携帯を触ることを許してくる。
梨緒子は慣れない機種に途惑いつつも、それらしい機能を発見してデータのやり取りをした。
「私のも入れておきました」
織原は黙ったまま、じっと梨緒子の目を真っ直ぐに見つめてくる。
梨緒子の行動の意図を探っているようだ。
「いらなければ削除してください」
織原は梨緒子が差し出した携帯を黙って受け取ると、すぐに上着の胸ポケットにそれをしまった。
食後のコーヒーを飲み終えると、織原は早々にカウンター席を立った。
梨緒子もそれにならい、身支度を整えていると、その間に織原は二人分の支払いをすませ、先に店の外へと出て行ってしまった。
梨緒子は、慌てて織原を追いかけた。
織原は、駐車場に停めてある自分の車の前に立って待っていた。
「さあ、これから病院に戻って仕事だ」
「じゃあ私、歩いて帰ります」
梨緒子が気を遣って、そう言うと。
「馬鹿。さっさと乗れ」
織原は右手のひらで車のキーを遊ばせながら、梨緒子を助手席へと促した。
梨緒子は家に帰ってからさっそく、織原にメールを送ってみることにした。
メール作成画面を開き、読むのに負担にならないよう、短くお礼の文章を打ち込んだ。
【ごちそうさまでした。
お仕事頑張ってください】
――返事は期待してない。とにかくご飯をおごってもらったお礼を言いたいだけ。
自分の心に言い訳をしながら、『送信』を選択する。
あとは、ボタンを押すだけだ。
緊張する。送信ボタンを押す指が震えてしまう。
誰かにメールをするのに、こんなに緊張したことが過去にあっただろうか。
どうしてこんなにも、彼のことを――。
その時である。
一分も待たずに、メールの着信音が鳴り響いた。
うそ。
誰。
もしかして。
そんなはずない。
どうしよう。
梨緒子は息を殺して、おそるおそるメールを確認した。
そこにあったのは、短い言葉。
【頑張ります。おやすみ】
こんなに早く、返事が来た。
たったそれだけのことが――。
織原という男は、梨緒子が忘れかけていた感情に、完全に火をつけてしまったのである。