Lesson 6  恋心、一筆啓上。 (5)

 秀平とのメールのやり取りは、一日一往復がせいぜいだ。
 気が向けば戯れに、独り言のようなメッセージを送ってきたりもするが、それはひと月に一度あるかないかである。
 それに比べて織原は、意外にも他愛もないメールをちょくちょく送ってくる。
 言葉は短いが、回数は多い。それが秀平とは大きく違うところだった。

 午後の授業を終え、帰途につく途中にメールの着信音が鳴り出す。
 相手は織原直人だ。
 梨緒子は歩きながらメッセージを確認した。

【いま時間あるか?】

【どうしたんですか】

 短いメッセージに、梨緒子も短い返信をする。
 すると、すぐにまたメール着信があった。

【特に用事はなし。やっといま昼休み。腹が減った】

【お食事中ですか?】

【出来てくるのを待っているところ】

 一分と待たずに、返信が来る。
 たいして重要でもない、短いやり取りだ。
 そんな些細な言葉のやり取りで、織原がいまどういう状況であるのか伝わってくる。
 注文の品が運ばれてくるまで、手持ち無沙汰ということなのだろう、
 梨緒子は暇つぶしの相手になるなら――と、歩きながらメッセージのやり取りを続けた。

【今日のメニューは何ですか?】

【この間お前が食ってたパスタ。美味そうだったから】

 ――あ、織原先生、いまあのお店にいるんだ。

【とても、美味しかったですよ】

【それは楽しみだ】

 返信に要する時間はさらに短くなる。メッセージを送ってから十秒足らずで、梨緒子の携帯が鳴り出す。
 携帯電話の機能には疎そうだったが、操作には不自由がないようだ。何事にもソツがない、器用な男だ。

 織原は、もちろん仕事中にメールを寄越すことはなかったが、休憩時間になるとこうやって、他愛もないメッセージを送ってくる。
 彼は、恋人ではない。
 しかし、そのやり取りの密度は、付き合い始めの恋人に近いのではないか――梨緒子はそう思い始めていた。
 その考えが、はたして合っているのかどうかは、梨緒子にはよく分からない。
 秀平と付き合い始めたときのことを思い出してみても、このような濃密なメールのやり取りはなかった。

 ――何かよく分かんないけど、ちょっと楽しいかも。

 織原からのメールは、一日に最低二回。多いときには朝から深夜まで、幾度となく送られてきた。
 その頻度で、仕事なのか休みの日なのかがハッキリと分かるほどだ。
 織原とメールをするようになって、梨緒子は寂しさを感じることがなくなった。


 数日が過ぎた、ある平日の昼休みのことである。
 梨緒子は友人の野乃香と、大学近くのカフェでランチを食べていた。
 二人揃ってオープンサンドイッチとサラダを注文する。飲み物は、梨緒子がアイスカフェオレで、野乃香はオレンジジュースだ。
「江波ちゃん、最近さー、なんかイイことでもあったの?」
「え? どうして?」
「顔がにやけてる」
「そ、そんなことないって」
 梨緒子はサラダをフォークで無意味にかき回す。
 女友達というものは、やたらと勘がいい。
 上手く話をそらしたいのだが、なかなか思うようにはいかない。
「あれから、オーリーと何かあった?」
「な……何もないって、そんな別に」
 言ってるそばから、メールの着信音が鳴り出す。
 梨緒子は内心焦ったが、嬉しい気持ちの方が勝っている。フォークを置いて、すぐにメールを確認した。

【今晩八時。いつもの店】

 今日はメールだけではない。夕食のお誘いである。
 織原と実際に会うのは、五日ぶりだ。

 梨緒子は一寸迷った。
 今夜は優作に誘われて晩御飯を食べる約束をしている。週に一度はそうしているのだ。

 ――優作先生は、いつでも会えるし。

 梨緒子は織原へ返信した。

【了解です】

【本屋で今月号の映画雑誌、買ってきて。お金は後で払う】

 ――へー、織原先生って映画が好きなんだ。

 どんな作品が好きなのだろう。
 邦画? 洋画?
 お気に入りの役者がいるとか?

 彼から頼み事をされるということが、信頼を得た証のような気がして、梨緒子はたとえようもないほどの喜びで満たされた。
 思わず顔が緩んでしまうと、すかさず野乃香から指摘が入った。
「やっぱり江波ちゃん、にやけてる! 誰からのメール? アヤシイ!!」
「彼氏からだって、彼氏から」
 野乃香はすぐに納得したのか、うらやましそうに肩をすくめてみせた。
 そのあと。
 梨緒子は優作に、今夜の約束が都合が悪くなった旨のメールを送った。



 梨緒子は本屋を三件まわって無事に雑誌を見つけ、しっかりと胸に抱えて街を歩いていた。
 七時を過ぎた頃、梨緒子の携帯にメールの着信があった。
 約束は八時だったが、いつもよりも早く仕事が終わったのかもしれない――梨緒子はドキドキしながら携帯の画面を開いた。

 ――なんだ、秀平くんか。

 梨緒子は途端に力が抜け、大きなため息をついた。
 そしてふと、我に返る。

 ――うそ。なにこれ。何やってるんだろう、私。

 別に好きだとか、そんなんじゃない。
 相手は先生だから、いろいろと勉強にもなるし。そう、それだけ。

 ――どうしよう。

 気がつくと、織原からの連絡を待っている自分がいる。
 秀平からのメールで、がっかりしてしまういまの自分は、絶対におかしい。
 しかし。
 秀平は遠く離れたところにいる。逢うのも数ヶ月にいっぺんの大仕事だ。
 だからこそ逢えたときの喜びもひとしおなのだが――日常的に喜怒哀楽を共有できる充実感には、到底かなわないように思えた。
 そう。
 空き時間が合えば、簡単にデートできるという関係の心地よさに、梨緒子は完全に目覚めてしまったのである。


 織原は、店の前で梨緒子を待っていた。
 梨緒子が雑誌の入った袋を差し出すと、当たり前のようにそれを受け取り、店のドアを開けて梨緒子を先に中へと入れた。
 こういう気遣いを自然にやってのけるところに、織原の育ちのよさが感じられる。

 注文をすませると、織原はおもむろに梨緒子が買ってきた雑誌の袋を開けて、中身を確認した。
 梨緒子にも半分見えるように、雑誌を二人の間に置いて、無造作にページをめくり始める。
 織原は雑誌から目をそらさずに、隣に座る梨緒子に話しかけた。
「映画は好きか?」
「好きです。ほとんどレンタルですけど」
「何故だ? 映画は映画館で観るのが一番だろ」
「……そうですけど。一人じゃ行き難いですから」
 織原は答えを返さなかった。
 無言で、映画雑誌に目を通している。
 今度は、梨緒子のほうから話題を振った。
「織原先生は、映画館によく行かれるんですか?」
「時間があれば、一人でも観に行く。むしろ自分が好きなものは一人で観たいかな」
「二人だったら?」
「相手の好みを尊重する。お前は何が観たいんだ?」
「え? あ、私ですか?」
 予想外の答えに、梨緒子は動揺した。
 暗に、一緒に観にいくなら何がいいか、と尋ねているようにもとれる。
「いま公開してる作品で、観るならどれがいい?」
 梨緒子は作品の一覧ページを眺め、一つの作品を選んで指差した。
「これが……いいです」
「それは、俺がいま二番目に観たい作品だ」
 それは喜ぶべきなのかガッカリするべきなのか――二番目というのは、なんとも微妙なポジションだ。

 ――いまの私とおんなじ、なのかも。

 彼には婚約者がいる。
 たとえそれが政略的なもので愛がなくても――いや、政略的なものであればこそ、梨緒子が彼の一番になれる可能性はほとんどない。
 ゼロではないかもしれないが、限りなくゼロに近い。

 ――なんか、どんどん秀平くんがかすんでいってる。

 待てど暮らせど、彼はいっこうに帰ってくる気配をみせない。
 秀平が絶対に浮気をしないと信じられるからこそ、嫉妬や不安に苛まされることなく、ただ寂しさにじっと耐えるばかりだが――彼の中での自分の存在意義が、いったいどういうものであるのか、梨緒子は疑問に感じずにはいられなかった。



 次の日の昼、梨緒子は久しぶりに医学部の学生食堂へとやってきた。
 断ってしまった優作との約束の埋め合わせである。
 学食はちょうど混んでいる時間帯だった。医学生や薬学生たちで、席はほぼ一杯だ。

 優作は隅のほうのテーブル席で、梨緒子を待っていた。ちゃんと二人分の席を取って、待ってくれている。
 梨緒子は笑顔を振りまきながら、肘杖をついて何やら考え事をしている優作のもとへと近づいていった。
「優作先生、昨日はごめんなさい。友達との急用が入っちゃって、それであのね」
「僕は、別にいいけど――」
 優作はなぜか言葉を濁した。
 いつになく、表情が硬い。
「優作先生?」

 そのときである。
 梨緒子の携帯に着信があった。メールではない、電話である。
 携帯を取り出すと、表面にかかってきた相手の名前が表示されている。

 そこには、『織原直人』の四文字。
 梨緒子は目の前に座る優作の顔色をうかがいながら、おずおずと電話に出た。

「……江波です」
『明日、久しぶりにゆっくりと休めそうなんだ。昨日言ってた映画、観にいくか』

 ――うそ。あの映画、一緒に観にいってくれるんだ。

「行きます」
『詳しいことはあとでメールする。それじゃ』
 そこで通話は途切れた。

 ちゃんと覚えていてくれたことが嬉しい。
 久しぶりという休みを、自分のために使ってくれることも嬉しい。
 もちろん、自分でも二番目には見たいと言っていたのだから、無理に合わせてくれているという訳でもないのだろう。
 梨緒子はいそいそと携帯をカバンにしまい、ふと顔を上げた。
 瞬間。
 思わず呼吸が止まった。
 優作が肘杖をついたまま、じっと梨緒子の顔を見据えている。
「いまの、『お友達』?』
「え? ああ……うん」
 優作にしては珍しく、何かを勘繰るような口調だ。
 ただ、いまの電話のやり取りでは、名前もその内容も窺い知ることはできないはずだ。
 梨緒子は努めて冷静を装った。
「梨緒子ちゃん」
「なあに?」
「随分と楽しそうだね」
「そう? いつもと変わらないと思うけど」
 野乃香にも同じことを言われた。
 そんなあからさまに表情に出しているつもりはないのだが――。
 梨緒子は、そ知らぬ顔で優作の言葉をさらりとかわした。
 すると。
「ばれなかったらいいとか、僕はそういうのは感心しないよ」
 梨緒子の心臓が、一気に縮み上がった。
 思わず両目を見開き、目の前の男の顔からそらすことができない。
 これまで優作と一緒にいて、背筋が凍る思いがしたのは、これが初めてだった。
「寂しさをぶつける相手が間違ってる」
「……間違い?」
 怖い。
 なんだかとても、怖い。
 はっきり名前を出していないが、きっと気づいている。
 ばれてはいけない相手、それがすなわち寂しさをぶつけるべき相手であると、優作は言う。

 ――ばれたら? ばれたらどうなる?

「梨緒子ちゃんは間違ってる。僕が言いたいのはそれだけだ」
「優作先生……」
「これ以上、僕はもう何も言わない。ご飯を食べるのも止めよう。嘘をついて約束を破るくらいなら、ね」
 築き上げてきたものが、音もなく崩れていく。
 何がなんだか、訳が分からない。
 どうして優作が怒っているのか、全然分からない。
 あんなに優しく、いつでも梨緒子を見守り、支えになってくれていた男が、いままでに見せたことのない厳しい表情を梨緒子に向けている。
「そんな……だって、毎週毎週札幌から帰ってきてって、そう言えばいいの? そんなのできるわけないもん。そんなことでうざがられてケンカするくらいなら――」
「隠れて他の男と遊んでいる方がいいって?」
 優作の容赦ない言葉が、梨緒子にとどめを刺した。
「そ……んな言い方、ヒドイ」
 優作はもう何も言わないという言葉通り、無言で席を立ち梨緒子に背を向けると、足早にその場を離れていく。
 梨緒子は、学食のテーブルにひとり、取り残されてしまった。

 間違っている。
 隠れて、他の男と、遊んで――そんなの違う。
 何がなんだかもう、梨緒子にはまったく分からなくなっていた。

 自分の浮気に、秀平が怒るのかどうかも分からない。
 なぜなら、いまの秀平は自分に関心など――ないのだから。