Lesson 6 恋心、一筆啓上。 (6)
その日の夕方、学校から自宅へと帰ってきてから、梨緒子はすぐに自分の部屋へこもった。
そして、通学用のカバンを床へ無造作に置き、そのまま崩れるようにしてベッドの上へと転がった。
確かに、優作との先約を断り、織原との食事を優先させてしまったことは事実だ。
だからといって、あんなにも怒ることはないのではないか――梨緒子は、昼間の優作とのやり取りを思い出し、それをかき消すように固く目を閉じ、首を横に振った。
そもそも、どうして優作が知っていたのだろうか。
人の噂など、簡単に広まる。
織原のように、『オーリー』などという愛称で陰ながら呼ばれているような男ならば、目立つ上に注目もされている。
病院関係者や医大・短大に籍を置く人間に街で見かけられて、それがいつしか優作の耳にも入ってしまったのかもしれない。
それにしても、どうも腑に落ちない。
――あの優作先生が、当日約束を断ったからといって……そんな。
【寂しさをぶつける相手が間違ってる】
確かに、寂しさを紛らわせるだけなら、優作だって充分相手は務まるはずだった。
だから今までもそうしてきたし、優作もそれを分かって梨緒子と一緒に過ごす時間を作ってくれていた。
もちろん優作は、『義理兄』としての最低ラインを守っていて、梨緒子を恋愛対象として扱うことはなかった。
だからこそ――。
梨緒子はようやく自分の気持ちに気づいた。
そう。
梨緒子は織原直人に、無意識に『男』を求めていたのである。
――婚約者がいる人だから大丈夫、なんて、ただの言い訳。
しかし。
いまこのままの状態では、とても織原と映画に行くことはできない。
迷っている時間はない。
明日映画ということは、今夜もしくは明日の朝に、織原からメールが来るだろう。
【梨緒子ちゃんは間違ってる。僕が言いたいのはそれだけだ】
優作に言われた言葉が、梨緒子の脳裏をよぎっていく。
そして、閉じた目蓋の裏に浮かんでくるのは、遠く北の地にいて彼女をまるで顧みない、恋焦がれる彼の顔だ。
梨緒子はようやく、秀平に電話をしてみようと心を決めた。
梨緒子はのろのろと身を起こしベッドから下りると、部屋の隅に置いていたカバンの中から携帯電話を取り出した。
ストラップ代わりにつけている彼の部屋の鍵が、カチャリと耳障りな音を発てる。
秀平と言葉を交わすのは、実に一ヶ月半以上ぶりのことだった。
気が重い。鉛を飲み込んだような不快感が胃の辺りにある。
番号を呼び出してかけると、数コールも待たずに、目的の人物の声が聞こえてきた。
『どうしたの?』
「秀平くん……」
彼の背後に、賑やかな声が聞こえている。
『ねえ、永瀬くん――』
秀平の電話の向こうで、秀平を呼ぶ女の声がした。
どこで何をしていたら、こんな状況になるというのだろう。
梨緒子はすっかり頭に血が上ってしまった。
「……誰なの?」
梨緒子の声の調子で、秀平は何かを悟ったらしい。すぐに梨緒子の疑問に答えるべく、状況を説明し始める。
『誰って、成沢とかだよ』
「うそ。女の人の声がするけど」
『とか、って言っただろ。学科の仲間たちとの飲み会だよ』
自分はいま、嫉妬丸出しで物分かりの悪い、『醜い彼女』になってしまっている。
もう、聞きたくない。
知らない女の声も、彼の言い訳めいた説明も――何も聞きたくない。
「大した用じゃないから、いい。それじゃ」
梨緒子はそれだけ言うと、自分から電話を切った。
情けない。
梨緒子は大きくため息をつくと、携帯電話をベッドの枕元へ投げ出すようにして置いた。
そして、再びベッドの上へ転がり込む。
いま自分は、崖っぷちにぶら下がっている状態だ。
崖の上は楽園のような場所で、彼はそこで見知らぬ人々と楽しそうに暮らしている。
彼は気まぐれに崖までやってくるが、普段はその存在すら忘れている。
苦しい。疲れる。
手を離せば、きっと――自分は楽になれる。
どのくらい時間が経った頃だろう。
枕元に投げ出してあった梨緒子の携帯が、再び鳴り出した。
梨緒子はゆっくりと携帯に手を伸ばし、相手が秀平であることを確認してから電話に出た。
『どうしたの? 何があったのか、ちゃんと話して聞かせて』
秀平は飲み会の会場を抜け出し、人気のない場所へと移動したらしい。
今度は彼の声しか聞こえてこない。静かだ。
梨緒子は寝転がったまま、携帯電話を耳に当てて、ぼんやりと秀平の声を聞いていた。
「何も、ない」
『誤魔化すなよ』
怖い。
彼と向き合うことが怖いのか、それとも自分自身の気持ちと向き合うことが怖いのか。
言ったって、無駄――そんな気持ちが、梨緒子の想いを封じ込めている。
しかし。
秀平の言うとおり、誤魔化しがきかない、綺麗事では取り繕うことのできない状況に置かれている。
梨緒子はようやく心を決め、ゆっくりと口を開いた。
「こっちに……帰ってくる予定はないの?」
『正月には帰るよ』
「もっと、早く」
『無理だよ』
やはり――。
予想どおりの答えが返ってくる。
言ったって、無駄。
言ったって、無駄。
言ったって――何も変わらない。
「……私は、秀平くんの何?」
『何って?』
「私は、秀平くんにとって、本当に必要?」
『どうしたんだよ、いったい――』
「答えて」
堪えられなくなった想いが、次々に梨緒子の口からあふれ出る。
その勢いに圧倒されたのか、秀平はしばらく黙った。
短い沈黙が続いたあと、低く落ち着いた声で淡々と答え始める。
『……必要だよ。当然だろ』
「必要だと思ってる? 必要なら、もっともっと逢いたいって、そう思わないの?」
『思ってるよ。けど、現実問題しょっちゅう逢うなんて不可能なんだから、しょうがないだろ』
いつしか、梨緒子の両目から涙があふれてきた。
彼のあまりの無慈悲な言葉に、梨緒子の胸は例えようもないほどの悲しみに支配され、どうにもならなくなってしまう。
彼に泣き声を聞かせてしまわないよう、必死に口を手で押さえ込むも、指の合間から嗚咽が漏れていく。
『何があったんだよ。泣いてちゃ分からない。梨緒子、ちゃんと説明して』
秀平の声が、淡々と電話から流れてくる。
しかし。
自分の抱えている気持ちを、彼にどう説明したらいいのか、梨緒子にはまるで分からない。
「……映画」
『映画がどうしたの』
「観たい映画が、あるの」
『だったら、観にいけばいいんじゃないの。そんなことで、いちいち泣くことなんかないだろ』
観にいけばいい。
そんなことで、いちいち――。
自分の寂しさは、この男に伝わらない。
涙混じりの震える声で、梨緒子は淡々と告げた。
「そう。じゃあ、もうどうなっても知らないから」
『梨緒子』
「本当に、本当に知らないから」
梨緒子が感情に任せて秀平に言葉をぶつけると、突然電話の向こうから、若い男の大声が聞こえてきた。
『永瀬ーっ! 梨緒子ちゃんにラブコールかー?』
『成沢? ちょっ……』
『もひもひー、梨緒子ちゃーん、ああっ――』
酔っ払いに絡まれ揉み合うような音が聞こえ、そして。
通話は無情にも、そこで途切れてしまった。
それっきり、秀平からの連絡は途絶えた。
電話は掛かってこない。
メールも送られてこない。
秀平の友人である成沢圭太の声が聞こえていたのだから、飲み会が終わり仲間たちが外へと出てきて、電話を続ける空気ではなくなってしまったに違いない。
だからといって、それっきり――なんて。
彼にとって自分は、その程度の存在なのだ――残酷な事実が、梨緒子の心に重く圧し掛かった。
こんなにも、悲しい。
いったい自分は、何をやっているのだろう。
どうなっても知らないから――そんなひどい言葉を彼にぶつけてしまった。
もう、駄目なのだと梨緒子は思った。
そのときである。
携帯にメールの着信があった。
織原直人だ。
梨緒子は掛け布団で涙を拭い、大きく何度も深呼吸して気持ちを落ち着かせると、織原からのメッセージを読んだ。
【明日は何時に授業が終わる? 迎えに行く】
優作に怒られた手前、一度は断ろうと思っていた。しかし梨緒子は思い直し、織原の誘いを受けることにした。
すぐに織原へ、返信のメッセージを送る。
【四時には終わります。久しぶりの映画、楽しみです】
秀平に隠れて織原と遊んでいるなんて、決してそんなことは、ない。
梨緒子は自分の胸に、そう必死に言い聞かせた。
そして、通学用のカバンを床へ無造作に置き、そのまま崩れるようにしてベッドの上へと転がった。
確かに、優作との先約を断り、織原との食事を優先させてしまったことは事実だ。
だからといって、あんなにも怒ることはないのではないか――梨緒子は、昼間の優作とのやり取りを思い出し、それをかき消すように固く目を閉じ、首を横に振った。
そもそも、どうして優作が知っていたのだろうか。
人の噂など、簡単に広まる。
織原のように、『オーリー』などという愛称で陰ながら呼ばれているような男ならば、目立つ上に注目もされている。
病院関係者や医大・短大に籍を置く人間に街で見かけられて、それがいつしか優作の耳にも入ってしまったのかもしれない。
それにしても、どうも腑に落ちない。
――あの優作先生が、当日約束を断ったからといって……そんな。
【寂しさをぶつける相手が間違ってる】
確かに、寂しさを紛らわせるだけなら、優作だって充分相手は務まるはずだった。
だから今までもそうしてきたし、優作もそれを分かって梨緒子と一緒に過ごす時間を作ってくれていた。
もちろん優作は、『義理兄』としての最低ラインを守っていて、梨緒子を恋愛対象として扱うことはなかった。
だからこそ――。
梨緒子はようやく自分の気持ちに気づいた。
そう。
梨緒子は織原直人に、無意識に『男』を求めていたのである。
――婚約者がいる人だから大丈夫、なんて、ただの言い訳。
しかし。
いまこのままの状態では、とても織原と映画に行くことはできない。
迷っている時間はない。
明日映画ということは、今夜もしくは明日の朝に、織原からメールが来るだろう。
【梨緒子ちゃんは間違ってる。僕が言いたいのはそれだけだ】
優作に言われた言葉が、梨緒子の脳裏をよぎっていく。
そして、閉じた目蓋の裏に浮かんでくるのは、遠く北の地にいて彼女をまるで顧みない、恋焦がれる彼の顔だ。
梨緒子はようやく、秀平に電話をしてみようと心を決めた。
梨緒子はのろのろと身を起こしベッドから下りると、部屋の隅に置いていたカバンの中から携帯電話を取り出した。
ストラップ代わりにつけている彼の部屋の鍵が、カチャリと耳障りな音を発てる。
秀平と言葉を交わすのは、実に一ヶ月半以上ぶりのことだった。
気が重い。鉛を飲み込んだような不快感が胃の辺りにある。
番号を呼び出してかけると、数コールも待たずに、目的の人物の声が聞こえてきた。
『どうしたの?』
「秀平くん……」
彼の背後に、賑やかな声が聞こえている。
『ねえ、永瀬くん――』
秀平の電話の向こうで、秀平を呼ぶ女の声がした。
どこで何をしていたら、こんな状況になるというのだろう。
梨緒子はすっかり頭に血が上ってしまった。
「……誰なの?」
梨緒子の声の調子で、秀平は何かを悟ったらしい。すぐに梨緒子の疑問に答えるべく、状況を説明し始める。
『誰って、成沢とかだよ』
「うそ。女の人の声がするけど」
『とか、って言っただろ。学科の仲間たちとの飲み会だよ』
自分はいま、嫉妬丸出しで物分かりの悪い、『醜い彼女』になってしまっている。
もう、聞きたくない。
知らない女の声も、彼の言い訳めいた説明も――何も聞きたくない。
「大した用じゃないから、いい。それじゃ」
梨緒子はそれだけ言うと、自分から電話を切った。
情けない。
梨緒子は大きくため息をつくと、携帯電話をベッドの枕元へ投げ出すようにして置いた。
そして、再びベッドの上へ転がり込む。
いま自分は、崖っぷちにぶら下がっている状態だ。
崖の上は楽園のような場所で、彼はそこで見知らぬ人々と楽しそうに暮らしている。
彼は気まぐれに崖までやってくるが、普段はその存在すら忘れている。
苦しい。疲れる。
手を離せば、きっと――自分は楽になれる。
どのくらい時間が経った頃だろう。
枕元に投げ出してあった梨緒子の携帯が、再び鳴り出した。
梨緒子はゆっくりと携帯に手を伸ばし、相手が秀平であることを確認してから電話に出た。
『どうしたの? 何があったのか、ちゃんと話して聞かせて』
秀平は飲み会の会場を抜け出し、人気のない場所へと移動したらしい。
今度は彼の声しか聞こえてこない。静かだ。
梨緒子は寝転がったまま、携帯電話を耳に当てて、ぼんやりと秀平の声を聞いていた。
「何も、ない」
『誤魔化すなよ』
怖い。
彼と向き合うことが怖いのか、それとも自分自身の気持ちと向き合うことが怖いのか。
言ったって、無駄――そんな気持ちが、梨緒子の想いを封じ込めている。
しかし。
秀平の言うとおり、誤魔化しがきかない、綺麗事では取り繕うことのできない状況に置かれている。
梨緒子はようやく心を決め、ゆっくりと口を開いた。
「こっちに……帰ってくる予定はないの?」
『正月には帰るよ』
「もっと、早く」
『無理だよ』
やはり――。
予想どおりの答えが返ってくる。
言ったって、無駄。
言ったって、無駄。
言ったって――何も変わらない。
「……私は、秀平くんの何?」
『何って?』
「私は、秀平くんにとって、本当に必要?」
『どうしたんだよ、いったい――』
「答えて」
堪えられなくなった想いが、次々に梨緒子の口からあふれ出る。
その勢いに圧倒されたのか、秀平はしばらく黙った。
短い沈黙が続いたあと、低く落ち着いた声で淡々と答え始める。
『……必要だよ。当然だろ』
「必要だと思ってる? 必要なら、もっともっと逢いたいって、そう思わないの?」
『思ってるよ。けど、現実問題しょっちゅう逢うなんて不可能なんだから、しょうがないだろ』
いつしか、梨緒子の両目から涙があふれてきた。
彼のあまりの無慈悲な言葉に、梨緒子の胸は例えようもないほどの悲しみに支配され、どうにもならなくなってしまう。
彼に泣き声を聞かせてしまわないよう、必死に口を手で押さえ込むも、指の合間から嗚咽が漏れていく。
『何があったんだよ。泣いてちゃ分からない。梨緒子、ちゃんと説明して』
秀平の声が、淡々と電話から流れてくる。
しかし。
自分の抱えている気持ちを、彼にどう説明したらいいのか、梨緒子にはまるで分からない。
「……映画」
『映画がどうしたの』
「観たい映画が、あるの」
『だったら、観にいけばいいんじゃないの。そんなことで、いちいち泣くことなんかないだろ』
観にいけばいい。
そんなことで、いちいち――。
自分の寂しさは、この男に伝わらない。
涙混じりの震える声で、梨緒子は淡々と告げた。
「そう。じゃあ、もうどうなっても知らないから」
『梨緒子』
「本当に、本当に知らないから」
梨緒子が感情に任せて秀平に言葉をぶつけると、突然電話の向こうから、若い男の大声が聞こえてきた。
『永瀬ーっ! 梨緒子ちゃんにラブコールかー?』
『成沢? ちょっ……』
『もひもひー、梨緒子ちゃーん、ああっ――』
酔っ払いに絡まれ揉み合うような音が聞こえ、そして。
通話は無情にも、そこで途切れてしまった。
それっきり、秀平からの連絡は途絶えた。
電話は掛かってこない。
メールも送られてこない。
秀平の友人である成沢圭太の声が聞こえていたのだから、飲み会が終わり仲間たちが外へと出てきて、電話を続ける空気ではなくなってしまったに違いない。
だからといって、それっきり――なんて。
彼にとって自分は、その程度の存在なのだ――残酷な事実が、梨緒子の心に重く圧し掛かった。
こんなにも、悲しい。
いったい自分は、何をやっているのだろう。
どうなっても知らないから――そんなひどい言葉を彼にぶつけてしまった。
もう、駄目なのだと梨緒子は思った。
そのときである。
携帯にメールの着信があった。
織原直人だ。
梨緒子は掛け布団で涙を拭い、大きく何度も深呼吸して気持ちを落ち着かせると、織原からのメッセージを読んだ。
【明日は何時に授業が終わる? 迎えに行く】
優作に怒られた手前、一度は断ろうと思っていた。しかし梨緒子は思い直し、織原の誘いを受けることにした。
すぐに織原へ、返信のメッセージを送る。
【四時には終わります。久しぶりの映画、楽しみです】
秀平に隠れて織原と遊んでいるなんて、決してそんなことは、ない。
梨緒子は自分の胸に、そう必死に言い聞かせた。