Lesson 6  恋心、一筆啓上。 (7)

 次の日――。
 約束の時間が近づくにつれ、梨緒子はどんどん憂鬱になっていった。

 優作を怒らせてしまったというショックから、まだ立ち直れていない。
 しかし。
 梨緒子は、秀平に気持ちをぶつけたのだ。
 ぶつけても何も変わらないと分かったからこそ、織原と一緒に映画へ行くことにしたのである。

 昨日の夜、秀平と電話で半ばケンカ別れをしてからというもの、彼からまったく音沙汰がなくなってしまった。
 その事実も、梨緒子の気持ちをいっそう憂鬱にさせる一因となっていた。

 ――もう、私のことなんてどうでもいいんだ。

 梨緒子は心を決め、短大の校舎を出た。そして、辺りに他の学生の姿がないのを確認すると、ゆっくりと正門に向かって歩き始めた。
 短大の正門を出て辺りを見渡すと、少し離れた場所に、織原の愛車が横付けされるようにして停まっているのが見えた。
 時間に正確だ。

 梨緒子は織原の車の助手席に乗り込んだ。
 車はゆっくりと発進する。滑らかなハンドル捌きだ。
 梨緒子がずっと黙っていると、運転席から織原が尋ねてくる。
「どうしたんだ? 彼氏とケンカでもしたか」
 どこか心配そうな織原の声は、大人の男の色気と類稀なる知性を兼ね備えていて、梨緒子をいとも容易く痺れさせる。
「これからデートしようとする男の前で、そんな顔するな」
 織原を取り巻く空気が、ふと緩んだ。

 デート。
 これは、デート。

 織原は別に、深い意味で言っているわけではないのかもしれない。
 しかし――お腹が空いているから一緒にご飯を食べる、という今までの関係性とは、意味合いが違っていることは確かだ。

 赤信号に引っかかり車が止まると不意に、織原は助手席の梨緒子のほうへと向き直った。
「半年も逢ってない男なんて、別れろ」
「え?」
「いい加減、気づいたらどうなんだ。お前が必要としたときに、それを満たせるのは誰なのか――」
 梨緒子はじっと助手席のシートに身を預け、反応できずにいた。
 ギリギリのせめぎ合いが続く。
「俺はここにいる。いつでもお前の側にいる。呼べはすぐに駆けつけられる距離のところにいつもいる」
 梨緒子はゆっくりと顔を運転席へと向けた。
 織原が真っ直ぐにこちらを見ている。
 どんどん惹き込まれているのが、梨緒子自身にもはっきりと分かった。
 心臓の鼓動が脳天にまで響いている。
 そんな梨緒子の状況を知ってか知らずか、織原は突然、奇妙なことを言い出した。
「優作に、何を言われた?」
「ど、どうしてそれを……」
「いいから答えろ。怒ってたか?」
 問いかけの真意が分からなかったが、梨緒子は素直に頷いた。
「織原先生と……陰で遊んでるほうがいいのか……って」
「まったく、優作のやつ――」
 織原は、怒りに任せてハンドルを殴りつけた。鈍い音がする。
 梨緒子は慌てて弁解をした。
「あの、それは……優作先生との先約を断って織原先生とご飯を食べに行ったから……私のせいなんです」
 そのまま、織原は黙ってしまった。
 信号が青に変わり、織原は再び前を向いて車を発進させた。
 いったい、何なのだろう。
 パズルのピースの一つが、上手くはまらないような――何かが梨緒子の心の隅に引っかかっている。
 織原の、優作に対する怒り――その理由がいまひとつ掴みきれない。
 梨緒子が黙って窓の外の流れる景色を眺めていると、織原は再び口を開いた。
「お前は、俺が遊びでこうしていると思っているのか」
「えっ?」
「これから、俺のマンションへ来ないか」
 梨緒子は思わず自分の耳を疑った。
 なんと答えてよいものやら。
 俺のマンションへ――行き着く答えは、ただ一つ。
 梨緒子が返事をせずにいると、織原は付け加えるようにして言った。
「本気かどうか、試してみればいい」
「お……りはら先生?」
「映画はまた今度だ」
 そう言うと、織原はすぐそばに建つ高級マンションの地下駐車場に、車を滑り込ませた。
 どうやらここが、織原が住むマンションらしい。
 あっという間の出来事に、梨緒子は自分がどうするべきなのか、まったく考えつかない。
 織原は駐車スペースに車を停めると、運転席から降り、助手席側に回りこんで外からドアを開けた。
 そして。
 梨緒子はおもむろに腕を掴まれ、半ば引き摺り下ろされるようなカタチで外へ連れ出されると、反応する間も与えられず、そのまま織原に抱き締められた。
 薄暗い地下駐車場に、人影はない。誰も来る気配はない。
 梨緒子は織原の腕の中で、わずかに身をよじった。
「じ……冗談ですよね?」
「俺は、冗談は嫌いだ」
「だ、だって……織原先生には、婚約者がいらっしゃるんでしょう?」
「もう数ヶ月逢っていない、名ばかりの婚約者か?」
 織原は梨緒子の耳元で、低く艶のある声でそう囁いた。

 ――う、嘘……どうしよう。

 付き合っている男女であれば、いずれはそういうことになるであろうことは、梨緒子ももちろん分かっている。
 しかし。
 まさかいまこのタイミングで、彼から『女』を求められるとは思ってもみなかったのである。
「あの、私、好きじゃない人とは……でき、ません」
 織原はなおも優しく梨緒子を抱き締めたまま、耳元で囁くように言った。
「俺のことが嫌いか?」
「嫌いじゃ……ないですけど、でもそれは――」
「お前は、俺のことが気になっている。遠く離れた所にいる彼氏よりもだ」
 秀平の端整な顔と穏やかな声が、梨緒子の脳裏をよぎっていく。
「そう……かも、しれません」
 腕の力がいっそう強まった。
 梨緒子は完全に混乱していた。
「時間を……時間を、ください」
 梨緒子は、残されたなけなしの理性を振り絞って、必死に訴えた。
「本気だって言ってくださるのなら、考える時間をください」
 そう、梨緒子が懇願すると。
 織原はあっさりと梨緒子の身体を放した。


 まだ動悸が収まらない。どこに視線を合わせていいのか分からず、後部座席の中を覗きこむようにして車体にへばりつき、呼吸を繰り返す。
 一方の織原は、特に動揺している素振りもみせていない。助手席のドアに背を預けるようにして梨緒子と並び、腕を組んで、ゆっくりとため息をつく。
「何故優作が怒ったのか、お前は分かってるか?」
「……それは、私が優作先生との約束を破ったから――」
「そうじゃない」
 梨緒子はゆっくりと首だけ振り向かせ、織原の横顔をうかがうようにして見上げた。
 織原の説明は淡々と続く。
「俺と優作は、高校が一緒なんだ。あいつは俺の一学年下だ」
「そう、なんですか?」
「俺たちは全寮制の男子高で、優作とは寮が同部屋だったこともある。だから、優作のことは昔からよく知ってる」
 梨緒子はようやく納得できた。
 同じ医学部の先輩後輩というだけの関係にしては、下の名前を呼び捨てにしていたり、兄弟構成なども知っていたり――同じ医学生の草津や白浜とはどこか違うと、梨緒子は思っていたのである。
「高校時代の長期休みに、俺の実家に優作を招待したことがあった。そこで、俺は婚約者を紹介した」
「え?」
「だから優作は、俺の婚約者のこともよく知っている」
 織原は真っ直ぐと梨緒子を見下ろした。そして、ゆっくりと言葉を紡いでいく。
「俺以上に、優作は俺の婚約者が幸せになることを望んでいるんだ。だから――お前じゃなく、本当は俺のことが許せないんだ」
 そのとき、ふと――。
 梨緒子の記憶の糸と糸が繋がった。
 以前話して聞かせてくれた優作の話が、梨緒子の脳裏に蘇ってくる。

【僕はね、頑張って頑張ってとにかく死に物狂いで勉強をしたよ。けど、彼女と同じ大学へは進めなかった。それでも彼女を追いかけて、こうして医学生でいられることを、本当に幸せに思ってる】

 彼女に憧れて、医学部を目指し。
 彼女と一緒の大学へは進めなかったけれど、同じ道を歩めることを決して後悔はしていない、と。

 梨緒子の予想は、続く織原の言葉によって確実なものとなった。
「俺の婚約者は、国内屈指の有名医科大を経て、今では将来を嘱望された有能な外科医さ――優作が憧れるだけある」
 ――憧れの人。それが、織原先生の婚約者、だったなんて。

「それでも優作の悪いところは、それを俺にじゃなくお前にぶつけたところだ。あいつは絶対、俺に逆らわない。昔からな」
 複雑な感情が、梨緒子の胸をかき乱す。
 好き嫌いの感情だけで、到底割り切れる問題ではないのだ――そう、梨緒子は強く感じてしまった。